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    登場人物が支払う代償について――被害、応報、制限、費用、課題は代償ではない

     物語の登場人物は何らかの成果を得るためにしばしば代償を支払う。もっとも、支払うとは言っても、この場合の代償は買い物時に支払う代金のことではない。もっと抽象的或いは重大な事柄である。たとえば、ある人物は奴隷身分から解放されるために莫大な金銭を支払う。ある人物は悪魔の力を借りるために家族の命を捧げる。ある人物は武術の修行に数十年を費やす。ある人物は取引を有利に進めるために性的な奉仕をする。
     なお、前提として、この種の代償は能動的な選択の形式を取らなければならない。自らの意思によって大事なものを引き換えにする決断を下すところに劇的な美が生まれるのである。同じ大金の喪失であるとしても、足元を見られて吹っ掛けられるのと、ナイフを突きつけられて財布を取られるのとには大きな違いがある。前者はぼったくりとはいえ自分の意思で支払っている。後者は単に奪われている。後者のような形の場合は単に被害に遭っただけである。また、身を粉にして働いた結果、体を壊したり、外国で数年がかりの仕事をして家庭を顧みなかった結果妻に愛想を尽かされたりする場合、労働の代償という見方が成り立つ余地はあるが、当人がその結果を全く予測していなかったとしたら、それは単に己の愚かさの報いを受けたと評すのが正しい。言わば応報である。
     このような代償の存在は、作劇的には、ある成果や行為の困難さや重大さの強調、有利すぎる或いは幸福すぎる状態の調整乃至正当化、ある選択肢への合理的な抑止力としての効果を発揮する。言い換えれば、そのような効果を生まないものは、いかなるものであっても作劇上の代償に当たらない。十年間毎日休むことなく修業して初めて技術が身につくという設定は、それだけの重みを読者に感じさせる。主人公が美少女達と暮らすためにこれまでの人生を捨てて書類上の別人にならねばならないという設定は、物語に展開の余地を与え、性欲剥き出しの作者と読者の幼稚な願望充足装置という評価を回避する口実を作る。一回魔法を使うたびに寿命が一年縮むという設定は、その人物が魔法の使用に消極的になることに合理性を与える。
     こういった機能を期待するのであれば、代償は決して軽いものであってはいけない。大富豪の幼女に頼みを聞いてもらうには一時間ほど一緒に遊んでやらねばならない、というのは、大富豪の助力を必要とする者にとっては何の苦もない。軽い代償は存在しないのと同じである。大富豪の力を自由に使えるのと何も変わらない。しかし、重すぎてもいけない。その鎧を着ると寿命が百万年縮む、などと言われてもギャグにしかならないし、仮にそれを支払える者がいるとすれば、そのような時間単位の中で生きる存在が百万年の寿命に重きを置くかは疑わしい。また、重い代償はなるべく支払わせない方がよい。特に世界の残酷さや苛酷さを表現したいというようなことでもなければ、深刻な代償はむしろその行動を回避するための抑止力として用いるべきである。深刻な代償は当然その場限りのものではありえないので後々まで尾を引いて展開を拘束するし、支払う代償の中身によっては読者の猛烈な反発を受ける。見逃してもらうためにヒロインをチンピラに差し出す主人公の物語を読みたいと思う者は――成人向け作品にはその手の展開の愛好者が大勢いるようだが――その逆よりも少なかろう。また、その後に続く物語は暗いものにこそなれ、明るい方向に転ぶことは考えづらい。作品の幅が一気に狭まってしまうのである。
     ところで、少し前の部分で百万年の寿命の軽重の話をした。これは当人がどう感じるかという話であり、極めて重要な注意点である。何を支払うかはもちろん大事なのだが、それ以上に、誰が支払うかという視点が欠かせない。大富豪の百万円と小学生の千円の価値の差が好例である。百万円と千円では確かに百万円の方が額面が上だが、仮にそれを寄付するとしたら、大学生と小学生では、後者の方が負担が大きい。すると、大富豪に罰金百万円を科すよりも、小学生に罰金千円を科す方が、刑罰としては苛酷である。
     従って、登場人物に何らかの代償を支払わせる際は、まず、代償自体の絶対的価値ではなく、その代償が支払者にとってどれだけ重いものとなるかを考える必要がある。たとえば、五十年修業してやっと一人前と看做される職能があるとして、それは人間にとっては人生を懸けるほどの歳月だが、半永久的に生きるエルフにとっては単なる研修期間に過ぎない。エルフの時間間隔では、一週間も五十年も大差あるまい。もしエルフがこの五十年を長く感じるとしたら、エルフが人間と時間を共有している時くらいのものである。人間の友人に自作の贈り物をしたいと思うエルフにとって、贈り物ができるようになるまでに五十年を要するというのは考え物であろう。そのような場合にのみ、エルフの五十年は重みを持つ。ただし、このエルフが払う代償の本質は、友人に贈り物を渡せずに終わるという結果であることを忘れてはいけない。
     しかしながら、当人の認識のみで代償の軽重を量るのは早計である。先ほどの百万円と千円の例で言えば、結局のところ、大富豪が百万円も寄付したのに、小学生は僅かに千円を寄付しただけに過ぎない。ある程度までは万人共通の普遍的価値体系を用いねばならない。或いは課税のように、固定ではなく割合で代償を設定するのもよいかもしれない。仮に誰であれ財産の十分の一を請求されるとすれば、多少の普遍性はある。とはいえ、百万円から一割を引いても九十万円が残るのに対し、一万円から千円を引けば九千円しか残らない。すると、やはり百万円の持ち主の方が実質的な負担は小さくなる。一億円の持ち主にとっての一千万円の損失、十億円に対する一億円、百億円に対する十億円というのも同様である。これはつまり、稼げば稼ぐほど代償が軽くなることを意味する。いずれ有名無実化し、平均的な日本人が駄菓子を買う程度の気分で支払えるようになってしまうだろう。これもまた完全な方策ではない。
     また、その辺りの普遍性をうまく解決できたとしても、まだ考えるべきことがある。この代償の価値体系が、必ずしも現実に即すものではない点である。創作物には創作物ならではの特別な価値体系がある。少し考えればわかるように、創作物という枠組みは、現実世界のそれとは異なる価値体系を有する。この論理を無視すれば、代償の加減を誤ることになる。
     代表的な例を二つ挙げる。重すぎる例として貞操、軽すぎる例として実害のない代償を提示する。
     まず、現実では割合簡単に売り買いされてしまいがちな貞操の価値は、創作物の世界では現実以上に重くも軽くもなる。モブの貞操は主人公愛用の日用雑貨より安いことも珍しくないが、女性主要人物、特にヒロインの貞操は作中のあらゆるものの中でも最高の価値を持つことが多い。これにはヒロインの貞操がしばしば主人公への報酬であることが大きく関係する。要するに、王子様が助け出したお姫様と結ばれるというのは、王子様の戦いの報酬がお姫様の肉体であるということの穏当な言い換えに過ぎない。ともあれ、性描写を目的としない作品の場合は特にそうだが、ヒロイン等の貞操が主人公以外の男に差し出されるのを読者に納得させることは極めて難しい。世の中にはいかなる理由があっても貞操だけは譲れないという者と、貞操に特別な価値を感じないという者と、作品の内容次第で答えが変わるという者の三者がおり、社会全体としては三番目の日和見組が最も多く、ジャンルによっては一番目の潔癖症が最も多い。二番目の無関心派は常に少数派である。この場合、作者はまず潔癖症の支持を諦めざるを得ず、次に日和見組を納得させる工夫をしなければならない。しかし、場合によっては最大多数派である潔癖症を切り捨てるのは読者人気を捨てるに等しい冒険であるし、日和見組を納得させようとすれば自ずと可能な内容が限定されてしまう。どうしてもそうしたいというのでなければやめておいた方がよい。
     次に、実害のないものはどれだけ深刻に見えても代償としては軽すぎる。むしろ、実質的には何も支払っていない。実害がないということを具体的に定義すると、何も失わないか失ってもすぐ取り戻せる類のもの、即ちその場限りの一過性のものが該当する。この「取り戻せる」というのは結果的な話であるため、支払う当人は失うつもりでいたが幸運にも失わずに済んだ、というのは実質的な無償化である。この代表例には単なる苦痛がある。
     ファンタジー作品には、何らかの禁止事項に違反すると体に激痛が走るという呪いの類が比較的よく登場する。大抵の作品では、この時の苦痛は常人が耐えられるものではなく、耐えようとすればたちまちの内に意志が挫けるか気が狂うかする、というようなことになっている。ところが、主人公であれ悪役であれ、主要人物の中にはこの苦痛に耐え抜いて禁止事項を実行する者が一人くらいはいるものである。しかし、これは当該人物の精神力の強靭さを読者に強調する効果を生むことは否定しないが、それによって当該人物が何らかの代償を支払ったと看做すことには反対する。要するに、これはただ痛いだけなのである。眼球を抉られたり、耳を削がれたり、指を落とされたりするわけではない。痛い思いをしている間だけ我慢すれば後は何ともない。この場合、禁止事項を行う際の恒例行事以上の意味を持たない。これは代償ではなく制限と呼ぶべきである。
     超能力でも魔法でも何でもよいが、あまりにも高度乃至強烈な力の発動に肉体が耐えられず、使用するたびに血管が破裂して血地が噴き出るといった登場人物がいるとする。これは単なる苦痛だけでなく実際に傷を負っている。傷を負うということは当然何らかの消耗が発生する。それは単純な失血かもしれないし、神経や筋肉の断裂による身体機能障害かもしれない。すると、これもまた当然のことだが、何度も繰り返せるものではない。一回使用するたびに大量出血を起こすのであれば、十回も二十回も使えるものではないだろう。ここには能力の使用制限という実害があるように見える。しかし、何らかの治療手段や肉体的特性などからこの傷がすぐに癒えるとしたら、これも代償とは言えない。これは使用回数を制限する要素と見る方が実態に即している。魔法を使うと魔力が消費される、というのはよくある設定だが、この能力使用の反動はそうした費用の一種である。或いはもっと現実的に、銃と弾薬の関係になぞらえても通用する。なお、費用と代償は同じように見えるかもしれないが、ここで言う「費用」が経済学的な意味合いを持つのに対し、「代償」は文学的な意味合いを持つ。
     自慢の右拳に罅が入った状態で世界戦のリングに上がったボクサーがいるとする。その状態でパンチを打てば拳が使い物にならなくなる可能性がある。チャンピオンはその事実を事前に知っていたか試合中に察したことで、右拳への警戒を解き、防御に回すべき余力も注ぎ込んで猛烈な攻勢に打って出た。激しく攻め立てられて追い込まれる中、ボクサーの脳裡に、無警戒のところに右拳を全力で打ち込めばチャンピオンをノックアウトできるかもしれないという考えが閃く。ボクサーは拳と引き換えに勝利を得るか、拳を守って敗北に甘んずるかの判断を迫られた。ボクサーは右拳と引き換えのチャンピオンベルトを望み、拳と一緒にチャンピオンの顎を砕いた。ここまでであれば、勝利の代償にボクサーとしての生命を捧げたと言っても誰も文句を言わない。しかし、名医の治療によって拳が完治するなら、これもまた単なる費用としての側面を持ち始める。治療が済むまでの間、王座を得たはよいが試合ができないので一回も防衛戦をすることなく返上することになったり、選手としての旬を空費するリハビリの日々が続いたり、後輩に追い越されたりするような不利益が生まれないとしたら、拳の粉砕は最早お手軽な費用に堕す。
     そもそもの話として、苦痛に関しては、「折れた足をいじられると、彼は痛いが、わしは痛まない」という名言がある。これは真理を衝いている。人間は窮極的には他人の苦痛に冷淡である。箪笥の角に足の小指をぶつけて悶え苦しむ人間は笑いの対象に過ぎず、それで小指が折れたとなっても真剣な同情や共感を寄せることはない。しかし、小指を骨折したことでしばらく歩けなくなったとか、インターハイを棄権せざるを得なくなったとかいう話になると、人々はその不幸に同情や共感を寄せるようになる。苦痛という代償の本質は、苦痛そのものよりも、それによっていかなる不利益が生じるかにある。不利益を伴わない純粋な苦痛は、現実の人間にとって、或いは自分自身の身に降りかかる時、支払いをためらわせる恐るべき代償となるが、作者の筆先三寸でいくらでも耐えさせることができる創作物の世界では単なる記号に過ぎない。読者は登場人物がそれに耐え抜くことを当然視する。創作物において、勇気と忍耐は格安商品である。
     もう一つ、実害が乏しい代償の例を挙げておく。それは金品である。現実世界では金品は貴いし、地獄の沙汰も金次第、誠意とは金額である、といった言葉もある通り、大抵のことは金で解決するし、させられてしまう。現代日本の民事訴訟では、家族の命を奪われた者はその加害者に対し、死者の人生の相当額を請求して手打ちにせざるを得ない。他に制裁の方法がない。加害者本人やその家族の生命を代償として要求することはできない。また、現代社会において金銭は極めて重い。これによって人生が豊かにもなれば貧しくもなる。人間存在の在り方を左右すると言ってもよい。それだけにやり取りには慎重になるし、それに深く執着もする。ところが、創作物の世界では事情が異なる。これも独特の価値体系によることだが、特にそういった事柄を題材にするのでない限り、創作物では単なる金品が高価値を持つことは滅多にない。これは作品が所詮他人事の集積であり、読者本人の人生とは微塵の関わりもないところに理由の多くを求めることができよう。傍目八目と言うように、この時、読者は金品が単なる引換券に過ぎないこと、即ち支払うことを前提に取得するものであることを認識しているのである。その価値が他の財と交換可能であるという性質に存在することを理解した読者は、作中の金品を経済的価値という数字としか見ないので、引換券よりも引き換え対象品により強い関心を向ける。また、創作物では大抵、金で買えないものが多数登場する。金は万能の解決手段ではなく、値段のつけられないもの、金では動かない人物が腐るほど存在する。その上、作品の展開に関わる重要なものは大抵そのどちらかなのである。これらのことがあり、読者の認識は、金で済むなら安いというものになる。額面の大小にかかわらず、金銭は本稿で言うところの「代償」にはなりえない。すぐに治る負傷が単なる費用であるなら、金銭的負担はその金額を稼ぎ出すという課題乃至試練と呼ぶのが妥当なところである。
     あれこれと例示を続けても仕方がないので、無害な代償の話はここで終わりにする。大事なのはここで挙げた細目を暗記することではなく、代償の軽重はどういった観点から決まるのかという思考法を理解することである。これさえわかっていれば、実質ゼロ円の代償をさも深刻なものであるかのように描いて読者を白けさせたり、読む気が失せるほど深刻な代償を支払わせて読者を辟易させたりするような失敗を犯さずに済む。
     ところで、不適切な代償を論じた以上は、適切な代償についても考察しておかねばならない。ごく簡単に論じていく。
     ここまでの流れを踏まえて言えば、代償たりうるのは常に何らかの実害を伴うものである。また、この実害は純然たる損害であることが望ましい。禍を転じて福と為す、塞翁が馬、といった風に、それ単体で何らかの利益をもたらす性質のものであっては、代償として成り立たない。代償はあくまでも不利益のみをもたらすべきである。魔法を使うたびに魔力の影響で肉体が変形して人の形から外れていくが、翼が生えて飛べるようになる、胴を鱗が覆って急所が守られる、というようなことがあっては意味がない。肉体が腐敗し始めるとか、骨が変形して関節が曲がらなくなるとか、どこまでも不利にしか働かないものこそが代償にふさわしい。要するに、作者や読者がその人物であったら絶対に或いはできれば支払いたくないと思えるようなものがよい。こうした代償の価値は、ある程度まで読者の価値観に依拠する。当該読者の価値観に対する打撃を加えることにより、代償が単なる上っ面のものではないことを感じ取る。家族を何よりも大事だと考える読者は、家族を生贄に捧げる展開に激しい衝撃を受けるだろう。広い共感を求めるのであれば、価値観の公約数的な部分を攻めていくべきである。
     ただし、実害の程度や性質はこのようにすべきであると一概に決めつけることはできない。基本的には物語の性質に沿ってその都度考慮すべきである。命を削って戦う主人公の物語ならば、まさにその取り返しのつかなさや悲惨さが主題の一つとなる以上、寿命でも手足でも記憶でも感情でも、最後の戦いまで生き残れる範囲で何でも支払わせてよい。しかし、一日一回他人の吐瀉物をジョッキに満たして一気飲みしなくてはならないとか、恋人が他の男に抱かれた回数だけ魔法が使えるとかといった物語として「美しくない」ものは、読者の嫌悪感や侮蔑や反感を湧き起こしたいなどの狙いがない限り、やめた方がよい。一方、そういった重苦しいものを求めない物語の場合は、そもそも代償などという考えを持つべきではない。要するに、そういう作品が必要とするのは、万能化を制限したり、有利或いは幸福な状況を調整したりする要素だからである。むしろ、そういった作品であるにもかかわらず代償と呼ぶに値するものを主人公達に支払わせると、物語はどうしても暗い色調を帯びてしまう。そういった物語が必要とするのは代償ではなく制限、費用、課題である。
     最後に内容を要約しておく。
     代償の役割は、強調、正当化、抑止力の三種類がある。前提として、「代償」は能動的支払いであるべきであり、受動的な支払いは「被害」や「応報」と呼ぶのが正しい。代償の価値が重すぎず軽すぎない妥当なものでなければ、有効に機能しない。代償の軽重の判定は、支払う者にとっての主観的軽重と支払い内容の客観的軽重とを勘案することで行う。なお、客観的軽重を判断するための価値体系は必ずしも現実のそれと一致しない。その観点から重すぎる例と軽すぎる例を挙げれば、女性登場人物の貞操は価値が高すぎるため代償に向かず、実害を伴わない代償は軽すぎるため同じく向かない。こうした支払いの内、代償としての機能を果たさないものは、「代償」ではなく「制限」、「費用」、「課題」として捉えるべきである。また、適切な代償に関して言えば、代償は常に実害を伴い、且つ不利益のみをもたらすべきであり、何らかの利益に転じることがあってはいけない。実害の性質や程度に共通の解は存在せず、作品の内容に沿ってその都度考えなければならない。捨身の戦いを描くような重苦しい作品ならば、最後まで戦い抜ける範疇に収まればいかなる代償を支払わせてもよい。ただし、特別な意図がない限り、物語としての美に欠けるものは避けることが望ましい。一方、明るい作品には代償は馴染まないし、そういった作品が必要とするのは何でもありの万能化を予防するための制限、費用、課題である。
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    『ウォーハンマーRPG』のハウスルール――「現職者」と「引退者」

    『ウォーハンマーRPG』第二版は優秀なゲームである。しかし、完璧なゲームではない。大きな拡張性があり、現実性や戦略性を高めるために工夫を加える余地が多々ある。ルールを詳しく検討してみると、矛盾や空白をいくつも見つけることができる。たとえば、「『ウォーハンマーRPG』のハウスルール――「個性的な経歴」と「生兵法」」で示したキャリア成長に関するものであり、「『ウォーハンマーRPG』のハウスルール――オリジナル種族「ハーフエルフ」」で示した種族設定に関するものである。もちろん、全てを是正することがゲームの完成度を高めることに繋がるわけではない。プレイングの都合や便宜から敢えてそのようにしてある部分も沢山あるからである。物品の品質は「最高」、「良質」、「一般的」、「粗悪」の四段階しかないが、牛肉の等級のように細かく格付けしても仕方がない。処理が煩雑になるだけであるし、たとえ細かい格付けがあるとしても、そこまで精密な区分を行う人間はまずいない。大方は普通より良いか悪いか程度しか考えない。そういう意味では却って実情に即しているとも言える。
     それはさて措き、本稿で提案するハウスルールはキャリア成長に関するものである。
     キャリア成長の過程を子細に検討すると浮き彫りになる問題点がある。現実で行われる転職との相違である。現実世界で転職を行った際に起こることを考えてみると、『ウォーハンマー』でのキャリア変更は大分非現実的に見えてしまう。『ウォーハンマー』世界の海兵や船乗りは長じて船長になっても種々の技能を保持したままだが、現実の船員は船長として過ごす内にしばしばその技能をある程度錆び付かせるものである。ほとんどの船長は船員の代役をこなすこと自体はできるだろうが、新米ならばまだしも、十年間技能を磨き続けている熟練船員と同等の仕事をこなすことは最早できまい。もっと卑近な例を挙げれば、『ウォーハンマー』世界の学生の「学術知識」はキャリアを変更しても失われないが、現実で学生のキャリアを満了した者は歳月を経るごとに「学術知識」を劣化させていくし、奇跡的に保持し続けることができても、学生時代と違って最先端の知識を取り入れ続けることはまずできない。現状維持は相対的な後退を意味する。この問題についてゲーム内容に即して言えば、かつては優秀なチンピラとして暴れていたが今や昔の自分達を顎で使う立場となったゆすり屋や犯罪団首領は、チンピラ時代にこなした仕事を今も同等にこなせるのかという話である。みかじめを納めない店で暴れ回るのはチンピラの仕事であってゆすり屋や犯罪団首領の仕事ではない。或いは、兵士から叩き上げた軍曹や隊長に古参兵と同等の仕事ができるのか否かでもよい。
     この問題点を更に掘り下げることで、また別の問題も見えてくる。こちらは一層深刻であるかもしれない。現状のキャリア成長システムでは、キャリアはキャラクターの差別化や個性化の役割を果たさず、単なる肩書、言うなればロールプレイ上のフレーバーに留まっている。ある二人のキャラクターを比較する際、保有する技能と異能が等しいようならば、システム上二人は概ね同一人物となる。軍曹の「威圧」は古参兵にも学生にも通じるだろう。チンピラの「威圧」も学生に通じるだろう。しかし、歴戦の古参兵まで「威圧」できるかは怪しい。ところが、システム的には両者の「威圧」は同じものなのである。もちろん、『ウォーハンマー』はコンピューターが杓子定規に管理するCRPGではない。人間が臨機応変に運営するTRPGである。両者の威圧を区別することはできる。GMが常識を働かせ、古参兵はチンピラの「威圧」など物ともしないであろうと考え、「威圧」のテストに不利な修正を応分に加えればよい。一方、古参兵にとって上官の意向は重いと考え、軍曹による「威圧」に有利な修正を加えるのもよかろう。しかし、それはGMの技倆に依存するものである。システムやルールの不備を優秀なGMが尻拭いしているのに過ぎない。常識や想像力の欠如したGM――そのような人物がGMを務めることの是非はともかくとして――にそのような的確な判断を下すことはできない。
     この二つの問題を解決するものとして、本稿では「現職者」と「引退者」の二つのハウスルールを紹介する。どちらか一方を採用するだけでも、二つ一緒に採用するのでも構わない。
     それぞれの方向性や特質を先んじて簡単に説明しておく。どちらも上述の二点を解決する一つの処方箋であることは確かだが、それぞれに欠点があり、一長一短である。どちらも各キャリアをその特色に応じて優遇するルールであるが、「現職者」が当該キャリアにボーナスを与え、「引退者」が他キャリアにペナルティを科すという点に方向性の違いがある。「現職者」の根底にはあるキャリアとして現役で活動中の者は当該キャリアの職能に長けているであろうという考えがあり、「引退者」の根底にはあるキャリアの第一線から退いた者の能力は衰えていくであろうという考えがある。「現職者」を採用する場合、通常の判定の成功率が押し並べて五割を切る傾向にあり、物事がなかなかうまくいかないというある意味において『ウォーハンマー』を『ウォーハンマー』たらしめる持ち味を殺してしまいかねない。他方、「引退者」を採用すると、厳しいが理不尽ではないという『ウォーハンマー』のゲームバランスを崩壊させ、何をやっても全くうまくいかないという不愉快な事態を招いてしまいやすい。これらの点は調整と改善を要する。しかし、これらのいずれかでも採用すれば、キャリアの個性化、キャリア選択の計画性や戦略性を増進すると共に、システム面からもシナリオの幅を拡げることができる。従来のルール下にあっては、主にロールプレイやストーリー面から見て、PCが魔法学府の所属魔術師であるか黒魔術師であるかは展開に大きな影響を与えるかもしれない。だが、より単純な方面、たとえば戦闘などの場面においては、保有する能力が等しければそのPCが中堅魔術師であろうと黒魔術師であろうと違いがない。或いは、中堅魔術師が魔法系キャリアを離れ、元中堅魔術師の民兵などというわけのわからない存在と化したとしても、民兵として未成長の時点では元々の中堅魔術師とシステム的な差が生じない。本稿が示す二つのハウスルールは、システム面からも中堅魔術師、黒魔術師、元中堅魔術師の民兵という三者を区別することを可能とする。更にこれらは、敢えてキャリアを変更せず特定の立場に留まるという選択肢に、単なるロールプレイ以上の意味を持たせることにもなる。軍曹はキャリアを満了しているのにどうして隊長に昇格しようとしないのか、ということへのシステム的回答がここに生まれる。これはキャラクターの成長と成り上がりを根底に置く『ウォーハンマー』のキャリア思想、キャリアの満了と昇格は常に良いことであり、積極的に行っていくべきであるという精神と対立する面もあるが、似非魔術師のように不利益を伴うキャリアもあれば、不利益の結果として就くことになる鼠奴隷のようなキャリアもあるので、それらの一長一短をシステム的に明確化しただけとも言える。
     続いて肝心のルール内容を述べるが、これはその性質上、どうしても大雑把且つ抽象的にせざるを得ない。と言うのも、これは大方針を提示すれば十分である上、細目にまで口を出せば却って創意工夫を拘束することにしかならないからである。細かい数値の調整等はGMが自身の方針とPLの要望に沿って行えばよい。
     まず「現職者」であるが、一言に纏めれば、そのキャリアに就いていることに恩恵を与えるものである。そのキャリアに就いている間に限り、成長可能なプロフィール、取得可能な技能及び異能を用いた判定、そのキャリアの活動内容と関連のある判定などのいずれか或いは複数に有利な修正を加えるなどが考えられる。関連する判定の例としては、猛者であれば戦闘中の判定、犯罪団首領であれば後ろ暗い交渉や部下の指揮、各種犯罪行為など、大貴族であれば貴族間の社交や交渉事全般などといったところである。また、そのキャリアならではの役得に与らせるのもよい。ギルド頭領であれば毎日のように付け届けがあるだろうから、特定の期間を経るごとに協調力なり職能なりのテストを行い、成功一段階ごとにいくらであるとか、成功した場合に 1d10 枚の金貨を得るであるとかの役得があるかもしれない。暗殺者ならば伝手や知識もあるはずなので毒物の入手が何段階か容易になってもよいだろう。プロフィールの修正値はバランスを考えて決めなければならないが、簡単に済ませたければ、基本キャリアは一律+5%、上級キャリアは一律+10%といったところが妥当であろう。この場合、最も資質に恵まれた人間の猛者は武器技術度が 80%にも達し、同様に主席魔術師は意志力が 90%にも達することになるが、個人としての頂点を窮めると言ってよいこれらのキャリアであればそういうご褒美があってもよかろう。第一、これだけの力に恵まれても、選択を一つ間違えたり、サイコロに少しいじめられたりするだけであっさりと死んでしまうのがこのゲームである。武器技術度が80%に達した猛者が、デモネットに「魅惑」されて鼻の下を伸ばしている内に取り囲まれて切り刻まれる、という情けない最期を遂げることさえありうる。殴り合えば百回戦って百回とも叩きのめせるであろう魔狩人の「威圧」に震え上がってしまうみっともない猛者もいるだろう。ゲームバランスを破綻させかねないが、或いはそのキャリアと関連する判定の内、それほど難しくないと思われるものは自動成功にしてしまうのもよかろう。なお、こうした様々な恩恵の一つ或いは複数を最初から与えてしまうとあまりにもゲームが簡単になってしまうし、就業してすぐ一人前の働きができるというのも現実味がないので、五回の成長を遂げた時点で適用されるなどの調整を入れた方がよい。
     一方、「引退者」は「現職者」の逆であると考えれば大体間違いではない。こちらはそのキャリアに就いていないことに制限を課す。とは言っても、厳しすぎるとPCが何もできなくなってしまうので気をつけねばならない。単純に「現職者」を裏返しにするのでは明らかに厳しすぎる。たとえば、そのキャリアで成長不可能なプロフィールにマイナス修正を加えるが如きは、作成したばかりのキャラクターの生存率を著しく下げる暴挙である。知力が 31%しかない従者が更に -10%の修正を常時受けてしまえば、知的分野では全くの低能と化すであろう。従って基礎能力に修正を加えるのは好ましくない。もしそのような修正を加えたければ、そのキャリアが保有する技能と異能を用いる際は修正前の能力値を当て嵌めるなどの工夫が要る。こちらのルールの適用も成長回数と関連付けるのが望ましい。こちらであれば、たとえば、三回成長するまでは前キャリアの癖が抜けきっていないものとして前キャリアの修正を引き継ぐなどが考えられる。とはいえ、これは作成直後のキャラクターの弱体化を補うものとはならず、考慮の余地がある。実際のところ、ルールとしては「現職者」の方が優れている。現状、「引退者」はプレイアビリティを損なうばかりの有害なルールであると言わざるを得ない。元々の上級ルールの多くが処理の煩雑化と引き換えに戦略性を増すのに対し、こちらは現実味の獲得と引き換えに娯楽性を損なうのである。
     ところで「現職者」と「引退者」のどちらにも共通して言えることだが、例として提示した修正方法には大いに拡張の余地があるし、連動させるのも手である。たとえば、取得可能な技能と異能には直近一つか二つ程度のキャリアのものを含めても理不尽ではないだろうし、GMの了承の下、ロールプレイの傾向を反映させてもよかろう。常に最前線に身を置こうとするという傾向を持つ大貴族であれば、一騎士として戦場を駆けていた時の能力を保っていてもおかしくはない。もう一つの考え方として、暗殺者が猛者に転じたり、無法者が古参兵に転じたりした時のように、単に前のキャリアの仕事に一層熟達したものと解釈するのが自然であるようなキャリア変更では、ボーナスとペナルティを引き継いでも不合理ではない。ただし、前者のロールプレイの反映を根拠とする際は、それがPLの口先だけに終わらず、きちんとプレイングに反映されるかどうかに気をつける必要がある。常に最前線に身を置いて部下を引っ張っていくという設定で軍曹と古参兵の能力を保ったままの隊長がいたとして、それが陣地の天幕に籠もっていたり、戦闘に参加してはいるが専ら隊列の後方に陣取っていたりするようならば、GMは軍曹や古参兵としてのPCの勘が鈍ったことを宣言するか、そのままでは勘が鈍ってしまうであろうと警告することが望ましい。異能と技能の修正についても、現キャリアならではのやり方で行動する時に限り、有利な修正を加えたり、不利な修正を取り除いたりするのも、煩雑ではあるが釣り合いを取りやすい。大貴族と高級娼婦 Courtesan は共に「魅惑」を持つが、それぞれの「魅惑」のやり方は同じでない。大貴族は地位や名誉を誘惑や取引に使うのは得意だろうが、普通、煽情的な仕草で服を一枚一枚脱ぎ捨てて相手に媚びるような技術は持たないだろう。他方、有力な後援者を骨抜きにしていれば別かもしれないが、普通の高級娼婦は、仕草や肉体で相手を性的に「魅惑」する技に熟達してはいても、差し出せる地位や名誉の持ち合わせはおそらくない。すると、「魅惑」を行う際、大貴族が地位や名誉をちらつかせたり、高級娼婦が肉体や下着をちらつかせたりするようならばボーナスに値する一方、職業柄似つかわしいと思えないやり方で「魅惑」を試みる場合はボーナスを与える必要性は薄い。下手をすればペナルティを科すべきであるかもしれない。この辺りは常識的な思考で解決できることであるため、単に『基本ルールブック』の指示を忠実に履行するものに過ぎないかもしれない。
     また、これらのルールを適用する際、忘れてはならないことがある。「常識」や「言語」、「読み書き」のように習慣化していそうで忘れたり衰えたりすることが考えにくい技能や、「強運」、「恐れ知らず」、「芸術家肌」のように当人の才能や性格に当たる異能に余計な手を加えてはいけない。何らかの制限を加えるのは上級技能や技能的色彩の強い異能のみにするとか、現職者へのボーナスのみを適用するとかの工夫をするのが無難である。
     いずれにしても、この二つのハウスルールは適用が割合難しい。一律にプロフィールや取得可能な技能と異能に修正値を加えるのであれば、ゲームバランスを考えて数値を考えなければならない。キャリアと関連する判定を云々する場合は、事前に定義するのは非現実的であるため、そのような修正を行うというルールを盛り込んだ後は、GMがその都度臨機応変に判定する他ない。キャリア固有の役得を定めるとしたら、泥縄式にその都度決めるよりも事前に設定しておくことが望ましいが、数百もあるキャリア一つ一つに個別の設定を盛り込むのは大変な難事業である。ゲームを一から作り直すような手間をかけたくなければ――そしてそれはごく自然な考えである――能力値や異能と技能に手を加えるだけに留めるとよい。

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    近現代西洋魔術資料集

     ファイルのリンクは記事末尾にある。
     従って利用者は前書きを全て了解し承諾したものとする。


    最新版
     近現代西洋魔術資料集Ver.2
     PDFとDOCの二種類があるが内容に違いはない。


    説明
     本資料集は、作成者が必要に応じてその都度作ってきた断片的な覚書の蓄積に手を加えて纏め直し、他者の利用に堪える形に仕上げたものである。しかし、手を加えたとの言葉通り、全てが全て、これまでの蓄積であるわけではない。書き留めるまでもなかったものや複雑すぎて書き留めるのに向かなかったものもある。本資料集にそういうものが含まれているとしたら、それは他者の目を意識して補った情報である。他方、作図の難しさから小世界図や作図法解説の収録を見送るなど、覚書自体は存在しても人に見せる気が起きなかったものもある。
     本資料集の情報源、言い換えればこれがいかなる知識体系に依拠するものであるかということについても一言断りを入れておく。文書末の参考資料目録が示す通り、アレイスター・クロウリーの体系を基礎とし、G∴D∴、I∴L∴、I∴O∴S∴等の近現代西洋魔術の体系がそれを補完している。従って、厳密に言えば、西洋魔術という大きな流れに属すことは確かでも、その中のいずれの体系にも当て嵌まることがない。言ってみれば我流であり、必ずしも既存の体系の定説に沿うものではない。このため、特定の体系に専門的関心を有する者の参考にはならないかもしれない。更に付け加えると、本資料集はあくまでも黄金の夜明け団以降の近現代西洋魔術を念頭に置くため、同じ西洋のものであってもそれより古い魔術や文化や地域の異なる東洋や南米等の魔術は敢えて除いた。もっとも、能力的限界の方が理由としては大きい。作成者は魔女術や易卜、ヨガやタントラ、陰陽道、神智学や人智学等の知識がないわけではないが、たとえ相手が初心者であってさえ、人に説明できるほどには理解していない。取り入れたところで、資料の充実どころか、却って混乱や破綻の元になるのが落ちである。生兵法にすら達していない。
     このような次第から、本資料集には差し当たり、元素や惑星、黄道十二宮、錬金術等の記号、元素の対応方位や色彩、ヘブライ文字の名前や数値、タロットの番号と名称、セフィロトの樹の天球や小径、デカンとクィナンスの天使や悪魔、エノキアンタブレットの基礎知識などを掲載するに留める。その際、想定利用者の理解度と参照の便宜を踏まえれば不要であろうと判断し、理論的解説は行わず情報だけを端的に提示するに留める。初心者向けの簡易版『七七七の書』といったところである。
     ただし、あまり細々とした部分まで網羅するつもりはない。そういうことをすると冗長煩雑になる上、結局は本当に『七七七の書』の引き写しに終わってしまうからである。網羅的な情報を求める向きは横着せずに参考文献等――特に『七七七の書』及び Liber 777 Revised ――を参照されたい。膨大な紙束の中に散らばる知識の小片を拾い集めて繋ぎ合わせるのもなかなか楽しいものである。
     現時点、即ち Ver.2 では既に宣言した通り近現代西洋魔術のごく基礎的な部分を記載するのみだが、将来的には、より高度且つ広範な知識を盛り込むのはもちろんのこと、混沌魔術の他、西洋魔術での利用を前提とした上で易や陰陽道、タントラ等の東洋魔術にも手を拡げていきたい。黄金の夜明け団やクロウリー以来、東洋の体系は西洋魔術に欠かせない知識となった。特に易卜はクロウリーが、単に技法として多用したばかりでなく、トートタロットと直接関連付けてもいたため、重要である。レヴィやクロウリーが蔑んだ心霊学や神智学や人智学にも、或いは手を拡げるべきなのかもしれない。
     この部分は照応がおかしいなどの指摘、この表とこの表は隣り合わせにする方がわかりやすいなどの意見、宝石の照応表を載せてほしいなどの要望、正常に表示されないなどの報告等は歓迎する。もし何かあれば、指定の連絡方法に従って伝えてほしい。能力や時間、根気、著作権、必要性等の制約から全てに応えることはおそらく不可能だが、対応できる範囲で何とか対応したい。なお、参考資料間で記述が矛盾する場合、順番や表記の異同はクロウリーに従い、クロウリーの見解と明らかに対立する異説や新説等は伝統に従って排除するか、両論併記する方針であることを前以て述べておく。異同を示す際は、黄金の夜明け団によるものはXXX(GD) のように特記する。GOETIA の場合も同様に、XXX(GT) 、またそれ以外の異説は纏めてXXX(Oth) とする。現時点では黄金の夜明け団と GOETIA とその他という大分類で済ませるが、今後校訂資料を細分化する必要が生じた時は、資料の分類名を一覧化して凡例とする。

    諸注意
     一、作成者に権利放棄の意思はないため、本資料集の著作権を始めとするあらゆる権利は作成者が有する。著作権法の範囲内での利用は自由であるため、法律の定めるところに従って利用すること。
     二、ファイル差し替えの形で改訂を行うため、本資料集へのリンクを行う際はファイルへの直接リンクは避け、公開場所として指定した URL にリンクすること。
     三、作成者に連絡を試みても返事がない場合、いかなる用件であっても勝手な判断をせず返事をいつまでも待つこと。沈黙は暫定的な不承認、拒絶を意味する。
     四、本資料集の入手、利用等によって何らかの問題や損害が発生しても作成者は一切責任を負わない。自己責任で利用すること。

    作成者ブログ
     幸茸のブログ

    公開場所
     近現代西洋魔術資料集

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    変更履歴

    Ver.2 での変更点
     ・前書きの諸注意第一及び第二項を一部変更。
     ・分類「魔術師の権能」を削除し、表「エリファス・レヴィによる魔術師の権能二十二種」を分類「その他」に移行。
     ・分類「人体との照応」を作成し、表「アダム・カドモン」を移行。更に表「チャクラ」を追加。
     ・全体を通して名前の発音を再検討。
     ・表「エリファス・レヴィによる魔術師の権能二十二種」の欄の大きさを変更。
     ・分類「ヘブライ文字」に表「七複字の効果と惑星」を追加。
     ・表「十一惑星の魔術」を表「ケネス・グラントによる十一惑星の魔術」に改名。
     ・表「十二宮の天使1の異同等」、註「十二宮の天使2の異同等」の表現を一部修正。
     ・表「デカンの悪魔」の日本語表記を一部修正。
     ・表「十二宮と十二氏族」の欄の大きさを調整。
     ・表「ヘブライ文字の綴字とゲマトリア数価」の綴字を訂正。
     ・分類「セフィロト」に註「色階と小世界図についての註記」、表「四色階」、表「小世界図」を追加。
     ・表「セフィロトの三柱」を一部修正。
     ・参考文献に大橋喜之訳『ピカトリクス 中世星辰魔術集成』八坂書房、二〇一七年を追加。
     ・作成者覚書に文章を追加。
     ・表「コートカード1」を表「基礎的照応」、表「コートカード2 ――象徴札簡易指標」を表「象徴札簡易指標」に名称変更。
     ・分類「コートカード」に「占星術的照応」を追加。
     ・表「アテュ2」に外惑星との現代的照応を反映。
     ・分類「ヘブライ文字テレズマ配属」を削除し、表「ヘブライ文字テレズマ配属」を分類「ヘブライ文字」に移行。
     ・分類「独自研究及び実験的着想」を新設し、表「生命の樹と六道と十界」を追加。


    収録内容

    作成者覚書

    参考文献
     和書
     訳書
     洋書
     ウェブサイト

    記号
     元素記号
     錬金術記号
     十二宮記号
     惑星記号

    元素
     五大元素1
    五大元素2
    五大元素3――セフィロト
     五大元素4
     五大元素5
     五大元素(Oth)1
     五大元素(Oth)2

    ヘブライ文字
     ヘブライ文字表
     九室のカバラ
     ヘブライ文字の綴字とゲマトリア数価
     七複字の効果と惑星
     ヘブライ文字テレズマ配属

    セフィロト
     セフィロト1
     セフィロト2
     セフィロト3――錬金術配属二種
     セフィロトの三柱
     セフィロトの階層
     パス
     四色階
     小世界図

    タロット――アテュ
     アテュ1
     アテュ2

    タロット――コートカード
     基礎的照応
     象徴札簡易指標
     占星術的照応

    タロット――スモールカード
     スモール1
     スモール2
     スモール3-1
     スモール3-2
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――棒
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――杯
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――剣
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――円盤

    七惑星並びに十二宮
     惑星の天使と霊
     十二宮1
     十二宮2――GD式
     十二宮3――二区分(性別)
     十二宮4――三区分(様相)
     十二宮5――四区分(元素)及び三幅対
     十二宮の天使1
     十二宮の天使2
     デカンの悪魔
     十二宮と十二氏族

    エノキアンタブレット
     統一のタブレット
     各元素の大王の名前と照応惑星
     各元素の六長老の名前と照応惑星
     三大秘密神聖名
     第一の大いなる東の物見の塔、気のタブレット
     第二の大いなる西の物見の塔、水のタブレット
     第三の大いなる北の物見の塔、地のタブレット
     第四の大いなる南の物見の塔、火のタブレット
     
    アエティール
     三十のアエティール

    エノキアンタブレットの天使
     アエティールの九十二の統治者及び照応する地域、氏族、天使、閣僚数、方角、神名(Oth)

    錬金術
     金属の変成順序及び変成の円環
     性的二元論

    人体との照応
     アダム・カドモン
     チャクラ

    その他
     十一惑星の魔術
     エリファス・レヴィによる魔術師の権能二十二種

    独自研究
     生命の樹と六道と十界


    参考文献

    和書
    秋端勉『実践魔術講座リフォルマティオ(上下)』三交社、二〇一三年
    藤森緑『実践トート・タロット』説話社、二〇一七年
    レオン・サリラ『魔術師のトート・タロット』駒草出版、二〇一五年

    訳書
    アレイスター・クロウリー『アレイスター・クロウリー著作集4 霊視と幻聴』フランシス・キング監修、飯野友幸訳、国書刊行会、一九八八年
    アレイスター・クロウリー『トートの書』榊原宗秀訳、国書刊行会、二〇〇四年
    アレイスター・クロウリー『777の書』江口之隆訳、国書刊行会、二〇一三年
    イスラエル・リガルディ『柘榴の園』片山章久訳、国書刊行会、二〇〇二年
    イスラエル・リガルディ編『黄金の夜明け魔法大系1 黄金の夜明け魔術全書』(上)江口之隆訳、秋端勉責任編集、国書刊行会、二〇〇六年
    イスラエル・リガルディ編『黄金の夜明け魔法大系2 黄金の夜明け魔術全書』(下)江口之隆訳、秋端勉責任編集、国書刊行会、二〇〇六年
    ウィリアム・G・グレイ『現代魔術大系4 カバラ魔術の実践』葛原賢二訳、秋端勉監修、国書刊行会、一九九七年
    エリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀 教理篇』生田耕作訳、人文書院、一九八二年
    エリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀 祭儀篇』生田耕作訳、人文書院、一九八二年
    エリファス・レヴィ『魔術の歴史』鈴木啓司訳、人文書院、一九九八年
    エリファス・レヴィ『大いなる神秘の鍵』鈴木啓司訳、人文書院、二〇一一年
    大橋喜之訳『ピカトリクス 中世星辰魔術集成』八坂書房、二〇一七年
    ケヴィン・バーク『占星術完全ガイド ――古典的技法から現代的解釈まで』伊泉龍一訳、株式会社フォーテュナ、二〇一五年
    ジェラード・シューラー『現代魔術大系5 高等エノク魔術実践本』岬健司訳、国書刊行会、一九九六年
    セルジュ・ユタン『錬金術』有田忠郎訳、白水社、一九七二年
    ダイアン・フォーチュン『神秘のカバラー』大沼忠弘訳、国書刊行会、二〇〇八年
    デイヴィッド・コンウェイ『魔術 理論篇』阿部秀典訳、中央アート出版社、一九九八年
    デイヴィッド・コンウェイ『魔術 実践篇』阿部秀典訳、中央アート出版社、一九九八年
    フラター・エイカド『現代魔術大系6 QBL―カバラの花嫁』松田和也訳、秋端勉監修、国書刊行会、一九九六年
    フランシス・キング編『黄金の夜明け魔法大系3 飛翔する巻物―高等魔術秘伝』江口之隆訳、秋端勉責任編集、国書刊行会、一九九四年
    ローズマリ・エレン・グィリー『魔女と魔術の事典』荒木正純、松田英訳、原書房、一九九六年

    洋書
    Crowley, Aleister, GOETIA
    Crowley, Aleister, Liber 777 Revised.
    Crowley, Aleister, The Vision & the Voice : With Commentary and Other Papers (The Equinox IV:2)
    Crowley, Aleister, Magick in Theory and Practice
    Jones, Frater David R., The System of Enochian Magick
    Regardie, Israel, The Golden Dawn
    Regardie, Israel, The Complete Golden Dawn System of Magic
    Skinner, Stephen, The Complete Magician's Tables

    ウェブサイト
    ANIMA MYSTICA
    Flight of the Condor
    Holy Order Of The Golden Dawn Initiation & The Hermetic Tradition
    Sacred Magick The Esoteric Library
    The Hermetic Library
    Thelemapedia
    Web of Qabalah
    火星交換士分館・ソロモンの72柱 - 72 Spirits of Solomon
    西洋魔術博物館


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     近現代西洋魔術資料集Ver.2.doc
     近現代西洋魔術資料集Ver.2.pdf

    トーマス・キューネ、ベンヤミン・ツィーマン編著『軍事史とは何か』中島浩貴、今井宏昌、柳原伸洋、伊藤智央、小堤盾、大井知範、新谷卓、齋藤正樹、斉藤恵太、鈴木健雄訳、原書房、二〇一七年


     軍事通はもちろんのこと歴史通にもぜひ読んでみてほしい一冊である。本書で扱われる「軍事史」は、歴史学者達から歴史学の適用に堪えないと看做されてきた従来の軍事史ではない。新概念としての軍事史である。
    「軍事史」と聞くと、大抵の人は戦史や戦記、戦略、戦術、兵器等の発達史などを思い浮かべるであろう。一般に、戦史は戦争の経過を観察することで軍人が戦訓を抽出したり愛好者が娯楽として観賞したりするためにあり、発達史は単なる先行研究の蓄積と記録のためにあると看做される。このため、歴史学は軍事史を歴史として承認しなかった。歴史学者にとって軍事史とは、学問としての要件を満たさない道楽であるか、熟練した軍人達が担うべき密教であった。それゆえに、歴史と軍事史の間には、地理学と地政学と同じかそれ以上の隔絶があった。
     こうした隔絶或いは相違は長いこと捨て置かれてきた。この存在を察した者は沢山いたが、彼らの大半は、むしろ違いをあって然るべきものと受け止め、軍事史は歴史とは別物として扱うべきであると考えていた。この立場の代表格が軍人達である。そこには我こそは専門家なりという自負から軍事的教育を受けていない民間人が軍事を論ずるのを好まない感情的反発と、部外者にあれこれと口出しをされては軍の発言力と独立性が損なわれるという政治的危惧とがあった。一方で、そうした軍人の反発と戦ったデルブリュックのように、その状況に異議を唱え、軍事史にこそ歴史学的方法を適用すべきであると訴える者もいた。この系統の論者の主張の基礎には、社会的変化を軍事的事件の結果として、或いは軍事的変化を社会的事件の結果として捉え、世界や社会の動向と軍事を関連付けて考察すべきであるという思想がある。彼のような論者の主張が日の目を見たのはつい最近、二十世紀末になってのことであった。ここでようやく軍事史という概念に維新が起こった。事実、本書の原書に当たる『Was ist Militargeschichite?』の刊行は二〇〇〇年のことである。きわどいところで二十世紀に間に合った。海外の研究動向に暗いのでこれが空前の試みであったか否かは何とも言えない。また国内のことも、学界の動向に通じているわけではないので確たることは言えない。もしかしたらこの「新概念」は、研究者の間では最早常識と化した陳腐なものかもしれない。或いは今日の話をするまでもなく、発表当時既に一定の明確な潮流を有していたのかもしれない。しかし、こと世間一般に向けての発表となると、これは新たな軍事史概念のお披露目に近い。一般に向けての発表という形を取るものは、これ以外では二〇一一年にようやく『ドイツ史と戦争』が彩流社から出たくらいであると記憶している。こちらでは「軍事史」ではなく「戦争史」という用語を当てるが、その主眼に大きな違いはないものと思う。両者は同じ系統に属すと考えてよい。日本での刊行こそ『ドイツ史と戦争』の方が早いが、原書はその十年以上前のものであるため、世界規模で考えれば「元祖」や「源流」に当たる。新旧に併せて触れておけば一層理解が深まるはずである。両方合わせてお薦めしたい。
     内容は多岐に亘る。公開されている目次を確認すればわかる通り、極めて軍事学的な色彩を持つ作戦史や政治史に留まらず、経済や産業、また軍事史研究の方法論そのものに対するメタ的考察、更にはジェンダーまでテーマに含まれる。意外と言うべきか定番と言うべきか、クラウゼヴィッツの再考もある。題目が非常に豪華である。怪しげなビジネス書や入門と称する似たり寄ったりの概説書が豊作である反面、多少なりとも学術的な書籍となるとろくに出版されない軍事学不毛の地である日本でこれほどのものが出たというのは出版史上の大事件であり、非常にすばらしい出来事であると言える。もっとも、それだけの書物であるから、簡単に噛み砕けるものではない。一廉の研究者が同業の研究者若しくは少なくともその道に従事する学徒が読むことを想定して書いたものであろうため、いずれの論文も一つ一つが極めて専門的である上、学者の文法で書かれているため、読むのに大変骨が折れる。体系的な学習を経ていない門前の小僧の手に負えるものではない。多分、一般読者はおろか専門の研究者でも、全ての論文を完全に理解できるという人は多くないのではないかと思う。何を言っているかを理解することと、それが何を意味するかを理解することとの間には、大きな隔絶がある。だが、読み通せばそれに見合った収獲もある。たとえそれぞれの完全な理解が伴わずとも、序文から訳者後書きまでを順番に読み通すことができれば、直観的に、或いは体験的に、「軍事史とは何か」の解答を感得できるであろう。
     ところで、訳者後書きに、それぞれの章は独立した論文として読むこともできるのでこの種の論文を読み慣れていない人は気になったものから読んでいくことを勧める、という主旨の助言がある。この勧めに理があることを認めないわけではないが、訳者と同じように個人的意見を付せば、たとえ難しく思えたとしても、わからないならわからないなりに、やはり最初から順番に読むに越したことはない。注意深く読めばわかる通り、それぞれの章は深浅疎密に関連し合う。誰某が担当した章を参照するようにとの直接的指示もあれば、ある章の記述から読者の脳裡に浮かびがちな疑問の答えが別の章に書いてあったり、意図してのことかはわからないが前章の理解を前提とした議論を展開したり、時には異なる主張を示すことで間接的な論争をしたりすることもある。各章を分割して個別に理解しようとするよりも、常に全体を関連付けて有機的理解を試みる方が良い。そうすることによって初めて「軍事史とは何か」という問いの答えが得られる構造になっている。これは一つの総体として把握すべき性質の書籍である。こうした書物の例としては、他ならぬクラウゼヴィッツの『戦争論』がある。『戦争論』も全体を関連付けねば本当の意味でクラウゼヴィッツの洞察を受け取ることができない。どうしても通読が難しいとしても、せめて二つの序文と第一章だけは最初に読んでおくことを勧めたい。実は、「軍事史」という全く新たな概念の提示を試みるこの部分、まさに読者にとっての第一歩目となる部分こそが最も難しいのだが、そこは何とか切り抜けてもらわねばならない。ここに本書の趣旨と読み方の手引きがある上、実を言えば、『軍事史とは何か』という表題にある問いの答えの大方がここに纏まっている。残りの章は、あるテーマに対する論考であると同時に、序文と第一章が提案した視座に基づく考察の実例でもある。この点にも『戦争論』の構造との類似がある。『戦争論』でも著者の覚書や第一部第一章の記述が基礎にあり、残りの内容はそこから発してそこに帰る。問いの答えを体験的に理解できるというのはこうした構造によるのであり、序文と第一章を理解した上で他の論文に取り組めば、その論文の主張を理解できなかったとしても、ここで提案された軍事史という観念乃至方法が何を意味するかを感じ取ることはできる。そして、本書のような性質の論文集においては、読者がそこに行き着くだけでひとまず全体の目的を達成したことになるため、読者としては全部を理解できなかったことに負い目を感じる必要はない。それぞれの論文の理解は、論文集という全体にとって副次的な目的に過ぎない。達成できればそれに越したことはないが、決して必須ではない。

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    マイノリティを脅かす最悪の敵――無能な味方

     マイノリティと言っても色々といるが、ここ数年では、トイレの使用や同性婚を巡る議論など、LGBTと呼ばれる人々が注目を集めているように感じる。マイノリティと呼ばれる人種の度しがたさは、譲歩を迫るばかりで譲歩する気がなく、平等な権利と称して完全な満足を得られる特別待遇を求める点にある。
     彼らはあらゆる不満を差別問題に掏り替えて相手の負担による解消を訴えるが、どういうわけか、彼らが声を大にして訴える差別に限って差別とは到底言えないようなものが多い。大方は誰の身にも訪れうる人生のありふれた不幸の一種である。差別とは、合理的な理由もなくそれによって人生、身体、生命、財産、名誉等が不当に脅かされるほどのものを言う。女が大学に進もうとすると村の男達に殴り殺されるとか、同性愛者であると知られると家に火を着けられるとか、黒人は白人と同じ料金を払ってもバスの座席に座れないとか、そういったものである。これは大変痛ましいことであり、決して許してはならない。だが、そこまでに至らないものは単なる不便に過ぎない。マイノリティの不満が残らず解消されるべきものであるとしたら、外見が悪くて恋人ができないという者や足が遅くて陸上競技の代表選手になれないという者も救済されなければならない。相手の外見が気に入らなかろうと、好意を寄せられた側は無条件で受け容れなければ外見差別である。足が遅いというだけで他のもっと足の速い選手に代表を譲らなければならないとしたら、能力差別以外の何物でもない。もちろん、体重が軽すぎるというたったそれだけのことで重量級の選手資格を付与してもらえない小兵がいたら重量級に迎え入れてやるべきだし、それで小兵が勝てないようならば差別なので勝てるようになるまで重量級の選手にハンデを負わせないといけない。軽量級の選手が重量級に自由に参加して勝利できるようになって初めて差別は解消されたと言える。
     真に受けるような気違いはいないと信じたいが、人間というものは上にも下にも予想を裏切るものだから、一応断っておく。無論、このようなことは冗談である。冗談という表現が婉曲的に過ぎるかもしれない。それならば寝言や妄言の類である。
     しかしながら――全く以て信じがたい事実だが――実際のところ、彼らの中でも積極的に意見を発信する連中は、このような冗談としか思えない馬鹿らしいことばかりを主張している。自分達は同性ならば誰でもよい節操なしではないのだから、同性愛者というだけで警戒したり態度を変えたりするのは差別的姿勢であるというものは馬鹿げた主張の好例である。
     そのようなものは何も同性愛者に対してのみ向けられる態度ではない。相手が異性愛者であるという暗黙の前提の下、社会では普通、恋人や配偶者や家族等の極めて親密な異性以外、特に初対面の異性には一定の警戒心を持つものである。同性愛者に対する反応としても、男は男の性欲の恐ろしさを知っているから自分にそれが向く可能性があると思えば身構えもするだろうし、女は普段男と接する中で自然と育まれた警戒心を同じく女を性欲の対象とする相手に発揮するだけに過ぎない。人を見たら泥棒と思え、という言葉があるが、同様に今は人を見たら性犯罪者と思うような時代であるし、昨今の性犯罪情報を見るに、それは逆よりも遙かに適切な態度である。同性愛者は、初対面の異性を警戒する男女に対し、最初から気を許さないのは性差別であると主張するのであろうか。意識過剰であると言うのだろうか。誰もが他者に性的視線を向けると考えるのは失礼なことだから、浴場、便所、更衣室等を性別で分けるなど言語道断、善男善女混合で使用すべし、という主張を正しいと思うのだろうか。もし思わないのであれば、同性愛者への警戒心を甘んじて受けるべきである。同性愛者を下劣な変態集団と看做すべき理由も、逆に高邁な聖人集団と看做すべき理由もない。世間並みの人間として扱えばよい。もし正しいと思うのであれば、同性愛者は感性が常人と乖離している上に歩み寄る気もないので意見を聞く必要がない。歩み寄る気のない人間には意見を述べる必要も資格もない。そういう者の結末は、自分の意見を強制して他者に圧政を敷くか、はたまた敵対者として殲滅されるかであると決まっている。古来、譲歩の意思と共存の意思は連動する。譲歩しない者は共存する気のない者である。また、ペドフィリアだとわかっている人物に子供を預けることは、たとえそれが友人であったとしても、一般的にはためらわれる。これもまた同性愛者からすれば非難に値する態度なのであろうか。ペドフィリアである友人を信じて幼い我が子を預けることが社会的義務なのであろうか。いずれであれ、一般的感覚から乖離すること甚だしい。また現実的に言えば、同性愛者に接するということも、ある程度はそういう側面を持つ。独り暮らしの女がよく知らない男を家に上げるのは軽率の謗りを免れないが、それは男女だからという話ではない。独り暮らしの男がよく知らない同性愛者の男を家に招き入れることも大分軽率な振る舞いである。少なくとも、家主が性犯罪その他の被害を受けることになれば、どちらの場合も被害者の危機感のなさを指摘されるだろう。自衛すれば意識過剰と笑われ、自衛しなければ危機感がないと叩かれる満員電車の男と独り暮らしの女は本当に哀れと言う他ない。もしかすると――敢えてペドフィリアを引き合いに出したのは実はこれが狙いである――ペドフィリアを引き合いに出すことは同性愛者をペドフィリアと同列視することであって大変けしからん、と腹を立てる者がいるかもしれない。そういう者には、まず「仮にペドフィリアと同性愛者を同列視したとして、それがなぜいけないのか」と訊ねたい。「不快だから」と言うのであれば「ならば人々が不快感から同性愛者を否定することも受け容れなさい」と言おう。「倫理に反するから」と言うのであれば「同性愛者を非難する世間の倫理を大人しく受け容れなさい」と言おう。「犯罪者予備軍だから」と言うのであれば「何であれ実行に移さない限り内心の問題だから違法ではないし、誰でも法を破りうる以上は誰もが犯罪者予備軍である」と言おう。「犯罪者だから」と言うのであれば「法的是非そのものを根拠とするのであれば同性愛を罪とする法も受け容れなさい」と言おう。「異常な連中だから」と言うのであれば「異常という言葉が少数派の言い換えでしかない以上、少数派である同性者が非難されても受け容れなさい」と言おう。ペドフィリアという属性それ自体を嫌悪して排斥しようとすることが許されるのであれば、当人の行為ではなく同性愛者であるという属性それ自体を以て嫌悪や排斥の理由とすることもまた許されなければならない。自分達はしてもよいが相手がしてはいけない、という論理はダブルスタンダードの中でも極めて卑劣なものである。もしかすると、先天性を持ち出しての反論があるかもしれない。同性愛者の全てが先天性で、ペドフィリアの全てが後天性であれば、その反論も聞く価値がある。その種の反論をしたければ、まずその証明を添えなければならない。
     同性愛者だと明かした者に対し、性的な質問、とりわけ自分は対象になるのかなどの質問を投げかける点も、殊更差別に結びつけるようなものではない。親しい者同士ならば猥談で済むし、それで納得できない場合は差別でなくセクハラと処理すべきものである。同性愛に焦点を絞って特別扱いする筋合はない。不都合や不利益を何でも短絡的に差別に結び付けるのは意識の高い人々の悪癖であり、その悪癖は本物の差別をどうでもよい差別の中に埋もれさせたり、世間の敵愾心を煽って本物の差別を招いたりする結果に繋がる。実例を挙げれば、女性尊重主義者達が創作物の性的暴力撲滅に血道を上げる傍らで、実在する無力な女子供が誰からも顧みられず性的搾取を受け続ける現実がある。また、同性愛に焦点を絞るのであれば、単なる物珍しさも無論あるだろうが、その物珍しさは自分と異なる世界観を生きる者への好奇心に起因するものである。そういった好奇心は、突き詰めると「私」が「私以外」に抱くものであるため、何ら特別なものではない。魚を食べない文化圏の出身者が魚を食べる文化圏の出身者に「あなた達は魚を食べるそうだが、たとえばそこの水槽にいるメダカも食べるのか」と興味本位で訊ねるようなものである。もちろんこうした質問は異文化理解が進んでいれば出てくるはずもない愚問であるし、人付き合いという普遍的出来事の文脈で考えれば結構な非礼に当たる。しかし、だからと言って、我々に不快な思いをさせないために我々のことをもっと勉強せよと迫るのは傲慢が過ぎる。少なくとも、そう求めるのであれば、自分達も世間一般の人々のことを勉強するのが道理というものである。それもしないでただ譲歩と理解を求めるだけでは筋が通らない。
     更に、創作物の中でのマイノリティの扱いにも時折抗議が寄せられることがあるが、そうした抗議が正当なものであることは珍しい。特定の人種、同性愛者、特定の職業等のマイノリティとされる人々を類型的に誇張して描くことで差別や偏見を助長する云々、侮蔑的であり名誉を毀損する云々といった声を上げる人々がいるが、そうした人々全てが同様にして、「今時の若者」や「キモオタ」、「ゆとり世代」、「お局OL」などの類型的描写に嫌悪感を示すという話は寡聞にして聞かない。それどころか、オカマキャラの描写に憤る傍ら、無能なゆとり世代という描写に笑みをこぼすような者は珍しくあるまい。この事実には三つの解釈が可能である。第一には、自分達への差別撤廃を訴えていながら他の層に対する差別感情を持ち合わせている。第二には、実はそういった表現を差別と看做しているわけではなく、単に自分達が虚仮にされるのを許せないだけに過ぎない。第三には、差別との戦いは各人各層ごとに行うものであって連帯して行うものではないと考えている。いずれであっても自分或いは自分達の利益を最大化したいだけの利己的な発想である。そこには擁護されるべき正当性がないし、あったとしても他者の助けを求める権利はない。人が虐げられているのを黙って見ている者は、自分が虐げられる番になっても助けてもらえない。
     結局のところ、権利回復ではなく権利拡大に熱心なこういう連中の声が大きいせいで、回り回ってマイノリティという属性全体への風当たりが増すのである。確かに、歴史を振り返ってみれば、或いは交渉の手法を見てみれば、十を要求してやっと五が得られるという教訓がないでもない。その意味では無茶苦茶な要求を突き付けて騒ぎ立てることにも戦略的意味はあろう。しかし、単なる我儘ではなくそうした立派な戦略の下で活動している者は考えをもう少し深めるべきである。その戦略に大戦略的意義、具体的に言えば、そもそも五を得る必要性や正当性があるのかどうかを考えてみる必要がある。ここまでに引き合いに出した同性愛者であれば、欧米や中東は案外八か九くらい要るのかもしれない。あちらは宗教の関係もあって同性愛者への風当たりが深刻であると聞く。本当に生命や生活が脅かされるというのである。しかし、少なくとも日本の場合であれば、本当に必要なのは多く見積もってもおそらく三か四くらいだろう。と言うのも、最初の方で指摘したように、日本では差別と言えるほど深刻な迫害が常態化してはいないからである。そういうことをする者がいないとまでは言わない。しかし、それはつまるところ、他の違法行為と同様の歪んだ一個人や一組織の犯罪行為に過ぎない。マイノリティを鉄パイプで襲撃した者はこれまでと同じくこれからも傷害罪や殺人罪で逮捕すればよい。オタクを恐喝した者が恐喝罪で逮捕されることはあっても、オタク差別で訴訟を起こされることがありえないのと同じことである。マイノリティだけを特別扱いすべき必然性はどこにもない。言ってみれば、マイノリティの権利などに擁護や考慮の要はない。擁護し、考慮すべきはあくまでも個人、市民、国民即ち人間の権利である。この原則を忘れてはいけない。もし少数民族であるとか被差別階級であるとか同性愛者であるとかという理由で特段の措置が取られるようであれば、それは単なる特権階級の新設であって権利の回復や保障ではない。
     特定の相手にのみ適用される制約や権利の例として未成年者を引き合いに出した反論があるかもしれないので、この藁人形も仕留めておこう。二十五歳と十八歳の性交が完全に合法である一方、二十四歳と十七歳の性交は青少年健全育成条例等に抵触することがある。これを以て特定の相手にのみ適用される法の実例とするのは正しい。しかし、未成年者とマイノリティを等価とするのは間違っている。未成年とは成人という概念のある文化圏では全ての人間が経験する期間乃至地位である。その期間にある者に対して一律に課される制限は、その一つ一つが妥当であるかに疑いがあるとしても、特定の集団や個人に対する特別待遇には当たらない。
     いかなる理由があるにせよ、この点を理解していないがゆえに、或いは理解していながらも踏み越えて要求を突き付けてしまう者は、まさに無能な働き者、マイノリティを地獄に引きずり込む味方面をした大敵である。こういう権利意識の高すぎる連中や理解者を気取る訳知り顔の連中が、マイノリティへの一般社会――この言い方が中立性を欠くと言うなら「多数派」なり「主流派」なりと言い換える――の敵愾心を殊更に煽り、ありもしない差別を実在する差別に変えてしまう。マイノリティの望みが権利の回復であれ拡大であれ、一般社会を変えようとする前に自浄作用を働かせるのが得策である。
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    読者と作者のための地雷作品回避法三種――限界まで耐える、途中で打ち切る、読まずに避ける

    一、前提
     教育が普及し、生活が安定した結果、創作活動は一握りの特権階級や知識階級の特権ではなくなり、世界は創作物の坩堝と化した。今や小中学生ですら――その出来はともかくとして――世界に向けて創作物を発表する時代である。
     玉石混淆という言葉がある。どのようなものも九割はゴミであると言った作家もいる。どちらも正しい。すると確率論で言えば、様々な作品がひしめく中、十パーセントの確率で良作に出会えることになる。
     しかし、これだけで片付けてしまうには厄介な問題がある。最初に述べたように作品点数が増えた結果、分母もまた増加している。分母は即ち試行回数に当たる。数学的には十分の一も百分の十も一緒だが、問題を数学的次元から現実的次元に落とし込むと、十分の一であるか百分の十であるかは大きな違いを生む。最悪の事例を想定すると、分母が十であれば九回外れを引けば当たりを見つけられるのに対し、分母が百だと当たりを引くまでに九十回も外れを引く破目になりかねない。
     計算上のことであればこのようなことに大した意味はない。数学の文脈で太郎くんの歩行速度が時速四キロだろうと百キロだろうと構わないのと同じことである。数学の目的は、太郎くんの歩行速度や一人当たりのケーキの重量というXを求める方程式を解くところにあり、単位はXの性質を示す形式に過ぎない。現実的に考えるとありえない数値が出ても計算が正しければよい。
     だが、現実的尺度では時速百キロで歩く人間は異常であるし、一個のケーキを千人で分けるのは非現実的である。同様に、当たりを引くまでに九十回も外れを引かねばならないとしたら、これもまた現実的でない。時間は無限ではない。手早く済ませられるものならそうした方がよい。処理件数の増加こそが、効率化の必要性と効用を産む。
     なお、本稿ではここで言う「外れ」のことを地雷作品と呼ぶが、「地雷作品」には二通りの意味があり、一方は寝取られや鬱展開、二次創作における特定のカップリングやネタ等の読者個々人がそれぞれ受け容れがたい要素を含む作品、もう一方は読むに値しない拙劣な作品を指す。本稿では主として後者を取り扱う。前者は個々人の嗜好と感性と度量の問題なので差し当たり関知しない。

    二、三種の処方箋
     処方箋は普通、三つある。第一のものは最も単純な力業であり、試行者の処理速度を増大し、試行一回ごとの所要時間を短縮する。第二のものは知的であり、試行方法を改善することで一件当たりの所要時間を短縮する。この二つは、計算速度を高めた上で足し算と引き算のみで問題を解くか、掛け算と割り算を導入して計算式自体を簡略化するかという違いがあるだけで、どちらも正攻法である。第三のものは明らかに不適格であるとわかる試行を省略して試行回数自体を減らすことで全体の所要時間を短縮する。これは言わば前提という与件の修正に当たり、時として問題の性質自体を変更してしまうこともある乱暴な手法であるが、ある程度の間違いや不正確を許容できるようであれば極めて役に立つ。と言うのも、第三の方法は効率の観点で最も優れるからである。
     創作物の審査として捉えれば、第一の処方箋は読書経験を積んだり速読を習得したりして読解速度を上げた上で、実際に読み進める中で良し悪しを見極める。第二のものは、同じく作品を実際に読みはするものの、叙述の内容から良作や駄作であることを示す何らかの徴候を探し出す。第三のものは、作品を読むには至らない。作者のことや読者間の風聞等、作品外部の情報を概観して作品の出来を推測する。
     本稿では表題の通り、いわゆる「地雷」と呼ばれる外れ作品を回避する方法を論じる。提案する方法は上述の三つの処方箋である。
     地雷という比喩を交え、改めて各処方箋の違いを説明しておく。作品を地雷原に喩えるとすれば、第一と第二の処方箋は地雷原の進み方を示す。第一の処方箋では地雷原を馬鹿正直に突き進み、踏んでから地雷に対処する。第二の処方箋では、周囲の環境や痕跡を手懸かりに地雷の位置を探りながら慎重に地雷原を進む。第三の処方箋は方向性が根本から異なり、そもそも地雷を設置してありそうな場所には近寄らない。虎穴に入って虎児を狙うか、君子として危うきから遠ざかるか、壮士と君子のはざまを行くかである。精度と労力の多寡は比例し、いずれについても、第一、第二、第三の順位となる。足し算と掛け算に正確性の差がないように、本来、第一と第二では第二が上位互換となるのだが、それはあくまでも正確な式を立てられればこそである。2×51 の計算は確かに二を五十一回足すよりも手早く済むが、そのためにはまず二が五十一個あることを把握できていなければならない。情報収集の困難から、第二の処方箋は精度においてしばしば劣ることになるのである。また、別の見方として、第一の処方箋は名作を取りこぼさずに済むが安全の保証されないマクシマックス原理、第三の処方箋は名作を取りこぼすかもしれないが地雷を踏みにくいミニマックス原理、第二の処方箋は両者の折衷或いは中道に当たる。合理的に考えると、通常、マクシマックス戦略は損害を気にしなくてよい強者と損害を気にしていられない窮鼠にのみ合理的であり、反対にミニマックス戦略は窮鼠以外の全ての者に合理的である。これを名作探しと地雷避けの文脈に落とし込めば、利益とは良作の発見、損害とは時間の浪費と地雷の作動であり、マクシマックス戦略は精神的に強靭で時間の在り余った暇人か是が非でも良作を見つける必要のある切実な事情を抱える者に適したやり方、ミニマックス戦略はそれ以外の一般的な人々に適したやり方ということになる。その中間は戦略原則を緩和した冒険や妥協に当たると言うべきであろう。この適用基準そのものは、一つの戦略を墨守する純粋戦略でも、その時々に応じて戦略を変更する混合戦略でも変わらない。違いは単に意思決定の時期と回数のみである。現実的観点からは、純粋戦略と混合戦略のどちらがより良いかは判然としない。しかし、明らかなことが一つある。機械的に処理できて頭を使う必要がないので、純粋戦略の方が楽である。この点は大きな判断要因となる。マクシマックス戦略を追求するのであれば混合戦略の意思決定の労力も受け容れるべきであり、逆にそこまで徹底する気がない或いはミニマックス戦略を追求するのであればここは純粋戦略で手早く片付けてしまう方が良い。

    二‐一、第一の処方箋――限界まで耐える
     ここからは各処方箋を一つ一つ検討していく。
     まず第一の処方箋について述べる。とはいえ、この方法は単純明快であるため、多くを述べる必要はないと思う。
     既に述べた通り、この方法では実際に読むことでその良し悪しを判断する。言い換えれば、良いか悪いかがわかるまで読み続けるのである。これは、たとえ気に入らない点があろうとも限界まで我慢して読み続けることで行う。作品を嫌いになる理由としてよく聞く主要人物の死亡などの到底受け容れがたい何かに直面するか、或いは当人にも説明しづらい何らかの漠然とした拒否感が生まれるかして、完全に興味が失せ、これ以上読んでいたくないと思った時が打ち切り時である。要するに作品を見限るということであり、これは通常の読書と変わるところがないかもしれない。もう読みたくないという心の叫びを押し殺して読了してはいけない。読みたくないと思った時、足は既に地雷に乗っている。そこで引き返せば無事に済む公算が高いが、無視して進めば爆発で痛手を負うことになる。
     この方法はとにかく時間がかかる上、これによって地雷作品を看破することは、読みたくないと思わされるほどの何かに触れることをも意味する。時間的にも精神的にも余裕を要する。多忙な人は面白さの保証のない作品を評価している暇など持ち合わせないし、心にゆとりがなければ時間をかけて読み進めた作品が駄作だとわかった時の徒労感や虚無感に耐えられない。
     しかし、隠れた良作を逃さないためには、食わず嫌いをせず何でも一度は味わってみる必要がある。この第一の処方箋のみが、作品の真価を見抜き、名作を見つけ出すことを可能とする。これこそが正攻法であり、他の二つの処方箋はこれを実行できない或いは実行したくない場合に用いる代替策に過ぎない。このことはどれだけ強調しても足りない。

    二‐二、第二の処方箋――途中で打ち切る
     第二の処方箋は第一のものと方法論的な系統を同じくする。第一の処方箋をより簡略且つ巧妙に実施すると第二の処方箋が生まれる。しかし、既に述べた通り、その正確性は入力の正確性に左右される。数学では必要な情報が事前に示されるのでこの問題が表出することはないが、不確かな類推を避けられない人文学的事柄ではそうもいかない。このため、どうしても、数学的には愚劣の烙印を捺される第一の処方箋に比べて精度で劣ってしまう。
     この処方箋の中身は多少適用が難しいので詳しい説明が必要であろう。もっとも、方法自体に難しいところはない。端的に言えば、つまらない作品、地雷作品によく見られる特徴を発見し次第、購読を打ち切るというだけのことである。しかし、何を以てその徴候と看做すかが難しい。相応の鑑賞経験を要する作業である。独力で体得するには――そして他人の基準表を借りて済ませたところでどのみち最終的には――地雷作品の共通点や類似点を見かけた途端に脳裡で警鐘が鳴るくらいにならねばならない。
     とはいえ、地雷作品ではなく単に自分に合わない作品を判別するだけであれば大して難しくもない。この方法は地雷作品の判別にも応用できるので一応説明しておく。
     作品を読み進めていくと、受け容れられない或いは我慢できないわけではないが気に入らない、という要素にしばしば出くわすものである。それはたとえば、展開であったり、描写であったり、設定であったりする。作品が大して面白くなければその途端に読む気が失せるだろう。一方、面白ければ、恋人のちょっとした欠点にそうするように、目を瞑って先に向かうだろう。この気に入らない要素こそが、作品が自分に合うか合わないかを推測する材料となる。もし気に入らない部分が五個以上あったなら、或いはそれらの登場回数が延べ十回を超えたなら、その作品は多分合わない。五個あったなら六個目もあるだろうし、延べ十回も出てくるのなら十一回目もあるだろう。ただしこの数え方は、子供の屁理屈めいたものであっては意味がない。たとえば、「人」を「ひと」と表記するのが嫌いだからと言って、文中で「ひと」が十回以上使われたことを延べ十回としてはいけない。こういうのは文体や表記法の問題として一括りにして数えるべきである。無論、延べ数などという考え方も馴染まない。
     もう一つの指標として、作者の作風や思想や感性、主要人物、特に主人公やそれに準じる者の思想や感性への反感がある。こういう反発が生じる作品はどうしようもなく合わない。なぜならば、それは作品の根幹に対する拒否だからである。主人公の一人称視点で進む話を思い浮かべると納得がいく。嫌いな人間の思考と行動を延々と追いかけさせられ、その不快な眼差しを通してしか作中世界を観ることができないのである。楽しいはずもない。作風が気に食わないというのも決定的な問題である。これは如何ともしがたい。また、思想や感性の合わない作者がどのようなものを書くかを考えてもよい。作者は当然ながら自分の思想や感性に合った作品を書く。展開も描写もいちいち癇に障ることだろう。
     個人的な嗜好に合うか否かを見分ける指標のことはこのくらいにしておき、地雷作品全般に見られがちな特徴――そのような要素があれば地雷作品である可能性があるという徴候――の話に移る。これこそ鑑賞経験を積まないと見えてこないことだが、大雑把なところは一般化可能なので本稿ではそこを説明するのに留める。
     まず、これが最も基本的な指標だが、作者の知能や技倆が乏しい場合は、ほぼ間違いなく地雷である。知能の乏しい者が作るものは支離滅裂且つ荒唐無稽なものになりやすく、作品の作り方を心得ていない者が作るものは総合的な感想として面白味を持たないことが多い。ただし、ここで言う「知能」の基準は常識でなければならない。常識的な水準より高そうか引くそうかで考えるべきであり、読者である自分よりも高そうか低そうかで考えると、自分に合うか合わないかに趣旨が変わってしまう。
     主人公に知能や一貫性が欠如した作品もやめておいた方がよい。常識的に考えれば打たないような悪手を打つのはもちろん、策士面をして単に無駄な工程を加えて計画を複雑困難にするようなのもいけない。その上、平均的な知能を持つ読者からは非効率或いは明らかな愚行と映るにもかかわらず、作中世界で策士よ智将よ老獪よと褒めそやされるようでは、苛立ちは一層高まる。一貫性に関しても、発言や性格が二転三転するようでは読者は解釈に苦しむし、言行が不一致であるようでは白けてしまう。ギャグならばそれも笑いどころの一つになるかもしれないが、そうでなければただ苛立ちを誘うばかりである。
     ギャグやコメディでもないのにイディオットプロットが多用される場合も地雷作品となりやすい。イディオットプロットとは、関係者全員或いは社会全体が馬鹿であることで成立する筋書きのことである。たとえば、探偵と警察が揃って無能だったので殺人事件の真犯人は逃げ果せた、というものが該当する。真犯人が探偵や警察を出し抜くほど有能だったからではないところに注意が必要である。このような筋書きは馬鹿の泥仕合でしかないので、読者は知的興奮を得るどころか興醒めして退屈するだけとなる。しかもこのような筋書きを用いる際、登場人物が一貫して愚劣無能であることは少ない。多くの場合、ここには作者の都合に応じて適宜能力が上下するご都合主義を伴う。そういう場合、展開の都合上、失敗してもらっては困る場面では、主人公がどれだけ無能でも、それを補って余りある助力が為されたり、課題の方がわざわざ難度を下げてくれたり、その時に限って見事な手際を見せたりすることになるし、逆に成功させるわけにいかない場面では主人公が信じられない無能ぶりを曝すことになる。ただし、登場人物の無能に妥当な理由があり、きちんと全編に亘って反映しているようならば、イディオットプロットは完全に否定すべきものではない。警察が無能であるせいで主人公が様々な事件に巻き込まれるとしても、給料の遅配や未配が常態化していて士気が低下を通り越して崩壊しているなど警察の無能に合理的根拠があり、且つ警察が機能していないので町の治安が崩壊しているなどの合理的結果が生じているのならば、それは一つの合理的な舞台設定と看做してよい。悪いのは、警察自体は優秀なのにその時だけはたまたま無能な警察官が事件を担当する、などの事情から物語上必要な失敗を起こすことである。
     イディオットプロットとはまた趣を異にするが、主人公乃至それに準じる重要人物が無能惰弱であると強調されるのも良くない。特にそれが肉体面でなく精神面の話であればそれだけで読むのをやめるかどうか検討してよいほどである。おおよそこういう表現は、主人公に必要或いは妥当な――そしてしばしば常人にとってはあまりにもたやすいのでできない理由を見つける方が却って難しい――行動を起こさせないための口実に使われる。一言声をかければ問題を回避できるがそれでは物語が生まれない、どう考えても簡単に拒絶できるがそうすると都合良く物語が動いてくれない、という時に、へたれだから、童貞だから、と殊更に説明して不適切な対処を正当化するのである。一般的なラブコメの主人公が鈍感且つ無神経且つ無知であるよう求められることに似ている。結局は作者の都合通りに主人公を動かすための言い訳なのである。絶対的権力者に呼び出された一兵士が理不尽な命令に諾々と従わざるを得ないというのは実際その通りだからおかしくないが、個人としても一国を相手取るだけの武力を有し、あまつさえ政府上層部にも伝手があるような主人公が、ただ気が弱いというだけの理由でその辺のチンピラや小役人に凄まれて黙りこくってしまうというのは、それこそが最大の不条理にして理不尽である。対抗手段がありながらそれを行使しないという不決断、不作為から成る脚本は読者の苛立ちを誘う。ところで、へたれや童貞というレッテルについて付言すれば、こう説明することで何かを根拠付けたことになると思っている者は駄目である。これらはあくまでも状態の要約や結果であって原因ではない。へたれだから踏み込めないのではないし、童貞だから女心がわからないのではない。踏み込めないからへたれなのであり、女心がわからないから童貞なのである。原因と結果を取り違えたことに気づかず、或いは意図的に掏り替えて作中人物の行動を弁護しようとする作者は、この種のそれだけで何かを説明付けたような気分に浸れる便利な言葉を多用する傾向にあると見てよいから、この意味でもその作品は論理と中身が欠如している可能性を持つ。
     世間知や処世術や交渉術を賛美する傾向には注意を要する。それら自体は物語の小道具として必ずしも悪いものではない。それどころか、適切に盛り込まれさえすれば、目前の問題を常に個人の腕力と怒声で解決するだけの物語よりも知的で含蓄あるものとなるだろう。しかし、扱い方を誤れば、腕力と怒声による物語以上に愚劣なものとなる。優るものがあるとすれば、その無意味な複雑性くらいである。そのような作品は無駄とご都合主義に満ちているので読むに値しない。具体的な失敗例としては、読者が知りもしなければ知る機会も与えられなかった作中世界独特の慣習によって交渉が落着するものをまず挙げられる。一種のコメディとして、たとえばいわゆる「勘違い物」のように、独特の慣習や文化に無知な登場人物が無自覚に取った何気ない行動が相手に何らかの感銘を与えるようなものはよい。礼法に無知な主人公が無作法にも完全武装で和平会談の席に臨んだところ、相手方の文化圏の故事に交渉が不首尾に終わればその場で戦死する覚悟を以て臨んだ烈士の逸話がたまたまあり、主人公の無礼をその烈士の故事にちなんで敢えてしたものであると敵将が解釈して感嘆する展開などは王道と言えよう。これなどは読者は無知な主人公の側に視点を置くのだから、事前に烈士の逸話を知っておく必要はない。主人公と一緒になって敵将の勘違いに驚けばよい。しかし、仮に主人公が逸話を承知の上でその行動に出たのだとしたら、そのような逸話や価値観の存在を読者に臭わせておかなければ、唐突な後出しにしか見えない。別段、一から十まで知らせておく必要はない。しかし、相手方の価値観が典雅よりも豪放を尊ぶであるとか、もっと直截的に古代中国的文化圏に属するとかの情報を提示しておき、そのような烈士の逸話の存在をさもありなんと違和感なく受け容れる下地を作っておく必要はある。またもう一つの失敗例としては、そもそも作者が世間知等に心得違いを犯していることを挙げられる。世故長けた作者がその経験を盛り込むのであればよいが、世間知に憧れるだけの作者が生噛りの理屈で話を動かせば荒唐無稽な絵空事と化してしまう。大人っぽさに憧れる子供が煙草を吸ってみても、うまく決まったと思うのは本人だけで、傍から見れば全くさまにならないようなものである。そもそも世間知や処世術や交渉術で語られる教訓と言うと、自分が泥を被る、相手の顔を潰さない、他者に恩を着せる、厳しく咎めず大らかに赦す、敢えて弱みを見せるなど、要するに「負けて勝て」、「損して得取れ」などの格言に要約されるものが代表的である。或いは「人に好かれろ」、「人に嫌われるな」といったところでもよかろう。ところが、これらには見えない但し書きがある。「教条主義に陥ることなく臨機応変に判断すべし」が常に付く。意味もなく泥を被っても汚れるだけであるし、相手の顔ばかり気にしていればただのカモ、恩知らずに恩を着せても意味がない、咎められない罪人は調子に乗り、普通の交渉で事足りる相手に弱みを見せるのは過払いとなり、問題なく勝てる時に負けるのも得にならない損をするのも馬鹿馬鹿しい。敵には不利益を与えるべきであるし、嫌われても困らない或いは嫌われることを避けられない相手は常に存在する。この暗黙の了解に思い至らない作者が世渡りを描くと、何のために相手の顔を立てるのかという視点が欠落し、顔を立てるために顔を立てて媚び諂う主人公という図が生まれてしまう。作中でその振る舞いが未熟の証として扱われるのであれば若者の成長物語が生まれる余地もあろうが、大抵は強かな交渉者や世慣れた大人として賛美されるのだからどうしようもない。
     必然性もなく主人公に対して過度に甘かったり辛かったりするのも大体駄作である。主人公に甘すぎる作品は、祖父母が我儘放題の孫を甘やかしたり、弟子達が尊師の言うことを何でもありがたがって受け容れたりするさまを見るような気色の悪さを掻き立てる。主人公に辛すぎる作品は、親が幼い子供を虐待したり、罪もない人間が吊るし上げられたりするさまを見るような胸糞の悪さを感じさせる。これを無邪気に楽しめるのは、自分が甘やかされていることにすら気づいていない甘ったれた子供か、他者を虐げる側の者及び虐げられて人格が歪んでしまった者くらいであり、まともな人間はどうしても抵抗を感じてしまう。その上、こういうものを書く作者は万事において物事の加減を弁えていないことが多い。
     群像劇でもないのに主人公が焦点からしばしば外れるのも危ない。これは単に、魅力的な主人公の活躍を追いかけたいと思う読者が多数派であろうことが理由ではない。主人公不在の場面が延々続いたり、他の登場人物が動くばかりで主人公が置物と化していたりするのは、設定か構成のしくじりを意味するからである。主人公が不在であったり置物であったりしても問題なく話が進むのであればそもそもその主人公は必要でなかったのであるし、それで物語が損なわれるようならば作品構築自体を失敗している。主人公を差し置いて物語の中心で活躍する人物がいるのであれば、作者はその人物をこそ主人公に据えるべきだった。このような大失敗を犯す作者は他のところでも何かしら失敗していると考えるのは妥当な見方である。こういう意味から、主人公の扱いは作者の良し悪しを量る良い指標となる。なお、探偵役と語り手が別であるとか、主人公が英雄ではなくその従者であるとかは、ここで言う主人公選定の失敗には当たらない。語り手が探偵による名推理を実況するだけであるのも、従者が活躍する英雄の背中を追いかけるだけであるのも、そのこと自体に問題はない。良くないのは、語り手の与り知らぬところで探偵が事件を解決してしまったり、従者であるはずなのに英雄の活動に何ら関与できなかったりすることである。この時、語り手も従者も自分の役割を果たしていないことになる。
     作品の方向性が唐突に変わってしまうのも深刻な徴候である。たとえば、一話完結の連作であったはずが何話も続く長編を展開し始めたり、コメディであったはずがシリアスな話を始めたり、冒険物であったはずが領地や地位を貰って内政に精を出し始めたり、推理物であったはずがいつの間にか犯罪組織との戦いやヒロインとの恋愛が主になっていたりするようなことを言う。砂漠を探険していたはずが深海を探索し始める、といったこととは根本的に意味合いが違う。物語の舞台が変わっただけで、どこかを冒険するという本質に変わりはないからである。方向性の転換は大ヒット作品でもよくあることであり、しかもそれこそが躍進のきっかけとなった事例が多々あるため、一概に否定できるものでもない。しかし、無条件で容認できるものでもない。またヒットの理由にしても、つまらない作品が舵取りの妙によって面白くなったとは限らず、マニア向けの作品が大衆迎合に方向転換しただけの可能性もある。つまり見方を変えれば、これでよい、これがよい、と読者達が思っていた部分、作品の魅力や特徴、骨子となる部分を台無しにするということでもある。主人公が諸国を巡ってご当地の伝統武術と他流試合をする武者修行の話が諸国から選手を集めた格闘大会の話に変わったり、試合と関係のない格闘家達の日常生活が時たま描写されるようになったりするのは本来の魅力を保ったままであるため、方向性の変更としては決して突飛なものではない。むしろこれは拡張と呼ぶのが正しい。また、スポーツ物として始まった話が早々に恋愛物に変わるなどの急激且つ脈絡のない方向転換であっても、「本来」を云々できるほどの形が定まる前に行うことであれば問題ない。これらの場合は即座に購読を打ち切らず様子を見るのもよい。作品の方向転換は序盤に済ませるに限る。しかし、ある程度長く続いた後に方向性が急激に変更された時は、地雷の徴候と見て早めに切り上げる方がよい。そういうことをする作者は自分の作品の魅力や性質をわかっていないことが多いから、今後も迷走を続ける公算が高い。また、たとえ作品をきちんと理解している作者が自覚的に行ったのだとしても、どのみち切り捨てられた骨子が戻ることはまずない。「それまで」を楽しんでいた読者にとって、「これから」は必ずしも楽しいものではない。それでも我慢して読み続けたとしても、飽きたり嫌気が差したりして投げ出すことになるだろう。結局、時間の無駄である。
     ここまでに挙げた徴候の代表例は、いずれもある程度似通った部分を持つ。してみると、結局は同じ欠点を違った形で述べたことになるのかもしれない。結局のところ、突き詰めれば作者の知能と技倆に帰すのである。知能と技倆が一般水準に達していれば、地雷作品など書くはずもない。

    二‐三、第三の処方箋――読まずに避ける
     第三の処方箋は、最も精度が低い反面、慣れれば最も処理速度が高まる。つまるところ、作品を読まずに足切りする方法である。人によってはマイナス検索のやり方と説明した方がわかりやすいかもしれない。
     この方法は現状、最も需要があるかもしれない。作品点数が膨大なものとなり、とてもではないが一つ一つをゆっくりと確かめてなどいられなくなった現在、必要なのは速やかな審査方法である。中身を読まずに作品を足切りするというのは、その需要に逆説的な形で応えたものと言えるのではないかと思う。
     無論、一番良いのは何であれ実際に読んでみることである。しかし、既に述べた通り、それをしていては時間がどれだけあっても足りない。だからこそ、食わず嫌いによって良作を取りこぼす危険を冒す危険を冒す苦肉の策として、作品を足切りする方法を考案する。
     具体的な方法を述べる。作品ごとに得られる情報に差はあるが、見るべき点は説明と感想である。作者やその作者の別作品も参考にならないことはないが、それらを一から調べるくらいならば実際に作品を読んで確かめる方がさすがに早い。これが効率を犠牲にしないのは、既にその作者や他の作品を知っている場合に限られる。
     説明とは制作側が作品に付けた内容説明全般を指す。粗筋はもちろん、宣伝文句やキャッチコピー、キーワードなども含む。
     感想は、ウェブ作品であれば作品に付属する感想欄やコメント欄、それ以外であれば個人の感想サイトや掲示板、若しくは同好の士間での語らい等、読者が示す当該作品への反応を意味する。これには当然、読者同士のやり取りも含む。

    二‐三‐一、説明から作品を量る
     説明から作品を量る場合、その中から特定の語句や表現を探し出せばよい。と言っても、それ以前の問題として、粗筋等の記述がおよそ物を書いて人に読ませようという人間によるものとは思えないほどに拙い場合は、それが一つの答えとなるので、まずはこの点を見るとよい。その試験に合格して初めてキーワードの審査に取りかかるべきである。
     注意すべきキーワードを以下に列挙する。奇抜なキャラクター名、「少年」、「中学生」、「高校生」、「幼少期」のように主人公や主要人物が若年であることを示すもの、「おっさん」、「三十路」、「四十路」、「社会人」のように高年齢や人生経験を強調するもの、「学園」のように学校生活が作品の中核を占めることを示すもの、「TS」、「性転換」、「女性化」、「男性化」、「幼児化」、「若返り」のように性別や年齢の変化を示すもの、「不遇職」、「底辺」のように恵まれない境遇を示すもの、「オタク」、「ニート」、「ハイテンション」、「変態」、「奇人変人」のように奇矯な性格や価値観を示すもの、「平凡」、「普通」、「目立ちたくない」、「何の変哲もない」のように特異性の否定を示すもの、「へたれ」、「童貞」、「無気力」のように精神的無能を示唆するもの、「巻き込まれ転移」、「転生者或いは転移者複数」、「クラス転移」、「推理合戦」のように物語が本来持つ特徴を変質させるもの、「駄作注意」、「作者は初心者」のような予防線、「原作未読」、「キャラ崩壊あり」、「原作崩壊」、「オリキャラ多数」のような注意書きなどである。これらのキーワードの入った作品はつまらないことが多い。僅かな良作を一緒に弾いてしまうことにもなるが、これらが含まれた作品を除外するだけで驚くほど地雷との遭遇率が下がる。特にその系統のものを求める時以外は足切りしてしまうことを推奨する。
     まず、奇抜なキャラクター名はそれだけで読むのをやめる判断を下してもよいほどの警鐘である。多少個性的な名前や表記ならば気にしなくてよい。しかし、機志陀零奇と書いてキシダレイキと読ませるような当て字系のものや白夜だの拳王だの帝人だののように人名としておかしいものは特に危ない。羅雄(ラオ)と闘気(トウキ)の拳王寺兄弟といった風に明らかに何かのパロディであるとか、作品自体が明らかなギャグであるとかでなければ、それだけで作品の程度が知れる。こういう作品は往々にして、ライトノベルだけを読んでライトノベルを書こうとする連中が書きそうな内容になる。
     若年者、即ち未成年や中高生が主人公であることを暗示する「少年」、「中学生」、「高校生」というキーワードがある場合、作中の大人が極端に無能であるか、主人公とその同世代の取り巻きが肉体的年齢以外大人と何ら遜色のない成熟ぶりを示すか、はたまたそれらの複合となることが多い。そのような作品は、社会、権威、上位者などの象徴としての大人を子供が小気味良く扱き下ろして打ち倒すことを楽しむ抑圧された子供のための作品であるか、或いは単に何らかの事情から主要人物を若年層にしたはよいが作者に若年者を描く技倆がないかのどちらかである。前者はまさに子供騙しであり、ある程度の精神的成熟に達した読者の鑑賞に堪えるものではない。後者は主人公が若年である意義が薄く、子供が知った風な口を利く鼻持ちならなさだけが浮き彫りになる。大抵の場合、こういう作品では、若年層の精神的年齢は設定年齢に十歳程度を加えるとちょうどよくなる。高校生なら二十代後半の中堅社会人である。他方、二十代後半の社会人は大体実年齢相応であるという矛盾も生じる。中には年齢設定に合わせて作中の成人年齢を下げる例もあるが、それが有効に機能することはあまりない。十五歳で成人という設定の場合、現代日本の二十歳と同じかそれ以上の権利、責任、義務を与えられる一方で、世間からの扱いが現代日本の十五歳に対するそれと大差ないという矛盾が生じることなどはよくある。つまり、作者がきちんと扱いきれていないのである。なお、「青年」という語にも注意が必要であることを申し添えておく。辞書的意味や法的定義はさて措き、一般的に「青年」とは精々二十歳前後から二十代後半を指す。田舎の青年団の平均年齢を思い浮かべてはいけない。ところが、世の中には高校一年生の主人公を青年と表記する信じがたい作者が時折いる。このため、「青年」というキーワードから二十歳前後の若者を想定すると、思わぬ肩透かしを食う破目にもなりかねない。一般的な感覚では、高校生は少年少女であろう。
     また、「幼少期」に類するキーワードがある場合は尚更注意が要る。もし幼児期から丁寧に成長を描いていくとすると、これは九割方地雷である。愚劣で脆弱な子供が大人達に導かれて友人達と一緒に賢明で強靭な大人に成長していくような話はまず期待できない。成長過程を面白く描く技倆を持つ作者が少ない上、そのようなものを求める読者も少ないからである。作者としては早々に活躍してもらう方が楽であり、読者としても読み書き算盤や箸の持ち方や情操教育から始まる退屈な学習過程には付き合っていられない。このため、このような設定を用いる場合、若年主人公に付き物の欠点が遺憾なく発揮されることになる。つまり、大人が無能になるか子供が優秀になるか、或いはその複合であり、世界が主人公を接待する不自然なものとなったり、殊更にその物語を幼年時代として描く意義が薄くなったりするのである。
     高年齢や人生経験を強調する「おっさん」、「三十路」、「四十路」、「社会人」のようなキーワードは、それを売り物にしているというところに危うさがある。何であれ殊更に強調すればわざとらしくなるし、受け取る側の期待と基準も高まる。その上、他に売り出せるものがない、強調しなければ気づかれない程度の長所でしかない、などの事情が存在することも多々ある。酷い時には、それが売れ筋だから取り敢えずそう言っておくことにしただけ、ということさえある。実際、おっさん主人公だの社会人経験のある主人公だのという触れ込みの作品の主人公と言えば、その辺の高校生よりも社会性に乏しい幼稚な人物であることが珍しくない。つまるところ、そういう人物はサラリーマンのコスプレをした老け顔の中高生に過ぎない。優秀すぎる若年主人公が年齢を十歳鯖を読んでいるとすれば、こちらは何十歳も逆鯖を読んでいる。中高生でも目に余る振る舞いを大の大人がするのだから、何の売り込みがなかったとしても辟易せずにいられまい。主人公は大人だと強調されて期待感を煽られた末でのことともなれば、その不快感と失望感は多大なものとなろう。
     主要人物による学園生活を暗示する「学園」というキーワードが入る場合、期待を裏切られることが多い。と言うのも、主人公達が本当に教員や学生として学校生活を送る例は少ないからである。異世界物の場合であれば、単に教師や学生という肩書を持つだけで、実際の行動内容や物語展開は他の作品で軍人やら政治家やら騎士やら貴族やら冒険者やらの肩書を持つ人物達のそれと似たり寄ったりのものとなりやすい。現代物であっても、都市や国家のように自己完結した巨大学園の内部で大人顔負けの権力闘争や武力闘争を繰り広げたり、学校外での活動が主となっていたりすることが多い。全体の傾向として、最初から学園の存在が有名無実化するほど酷いものもそうはないが、中盤や終盤になると学校生活と無関係なところで物語が動いてしまうような作品は枚挙に遑ない。気づけば、学生の身分こそそのままでありながら、学業そっちのけで政治家や貴族と手を組んで権力闘争や国家運営に参画していたり、学校生活と言うよりも部活動が物語の大半を占めるようになったりするのである。とどのつまり、学園物という設定は主要人物を低年齢層にする言い訳に過ぎないことが多い。
    「TS」、「性転換」、「女性化」、「男性化」、「幼児化」、「若返り」のように性別や年齢の変化が起こる場合、作品全体の面白さを台無しにする不純物となることがしばしばである上、肝心のTSや幼児化自体を面白く表現できていないことが多々ある。こういうのはどちらかと言えば性倒錯の一種であるため、性描写を目的とする作品でこそ輝く。逆にそれ以外では作品の地雷化を招きやすい。前提として、中年男が中学生に戻って近所の若奥様を押し倒す作品にはシチュエーションとして大きな需要があるかもしれないが、中年男が中学生に戻って世界を救う英雄になる作品の需要はそれに劣るだろう。社会的立場や経歴や時間経過ならばともかく、肉体的年齢という意味で若手社会人が中高生や幼児に戻るのも大した意義がない。大学生や中高生が小中学生に戻るのも同様である。この世代はまだやり直しが必要な年齢ではない。中高年であれば若返りは再起となるが、若年層の場合は単なる継続でしかない。四十五歳の主人公が二十歳に戻ればやり直しとなるが、二十歳の主人公が十五歳に戻ったところで感覚に大きな差は生じない。また、英雄が魔物を討伐する勇壮な物語があるとして、その英雄の人格が実は異性であったり、英雄が唐突に性転換してしまったり、幼い子供になってしまったりすることが、物語にとってどれほど重要であるかは疑わしい。読者が英雄譚に求めるものは、英雄達が知恵と腕力を尽くして強大な魔物と戦う情景であり、年齢や性別の変化に戸惑う或いは喜ぶ英雄の精神的反応や社会的軋轢ではない。それらはむしろ読者が想定する本来の主題に没入する上での摩擦や障害となる。特別な事情や思想の持ち主以外にとって、マイノリティの苦悩などは退屈或いは憂鬱な題材であり、素直な楽しみを殺ぐ。とりわけ、未熟な作者の手にかかれば退屈しか誘うまい。従って性転換や幼児化をした英雄を主人公に据えるよりも、素直に男や女や大人や子供を主人公に据える方がずっと良い。野球と違い、変化球は必ずしも有効な球種ではない。またその変化による精神的反応や展開の特徴にしても興醒めする代物が多い。精神的には、葛藤や混乱が長引くことが作者にとって不都合であるなどの理由からすぐに順応してしまったり、異性の肉体を利用して肉体的同性即ち本来の異性との性的接触を楽しむなど自身の倒錯的欲求の充足を試みたり、或いは性同一性障害が解消されて喜んだり、或いは幼児化することで人生をやり直せることを喜んだり、無垢な子供のふりをして本来の同年代に気兼ねなく性的接触を試みたりすることがよくあるが、大体どこか既視感のある似たり寄ったりの反応であるため、特にこういうのを好むというのでなければ大した感慨も湧かず、むしろ物語の展開を停滞させる余計な要素として苛立ちすら感じてしまいがちである。また、子供に戻って子供に交じって過ごす場合、主人公が子供と同じ視線で動けば幼稚な人格が浮き彫りになるし、あくまでも年長者の見識を発揮すれば延々と子守りを見せつけられる破目になる。更に展開的にも、順応が早ければその性別や年齢の主人公の物語でしかなくなるし、話の展開自体が性差や年齢に左右されないものであることもよくある。もちろん、竜退治の英雄が男であるか女であるか、大人であるか子供であるかは、過程も含めれば大きな違いを生む可能性を持つ。だが、その可能性を捨てた作品が多いのが実情である。ゲームで言えば、主人公の年齢や性別を選択できるにもかかわらず、どれを選んでもイベント内容に大した変化が起こらないという現象がそれに当たる。
     何らかの恵まれない境遇を示す「不遇職」、「底辺」などのキーワードは、ほとんどの場合、実情にそぐわない誇大広告である。大抵は作中視点、即ち作者がこれは不遇であると主張しているだけで、読者視点即ち客観視点では全くそのようなことがない。学園物であればクラス内での立場が底辺であるとは言っても、実は何か凄い力や才能を持っていたり、かわいい女友達がいたり、頼れる親友がいたり、底辺と言いつついじめられることもなくクラスメイトと仲良くやっていたりするなど、総合的に見て並以上の境遇にあることがしばしばである。本当の底辺が聞けば一緒にされるのを不快に感じるであろう。「不遇職」については少し説明が必要かもしれない。これは本来オンラインゲームの用語であり、他の職業の下位互換と化していたり役に立つ状況が少なかったりしてシステム的或いはプレイング的に不利な職業を指すが、最近はRPG的世界設定のファンタジー作品などでも当たり前のように使われるようになった。別段ゲームの世界ということもないのに、スキルだの前衛職だの回復職だのという用語が飛び交う作品が掃いて捨てるほどあるのである。意味も本来のそれに準じる。オンラインゲームを題材にしていようと類似設定の異世界ファンタジーであろうと同じことだが、大体は熟達するのに多大な時間と労力を要するだけで極めれば最強になるとか、誰も気づいていないだけで物凄い特典や長所があるとか、或いは本当にどうしようもない職業ではあるものの当人の能力が図抜けているので結果として足枷にならないとかの埋め合わせがあり、不遇職と聞いて想像する苦難が全くないことが多い。要するに、底辺だの不遇だのは口先だけに過ぎないのである。主人公に恵まれない境遇を与えるのは、恵まれた立場の主人公では共感を得られない、下剋上や成り上がりの方が痛快な展開になる、低い立場や弱い職業を物ともせず活躍することで主人公の特別性や優秀性を示せるなどの理由によるのだろうが、この手の目論見はほぼ浅知恵に終わる。まず、逆転を予定するのであれば本当にどうしようもない底辺や不遇職にするわけにはいかず、ある程度の可能性を秘めた境遇にせざるを得ない。例を挙げれば、企業内での出世競争であれば、たとえ最底辺の存在であるにしても、当該企業の社員であることが望ましい。その辺の浮浪者やチンピラではいけない。その上、雌伏の時が長引きすぎても物語は退屈で鬱屈したものになってしまうから、それなりの段階までは早い内に引き上げてやる必要がある。軍隊物であれば、新任少尉が瞬く間に将軍にまで進級するのはおかしいとしても、早い段階で佐官になっておくか、尉官のままではあっても、辺境の一小隊長から参謀本部に栄転したり、優秀な将校として下士官兵から崇められたり連隊長から重用されたりするくらいのご褒美はあった方がよい。ところが、大抵の作者はこの辺の加減をよくわかっていないから、底辺社員と言いつつも実は社長や役員の身内であり、その境遇に甘んじていたのは単に出世する必要を感じていなかっただけであるとか、立て続けに手柄を立ててあっと言う間に将軍まで成り上がってしまうとか、底辺だの不遇職だのという境遇を有名無実化してしまう。作者からすれば今まで手が届かなかった果実を苦心して掴み取る過程を描いたつもりであっても、傍から見れば、しゃがんでいたから手が届かなかった果実をちょっと立ち上がって毟り取る様子を描いただけでしかない。立ち上がって物を取るだけで感心されるのは猿や子供だけである。主人公をそのように見るのでない限り、この手の作品には興醒めすることになろう。
     一般に主要人物が持つ奇矯な人格、趣味、立場、言動は「オタク」、「ニート」、「ハイテンション」、「変態」、「奇人変人」等のキーワードで暗示されるが、これらの要素をわざわざ特徴として押し出す作品に面白いものは少ない。これらを強調する作者は、オタクのこともニートのこともまるでわかっていないことが多い。わかっているとしても、まともに描く気がある者がどれだけいるかは甚だ怪しい。彼らが描くオタクや変態は、大体において、アニメ、漫画、ゲームの話に過剰反応し、胸、尻、太腿のような性的部位に興奮し、獣耳、体操服、スクール水着、ニーソックス等の小道具に執着するだけであり、単に漫画やアニメやライトノベル、それとマスコミが作り上げたステロタイプをそのままなぞった存在である。ニートにしても、就学も就職もしていないオタクや変態、或いはただの失業者でしかなく、これもまた低能や無職の根拠にしかなっていないことが多い。いずれについても個性どころか理解すらない。要するにこの手の設定は、主人公が専門家めいた――それでいてウィキペディアや書籍の受け売りに過ぎない点で専門家に遠く及ばない――深い知識を持っていたり、社会常識や社会性を欠いていたり、突拍子もない行動を取ったりすることの免罪符に過ぎない。もっと踏み込んでしまえば、まともな人間を動かすだけの見識を持たない幼稚な作者が、自身の無能を糊塗し、自分は敢えておかしな主人公を描いたのだと言い張っているのである。こういう作者は、作劇に行き詰まるとオタクや変態の異様な思考や行動で物語を動かそうとし、貧弱な内容をオタクや変態のステロタイプな漫才で精一杯膨らませようとするものだから、結局のところ、彼らの書くものは浅薄で強引な作品とならざるを得ない。わざわざ読むほどのものではない。
    「平凡」、「普通」、「目立ちたくない」、「何の変哲もない」辺りは文脈によるので一概に言えない。これが主人公の出自や境遇、言い換えれば出発点に関するものであれば、物語のお約束であるため目くじらを立てることもない。英雄譚の主人公はしばしば平凡な庶民である。平凡な高校生という触れ込みの主人公が本職の軍人達を手玉に取る知略や腕力を発揮するようないわゆる「平凡詐欺」も少なからずあるが、物語を動かす上での必要悪であることもあれば、そういうギャグを意図することもあるため、一絡げに斥けるのは得策でない。あまりにも度を越していなければ目を瞑るのもよかろう。しかし、主人公の行動や展望、即ち物語の展開に関するものである時は注意が要る。力に付随する責任という弱者道徳的な考え方があるが、その観点から言えば、主人公には有する力で物語を盛り上げる責任がある。平凡でありたがる主人公はその責任を放棄している。英雄願望や自己顕示欲は適度にあった方が良い。正体を隠した覆面騎士を志すのもよいが、功績を盗む騙りの存在を許すべきではない。それはお人好しが過ぎて食い物にされる者を見る時の苛立ちを読者に与えてしまう。最低限の承認欲求を満たすためには、誰かしら理解者を持ってもおくべきである。それも、できれば同じ英雄や権力者、偉才など何らかの大人物であることが望ましい。それが無理ならば、せめて仲間内では知られた存在である方がよい。本当に誰にもその活躍を知られないのでは爽快感が乏しい。しかし、そうであってもそれらはまだ劇的な物語として成り立つ。問題は本当の意味で平凡を志す場合である。まず、話題と矛盾するようだが、本当に平凡であろうとすることがそもそも皆無に近い。少なくとも、主人公の主観ではどうあれ、読者視点からは主人公が平凡な生活を目指しているとは到底感じられない。口先や心情描写でこそ平穏が一番、平凡でありたい、自分は平凡な人間であるといったことを主張するが、実際の行動は平凡な生活を求める者ならば絶対にしそうにないことばかりである。平凡平凡と馬鹿の一つ覚えに言いながら、力を誇示し、騒動に加わり、喧嘩を売って回る。最初から自己顕示欲と承認欲求を剥き出しにして暴れ回ってくれる方がずっと清々しい。他方、本当に平凡であろうとする例もないではない。ただし、その方向で行くとなると、主人公の力なくしては解決できないであろう災禍を見過ごさざるを得ないが、それは物語として面白い流れではない。災禍は常に主人公が成り上がるための踏み台であるし、踏み台昇降運動は無力な一個人に過ぎない読者を慰める代償行為である。また、見過ごす選択には葛藤が伴うかもしれないが、その後に発生するであろうものも含めて一切の問題を解決しうる力量の持ち主が手を出すべきか出さざるべきかを葛藤しても、見る者は共感どころか反感を持つだけである。棚の上の皿を取ってほしいと子供に頼まれて逡巡する大人の姿は滑稽を通り越して苛立たしい。そもそも、そういう葛藤に食傷気味である者も少なくあるまい。前向きな性格をしていてあまり物事を思い悩むことのない筋骨隆々の主人公が重機関銃を腰撓めに連射して楽しげに敵集団を薙ぎ倒すようなB級映画の人気の秘密はそこにある。結局のところ、平凡であろうと心掛けるというのは現在が平凡でないことを意味するから平凡であることは論理的に不可能である上、せめて表面上の平凡を取り繕うために平凡を追求しても作劇的観点から失敗せざるを得ない。ゆえに、平凡や普通を求める作品は地雷と化しやすい。
     精神的無能を示唆する「へたれ」、「童貞」、「無気力」のキーワードはそれだけで地雷の存在を示す。第二の処方箋を論じた際に詳しく触れたのでここでは簡潔に留めるが、こういうことをわざわざ強調するのは、多くの場合、主人公が適切な行動を起こそうとしないことの予防線を張るためである。言い換えれば、主人公に適切な行動を起こさせないことで話を引き延ばし、こんがらがらせるという宣言でもある。主人公は一人前の人間として振る舞えず、物語はその無能のおかげで展開する、とわざわざ教えてくれるのだから、警告をありがたく頂戴しておくのが得策であろう。
     物語が本来持つ特徴を変質させる「巻き込まれ転移」、「転生者或いは転移者複数」、「クラス転移」、「推理合戦」等の要素が入ると、本来の期待を裏切られることがままある。ここで挙げたキーワードであれば、本来主人公が一人で担うべき役割が共有されてしまうことに繋がる。探偵物であれば、主人公乃至主要人物である一人の探偵が事件を解き明かす形式を取る。異世界転移物であれば、その本来の主眼は、異世界に放り込まれた主人公がその世界をどう渡り歩くか、若しくは一切のしがらみから解き放たれた新天地でいかに人生を切り開くかの表現にある。ところが、これらの要素が入るとそれぞれの主題が変わる。探偵が何人もいると、純粋な謎解きよりも各探偵の個性の表現が優先されることになり、推理物は単なるキャラクター物と化す。推理物の原点に立ち返れば、謎解きに取り組むのは模範解答者である探偵と挑戦者である読者だけでよい。他の探偵などは必要ない。他方、異世界転移物については、普通、転移者が複数存在するとどうしてもそれらの関係性に比重を置くことになる。全然関わりを持たないのであれば複数存在する意味がないからである。「巻き込まれ転移」や「クラス転移」ともなれば、最早転移者同士の関係を物語の中心に据えざるを得ない。このようになると、従来の世界対個人という物語上の関係性は個人対個人という形に矮小化し、世界は単なる容れ物や舞台として背景に退いてしまう。こういう物語構造の定番と言うと、「巻き込まれ転移」の場合、まず本来の転移者が優遇され、主人公は素質劣等のお荷物として冷遇されるし、往々にして転移者からも見下される。しかし、実は主人公の方が能力的に優っていたり、或いはその時点でこそ劣ってはいても、特殊な能力や優秀な成長性を持ち合わせていたりする。そして、本来の転移者を陰から支援したり、圧倒的実力を示して見返したり、或いは敵対して打倒したりする。「クラス転移」の場合も基本は同じであるが、主人公は大抵クラス内での地位が低く、中心人物との折り合いも悪く、疎んじられたり軽んじられたりしているという特徴が追加されることが多く、また常に転移前、即ち元の世界での人間関係を引き継ぐ点で毛色が異なる。この主人公もまた、素質に恵まれる同級生達の中で一人だけ精彩を欠く無能者として排斥され、軽蔑されがちである。或いは一人だけ全く別の場所に転移することもあるが、同級生達とは別行動になりやすいという点で一致する。そして、どちらの形式であっても、日本人同士で固まる留学生のように、わざわざ異世界にまで出かけておきながら、現地の人々を蚊帳の外に置き、転移者同士のやり取りに終始する。ベトナムやアフガニスタンで現地勢力を指揮して米ソの特殊部隊が暗闘するようなものと言えば少しは格好がつくかもしれないが、実際はそこまでご大層なものでもない。いじめられっ子がいじめっ子と一緒に異世界に転移して転移先で復讐する、転移者や転生者が目的や思想の違いから複数の勢力に分かれて対立する、などというのがよくある展開だが、異世界物としては何とも情けない話である。ここに江戸の敵を長崎で討つ喜びはあっても、武陵桃源の境地に至って新世界を探険する楽しみは生まれまい。異世界転移物への最大公約数的期待は転移者の異世界での活躍であり、転移者同士の仲良しごっこや喧嘩ではない。遊びも戦いも地元でやればよい。よその土地に出かけてまでするようなものではない。かけるべき言葉、浮かぶ感想は、もっと他にやることがあるだろう、である。
     これは作品ではなく作者の分析に属すものかもしれないが、「駄作注意」、「作者は初心者」などの予防線を張っているものも危ない。こういうことを書く作者の作品は本当にびっくりするほどろくでもないことが少なくない。そういう意味ではわざわざ教えてくれるのだから親切だと言える。しかし、「こういう形で小説を発表するのは初めてなので至らないところがあるかもしれません」といったように、ある程度しっかりした文章で書いてある場合はわからない。それができるだけの常識や教養があるということだから、単なる挨拶や謙遜であるかもしれないし、本当に初心者であるとしても将来性を期待できる。つまり、それだけで切り捨てるのは少し気が早い。
     二次創作物でよくある「原作未読」、「キャラ崩壊あり」、「原作崩壊」の注意書きは、作品の出来を直接説明するものではない。何でもよいから面白い作品を読みたい、或いは自分が馴染んでいる設定を利用した作品ならばよいという者には大した意味を持たない。肝心なのは内容である。だが、二次創作物の良し悪しは原作の再現度に左右されるという主張の主にとって、この注意書きは地雷の在処を示す標識となる。設定を間違えるのは許せない、シリアスなキャラクターをピエロにするのは受け容れられない、といった者は気をつけるとよい。
    「オリキャラ多数」のように複数乃至多数のオリジナルキャラクターが作品の中核を占めることを仄めかす場合も「原作崩壊」等と同様の注意を要する。こういう作品は、原作の主要人物を置いてきぼりにして、オリジナルキャラクター同士で勝手に盛り上がって勝手に話を展開していくことになりやすい。事実上、原作の設定を流用した翻案かシェアワールドと化すのである。この辺は「転生者多数」などと事の性質は大差ない。こちらは単なる「原作崩壊」よりも一層深刻な警告である。原作再現を重視しない者であっても、原作キャラクターを押しのけてオリジナルキャラクターが活躍するようでは興も乗りにくかろう。
     説明から地雷を発見する手懸かりについては以上である。

    二‐三‐二、感想から内容を量る
     引き続き、感想から内容を推し量る方法を述べる。
     読者が寄せる感想には様々な情報が含まれており、非常に有力な判断材料となる。とはいえ、感想が非公開である、当たり障りのない感想しかない、感想がまだ寄せられていないなどの事態もありうる。常に確認できるとは限らないため、過度の期待は禁物である。決して無条件に期待できるものではない。
     また、仮に感想が多数見つかったとしても、それを適切に読み解く能力を持ち合わせていなければ豚に真珠である。然るべき能力を育んでいない者には、批判的感想が多いようならば回避するといった機械的処理しかできない。
     感想を有効活用したければ、まず読書経験を積むことから始めないといけない。兎にも角にも一つの作品を読み通し、それに寄せられる感想に目を通す。これを繰り返す内に、段々と、ある傾向の内容にはある傾向の感想が付きやすいという対応が見えてくる。この対応がわかってくると、作中で何か出来事が描写された段階で、それに対してどのような感想が寄せられるかを予想できるようになる。この境地に達すると、或いは勘の良い者ならばその手前で、今度は逆に、ある傾向の感想がある時にはある傾向の内容があるという対応が見えてくる。この対応の存在は、感想を見ることで内容を類推することを可能にする。この関係を利用することにより、わざわざ時間をかけて作品に目を通さずとも、感想を少し眺めるだけであからさまな地雷を判別できるようになるのである。
     取り敢えず、抽象的な説明だけではわかりにくいので、感想から内容を推し量るということの具体例を一つ示しておく。
    「ヒロインの態度が高圧的で気に入らない。特に主人公を人間扱いせずに虐げるところが不快でならない」という感想があったとする。
     この感想から、主人公達が在籍する学校の期末試験の問題が理不尽であるという内容を推測する者はいまい。間違いとしてあまりにもお粗末であるため、当たり前のことを言っているように見えるかもしれないが、これは非常に重要な点である。この「当たり前」の判断を下すためには、感想に対して到底結びつかないであろう内容を事前に思考から排除するだけの経験と知力が必要となる。重ね重ね言うが、この一見地味な能力を無意識的に――それでありながら正確に――駆使できるようでなければいけない。
     不適切な予測を排除した後、まず浮かぶのは、ヒロインの性格が傲慢且つ攻撃的であり、主人公はひどく虐げられている、という内容である。この点から、なぜか強く出ようとしない主人公が唯々諾々と性悪ヒロインに顎で使われる話なのであろう、という推測が成り立ちうる。こういう方向性の話が嫌いならば、君子危うきに近寄らずの原則に従い、読むのをやめればよい。もしかしたら予想が外れているかもしれないが、ここで良作を取り逃がしたとしても、また別の作品で補填すれば済む。
     しかし、これでめでたしめでたしといくほど、事は単純でない。なぜならば、これは感想を書いた読者が正常な読解力と常識的な価値観と公正な態度を具えていることを前提とするからである。読者の読解力が乏しかったり、価値観がおかしかったり、態度が不公正だったりすれば、予測の正確性は失われる。読者が、露骨に示唆されたヒロインと主人公の間にある深い確執を読み落としていたり、主人公が過去に性的なものも含む酷いいじめをヒロインに行っていた事実を知ってなおヒロインは主人公に好意的であるべきだと考えていたり、単純にその作者だか作品だかを嫌っていて貶めてやろうと企んでいたりしていないという保証はない。そして事実として、このようなろくでもない読者は実在する。地雷作品に対し、こちらは地雷読者とでも呼べばよいだろうか。経験を積んで熟練するということは、第一にこの手の地雷読者が存在する可能性を念頭に置いて感想を読めるようになることであり、第二に感想自体の信頼性を見極められるようになることである。感想の信頼性は二つの方法で確認できる。第一にはその読者が過去に書いた感想を参照することであり、他の感想におかしなことが書いてあるようならば現在の感想もまた割り引いて見るべきであるとわかる。第二にはその感想自体の語彙や論理展開等に注目し、一つの発言としての良し悪しを評価することであり、これこそ最も経験を要する作業である。見るからに駄目だとわかる感想が多々ある一方、具体的にどこが悪いというのではなく総合的な印象としておかしいとしか言えないものもある。後者を見抜くのはとても難しい。この微妙な印象を嗅ぎ取れるだけの見識が必要である。これはただ場数を踏むしかない。
     このような前提を踏まえた上で、参考とすべき感想の種類とそれぞれの利用法を述べていく。個別の説明は後に回し、まずは種類だけを列挙する。見るべきは、論理的批判、感想に対する作者の回答、好評と不評の比率とそれぞれの質、読者の程度である。いずれか一つに着目するだけでもある程度の精度を見込めるが、万全を期す際は全てを総合的に勘案する必要がある。なお、批判と回答以外はある程度の数を必要とすることを先に述べておく。比率と程度は統計的要素を含むため、感想数が一つ二つ程度では有効な分析ができない。これらは数十数百のサンプルを用いて行う評価である。
     例によって一つ一つ見ていく。
     まず、感想の中で最も地雷発見に役立つのは、客観的視点を交えた論理的批判である。「つまらない」などの書き捨ての短文や「Aのような奴は嫌いなので生かしておく展開に納得がいきません」のように個人的好悪を展開批判に繋げるものは、何十何百と寄せられる感想の半分に迫るほどの多数に上らない限り――そのような批判でも大量に寄せられれば無視するわけにいかないとも言えるが――顧みるに値しない。しかし、「あれだけ自分をいじめてきた相手がちょっと頭を下げただけで赦して何事もなかったように友達になるのは展開として都合が良すぎる」とか、「盗賊を捕らえたのに説教するだけで解放するのはこういう世界で生きる者がする処置としてはありえない」とか、「この性格の人間がどうして人格者扱いでちやほやされるのか理解できない」とかの批判には見るべきものがある。こういった批判は、展開の都合で理不尽な人間関係が成立する作品であること、作品全体が「加害者」に甘いこと、主人公が斬るべき時に人を斬らない事なかれ主義であること、或いは作者の感性や社会常識が一般から乖離していることなどを暗示する。
     同様の理由で、感想に対する作者の反応や返事も参考になる。これもまた作者の常識や知性の程度を量る材料である。と言っても、こちらは内容がどうのということではない。もっと根本的な話である。端的に言えば、感想への返答が噛み合っていないようだと危ない。たとえば、「世界的アスリートが大会前日に飲みすぎて宿酔い状態で出場するなど、あなたの作品では常識的に考えるとその立場の人が絶対にしそうにないことを当たり前のようにする場面が目立ちます。異世界物やギャグ作品ならこれもありだと思いますが、仮にも現実を舞台にしておいてこれはいかがなものでしょう」という批判に対し、「ご指摘ありがとうございました。宿酔い描写は削除しました。アスリートの描き方に気をつけようと思います」という返答をする作者は頭脳か精神に不具合がある。批判の意味を理解できていないからである。馬鹿に面白いものを書ける道理がないから、こういう作者の作品に関わったところで時間の無駄にしかならない。
     好評と不評の比率とその質は、少なくともその作品が全体的傾向として肯定と否定のどちらを受けているかを手早く把握できるため便利である。肯定的感想が多ければその作品はそう酷いものではないと期待できるし、否定的感想が多ければろくな作品ではないと察することができる。しかし、馬鹿と天才に等しく投票権を与える民主主義的思考法は禁物である。馬鹿に投票権はない。この問題はメリトクラシー、即ち実力のある者だけに参政権を付与する能力政がふさわしい。ただ一言、さながらやる気のないサクラのように――本当に依頼や義理から書き込まれた感想であるかもしれない――「面白かった」としか言わない感想と、何百字にも亘って論理的批判を書き連ねた感想とが等価であるはずがないし、そのように扱ってもいけない。後者には前者の何十倍も価値があるし、前者には下手をすると価値自体がない。自身も優れた作者であるとか、巧みな批評をしてきた読者であるとか、何らかの実績のある者の感想にも高い評価を与えるべきである。肯定百、否定十の場合を考える。肯定が圧倒的に多いからと言って、良作であろうと即断してはいけない。まずは感想を何点か確認すべきである。それで肯定の感想がまともなものばかりならば期待してよい。肯定の感想に怪しげなものがあれば慎重な態度を取り、否定的感想に注目する必要がある。否定的感想に説得力が溢れていれば警戒心を喚起すべきであり、逆に説得力がなければおかしな読者がいるだけだと割り引くべきである。他方、どちらにも説得力がある時は多数派である肯定的な感想に期待しつつ、注意事項として否定的感想を気に留めておけばよい。逆にどちらも説得力を持たなければ馬鹿御用達の作品だと考えて踵を返すのが無難である。
     集まっている読者の程度もある程度までは参考になる。角が立つことを承知の上で言えば、馬鹿向けの作品には馬鹿が集まる。従って、頭の悪そうな感想が多く寄せられる作品は、そういう馬鹿を喜ばせる内容の作品であると見てよい。主人公と関わった女は皆主人公に惚れて然るべきと主張するかのように、主人公が女にちょっとした手助けをしただけで「これはフラグが立ちましたね」などと冗談ではなく本気で書き込む読者や、主人公様に盾突く者は誰であろうと滅ぶべしと主張するかのように、主人公に少し嫌味を言っただけの登場人物を指して「こいつがどんな末路を辿るのか今から楽しみです」などと書き込む読者が多数派を占めるようならば、要するにそういう作品ということになる。内容はお察しである。作者の回答次第ではある程度成熟した読者に向けて書かれた作品のごく一部分にたまたまろくでもない読者が惹きつけられただけと受け取ることもできるが、大概は回答する作者も嬉々として読者の話に付き合うので期待できない。

    三、総括
     ここまでに長々と述べてきたことは何も特別なことではない。新しいことでもない。自覚の有無は別として、鑑賞する作品を選ぶ際に誰もが自然に行っていることばかりである。言ってみれば、人間が二足歩行する仕組みを解説するのとそう変わらない。
     このように書くと、或いは書かなくても読む内に気づいて、当たり前のことを長々と書くなど馬鹿馬鹿しいと読者は思うかもしれない。
     しかし、そういう読者にしても、二足歩行の研究を無意味な道楽と看做しはしないだろう。二足歩行の仕方を解き明かすことにより、人型ロボットや義足の開発が大いに進展することになると知っているからである。
     本稿の内容もそれと何ら変わらない。本稿の主眼は、誰もが何となく行っている事柄の原理を明確化し、意識的、意図的、自覚的に行えるようにすることにある。ただ何となく、漫然と行うよりも、きちんと仕組みを理解して自覚的に行う方が、何であれ高い効果を生むものである。

    物語の出発点、通過点、終着点――三点理論

     物語を旅路に見立てる時、その構造は、出発点、通過点、終着点から成る。この命題に反発する者も当然いよう。しかし、それは用語に対してであって思考法に対してではないはずである。三つの点という概念の提示は、百人の論者が百種の用語で表現してきたものに、百一番目の呼び名と姿を付け加えることを意味するに過ぎない。
     出発点とは、ある物語が――多くの場合予定された結末へと――動き出す際に妥当な初期設定、舞台背景、冒頭部分を意味する。ただし、この時点で初期設定と舞台背景を全て読者に開示しておく必要はない。読者が知らなくてよいことは作者のみが参考とする裏設定としてよく、後で知らせる方が適当であろう事柄はその時に明かせばよい。どの程度まで背景や設定を語るかも含めて冒頭部分の描き方である。
     通過点とは、動き出した物語がその結末に至るまでに描くべき或いは描きたい展開を指す。始まりと終わりも大事だが、物語を彩り、肉付けできるのはこの部分のみである。自然、この部分が最も長大になり、物語における比重も大きくなる。出発点は物語を拡げる準備に過ぎず、終着点は拡げた物語の収束に過ぎない。どちらにも話を拡げる機能はないし、その機能を担わせるべきでもない。
     終着点とは、出発点を旅立った物語が、いくつかの通過点を経て最終的に至るべき結末に当たる。ここは最終決算の場である。作品の目的であると言い換えてもよい。様々な通過点を経ることで生まれた物語の流れが、ここで然るべき形に結実する。この際、通過点一つ一つから生まれた流れや謎が、箇条書きするように一つずつ片付くと考えてはいけない。結末が与えられないまま放置された挿話や解き明かされずに終わった謎が一つ二つあっても構わない。
     このような思考法は序破急や起承転結に近い。
     しかし、この三点理論は序破急等の単純な言い換えではない。外観上或いは結果論的には確かに酷似する。仕上がった作品を見る限りでは、それが序破急の枠組みを用いたものか三点理論を利用したものかの判別はつかない。むしろ、分析者の予断に応じて答えが変わる。仮に作者自身は三点理論的思考法を持っていたとしても、序破急によるものと決めつけて眺めてしまえば、序破急の組み立てをしくじったという分析結果に至る可能性がある。
     それでも、実は両者は全く異なる理論である。最もわかりやすい相違は、序破急があくまでも作劇を取り扱うのに対し、三点理論が用意すべき設定をも考慮する点にある。
     作劇面に限っても、失敗した序破急に見える可能性があると述べたことが暗に示すように、その用途と機能は全く異なる。
     序破急は合理的な作品構成を試みる際の思考法である。理想的な構成、合理的な構成という暗黙の手本がまずあり、それに沿って場面や小道具の配列を構想する。当初の構想に不合理な点があれば模範に合わせて修正することになる。このような書き方をするとわかりにくいかもしれないが、つまるところ、ある場面が構成上無駄であるとして、なぜそれが無駄であると判断できるのかという風に考えれば呑み込めよう。無駄であると言うためには無駄でない状態を知っていなければならない。序破急の思考法を用いる時、作者は無駄のない手本と作品を暗黙裡に比較するのである。
     他方、三点理論は合理的な模範に作者の構想が先立つ。これは純粋に作者の構想を具体化するための方策である。構想が合理的でなく均整を欠くとしても、それがよほど致命的なものでない限り――そしてそういう欠点は物語を破綻させるためまともな物語を書き上げようとすればどのみち自ずと直ってしまう――不合理や偏向そのものを直す役割を果たすことはない。当初の構想が余計な挿話に満ちていて冗長である時、序破急の観点からは余分を削って話の流れを正さざるを得ないが、三点理論は冗長な挿話が余計か必要かを審判することなく構想をそのまま形にする道筋を模索する。これはあくまでも作品完成に漕ぎ着けるためだけの理論である。無駄のない構成を求める時は序破急の思考法を併用するしかない。この点から言えば、序破急は「端正な構成」を理解できる程度には習熟した中級者向きであり、三点理論は構成の良し悪しすらわからない初級者と序破急から解き放たれた上級者向きである。三点理論に始まり、三点理論に帰るといったところであろうか。
    『桃太郎』を参考例として三点理論の運用法を具体的に説明すると、出発点は桃太郎の生い立ち、鬼の存在、桃太郎の旅立ちまでの流れ、通過点は三匹のお供との出会い、鬼ヶ島への渡航、鬼との戦い、宝物の獲得、終着点は郷里への凱旋と幸福な日々に、それぞれ当たる。この単純な物語に細々とした補足説明は不要であろう。ここに示した通りのものであり、他に付け加えるべきことはない。
    『竹取物語』は『桃太郎』に比べると少し複雑な物語であり、一層示唆に富む。こちらは、竹取翁とかぐや姫の出会いはもちろん、その時点では詳らかにされないかぐや姫の正体や生い立ちもまた、出発点となる。姫の命名や成長過程、貴公子達との出会いと彼らの試練の顛末、帝との交流、月からの迎えと地上の人々の反応、かぐや姫の帰還までが通過点であり、かぐや姫が残したものの始末と残された人々の身の振り方が終着点となる。注目すべきは、出発点に含まれるかぐや姫の生い立ちが、旅路の終盤になってから明かされた点である。ここには三つの教訓がある。第一に、初期設定や舞台背景は作者がその存在を認知して展開に反映させればよく、必ずしも読者に知らせなくてよい。第二に、設定の開示は物語の劇的必然性に従って行うことが望ましい。第三に、『竹取物語』が思いつきによって場当たり的に書き進められたのでなくあくまでも一貫した構想に基づいて計画的に書き進められたのであればの話ではあるが、このような驚くべき設定の開示はかぐや姫の生い立ちの事前設定なしには成しえない。
     臨機応変の即興に秀でた者は別だが、普通、物語を書き出すに当たっては、出発点、終着点、主要乃至必須の通過点を事前或いは途中で可能な限り設定しておくことが望ましい。
     創作者が作品を完結させる前に挫折する理由の多くは、気力や時間の欠乏か計画性の欠如である。気力や時間の不足やそれが何を招くかを詳しく説明する必要はあるまい。計画性がないとはどういうことであり、いかなる失敗として表れるかは少し触れておくべきであろう。出発点をきちんと固めておかないから書き出しでいきなり躓いて終着点はおろか通過点にさえ辿り着けない。終着点を見据えておかないから、単に物語が際限なく続いて終わりが見えないだけでは済まず、そもそも進むべき方角がわからないので話も進まない。通過点を定めておかないから、どこに行きたいかがわかっているのに、予定する終着点への進み方がわからない。概括するとこういうことである。
     気力と時間の不足は如何ともしがたい。気力は環境によって殺がれることがあり、時間は必ずしも本人の都合で割り振れるものではない。どちらも本人の意思ではどうにもならない面があるので、これらによる挫折の回避は簡単なことではない。たとえば、批判的感想が殺到すれば書き続ける意欲が失せても仕方がないし、勤務先が急に倒産したら職探しが忙しくて執筆どころではあるまい。
     しかし、計画性の獲得と発揮は純粋に当人の意思の問題である。計画的行動を心掛けるようにすれば、最初は煩わしいかもしれないが、我慢して続ける内に習慣化し、ごく自然にこなせるようになる。計画を立案したい者は、もし立て方を知らないようならば立て方をまず学んだ上で、事に取りかかる前に考えを巡らせるだけでよい。面倒臭いと感じる物臭な心は捻じ伏せなければならない。計画立案の基礎を知っていれば、大学ノートの半ページにも満たないささやかな計画書を纏めるだけでも随分と変わるものである。無論、実際に手書きで行う必要はない。パソコンのエディターでもスマホのアプリでも鉛筆と藁半紙でも、本人が使いやすければ道具は何でもよい。あくまでも物の喩えである。
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    近年の創作物における魔法の傾向とその是非――体系化と即物化

     日本での初出はもう五年も前になり、今更という気も大いにするのだが、N・K・ジェミシンという海外の作家が「『魔法』と『魔法を変えたもの』」について書いたコラムを抜粋した「魔法にシステムは必要か ― 西洋ファンタジー界に起こりつつある異変【コタクベスト】」という記事が不意に思い出されたので、この中で提起された問題を改めて考えることにした。ジェミシンとは『空の都の神々は』の作者である。『空の都の神々』でも何でも作品を数十ページ読めばわかるが、その作風は、押し出されるジェンダー論や人種差別問題が鬱陶しいところを除くと、伝統的――この言い方に何か差し障りがあれば古風――な部類に属す。古き良きファンタジー、トールキンからムアコック辺りの潮流を受け継いだような匂いがする。それは即ち、前近代以前の伝説、民話、神話の類の血を色濃く継いでいることも意味する。ただし、小説として面白いものに仕上がっているかどうかという実態は賛否が大きく分かれると思う。そのくらいには欠点が多い。類型的な展開や鼻につく主張、女性的感性をご都合主義的なまでに反映した内容など、一つの作品として見るとお世辞にも良質とは言いがたい。トールキンやムアコックにも当然作風上の欠点はあるが、それはハンバーグの濃厚な肉の味わいのようなものである。人を遠ざける欠点にもなるが、肉が嫌いならばどうしてハンバーグなど食べるのかと不思議がられるような、そのものを特徴付ける特質でもある。挽肉に混ぜ込まれた豆腐のようなジェミシンの欠点とは違う。多分、ウーマンリブやらフェミニズムやらハーレクインやらが好きな人以外には減点要素にしかなるまい。要するに、ジェミシンは小説に徹しておらず、様々な不純物を作中に練り込んでいる。フロド達を出迎えたガラドリエルがいきなりフェミニズムの講義を始め、ケレボルンがそれを神妙な顔で追認するようなものである。コラムの原文はジェミシンの公式サイトにある「But, but, but ? WHY does magic have to make sense?」である。なお、記事中で省略されていた部分についてはネコぶんこ「それを言うなら、ぼくはオレゴン州ポートランド出身だけど、ちかごろでは出身地はなんとなく意味がない感じがする(「誰もがミニ=モールの同じ店で買い物をするからだよ」弟のタイラーによれば、そういうことだそうだ)。」を参考にさせてもらったことを断っておく。
     このような古い記事を蒸し返したところで、そこに掘り起こす価値のある鉱脈など残っていまいと思う向きもあるかもしれない。だが、そのようなことはない。この記事そのものと言うよりも、この疑問と着眼は近年のファンタジー界隈の傾向からますます重要性を増してきたと言ってもよい。大体にして、潮流というものは、長期的には穏やかな流れに変わるとしても、短期的には時々刻々と激化するものである。僅か五年前に懸念された潮流が五年後には消滅しているなどというのはなかなかあることではない。その意味で、この論点は未だに金脈であり続ける。
     このことに納得した者であっても、散々語られてきた以上、二番煎じ三番煎じの考察にしかならないと危惧するかもしれない。しかし、その心配も要らない。本稿の考察は、少なくとも国内のインターネット上では類例のないものとなるはずである。何しろ、当該記事への過去の反応者達の書いたものとは異なり、本稿ではJ・G・フレイザーが研究し、A・クロウリーが実践したような実在の魔術や神秘主義の観点を導入する。現実の魔術と架空の魔術の相違と類似の比較を通じて、魔術という概念が持つ性質を考察しようと言うのである。構成としては、まずジェミシンの主張の検討から始め、次いで魔術が体系化する必然性を論じた後、魔術に対する認識の変化をジェミシンとは別の方面から指摘して論を結ぶ形を取るつもりでいる。

     早々に本題に入りたいところではあるが、それに先立ち、ジェミシンのコラムの内容を検討する。なぜそのようなところから入るかと言えば、この記事に対する日本のインターネットの反応があまりにも酷いように思えたからである。もちろん、中にはごく真っ当な受け取り方をした人もいることだろう。しかし、僅かに四十二件しか見つからなかった記事タイトルによるGoogle 検索結果から関連のありそうなものを見てみたところ、ジェミシンが大上段から振り下ろした刀を真っ向から受け止めた者はほぼいなかった。そもそも間合に入ろうとしなかったり、間合に入っても受け流してまともに打ち合おうとしなかったりしたのである。
     彼らはジェミシンの発言か論点の少なくとも一方を誤解した。
     まず発言に関する一番甚だしい誤解は、ジェミシンを体系化の否定者と受け取るものである。文章を斜め読みせず丹念に読めばわかるが、ジェミシンは魔法に「論理」が存在すること自体は受け容れている。このコラムで問題視しているのは、どちらかと言えば体系やシステムの在り方とそれへの向き合い方である。
    『指輪物語』や『ゲド戦記』への賛辞には、二作品が包含する魔法の論理への賛辞が多分に含まれる。ジェミシンはこういった超自然的或いは超常識的な論理であれば許容すると見てよい。だからおそらく、フレイザーが『金枝篇』で要約した呪術の論理はジェミシンの理想に適うものであろう。占星術の理論も関心を惹くに違いない。黄金の夜明け団やクロウリーの理論も『七七七』の照応表などは気に入るのではないかと思う。また、ムアコックが描く呪術的な魔法、ゲーテが『ファウスト』の中で描いた中世ヨーロッパの黒魔術、御伽噺の妖術を彷彿させる魔法、シェークスピアが『あらし』の中で描写してみせたプロスペロの神話的魔術なども好みに合うだろう。
     ジェミシンが疑念を表明したのは体系化や論理性そのものについてではない。第一には物理学的論理に根差した魔法体系であり、第二にはゲームシステムの一部と化した有限且つ計量可能な魔法観であり、第三には物理学的論理やゲーム的論理に囚われて独創的な魔法を構想し、甚だしきは物語構築を二の次にして魔法の設定を練る作者達の姿勢である。
     ジェミシンは簡潔に書き流してしまったのでここから先は解釈に基づいて勝手に内容を膨らませていくことになるが、多分そう的外れなものではなかろう。
     ジェミシンが嫌がる論理とは、各種保存則がどうであるとか、論理的矛盾がないとか、全てを説明可能であるとかといった自然科学的なものである。これが神学的論理や超自然的論理、或いは『不思議の国のアリス』などに見られるような超論理的論理であればジェミシンも文句を言うまい。事実、一つの指輪の鋳造には当然何らかの秘教的知識体系に基づく技術が必要であったろうし、ホビットが魔法的影響に抵抗力を持つというのも一つの規則ではある。だが、指輪に分霊を籠める方法が人智で理解できる形で開示されたわけではないし、ホビットの抵抗力もホビットの体内にある特殊な臓器が云々、体を構成する第七元素が云々などという形で示されたわけではない。そこには現実的尺度による核心的或いは詳細な理論化を拒むものがある。また、ジェミシンは多分占星術も好きだろうと書いたことを例に、別の側面からも触れておく。ジェミシンは占星術師が獅子宮の子供に王者の資質を認めるという物語上の論理を楽しむだろうが、作品が十二宮の影響力の正体を太陽が発する磁気に求め始めるようになるや否や反感を持つだろう。
     第二の点として、有限且つ計量可能な魔法という概念が具体的にいかなるものであるかを推測する。おそらくそれは、火球の魔法は打撃力を十有し、ある登場人物はそれを二回でも四回でもなく三回受けた時点で必ず生命力が尽きて死亡するが、適切な防御姿勢を取れば五回まで耐えられるので、戦うのであれば最初は二回まで攻撃して以後は攻撃と回復を交互に行い、耐えるのであれば五回火球を受けた時点で回復を行うようにすればよいとか、火球は消費魔力一単位当たり十の打撃力を持つから三単位を消費すれば一撃で相手を焼き尽くせるとか、打撃力五十の魔法は防御されなければ作品に登場する全ての敵を一撃で倒してしまうほど強力だから消費魔力を高くして多用できないように設定するとかといったものであろう。この魔法観の下では、当たり所が良ければ軽い火傷で済み、悪ければ一度で消し炭になるとか、腕を軽く振るだけで何の代償や制約もなしに敵対者を殺してしまうとかは、結果の予測を困難にしたり、戦力の均衡を破綻させたりするため、到底許容しえない。ジェミシンはそれに対し、魔法とは必ずしも結果予測が可能なものではないし、何らかの勝負や競争を成立させるために調整を受けた技術でもないと反発しているのではないかと思う。
     第三の点、創作者の姿勢についても解釈を述べるが、これは創作者の端くれとして何とも耳の痛い指摘である。ここでは、有限且つ計量可能な魔法にあまりにも慣れすぎたためにか、魔法とはそのようなものであると了解してしまい、そのようにしか魔法を描けなくなった作者や、面白い物語の構成ではなくそのような魔法体系の構築が目的になった作者の傾向に苦言を呈している。これはアメリカの作家が周囲の作家志望者達を見た際の嘆きだが、この問題は洋の東西を問わない。百聞は一見に如かずと言うように、実情を目の当たりにする方が早かろう。記録として閲覧できるという意味では、インターネット上の掲示板や交流サイトを覗いてみるとよい。自分では何一つ決断できない連中が展開の相談をしていたり、作品を書きもせず設定ばかり捏ね回している連中がご自慢の設定を披露し合ったりする様子をうんざりするほど確認できる。また発表されている作品にしても、Google を以てしてもその作品にしか見つけられない独創性溢れる造語が満載の、多大な時間と労力を籠めて練り上げられたであろう魔法設定を擁していながら、肝心の魔法はただの拳銃やナイフ程度にしか扱われておらず、物語の本筋に一切関わらない、というものが珍しくもない。それが第三宇宙から阿頼耶識機関を通じて引き出したアカシャエネルギーをギルデンスターン理論の応用によって現象に変換することで生じる何だか小難しい電気的エネルギーであろうと、呪文によって使役する精霊が発する既視感のある古典的なファンタジー電流であろうと、一切影響の生じない物語構成なのである。無論、そうであっても世界の在り方や生活様式に応分の変化は当然生じるはずだが、それもやはり、エネルギーの供給源が精霊であろうと第三宇宙であろうと実のところ大差ない。この点に関して言えば、もうかなり古い作品だが『スレイヤーズ!』にはすばらしいところがあった。魔法の設定が簡潔であったのもそうだが、その魔法の使い方もきちんと展開に織り込んでいたのである。作中で一般に最強魔法として知られるものに「竜破斬」と書いて「ドラグスレイブ」と読む魔法があるのだが、これには魔王の力を借りて放つという設定がある。この竜破斬の扱いがうまかった。復活した魔王に向けて放つもこれが魔王に自分を傷つけてくれと頼むに等しい愚行であるという理由から無効化されてしまったり、逆にこれを用いて魔王を倒すことで魔王自身が滅びを望んでいたことを明らかにしたりするなど、設定が物語に密接に関わっていたのである。これはゲーム的な魔法の中では大分ましな例であると思う。なお、ジェミシンのこの主張は賛否あって然るべきである。緻密な魔法設定を好むということ自体は、ジェミシンが幻想的な魔法を好むというのと本質的に変わらない。これは好みの問題である。その上、先ほどの説明で言えば、精霊の使役という使い古された説明不要の設定をあの小難しい設定に入れ替えたとしても展開上何ともないということでもある。すると、寒さを凌ぐのに赤いコートを着ようと青いコートを着ようと非難される謂れがないのと同じことになる。要するに複雑に組み上げられた魔法システムとはカードゲームなどで言うフレーバーテキストなのであり、フレーバーテキストよりもゲーム作りに力を注いではどうかという意見自体はもっともではあっても、フレーバーに力を注ぐことやフレーバーの在り方自体は個人の勝手なのである。ゲームを楽しむよりも設定資料集を読み耽る方が好きだという者もいる。この点はまさに「愚痴」以外の何物でもない。
     推測に推測を重ねた形となったが、ジェミシンのコラムの主旨はおおよそこのようなものと解釈してよいはずである。
     次に論点の話をする。論点への勘違いで最もよく見かけるのは、ファンタジーならではの魔法の魅力を訴えるジェミシンに対し、作劇上の観点から為される反論である。魔法が一貫性のある体系を持ち、可能不可能という制限を持たなければ物語は際限のないご都合主義に突入してしまう、という類の反論をする者は二つの間違いを犯している。第一に、ジェミシンは作劇上のことを問題にしていない。それどころか、物語を成立させるためだけに為される調整に反発している。ただしこの点は、特に原文に目を通した際に言えることだが、ジェミシンの書き方も悪かった。自身の執筆体験を引き合いに出すことにより、創作論が議論に混ざり混んでしまった。これが創作論的な議論を惹起することに繋がったのである。閑話休題。第二に、明文化された制限のない魔法が登場する物語などごまんとある。『アラジンと魔法のランプ』では魔人に不可能はないかのように描かれるし、『ヘンゼルとグレーテル』に登場する森の魔女もいかなる力を持つのか判然としないが、それを踏まえた上で物語は成立する。本当に何でもありの魔法では物語が成り立たないというのは作者の構成力の欠如の露呈に過ぎない。魔法に制限を設けなければ成立しない物語があるのであって、魔法に制限を設けなれば物語が成立しないのではない。この種の論理の転倒は、おそらく視野狭窄と思考停止、ジェミシンの表現を借りれば「マクロ・モード」の為せる業であろう。
     ジェミシンのコラムを読み、何らかの感想や意見を述べる上では、最低限これらのことを踏まえておかねばならない。
     受け取る側のこうした不備を指摘したことでコラムに関する論述はほぼ終わったのだが、まだ補足しておきたいことが残っている。先ほど踏まえておくように勧めた事柄を把握しているだけでは、本質的な議論を望むべくもないのである。これだけでは結局創作論の戦いにしかならない。魔法を巡る議論はある一つの小道具を巡るものに矮小化されてしまう。もし本当に創作物における魔法を云々したければ、現実の歴史の中に存在する魔術を持ち出す必要がある。要するに、創作における魔術の源泉は現実の祭司や魔術師が担った特殊な知識或いは技術の体系である。分流の水質検査を厳密にしたければ源流の調査を怠るわけにはいくまい。それと共に、水質の変化を追いかける上では分流同士や上流と下流間の比較調査も必要になるから、今槍玉に挙がっている現代ファンタジーのみならず古典ファンタジーにも当たらなければならない。つまり、この種の議論を本当に実りあるものとするためには、魔術側では最低でもフレイザーやクロウリー、ファンタジー側では少なくともトールキンやル=グウィンやムアコックくらいは知っている必要がある。と言っても、これは単に須らくそれらを読んでおくべしということではない。この著者達の主張を理解できるだけの素養を持つべしということである。翻って今までの論客達の状況はどうかと言うと、ジェミシンはきっと問題ないだろう。読書歴の実態は不明だが、少なくとも古典ファンタジーは一通り読んでいるようだし、魔術関係の書籍も『金枝篇』くらいは押さえていると思いたい。魔術理論の方はわからないが、もし触れているとしたら、作風から察するにクロウリーではなくダイアン・フォーチュンのような気がする。クロウリーの思想が男性優位であるのに対し、フォーチュンは平等寄りの女性優位であるし、ジェミシン好みの心理学的理論も取り込んでいる。一方、日本でコラムの抄訳を読んで何らかの反応を示した人々の大半は、感想の中身を見る限り、その大部分はトールキンもフレイザーも読んだことがなさそうである。クロウリーやフォーチュンに至っては尚更見込みがない。まともな議論が成立しなかったのは無理もない。この意味で、現実の魔術に光を当てる本稿の試みは、ジェミシンの憤懣とそれを読んだ者達の無理解とを和解させる上で例のない効用を期待できるのではないかと思う。

     それではここから本題に入る。まずは魔術が体系化されていくことについて論じる。
     近年、冒頭で示したジェミシンのコラムのように、創作における魔法の取り扱いに異議を唱える声が上がっている。古典的な魔法と比較し、近頃の魔法は体系化即ち科学技術化が激しく、往年の幻想性が失われてしまった、という不満を抱える人々がいるのである。彼らの言葉を要約すると、魔法は人智を超えた不可思議なものであり、常識的な規則を持たず、理論化や解析は不能、一部の者にだけ開かれた神秘の領域であるのだから、科学技術のように体系化しては興醒めする、といった主旨になる。多少譲歩し、魔法が科学的なものであってもよいが、それは作中の魔法使いだけが心得るのみで、非魔法使いや読者の視点ではブラックボックスであってほしいと考える者も中にはいる。要するに、規則性を分析し、再現性を持たせて一般化する科学的思考の持ち込みを嫌がっていると見て差し支えなかろう。彼らにとって魔法とは、全てが謎に包まれた神の御業か同程度の奥義を修めた達人によってしか再現できない芸術であるべきものであって、科学的に分析できる現象であったり、あまつさえ万人が共有できてしまう知識や技術であってはならない。彼らの考え方は多分に神秘主義的である。現実の魔術思想で言うところの神秘主義もまた、超自然的存在や現象の理論化を嫌う。補足すると、この点は世界の真の法則を理解して世界に影響力を及ぼそうとする魔術主義と異なる。
     こういう人々が理想とする魔法は、『指輪物語』、『エルリック・サーガ』、ダンセイニ卿やラヴクラフトの作品、また種々の童話等に出てくる限界の見えない曖昧模糊とした神秘的現象及び技術なのであろう。一方、TRPGを始めとするゲームやその影響を受けた創作物によく見られる、解析され尽くして神秘の衣を剥ぎ取られ、一定の枠に押し込められたようなものは、既に述べた通り彼らにとって憤懣の対象である。神秘と体系の比率で言えば、『ハリー・ポッター』辺りが彼らの納得できる限界ではないかと思う。
     こういう魔法が良いと思うのは個人の好みの話だから非難するようなことではない。また、創作物で扱われる魔法からこの種のものが駆逐され、厳密に科学化された魔法が界隈を支配するようになっても面白くないと思う。しかし、これこそが魔法であり、そうでないものは邪道であると断ずるのは行きすぎである。
     しかも、彼らにとって一層決まりの悪い事実もある。この手の主張者が体系化されざる魔法の模範として引き合いに出しやすい作品は既に取り上げた『指輪物語』等なのだが、これらに登場する魔法が体系化と無縁であるかと言うと、実はその反対なのである。特定の素養の持ち主や一部の社会階級の間に限られることも少なくないが、それは即ち、特定の集団や種族の中で知識や技術が共有され、研究されていることも意味する。実際、ガンダルフやエルリックは魔法の作用や原理をある程度語ることができる。そして説明可能である以上、そこには一定の法則や再現性が存在する。この点について言えば、魔法に付き纏う体系化や理論化は、有無ではなく多寡で論じざるを得ない。体系化と理論化は不可避である。
     J・G・フレイザーの『金枝篇』も体系化と理論化を必然と見るこの主張に同意する。フレイザーによれば、魔術――日本の学界では Magic は「呪術」と訳される――とは科学の前段階、未発達の科学とも言うべき代物である。魔術と科学は、自然には一定の規則があり、且つそれは人間の手で制御可能であるという認識を根底に持つ点で一致する。違いは、重病人を治療する時に、病人に取り憑いた悪い精霊を追い出すために周囲で喧しく歌い踊るか、症状に合った薬を投与して安静にさせるかという処方箋にある。試みにそれぞれの主張を並べてみる。前近代的魔術の理論では、病気とは悪い精霊の憑依がもたらす副作用であるから、病人から精霊を祓うことができればそれに伴って病気も治まる。現代科学の理論では、病気とは病原菌や何らかの毒素、心身の負担、栄養の不足等の要因から発生する心身の不具合であるから、その原因を取り除くことができれば治まる。魔術師と医学者の主張が、内容は大違いであってもその思考法においてそうかけ離れたものではないことがこれでわかる。
     また二十世紀最大の魔術師と謳われるアレイスター・クロウリーは、魔術を定義するに際し、「科学(Science)にして芸術(Art)である」と表現している。この場合、科学は体系化して共有できる客観的なもの、芸術は体系化も共有もできない主観的なもの、と受け取っておけば間違いではない。クロウリーに言わせれば、魔術には理論として体系的に共有できる部分と、芸術として個々人が体得するしかない部分とがある。この説明はガンダルフやエルリックが用いる魔術の特徴を見事に言い表している。彼らの魔術が彼らとその同輩にしか理解できず、余人には真似ることさえできないとしても、そこには彼らなりの理屈や研究がある。
     フレイザーやクロウリーの発言に権威や価値を認めるかどうかは受け取る者それぞれの自由である。事実、彼らには賛同者もいれば反対者もいる。決して完全無欠の理論家ではない。しかし、彼らは箸にも棒にもかからない有象無象ではなく、片や大学者、片や大魔術師として歴史に名を遺した人々であり、論拠としてであれ敲き台としてであれ反面教師としてであれ、今も引き合いに出され続けている。このことは、必然的に、魔術を論じる際に彼らを避けて通るわけにいかないことを示す。ジェミシンのコラムがまともな反応を招かなかった理由を推測する際にも触れたことだが、倣うにせよ逆らうにせよ、クロウリーやフレイザー或いは彼らの系譜に連なる見解を出発点として初めて議論が成立する。
     ところが――話が戻ることになるが――魔法かくあるべしと主張する者達の多くは議論の段階に達することすらなく、自作の中では魔法をこのように扱っている、自分はこういう表現を好む、という自己紹介の時点で足踏みしている。彼らの発言や主張は、魔法という既存の概念を分析するものでありながら、既存の議論を一切顧みない形で為される。主張内容を読む限り、敢えて無視しているのではなく、そもそもそういった予備知識が全くないように感じられる。多分これは偏見ではない。と言うのも、ジェミシンのコラムへの反応を取り上げた際に示したように彼らは、およそ客観性というものを持たない自己紹介に終始するか、例の作劇上の見地から意見を述べるばかりなのである。また魔術の体系的設定を求める者達が紹介する設定案にしても、まさにジェミシンが忌避したようなもの揃いである上、「魔術」や「魔法」という実在の用語からかけ離れるあまり、敢えてその題目を当て嵌める意義があるのか疑わしい。魔術というものをまともに取材したことがないからこその傾向であろう。彼らは新紀元社辺りの概説書の一、二冊も読んでいれば取材をこなした方であり、大概はライトノベルやウェブ小説から魔術の――体系的知識ではなく――描き方を学び取っただけであるに違いない。繰り返しになるが、このような問題に取り組む者は、まず『金枝篇』と『魔術――理論と実践』くらいは読んでおくべきであろう。
     一応断っておくと、現実の科学史、思想史、文化史の文脈を無視した全く新奇な魔法概念発明の試みを非難するつもりはない。伝統に則るべきであるとも言わない。しかし、車輪の再発明は個人的成果ではあっても社会的成果ではないから、まず勉強して車輪の存在を知った上で、独自に車輪を発明できる発想力を活用する方が効率的である。また、個人の意思表明ではなく共有概念への提言であるならば、まず修正案の対象となる共有概念を一通り把握していく必要がある。ボクシングはグローブを使わず素手で戦うべしという意見の持ち主がいるとして、それが単に素手の殴り合いを観たいという嗜好や願望に過ぎなければそれでよい。素手の殴り合いの魅力を思う存分語ればよかろう。だが、自身の嗜好ではなくボクシングという競技のあるべき姿を論じようというのであれば、ボクシングのルールや歴史を概観し、ベアナックルやパンクラティオン、或いはより原始的な太古の格闘がなぜ今の形になったのかをよく考察することから始める必要があろう。そうでなければ主張は独り善がりの信仰告白に終わる。
     閑話休題。
     魔術の体系化と理論化の必然性について、フレイザーやクロウリーが核心的な示唆を済ませたことは既に書いた通りである。予備知識を蓄えた上で彼らの著書に目を通せば、自ずとそういうものであることが理解できることと思う。以下では、彼らのお墨付きを得た結論を先に示した上で、具体的に魔術がいかに体系的なものであるか、及びいかにして体系化されるかを示していく。
     そもそも、魔法及び Magic の由来を見ればわかる通り、魔法は法則や技術と無縁ではない。今では妙技だの妖術だの魔女術だのと呼び分けられるようになった Wizardry や Sorcery や Witchcraft にしても、言葉の意味や由来を考えれば結論は同様である。なお、「魔法」と「魔術」を殊更に区別しようとする者も多いが、元々は Magic をどう訳したかという違いに過ぎず、意味的相違は本来存在しない。大体にして、剣術と剣法が混在しつつ同じことをしていたり、戦術と戦法の意味合いが旧陸海軍に限っても食い違っていたりするように、日本の熟語では法と術に一定の区別がない。その言葉を作った者の胸三寸で決まる。手法と手術のように明らかに意味合いの異なる使い分けもあるにはあるが、これはそもそも、method と operation といったように異なる意味を持つ単語であり、事の性質が根本的に違う。従って、訳語の場合はまず原語の意味を尊重すべきであり、共に Magic の訳語である魔法と魔術の区別などは真面目に考えるだけ馬鹿らしい。法と術の区別は、まさにそれを区別したい者が後付けしたものか、字面が違うのだからきっと意味も違うのだろうと考えた無知な者が想像力だけで決めつけたものである。TYPE-MOON という一同人サークルの作中設定をさも正式なものであるように語り出す者がいれば、法というのは法則だから魔法とは法則そのものを指し、魔術はそれを取り扱う技術を指すなどと勝手な定義を持ち出す者もいる。しかし、Magic はそういうものではない。魔術、魔法、呪術など様々な訳語があるが、それらは認識する側の印象の問題であって本質的違いはない。少なくとも、妖術 Sorcery や魔女術 Witchcraft と Magic との間にあるような原理や由来の違いは存在しない。もし魔法と魔術に根本的な性質の相違を持たせて区別したければ、従来の Magic とアレイスター・クロウリーが提案した Magick でも対比すればよい。これは「マギック」と発音する。世間に普及しつつも意味が陳腐化及び混乱した旧来の魔術や魔法と、自分達が研究する本当の意味での魔術とを区別しようとして、クロウリーが新たに採用した言葉である。クロウリー版の Magick は単なる Magic の異形ではない。末尾のKも決していい加減な思いつきではなくちゃんとした意味がある。アルファベットの十一番目の字であるとか、カーマやカーラやカーリーの頭文字であるとかの説明は、話が脇道から脇道へと際限なく寄り道してしまうので今は仄めかすだけに留める。Magick という術語の解説をする機会を俟ちたい。ともあれ、「科学にして芸術」という意識がクロウリーにある以上、Magick に術の字を与えるのは的外れな訳し方ではなかろう。
     訳語としての「魔法」の語源に話を戻す。これは仏教に由来し、理の法に対する魔の法を意味する。教学的な文脈ではもう少し詳細且つ厳密な説明をしなければならないだろうが、ここでは単純化し、理の法は本来この世を動かす法則や道理であり、魔の法はそれとは異なる法則や道理であるとだけ述べる。理や魔というそれ自体に特殊な意味や印象のある言葉を一旦取り去り、中立的に表現すれば、それぞれはサッカーのルールとラグビーのルールに当たり、現在は世界総出でサッカーの試合をしているところである。魔法の使用は突然ボールを抱えてゴールに向かって走り出し、しかも反則を取られずに済むようなものと看做せる。多分、ここには審判の買収やごまかしの技法も含まれており、その辺りの備えを怠った不用意な魔術師が天罰を受けたり火炙りにされたりするのだろう。魔法とは異なる法則であり、その使用は異なる法則の導入なのである。
    「魔術」については既に述べた通り、「魔法」と同じものである。ただそれぞれを独自に訳した翻訳者達が、いずれの字を当てるかで意見を異にしただけに過ぎない。「魔」の解釈は「魔法」のそれと変わらない。これもまた異常な法則の導入である。
     なお、 Magic という語に目を向ける前に注意しておくべきことがある。ここには通常のルールと外部のルールという線引きが暗黙の前提として存在するが、この意味での魔法という概念を存在させたければ、この前提を堅持しなければならない。
     前提を崩す、つまり区別を曖昧にしたり、垣根を取り払ったりすると、優勢なルールが際限なく拡大してもう一方のルールを吸収し、外も内もない新たな統一ルールを形成してしまう。魔法は自然法則の一部であるのだからその知識体系と現象は自然科学の管轄下である、神の創世が魔法の賜物なのだからその内部におけるあらゆるものは魔法である、意志によって変化を起こす行為を魔術と呼ぶのだから全ての行為は魔術である、といった論理が好例である。
     しかし、外部と内部のいずれが優勢であるかは差し当たりどうでもよい。魔法が自然科学の一分野であろうと、自然科学が特殊な魔法なのであろうと、問題点は変わらない。今問題とすべきは魔法と自然科学の区別がなくなってしまう点である。そうすると、理法に対するものが魔法であるという定義上、魔法という概念が消滅してしまう。単純な例では、三角形を書き込んだ物体を炎上させる魔法があるとして、それを自然科学における燃焼という現象の発生条件の一種であると定義してしまえば、魔法は魔の法でも何でもなくなり、自然科学の一分野になる。逆に、自然科学上の現象を特殊な魔法現象に位置付ければ、内部と外部は一つの領域として融合し、自然科学は魔法の別名乃至一分野になる。だが、その時、たとえ魔法の名を冠していようとも、魔法は魔法であることをやめてしまう。
     サッカーのルールを改定し、ボールを抱えて走ってよいことにするようなものである。新型のサッカー或いは第三の新競技を誕生させるのと変わらない。手の使用をあくまでもサッカーに持ち込まれたラグビーのルールに留めておくためには、サッカーのルール自体は維持しなければならないし、ラグビーが主体とならないよう計らう必要もある。三角形の例で考えるならば、同じ物体に三角形を書き込んでも燃焼する場合としない場合とがある点に着目し、三角形によって燃焼が起こる特別の条件を抽出することで、その条件が当て嵌まる事例を魔法として一般の現象から区別する等の処置が考えられる。或いはもっと単純に、古典物理学が量子論を除外するように、自然科学からの魔法の除外を試みてもよかろう。この処置に唯一の正解と言えるものはない。ひとえに各作者の発想に懸かっている。
     現実に範を取るのも一つの選択肢であるため、実在の魔術思想の見解を参考にするのもよかろう。実在の魔術思想、特にエリファス・レヴィや黄金の夜明け団以降、即ち近現代のものは、世界を物的世界と霊的世界に区分して考える。その区分において魔術の活動領域は霊的世界であり、物的世界で何かしらの結果が起こったとしたら、魔術師が霊的世界で何らかの作業を行った結果なのである。魔術師が霊的世界で誰かの生命を活性化させる作業を行った結果、何らかの自然な或いは不可解な過程を経て誰かの病気が治る。医師の手厚い治療の功績かもしれないし、驚異的な自然治癒力が発揮された結果かもしれない。いずれにしても、魔術の功績を自然科学的に証明できる形で快癒することがほぼ期待できないことは確かである。このような世界観を専門用語で呪術的思考と呼ぶこともある。どこからどこまでを魔術作業に含めるかは論者によって十人十色ではあるが、基本的な姿勢は概ね等しい。これこそジェミシンが好む古色蒼然たる魔術の原理の一例であるかもしれない。
     ただし、霊的世界に干渉することで間接的に物的世界に影響を及ぼすものとして魔術を定義する時には注意点がある。このような魔術思想では、魔術作業を試みた結果として発生するものを何でも魔術的事象と看做す傾向にあるのだが、曖昧なものを曖昧なままにしておけないのが人間という生き物の悲しい性である。宗教者の態度で魔力の不可思議性に跪いていられる時間は長くない。やがてアレイスター・クロウリーのような魔術師が出てきて、魔術師自身が魔術的事象と自然科学的事象の厳密な区別を試みるようになる。クロウリーが創設した結社は名をA∴A∴という。この結社のモットーの一つが「The method of science, the aim of religion」である。この標語はA∴A∴の機関紙である『THE EQUINOX』の表紙にもあり、和訳すると「科学の方法、宗教の目的」となる。意味するところは明白である。真剣に突き詰めていくと、やがて作者はこの問題に取り組む破目になる。
     話を Magic に移す。この語源はゾロアスター教の聖職者であるマギ Magi にあると言う。マギ達の知識や作業が常人の理解を超えていたことから、マギ的であるという意味合いで Magic という語が派生したものであろう。同じく「魔法」に分類される Wizardry も賢人 Wise からの派生であると言われる。また、情報技術の分野でも、優れた技術者はウィザードと呼ばれる。
     特定の社会階級や職能集団の独占技術が大衆から魔術的な印象を持たれるのは決して珍しいことではない。たとえば古代エジプトでは、パン作りは魔術的作業と看做されていたという。発酵の原理を知らない一般人は、パン生地が膨らむ理由を魔力に求め、パン作りの技術をギルド的連帯で独占する職人達を魔術師と捉えたのである。或いは、職人達自身も、パンが膨らむ理由を神々や精霊の働きに求めていたのかもしれない。
     このように書くと、魔法は人智を超えた神秘であり、一部の特別な人々の専売特許である、という結論が正しく見えるかもしれない。だが、この結論は重要な前提を見落としている。達人達とて最初から達人だったわけではない。このことは、常人を達人に育て上げる何かの存在を示唆する。これは教育課程であったり書物であったりするだろうし、共有可能であることは、外部の者が独自に再発明可能であることも意味する。数学――余談ながらピタゴラス教団は数学に魔術性を見ていた――が好例である。各民族は数を表現するための字を独自に発明した上、程度の差はあれ計算技術を獲得した。無論これらは各民族間で互換性を持つ。ある程度文化や文明を有する民族であれば、三個の小石に二個の小石を加えると五個になるという概念くらいは通じるはずである。
     ここまで語れば、魔術の体系化に関する理屈も理解できるだろう。要するに魔術は、それがいかなる原理に基づくものであるにせよ、同業者間で共有され、師弟間で伝承される一般の手工業的技術体系と同じ性質を持つ。経験則と統計から定式化が起こり、より良い結果の希求から効率化が起こり、次第に原理が解明されて理論化が起こるのは当然の成り行きである。問題はそれがどの方向にどの程度推し進められるかにある。それによって、神秘が神秘のヴェールを剥ぎ取られてしまうか否かが決まる。現代ファンタジーでよく見られる複雑精密な魔術システムは明らかに産業革命を経ている。

     ところで、魔法の体系化の是非を争う声をよく耳にする一方、魔法の即物化即ち物理現象化を云々する声をろくに聞かない。冒頭で紹介したジェミシンでさえ――それらしい部分があるにはあるが――はっきりとは論及していない。全く奇異なことである。最近のファンタジー界隈の潮流であるこれは、幻想性を大いに損ない、魔法の特色を大いに殺ぐ動きなのだから、魔法のファンタジー性を重んじる人々はもっと敏感に反応してもよかろう。
     密室で火の魔法を乱発した魔術師が酸欠で倒れるとか、透明な結界で身を守る魔術師が有害な光線で倒されるとか、癒しの魔法をかけられすぎて栄養失調になるとか、浮遊する魔術師が括りつけられた重量物に耐えかねて墜落するとかは最早独創性の欠片もない展開だが、これはよくよく考えてみると、極めて自然科学的且つ物質的な出来事である。あまり魔法的な印象がない。このようなことが起こる時、火の魔法は酸素による化学反応に過ぎず、透明な結界は極めて頑丈な膜に過ぎず、癒しの魔法は新陳代謝の異常促進に過ぎず、空中浮遊は引力と釣り合った推進力に過ぎない。
     二十世紀末頃から、つまりライトノベルというジャンルが花開き出し、ファンタジーやSFなどの非現実的要素を含む小説の主要供給源となってからというもの、小説でこういった展開が非常に目立つようになった。とはいえ、これはライトノベル作家達の独創によるものではない。この大元はおそらく『週刊少年ジャンプ』のバトル物作品であろう。初期のこれらは単純な力押しの戦いを描くことが多かったが、段々とそれでは読者に通用しなくなり、あれこれと設定を練り、理屈を捏ねるようになった。そうして持ち出された題材には当然、魔術や心霊もあり、漫画家達の努力は、それらを無知な少年達が理解できるように噛み砕き、面白可笑しく戦わせ、奇抜な発想で決着させることに向かった。また、そういう物語を展開するのであれば、魔術や心霊もある程度物理的な属性を持つ方が都合が良かっただろう。こうしたことが積み重なった結果が、酸欠で倒れる魔術師や光線に無防備な結界である。漫画的な小説、ゲーム的な小説と看做されていたライトノベルの作家達が、キャラクターや設定のみならず思考法をも受け継いだと考えても強ち的外れではあるまい。
     こうした思考法が超常的なものや幻想的なものを大衆に浸透させ、定着させる上で大いに役立ったことは紛れもない事実である。まず、アレイスター・クロウリーの『ムーンチャイルド』を忠実に漫画化したような魔術漫画があったところで、地味すぎたり難解すぎたりして少年達の興味を惹くには至るまい。古賀新一『エコエコアザラク』、つのだじろう『恐怖新聞』、或いは諸星大二郎『妖怪ハンター』等、割合本格的に魔術や心霊を取り扱った漫画もあるにはあるが、これらはそもそもバトル物ではないし、発想も当該分野の知識体系に概ね沿う。その上、これらとて、作者達の理解や洞察がどうであるかとは関わりなく、内容自体は大分易しく控えめなものに留まる。いずれにせよ、理解しやすく印象深いというのは市場に売り出す上で大きな優位だった。また作者としても、正確な魔術描写を強制されずに済み、魔術や心霊を馴染み深い物理現象として取り扱えたことは、発想と展開の自由をもたらすことに繋がった。耐火服で火の魔法を防げるとしたら、きっと戦車の装甲でも防げる。すると、魔術師と現代兵器の正面戦闘が成立する。こういった具合である。
     しかし、過ぎたるは猶及ばざるが如しと言うように、この隆盛は弊害を伴った。作品に触れる読者達やそこから生まれる後続作者達が、ろくに取材することもなく、魔術とはそういうものなのだと短絡的に理解してしまったのである。その結果、最初期の作者達が敢えてそうしていたに過ぎないものが、いつの間にか当然の前提に変わり、即物的な魔法が主流になってしまった。
     ただし、この変遷に対して、魔術、特に現在世界的潮流を成す西洋魔術の側も、あまり偉そうなことを言えない。実在する魔術思想の側も、創作物の魔法とは違った意味で自然科学の桎梏を受けている。
     二十世紀前半の西洋魔術界を牽引したアレイスター・クロウリーは魔術を「意志に従って変化を起こす科学にして芸術」と定義した。ところが、同時代を生きた後輩であるダイアン・フォーチュンはその少し後、「魔術とは、意志のままに意識に変化を起こす術である」と再定義を行った。この定義の変遷は由々しき事態である。フォーチュンの世代に至って、魔術は完全に内面の問題に成り下がってしまった。無論、ここで言う意識に起こす変化は単なる自己啓発や自己暗示の類ではない。しかし、クロウリーに比べると限定的であることを否めない。
     しかもそのクロウリーの定義にしたところで師匠であるメイザースの「自然の秘密の諸力を制御する科学」に比べれば小粒である。一方、メイザースはメイザースで、やはり先達に比べると矮小化している。世代を重ねるごとにできるとされることが減っているのである。
     この体たらくの原因は何と言っても自然科学の進歩にある。
     まだ自然の法則が神に帰せられていた古代、魔術は万能の力であった。少なくとも、人々はそのような超常性を魔術に認めていた。悪霊が地をさまよい、吸血鬼が闇に潜んでいた頃、魔術師もまた誰の目にも明らかな力を振るっていた。ヨシュア・ベン・ヨセフはパンを増殖させ、魔術師シモンは空を飛んで力を示し、アグリッパは死体を歩き回らせ、晴明は木の葉で蛙を潰したものだった。
     ところが、自然科学が発達するにつれ、自然科学的にそのような現象は不可能或いは不可能に近いということが突き止められてしまった。科学者達は、魔術は迷信なりと宣言し、現在に伝わる魔術的な逸話は誤認か詐術か寓話の類なりと断言した。或いは決してそのようなことはなく、古代には確かにできたのに、不可解にも現代では魔法の力が失われてしまったのかもしれない。実際がどうあれ、確かであるのは、魔術師達が科学者の主張を明確に反証できなかったことである。魔術師達は、パンを増やすことも、空を飛ぶことも、死体を歩かせることも、葉っぱで蛙を潰すことも――少なくとも公衆の面前では――できなかった。
     だが彼らは魔術が虚構であると認めようとはしなかった。魔術師達の多くは、魔術儀式が直接的に物理現象を惹き起こす力を持たないことと、物理的不可能は実現しかねること自体は渋々ながら認めた。だが、依然として魔術には絵空事ではない力があることを主張し続けた。またその主張には、儀式が物理現象を直接惹き起こすことはなくとも、儀式の影響力によって所望の物理的結果を発生させることができるという新たな理論的解釈も含まれていた。
     物質世界に作用する魔術が物質的条件の制約下にあることは動かしがたい事実として魔術師達も認めるところである。物理的に起こりえないことは魔術でも起こすことができない。シルフを喚起したところで真空状態の密室に突風を吹かせることはできない。
     他方、現実に起こりうる変化であれば、物理現象であっても魔術の管轄内であると魔術師達は主張する。ただし、これもまた直接的因果関係を伴って起こるわけではない。クロウリーはとうとう「一切は自然な形で起こる」と註記してしまった。魔術の作用の客観的証明は不可能なのである。
     サラマンダーを喚起して誰かの家を燃やそうと試みたとする。魔術師シモンの時代ならば、燃え盛る蜥蜴が出現し、家屋に火を吐きかけて焼き尽くしてしまうことだろう。或いはネッテスハイムのアグリッパの頃でもそうだったかもしれない。しかし、現代では最早そのような現象が発生する見込みは乏しい。
     今の魔術理論では、サラマンダーは星幽的元素霊として星幽界で活動し、目標となる家屋に星幽的な火炎を吐きかけることになっている。首尾良く建物を星幽的に焼尽乃至燃焼させることに成功すると、しばらくしてから当該家屋が失火なり放火なり或いは落雷や静電気などの自然災害なりによって火災に見舞われ、星幽的火災被害の程度に応じた物質的被害を受ける。星幽的に燃え尽きていればいかなる手を打とうとも建物は同様の末路を辿り、被害が軽微であれば何らかの理由で火災も消し止められるであろう。具体的に言えば、星幽的に燃え尽きた家は、もし物理的にも焼け落ちやすい条件が整っていればあっさりと失われ、火災を防ぐ条件が整っていたとしたら、駆けつけるべき消防車が出払っていたり、通報してくれる目撃者が誰もいなかったり、ガソリンを満載したタンクローリーが家の前で爆発したりするなどして、神憑り的な巡り合わせの悪さを感じさせる仕方で物質的にも燃え尽きることになる。霊的階層構造の法則に従い、星幽界で起こった事象の結果が物質界に反映されるのである。ただし、いずれかの世界で結果が確定するまでは作用は双方向的であり、星幽的火勢が強まれば物質的火勢も強まるだろう一方で、物質的火勢が弱まればそれに伴って星幽的火勢も弱まらずにいられない。魔術儀式が物理的結果をもたらすのも、物理的儀式が魔術的作用を生むのも、この双方向性の為せる業である。そうでなければ、護符に印形を刻んだり儀式場を右へ左へ行ったり来たりすることが憎たらしい誰かの不幸や宝籤の当籤や病人の快復に繋がることなどありえないし、魔術が何らかの効験を持つ場合とない場合とがある「事実」を説明付けられない。
     これが基本原理であるが、更に実践的に想定すると、他の元素による干渉も考慮しなければならない。仮に魔術が湿潤な地域で雨季に行われるとすると、喚起されたサラマンダーがまずしなければならないことは、火の元素への敵意に満ちたアンダイン――それも半ば無限とすら思える大勢の――との戦いである。火蜥蜴は水乙女の大軍を突破できなければ家に着火できず、着火できた後も絶えずアンダインから火種を守り続ける破目になるだろう。すると物質界の住人達は、なぜか大雨の日に束の間火災が起こって瞬く間に鎮火したり、通報を受けて出動した消防車が渋滞に捕まることも道に迷うこともなく速やかに現場に到着して火を消し止めたりするさまを目撃することになるかもしれない。サラマンダーを派遣した魔術師が異常なほど強力であれば大雨の日に家を焼き尽くす結果を招くかもしれないし、より巧妙であれば家ではなく住人に力を及ぼそうとするかもしれない。だが、後者はともかく前者は現実的ではない。
     この概観からも読み取れたことと思うが、創作上の魔法であれ、現実の魔術思想であれ、結局は自然科学との付き合い方に苦慮しているのである。創作上の魔法は自らを自然科学的現象にすることで存在を保ち、現実の魔術は自然科学の領分から手を引く或いはその上位に移動することで存在を保った。両者の共通項は自然科学との整合性への配慮である。
     蛇足ながら、錬金術についても言及しておく。錬金術も魔術と同様超自然的な学問であるが、化学の母体となっただけのことはあり、その手法や思考法は一層自然科学的である。この点に、蛇の足として錬金術を描き足す意義がある。錬金術も魔術と似たような流れを辿ったことは同じである。しかし、その端緒がそもそも物的であったところに魔術との違いがある。元来、錬金術は即物的な目的を持つ即物的な技術体系であった。一般に錬金術師達は、卑金属に適切な物質や熱量を加えることによる貴金属の生成を目指した。この過程で化学上有用ないくつもの発見があったことはよく知られる通りである。しかし、肝心の貴金属がそれと証明される形で生成された例は公に知られる限り存在しない。結局、錬金術も自然科学に道を譲らざるを得なかった。だが魔術と同様、錬金術も往生際が悪かった。切り捨てられつつあった錬金術は二つの方向に分かれた。一方は自然科学に尻尾を振って化学という名前を与えられて生まれ変わり、一方は魔術に尻尾を振って神秘主義的錬金術として生き永らえ、「真の錬金術」を自称するようになった。現在、魔術の一分野として語られる錬金術は神秘主義的錬金術の方である。この道を行く錬金術師或いは魔術師は、錬金術の理論を一種の寓話として捉え、その目的を霊魂や物質の霊的な向上及び治療に求める。この世界観において、鉛を金に変えるとは不完全なものを完全なものに回復する行為を指し、賢者の石とは不完全な霊魂を完全なものに治療する手段を指す。錬金術の実践者であるという者達は、鉛を金に変えるという言葉を額面通りに受け取る者を嘲笑する。彼らは、即物的な錬金術は鞴を吹くだけの俗人に向けた目眩ましに過ぎず、真の達人は常に魂の問題に向き合ってきたと語る。だが、歴史的に見れば実際はその逆であり、物質世界で通用しなくなってきたから、その辻褄合わせのために本格的に神秘主義への接近を始めたのである。物質的目的を物質的手法で追求し続けた学問が夢破れたことによって霊的世界に活路を見出すというのは、ある面において自然科学が魔術に転じた事例とも言えるのでなかなか面白い。
     こうして見ると、フレイザーが仄めかしたように、魔術とは通用しなくなった自然科学の別名なのではないかという着想が脳裡をよぎりもする。そしてそれはおそらくある程度までは事実である。だが、魔術はそれだけの哀れな学問ではない。魔術は自然科学が取り扱えない或いは取り扱おうとしない領域に取り組む科学にして芸術であり、全く異なる視点と尺度で世界を量る独特の世界観でもある。
     しかし、ここまでに述べた内容は、既に述べたように、自然科学の発達に伴って物理現象としての在り方を否定された魔術が理論の修正を余儀なくされた結果である。魔術が実効性を持つ世界、言い換えれば物理法則自体が異なる世界でも同じように通用すべきであるとする理由はどこにもない。そういう世界であれば、真空状態の密室でシルフが風を吹かせてはならない理由などない。実体化したサラマンダーが火を吐いて家を焼き尽くしてもよかろう。グレイプニルの材料やファウスト博士がメフィストフェレスを嘲るために列挙した矛盾が実体を獲得して出現することもあろう。また、酸素と化合せず燃え盛る火があったり、光学的情報からあらゆる有害な作用を取り除く結界があったり、無から有を生み出して傷を塞ぐ癒しの力があったり、重量に耐えかねた魔術師があたかも空中に踏み締める大地があるかのように浮遊したまま潰れることがあったりしても、何一つとしておかしな点はない。しかも、それらには、自然科学的、合理的辻褄合わせは何ら必要ない。火の魔法を化学反応として成立させなくてもよいし、光学的情報を的確に濾過するためのアルゴリズムも考えなくてよい。失った手足を再構成する材料も、魔術師に働く揚力の正体も、自然科学と相容れなくてよい。要するに、魔法とはそういうものなのである。
     そして、それこそがジェミシンその他の古典的ファンタジー愛好者が愛するファンタジーの醍醐味の一つであろう。

    主人公が何かしら異常或いは非常識である必要性

     創作物の主人公は例外なく異常或いは非常識なところを持ち合わせていることが望ましい。完全に普通或いは常識的な人物からは面白い物語など生まれないからである。たとえば、もうライトノベルとしては古典になってしまった感があるが、「涼宮ハルヒ」シリーズのキョンが本当に当人の自任するほどの常識人であったなら、そもそもハルヒなどと関わろうとはするまい。だから、多分、ジョン・スミスも生まれない。本当に常識的なキョンを主人公に据えたとすると、シリーズはハルヒの自己紹介と共に早々に終わる。既に述べた通り、常識人はハルヒのような人間を敬遠する。異常者との交流を継続することを選ぶ時点で、その人物は最早常識人ではいられなくなる。元々普通でなかったか、普通でなくなってしまったかのどちらかである。主人公たる者は、普通の人がしないであろうことをし、できないであろうことができなければならない。或いはその逆、即ち普通の人がするであろうことをせず、できるであろうことができないのでもよい。そうでない者は敢えて主人公に据えて描くに値しない。もしそれでもなおシリーズを続けたければ、本来のキョンに当たる人物を用意するかハルヒか古泉辺りを主人公に据えるしかない。この際、キョンはモブか脇役に降格することになる。言い換えれば、どこまでも普通である人間はモブか脇役にしかなれないのである。もっとも、脇役にも個性がないと彩に欠けるため、順当にいけばモブしかあるまい。
     これは決してライトノベルなどのエンターテイメントに限ったことではない。純文学でもそうである。頭が良かったり悪かったり、経済的に豊かだったり貧しかったり、性格が良すぎたり悪すぎたり、即断即決であったり優柔不断であったり、無職だったりあまり身近で見ない職種だったり、趣味や感性がおかしかったり、とにかく世間一般が何となく想定する「普通」から外れたところが主人公にはどこかしらある。森鴎外『舞姫』の主人公は官費で洋行までする外務省のエリートである上、自制心をなくして現地妻を作って身を持ち崩しかける駄目人間でもある。近年でも又吉直樹『火花』があり、この主人公はお笑い芸人という特殊な職業に就く他、天才的且つ病的な感性を持つ先輩芸人と積極的に関わりを持とうとする。『舞姫』であれば、一般庶民では外国での恋愛物語など始めようがないし、遊び人か堅物であるような主人公でも現地妻との破滅的な恋愛には至るまい。『火花』にしても、これはお笑い芸人だからこその物語であるし、芸人になろうなどと考える者はその良し悪しは別として当然どこか常人と違っている。大多数の人間は堅実な職を目指すものである。その上、主人公は芸人の中でも、実は更に変わっている。件の先輩芸人を深く慕うというのは作中でも奇特な部類に入る。
     創作物を面白くするためには、主人公には異常或いは非常識なところがあった方がよいということの根拠はこれで示せたことと思う。これで本稿が掲げた主題は全うできたと考えてよかろう。意外なほどに簡単な理屈であり、敢えてくどくどと論ずるに値するものでもなかった。
     本当に簡単なことなのである。この程度のことには既に多くの者が気づいていたことだろう。主人公論を考察した結果この答えに辿り着いたという者も、あれこれと作品を読み比べる内に自然と気づいたという者も、いきなり真実を直観してしまったという者もいるに違いない。彼らは、本当の意味で平凡な人物など主人公として描くに値しないと知っている。多分、このようなことは誰もが知っていることなのである。中には何らおかしなところのない本当の意味での常識人が主人公を務める例もあるが、これは無知や無思慮によるまずい判断と見るよりも、主人公は異常非凡な存在であるという「普通」を逆手に取った奇策、広い意味での「異常な人物」の例と見る方が適切であろう。
     しかし、問題はその次の段階にある。異常や非常識の解釈の正否である。多くの作者は、物語にとって望ましい異常とそうでない異常の区別をつけられていない。未熟な作者、特にライトノベルやアニメや漫画のみを参考にそれらを制作するような勉強不足の連中は、取り敢えずおかしな人物にしておけば個性が出るし物語も動く、と考えているかのような作品を世に問いがちである。一応、そういう作品も受けることには受ける。だが、作者達にとっては残念なことであろうが、その取って付けたような「個性」が読者に愛された結果ではない。他の部分の魅力がその欠点を埋め合わせた結果である。それとても全ての読者に効く免罪符になりうるはずがないから、まさにその「個性」で白けて去ってしまう読者も相当数いよう。仮に運良く読者を不快にさせずに済んだとしても、浅知恵と怠慢で付与した異常などは大方類型的でありふれており、個性として読者の目を惹きつけるまでには至っていない。毒にも薬にもならない部分として、目こぼしされていると言うよりも、そもそも目に留まってもいないのである。つまるところ、異常性の扱い方がもっとうまければ、その分だけ余計に人気を博せていた可能性があるというところに尽きる。
     とはいえ、望ましい異常と望ましくない異常の区別は難しい。たとえば、毎晩男に抱かれないと眠れないという異常な性質は、官能小説や純文学にはふさわしいかもしれないが、ライトノベルとは相性が悪かろう。また、主人公が無敵の力を振るって大活躍をして人々から持て囃されるいわゆる「チート無双系」の展開を期待される作品であれば、自己顕示欲が薄く目立つのを嫌う気質の主人公の態度は目に余り、鼻についてしまうだろう。なお、異常と言うと悪いものや劣ったものを指すという先入観を持つ者も多かろうが、この言葉は常と異なるという以上の意味を持たない。平均的な小学生に腕相撲で負ける高校生も、ハンマー投げで好成績を残した室伏広治も、どちらも常人と比べて異常な存在であることに変わりはない。本稿で言う「異常」には、主人公の特に秀でた能力や肯定的に評価可能な独特の感性も当然含まれることをここで強調しておく。ともあれ、主人公の異常の性質から物語を決めるのでも、物語上の必要から主人公の異常な性質を決めるのでもよいが、その時々に応じてよく考えなければならない。結局、個々の物語との相性で決まるから、一覧表を作ってマニュアル化するのは事実上不可能或いは無意味である。
     ただし、そうは言っても、望ましくない異常の列挙は難しい仕事ではない。いかなる場合も望ましくないと言えるものは確かにある。
     筆頭にあるのは既に仄めかした浅知恵と怠慢から生まれる取って付けたような異常である。こういう異常はどこかで見かけたような気持ちになるほどに――或いは実際に他の作品の上っ面を深く考えずになぞったように――類型的であり、読者に何の感銘も起こさせないか、浅薄な描き方で白けさせる結果に終わる。オタクや変態という「個性」が代表格である。これは昨今のライトノベルやネット小説ではとりわけよく見かける。オタクや変態として描かれる主人公は多い。しかし、オタクや変態を巧みに用いる例はその分母に比してあまりにも少ない。豊富な知識や人格上の欠点を持ち合わせる理由付けとして――或いは作者自身の社会経験や表現力の不足からくる不自然な人物描写の言い訳として――オタクや変態という肩書を与えているに過ぎないことが多い。或いは本当にキャラクター性を演出するためにそのような個性を採用したと思しき例もあるが、それにしたところで、オタクならばアニメやゲームのネタを使ったり、異性とまともに話せなかったり、アニメやゲームなどの「典型的」なオタク趣味を持ったり、社会性がなかったりすればよく、変態ならば「一般に」変態的とされるものを好んだり、気持ち悪い興奮の仕方をしたりすればよい、と安直に考えているとしか思えないものばかりである。笑いを取ろうとする小中学生が取り敢えず下ネタに走ってみるのとそう変わらない。
     またもう一つには、あまりにもご都合主義的に物語を動かすものを挙げられる。簡潔な定義を与えるのは難しいが、敢えて試みると、物語と言うよりも作者の目論見を破綻させかねない状況ではあたかも存在しないかのように引っ込むが、作者の目論見の実現に直結する状況では常に作用するものである。ただし、これは異常自体の良し悪しよりも、作者の作劇姿勢に一層深く関わる。異常そのものではなく異常の使い方への評価となる。この種の異常の運用法の例を少し述べると、次のようなものを考えられる。特定の臭いを嗅ぐと暴れ出す体質が主人公にあるとすると、暴れてもらっては展開上困る或いはその必要がない時には不思議なことにそういった臭いは漂わず、一方で主人公の思い切った暴力が必要な場面では常にその臭いがどこからか風に乗って流れる。また、主人公に女を見ると口説きたくなる衝動に駆られる性癖があるとすると、普段は何とか我慢できているのに、口説くことで物語に進展が起こるような女にはなぜか自制心が働かない。他には、強者を見ると戦いを挑まずにいられないという性癖が主人公にあるとすると、普段は強者を見かけても内心や口先で戦いたいと騒ぐだけで何一つ行動を起こさず、展開上衝突すべき相手に対しては戦闘狂の態度で挑みかかる。こういったところである。
     更にもう一つ取り上げられるものがある。有名無実化したものである。これは死に設定とも言う。これは二つに大別できる。作者が存在を忘れていたり使いこなせなかったりするため、発揮する機会が来ても捨て置かれてしまうものと、物語の展開上それを発揮する機会が訪れないものとである。具体的に説明すると、前者は弱者に軽蔑と憎悪を抱く選民主義的思想を持つはずの主人公がなぜか弱者達と親しく付き合っているなど、後者は女など一人も登場する余地のない物語の主人公の欠点が女にだらしないことであるなどが該当する。後者は裏設定と呼ぶ場合もあるが、作中できちんと機能しない設定はいずれにせよ無価値である。何であれ、表れたことが全てであり、表に出ずに終わったものは存在しないのと変わらない。裏事情と呼ばれるものでさえ、語られる以上は表に出て知られているのである。最も優秀なスパイの功績は誰にも知られず記録にも残らない、という逆説はこの論理を変則的に説明する。
     ところで、ここで挙げた三例に鑑みるに、問題は不適切な異常そのものにあるわけではなさそうである。つまるところ、失敗の責任は作者の制作態度にこそあるように思える。安直な設定、ご都合主義の展開、不十分な構成がまずあり、それらはそもそも作者自身の未熟や怠慢に端を発するのである。
     繰り返しになるが、大方の創作者は理論的にであれ直感的にであれ、主人公が異常者であることが望ましいこと自体は理解している。しかし同じく彼らの内の多くは、いかなる異常をいかなる形で用いれば効果的であるかを理解していない。何かしなくてはいけないのはわかるが何をすればよいかがわからない状態にあると言ってもよい。
     であれば、主人公が異常或いは非常識である必要性を論じるところから出発した本稿は、望ましい異常の考察に続き、最後に創作者の姿勢への提言によって幕を閉じざるを得ない。即ち、面白い物語の構造をよく学びよく考えるべし、である。言うは易くの典型だが、これさえ果たせれば全ての問題は自ずと解決する。

    吉田沙保里の敗戦に思うこと――敗者の遇し方と敗者の身の振り方について

     二〇一六年八月十八日或いは十九日、リオオリンピックレスリング女子五十三キロ級の決勝戦で、霊長類最強の女がアメリカのヘレン・マルーリスに敗北した。一つの時代の終焉を感じさせる歴史的な出来事であった。他を寄せつけない圧倒的な王者が衰え、若い新星に打ち倒されるのは世の習いであり、王者の地位を守ったまま去ることは極めて難しい。歴史的記録の達成を見守った者からすれば無念の極みだが、吉田沙保里もまた地位を逐われた王者となってしまった。時間切れを告げるブザーには諸行無常の響きがあった。聞くところによれば、吉田に引導を渡したマルーリスは、少女時代に吉田に憧れ、吉田の打倒を夢見て励んできた選手であるという。吉田に憧れてレスリングを続けたという点に疑義があるものの、同階級に拘り続けた点と勝利時に見せた態度から、同じ時代を戦う選手の一人として吉田に格別の思い入れがあったことは事実と見てよいだろう。吉田に特別な思い入れを持たない選手ではなく、額面通り人生の半分をかけて吉田を追いかけてきた選手がその役目を果たしたことは、劇的であると同時に、どこか救いを感じさせる。
     吉田が痛恨の敗北を喫してから十日が過ぎつつある。これは、既に当人がある程度の折り合いをつけ、世間が次の話題に関心を移すに十分な時間である。この事件の衝撃も今や静まり、感情論を排して吉田沙保里の敗戦を冷静に考察するにふさわしい時期となった。
     これより、吉田沙保里という偉大な敗者を参考とし、敗者をいかに遇すべきか、また敗者は敗北といかに向き合うべきかを考えてみる。
     結果主義から言えば、銀メダルは頂点を逃した残念賞、銅メダルは最後までメダル争いに加わった敢闘賞、入賞とそれ以外は参加賞に過ぎない。金メダルだけが真の栄光と価値を持つ。金メダル以外は敗者の証である。
     それでも、実力的に金メダルの獲得が絶望視される選手、初参加で実力が未知数の選手、前回の成績が振るわなかった選手がメダルを得た場合は、単に結果のみを見ても、個人的成果を評価するに値する。こういう選手には「よく頑張った」、「銅メダルを獲得できただけでも凄い」と言っても許されるだろう。最近ではウサイン・ボルトがそうであり、また吉田沙保里がそうであったような、他と隔絶した実力を持つ王者が君臨しており、金メダルが事実上予約済みである競技であれば、銀メダルを金メダル相当として扱っても見苦しくはあるまい。誰も勝てないとわかっている王者は、既に人間の土俵で争うべき存在ではない。短距離走にチーターが参加するようなものである。チーターに負けたからと言って悔しがる者はいまい。
     他方、金メダルを期待された選手、十分な実績のある選手は、そうもいかない。そういう選手が金メダルを取れずに終われば、結果を出せなかったことになる。明らかな失敗である。「銀メダルでも十分凄い」、「最後まで戦い抜いて立派だった」などと褒めたり慰めたりすれば侮辱となる。と言うのも、これらは「あなたは金メダルを取れる器ではない」、「あなたには期待していなかった」、「あなたは銀メダルさえ危うい選手だった」、「あなたには結果を求めていない」と告げるに等しい言葉だからである。敗れたとはいえ、勝利を、結果を得るために立派に戦った者を遇するに際し、不十分な結果や単なる姿勢を褒めるのではあまりに礼を失している。無論、声をかける側にそのような意図は微塵もあるまい。衷心からの称讃と同情による好意の表明であろう。言われた側も好意自体は汲んでくれるだろう。だが、その意味するところは残酷なまでに意図の逆をいく。戦い抜いた者に優しさを示すのは良いことだが、示し方を間違えれば優しさは傷口に塗り込まれる塩となる。このような誤った優しさは、金メダルを手にして一段上に立った勝者の傲慢か、一層低い地点に留まる敗者の嫉妬か、表面的な関心しか向けない傍観者の鈍感から生じる。これは人間の性質から見て不可避にして必然であるが、良いか悪いかで言えば明らかに悪い。現実を理想に近づけたいと願うならば、この必然的悪を意識せねばならない。
     ここまでの考察では、実力の低い選手は敗北しても褒めるに値し、実力の高い選手は勝利以外を褒めれば辱めとなるという結論が導かれた。だが、たった一つの指標で全価値を決めてしまえば、その物差しで測れない多くの価値を見落とすことになる。定規では重さを量れないが、長さだけでなく重さも見なければ、物体の性質はわからない。
     結果主義からの考察では、選手の心情を無視し、実力と結果のみに基づいて選手の扱いを演繹した。結果主義とは客観的なものである。ゆえに、社会的評価としての論功行賞においてはこれこそが公平な尺度となる。
     しかし、選手が敗北をどう受け止めるかは、結果から画一的にこうと決めつけられるものではない。一寸の虫にも五分の魂と言う。オリンピック出場自体が既に奇跡的快挙とすら言われて誰にも期待されていなかった山田選手は望外の銅メダルを不服に思うかもしれず、金メダル確実と言われて国民の期待を一身に背負った川田選手は銅メダルすら勝ち取れず入賞に終わったことに不満がないかもしれない。
     このような次第であるから、選手個人への配慮が目的であるならば、結果主義に基づく対応は不適切である。ちぐはぐな対応をすることで、却って敗北の苦痛を増しかねない。見るべきは心情面である。
     これは大方において蛇足となるが、敗者と呼ばれる人々の性格は、三十六種類に大別できる。まず、敗北を気にしない、妥当な理由がなければ納得できない、いかなる理由でも納得できない、の三種がある。次いで、転んだまま立ち上がらない、痛みが治まるのを待って立ち上がる、痛みを堪えてすぐに立ち上がる、の三種がある。更に、痛みが治まらない、痛みが治まるのが遅い、痛みが治まるのが速い、痛みを感じない、の四種がある。それぞれの組み合わせにより三十六の性格が得られる。
     それぞれの性格を細かく論じると話が脱線してしまうので深くは触れない。ただ一般論として言えば、立ち上がれない者と痛みが治まらない者は駄目であるし、痛みが治まるのは速いほど良い。他の要素は一長一短であり一概に良いとも悪いとも言えない。敗北して平然としているのは打たれ強さの表れであるかもしれないが、向上心の欠如の証明であるかもしれない。理由がなければ納得できないのは現実的な判断力の表れかもしれないが、諦める理由を探す逃げ癖の表れかもしれない。絶対に敗北を許容できないのは、最後まで戦い抜く執念に繋がるかもしれないが、引き際を誤っての破滅にも繋がりかねない。痛みが治まるまで待てば安全だが時機を逸するかもしれず、すぐに立ち上がれば機会を逃さずに済むが傷が悪化するかもしれない。痛みを感じないのは、自覚なく無理ができる反面、自覚症状なく痛手が蓄積する可能性もある。
     この内、安易な慰めが無条件で通用するのは敗北を気にしない者と痛みを感じない者だけである。然るべき理由があれば納得できる者には条件付きで通用する。この三種の内のいずれの要素も持たない者は、当人が掲げる主観的目標を達成できない限り、いかなる慰めも心を癒すには至らない。ただ、自分を慮ってくれるその人の心情を快く思うのであり、言われた内容を嬉しく思うのではないのである。
     以上を踏まえて、吉田沙保里の敗戦について述べる。
     吉田沙保里という人は、その言行を見るに、とても誇り高い人である。自分に非常な自信を持ち、その自信に見合う力量を発揮することを己に課してもおり、そこに自身の存在価値を置いている節がある。自分にはレスリングしかないと思ったことさえあるかもしれない。誇り高さにも二種類あり、一つは他者からの評価に敏感な外向的なもの、一つは自身の基準に厳格な内向的なものである。前者は他者からの侮辱を許せず、後者は自己の怠慢や未熟を許せない。吉田は明らかに後者に当たる。三十六の分類に当て嵌めれば、少なくとも、敗北を笑って受け容れることも痛みを感じずにいることもできない人種である。その上、前回の敗北の後を見てもわかる通り、転んだままではいられない。痛みを堪えて立ち上がるのか、痛みの引きが速いだけかはわからないが、立ち直りが早いことは確かである。また付け加えれば、大変真面目な人でもある。遊び心もあるし、浮ついたところもあるが、根っこの部分は不器用と言えるほどに真面目なのである。真面目一徹に生きるには人間的に過ぎる人と評してもよいかもしれない。
     吉田沙保里は、金メダル獲得を期待されていることを自覚し、現にそれだけの力量があると自負して挑み、果たせなかった選手である。このような人に対し、銀メダルでも立派である、などと慰めの言葉をかけては非礼に当たる。このような言葉は、実質的に「お前は酷い自惚れ屋だ」、「お前には期待していなかった」と告げるに等しい。これくらいならば、期待外れだと罵られる方がまだ気が楽であろう。それは少なくとも、吉田にはそれだけの力量があると信じていた、と人々が表明するに等しいし、出して然るべき結果を出せなかったという当人の認識にも合致するのでちょうどよい。少しでも良心のある者にとって、自覚的な過ちを裁かれないことは大変な苦痛である。
     また、吉田は敗戦後のインタビューで、ひたすらに自責の言葉を吐いた。フロイトやユングの力を借りるまでもなく、これは「当然得られたはずの勝利を自らの失敗でみすみす逃した」という本音の表れであるとわかる。吉田の認識では、始まる前も終わった後も、依然としてマルーリス戦は「勝てる試合」なのであった。後になってマルーリスの実力を認める発言もしているが、覆しえない実力差を認める意図はなかっただろう。仮にマルーリスが吉田より強いとしても、差が覆しうる程度のものであれば、それはやり方次第で勝てる試合なのである。この認識の正誤は素人にはわからない。しかし、オリンピック、世界大会と金メダルを独り占めしてきたほどの実力者が、ああしていれば勝てた、こうしていれば負けなかった、と反省するのであれば、それは確かにそうなのかもしれない。アルソックを辞めていなければ、積極的に試合を重ねていれば、相手の吉田対策をよく考察しておけば、芸能活動にかまけていなければ、きちんと調整していれば、という様々な声もある。これらは十分に合理的な指摘である。吉田もそれは痛いほどに承知しているであろう。戦争になぞらえれば、政治、戦略、作戦、戦術の各次元に改善の余地があった。改善できていればおそらく最後の勝利を飾れたのではないか、と思わせるだけの下地が吉田にはあった。これは周囲と当人とで共通した認識であっただろう。だからこそ、吉田にとってこの敗北は、徹頭徹尾自身が招いたものなのである。重ねて言うが、この認識が実情を正しく捉えたものであるかはわからない。しかし、吉田自身がそう感じたのであればそれなりの合理性があったのだろうし、世人からしてもいかにもありえそうな話に聞こえる。師団長達がきちんと自分の命令に従っていればインパール作戦は成功した、という牟田口将軍の妄言に代表される責任逃れや負け惜しみとは明らかに一線を画す。
     自らの価値を懸けて真剣に何かに取り組んだことや己に自信を持ったことが一度でもある人ならばわかるだろうが、実力的に可能であったと思われる勝利を逃した時の苦痛は筆舌に尽くしがたい。それは相手の勝利ではなく自分の敗北であり、自分以外の誰のせいにもできない合理化不能の大失態であり、損失ではなく逸失利益である。
     吉田は負けた直後に大泣きし、賛否両論を招いた。賛否を超越した同情と憐憫もあった。しかし、これは粛々たる態度と同じくらい、偉大な王者にふさわしい立派な態度であった。自制を失って取り乱すほどの衝撃を受けるというのは、それだけ勝利の価値に重きを置き、真剣に勝利を追求した証拠である。涙を堪えられないのは最も良く、必死に堪えるのは次に良い。涙を堪えられないのは泣かなければ自我を守れないほどの衝撃に見舞われた証であり、涙を堪えるのに必死になるのは鋼の意志の発露である。また、涙が出るか出ないかというほどの衝撃は、敗北に対する物分かりの悪さから来る。こういう人は敗北に慣れていないか、慣れてしまうことを必死に拒んでいる。それはとても尊く誇り高い姿勢である。中途半端に悔しそうな顔をするのは見苦しく、何も言えなくなるほど打ちひしがれるのはどうしようもない。中途半端に悔しがる者は不貞腐れているだけであり、何も言えなくなった者は涙を流して心を守ることもできないほどに虚弱なのである。
     ともあれ、吉田は自らの慢心、怠慢、油断、過誤によって負けたと考えた。この真偽は敢えて考えない。本人がそう思って涙を流したということに意味がある。
     こういう敗北を喫した時、僅かでも自分に価値を認める人の胸の中には、自分自身の他に向ける先のないやり場のない憤怒の炎が燃え上がる。こういう憤怒に駆られる者だからこそ、自然鎮火はありえない。然るべき形で鎮めない限り、一生涯に亘って精神を焼き続ける。鎮火する方法はたった二つしかない。完璧な勝利がもたらす流血か、絶対的な敗北がもたらす完全燃焼のみが、消せない炎を消す。涙をいくら流しても消えない。ただし、これは記録としての勝敗ではない。自分には自負通りの力があると確認できれば勝利であり、力不足を認めざるを得なければ敗北である。これ以外の方法では、或いは火勢を弱めることができるかもしれないが、鎮火には至らない。その上、火勢を弱めることが良いこととは限らない。熾火となって陰に潜み、当人の自覚がないままに心を苛むようになり、却って始末に負えない結果を招くこともありうる。安易な慰藉や称讃などはとりわけこのような形になりやすい。こういう人を慰めたければ、少なくとも、失敗を完全に肯定してはならない。完全に否定し尽くすべきか否かは当人の性格次第だが、いかなる敗北にも見るべきところはあるものだから、それは公平を欠くし過酷でもある。否定的な肯定がちょうどよい按排であろう。「みすみす金を逃したのは痛いが、銀でもないよりはましだ」という程度が最も心を安らげる慰めとなろう。こういう人に必要なのは、慰めてくれる無責任な他人ではなく、一緒に悔し涙を流してくれる仲間や的確な指摘を加える批判者であるのかもしれない。
     こうした分析に基づくと、世間は吉田沙保里に随分と酷いことをしたものである。マスコミにしろ個人にしろ、世間体や同調圧力というものがあるからそうせざるを得なかった面も当然あろう。コメンテーターが「銀など残念賞です」などと言えば抗議の電話が止まらないだろうし、ツイッター等で「勝てる試合で負けるようでは駄目だ」と書けば批判が殺到するだろう。同じく銀メダルに甘んじた篠原信一ならば――もしかすると既にどこかで言ったかもしれない――「金以外は弱者の印」などと辛辣なことを言っても赦されるだろうが、それは特別な立場が許す例外である。しかし、そういう事情を加味しても、「銀でも立派」、「よく頑張った」と口を揃えて言うのでは、覇者としての矜持を以て己の至らなさを認めた吉田の立つ瀬がない。自分には金メダルを取る実力があるとの自負心を踏み躙り、実力を発揮できなかったと嘆く覇者を遇するに健闘した弱者として扱って道化に貶める仕打ちである。
     他方、吉田沙保里が現役継続に消極的な姿勢を示したことは、決して非難すべからざることではあるものの、本人の為になるかは疑わしい。年齢的に見て今後の活躍は厳しいと言わざるを得ないが、心を焼く憤怒と後悔のあの炎を消す機会を手放し、一生涯に亘って不快な熾火を胸に抱える危険を思うと、潔く引退するのが良いとは言い切れない。恥の上塗りは避けられるかもしれないが、挽回の機会を永久に失うことになるからである。吉田のような自負心と矜持を持つ人間は、完璧な勝利か完璧な敗北によってしか、つまり己の力量を過不足なく発揮して審判を仰ぐことでしか、敗北の後悔を克服することができない。進退はその暁に決めるのが最も後腐れがない。周囲の支援や他の仕事は火勢を弱めはしても消してはくれないから駄目である。勝てる戦いに負けた事実は心に残り続ける。
     多分、現役を続行しても吉田は東京五輪に出られない。四年後、吉田は三十七歳に達する。四捨五入して四十歳というのは、社会的にはまだ若いとしても、この種の競技にあっては老齢である。十代二十代の体力に対抗するのは難しい。それを押して出場できれば快挙と言えるが、現実は厳しいし、若手も育ってきているから、十中八九国内選抜の段階で脱落するだろう。と言うより、もし四十路を控えた吉田が選ばれてしまうようならば、吉田が実力ある若手を政治力で押しのける老害と化したか、衰えた吉田を倒せないほどに若手がだらしないかの二者択一であり、どちらであってもろくなものではない。
     下り坂に差しかかった吉田は、もうオリンピックのような大舞台で実力を試す機会を得られまい。順当に考えうる最大の舞台は世界大会である。とはいえ、舞台の大きさは必須でない。戦場で豪勇を振るった本多忠勝が晩年に小刀で手に怪我をして死期を悟ったように、若手との練習試合で自身の力量に見切りをつけることがあってもよい。要するに、勝敗を問わず、これが自分の全力であると確信できる状況で納得のいく勝負ができればそれでよいのである。その結果、まだ通用すると新たな自負心を得られれば勝利を燃料にして納得がいくまで前進し、もう通用しないと力不足を痛感したならば完全燃焼の満足の中で引退する。それでよい。そういうことならば引退後に勝負をしてもよいではないかという意見もあろうが、引退は一つの節目であり、その前と後では全ての意味合いが決定的に異なる。満足と共に引退することに重大な意義があるのである。
     吉田が現役継続を選べば、老害が晩節を汚したと非難の声の上がる日が来るかもしれない。だが、たとえみっともなく現役にしがみついているように見えたとしても、変に物分かりの良い態度を示して競技から去るより、よほどレスリングに対して真摯である。絶対に負けられない、負けたくない、己の価値を証明したいと執念を燃やす姿は、何の拘りもなく漫然と戦い、負けても平然としている者よりもよほど美しい。
     自己満足のために若手の機会を奪う老害の所業かもしれない。落ちぶれた姿を曝す痛々しい行動かもしれない。だが、政治力や実績を武器にせずただ正々堂々たる勝負で技を競うだけならば、吉田のような老兵に機会を奪われる若手がだらしないだけであるし、衰えてなお戦い抜こうと足掻く姿は見苦しければ見苦しいほど、むしろそうであるがゆえに人間美を感じさせる。
     吉田沙保里のような人が心残りのない第二の人生を歩み出したければ、たとえ何と言われようと、どれほど見苦しく思えようと、現役を続けるしかない。この手の人種はそういう損な性分の持ち主なのである。

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    『ウォーハンマーRPG』のハウスルール――オリジナル種族「ハーフエルフ」

    『ウォーハンマーRPG』(以下、WFRP)には、西洋風ファンタジーに付き物の人間とエルフの混血種族、ハーフエルフが設定されていない。しかし、繁殖欲旺盛な常時発情期の生物と位置付けられがちな人間が、その美的感覚に適う美しい生き物を放っておくはずがない。交配可能でさえあれば、必ず混血児が生まれる。神話伝承から近年のファンタジー作品に至るまで異類婚は普遍的な要素である上、妖精即ちエルフと人の交配は比較的よく見られるものであるから、WFRPの世界でも同様に人とエルフの混血は可能であろうと考える。
     そこで、個人的にハーフエルフの作成要領を考案してみた。次の通りである。

    ハーフエルフ
     初期能力値はエルフの能力を基礎に決定する。
     主要プロフィールはロール結果から 1d10 を引く。生まれる前から予感される悲惨な境遇に対し、シャリアの慈悲は二回与えられる。
     副次プロフィールの内、耐久力と移動力はそれぞれ 1d10 をロールし、偶数であればエルフ、奇数であれば人間の数値を適用する。概して不幸な人生を送りがちであるためセッション開始時点から狂気点を得ている可能性があり、その数値は 1D10-7 とする。なお、獲得狂気点がゼロを下回ることはない。運命点は獲得した狂気点と同じ値をエルフの初期値に加算するため、最大で破格の五を得る可能性がある。
     初期技能――1d10 をロールし、偶数であればエルフ、奇数であれば人間の技能を持つが、PLの希望があれば、GMの了承の下、PLの任意で決めてよい。なお、エルフの技能を得る場合はエルフ社会で育ち、人間の技能を得る場合は人間社会で育ったものとし、設定やロールプレイに反映する。
     初期異能――人間とエルフの両方若しくは片方を受け継ぐ場合と何も持たない場合があり、GMの了承の下、PLの任意で決めてよいが、1d10 の結果に任せてもよい。ダイスロールで決める場合は次の通りとする。1~3:人間、4~6:エルフ、7~9:両方、10:なし。
     キャリア――ハーフエルフの社会的地位は低いため、特別な事情がない限り以下のキャリアには就けない。各種族専用キャリア、貴族系キャリア、騎士系キャリア、混沌信者を除く聖職者系キャリア、ギルド頭領、為政者、その他公職等、混血児がふさわしくない性質のキャリア全て。

    説明
     初期能力値――強化人間ではなく劣化エルフとして扱う。
     主要プロフィール――エルフよりは疑いなく劣るものの、人間より高等な種族か惨めな底辺種族になる可能性を持つ。総合的には種族の中では明らかに見劣りする。
     副次プロフィール――人間とエルフの間で揺れ動くため、それぞれの長所を引き継ぐ可能性もある点で優遇する。また、穏やかならぬ生い立ちや劇的な人生を得る可能性に鑑み、狂気点と運命点を獲得する機会を与える。
     技能――能力の幅と言うよりも生い立ちの決定に利用する。
     異能――能力面で優遇すると共に種族的特徴を表現する。PLとGMの判断で決めてよいが、ダイスロールに任せてもよい。
     狂気点――ハーフエルフの苛酷な境遇の表現。
     運命点――ハーフエルフの劇的な人生の表現。様々な不利益を埋め合わせると共に種族の特徴を表現する。
     キャリア――混血が一般的でない地域では混血児は迫害される運命にあるが、データが用意されていない点に鑑みるとオールド・ワールドでの人間とエルフの交配は珍しい。このため、社会的に不利な種族であることを人生に反映する。

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    「世の中に不満があるなら自分を変えろ」という言葉

    世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら……

    『攻殻機動隊』の主人公格、草薙素子の有名な台詞である。名言として持て囃され、十年以上を経た今でも時々引き合いに出されることがある。既に作品から飛び出した独立の存在としてインターネット上を中心に独り歩きしている感もある。
     この言葉は作劇上の位置付けとは無関係に、作品を観たこともなさそうな連中によって、或いは不平を鳴らし、或いは改革を求め、或いは行動を起こす人間を批判乃至は嘲笑する際に振りかざされることが多いように見受ける。また、含みを感じさせる「それも嫌なら……」は省略されることが多い。その理由は明らかでないが、文意が曖昧である点と、「命懸けで世の中と戦え」や「世の中を変えてみせろ」などの趣旨を全く逆転させてしまう結語に繋がるかもしれない点が問題なのかもしれない。
     率直に言って、この言葉を使って他人を踏みつけるさまは醜悪そのものであり、この言葉をありがたがるさまは滑稽そのものである。『カイジ』に登場する利根川のこれまた有名な「大人は質問に答えたりしない」や「金は命より重い」をしたり顔でありがたがる者達と同じほどに愚かしい。利根川の言葉はいくらでも反論と反証の余地がある詭弁に過ぎず、クズ達を丸め込み、黙らせるためのものでしかあるまい。不動の信念や覚悟があるわけでもないだろう。もしもの話なので推測の域を出ないが、仮に利根川が質問を無視される側に回ったならば、「大人は向けられた質問を無責任に無視したりしない」と一喝するはずである。結局、そこに汎用性や普遍性などない。ただ物事の一部一側面をその時々の都合に応じて姑息に誇張して粉飾した挙句、本来無関係なもの同士を強引に結びつけて一つに仕立て上げただけの屁理屈或いはポジショントークである。同じ価値観の持ち主か価値観を一切持たない者にしか通じない。同じ価値観の持ち主同士が内輪で然り然りと循環論法的に同意し合うか、白紙の精神が染め上げられるか、相容れない者との衝突を招くかのいずれかである。異なる価値観の共感と納得に堪えるものではない。
     草薙素子の台詞は公安警察の幹部が追い詰めたテロリストに向けて発したものである。これもまた、体制に属する強者が体制から落ちこぼれた弱者に対し、体制の都合に基づいて投げかけたものに過ぎない。普遍性とは縁遠い。この言葉を字面通り断章取義的に受け取れば――そして世人は無自覚のままそのように引用している――「我々の社会体制に従わないものは間違っている」という暗黙の前提の下、「不満を呑み込んで全面的に服従しろ。それが嫌ならば社会から出て行け」と迫る傲慢なものである。これはこれで一つの考え方や在り方ではあるが、決して啓蒙や説教の言葉とは言えない。個人の思想信条の域を出ず、その共有を求めることは独善的価値観の強制の域を出ない。
     それでも、草薙素子は体制の犬である。体制の意見と利益を代表するのは自然なことであり、非難の余地はない。むしろ、公安要員が「不満があるならどんどんテロをやって社会を変えていきなさい」などと言い出すようでは困る。警察官が「お前個人の不満など知ったことか。社会を乱すようなことをするな」と犯罪者を一喝するのは立場上極めて正当と言える。
     つまるところ、この台詞は、立場が言わせたものか、立場に正当化されたものである。
     引用者や賛同者の滑稽さや醜悪さの根源がここにある。
     この台詞を引用する者の大半は、こうした性質を持つ言葉を口にすべき立場にない。引用者が政治家や警察官等、社会秩序を擁護すべき立場にある人物であった例はおそらくないし、それを抜きにしても、引用者は社会や体制の代表を気取る一個人に過ぎない。個人の意見として堂々と主張すべき筋であるのにもかかわらず、そういう連中は勝手に妄想した「社会」や「世間」を倫理的後ろ盾にして他人を攻撃し、「大人になれ」などと言って自主規制を要求しているだけである。自分の意見を主張できない臆病さと言い、妄想する「社会」の小ささと言い、相手に責任を丸投げする無責任と言い、二重三重に滑稽と言わざるを得ない。
     こうした連中の滑稽さと醜悪さの理由はこれだけに留まらない。
     彼らは無自覚の内に自分達を体制側に置く。彼らにとってこの言葉は自分以外の他人を縛るものであって自分を縛るものではない。いわゆる「負け組」や「悪人」に浴びせられる言葉を引用する者にとって、「負け組」や「悪人」とは常に「自分以外の誰か」を指す。自分を常に中流か「勝ち組」、「善人」に置き、相手のことを現状に納得せず幼稚な不満を抱える架空の「下」や「悪」に位置付けていると言ってもよい。「自分は体制に属している。よって自分は正しい」、「自分は現状に満足している。よって満足できない者は間違っている」という愚劣な論理によって権威と正当性を自己に付加しているのである。自分は常に神聖不可侵の正義側だから、草薙素子の言葉を信奉する一方で、「若い頃の苦労は買ってでもしろという言葉を作ったのは苦労を売る側である」という主旨の言葉に臆面もなく喝采を送ってみせることすらある。自分達がその「苦労を売る側」の同類であることに無自覚な様子は、醜悪と滑稽が過ぎて笑う外ない。この手の連中は、自分に都合の良い状態を乱す者を許せないか、自分が納得して呑み込んだ不満を他人が表明するのを許せないから、そういう者に様々な「悪」や「未熟」のレッテルを貼って貶める。或いは論理的批判が困難乃至は面倒だから、或いは「私」を主語にする勇気がないから、或いは自分の考えというものを持たないから、こういう振る舞いに及ぶ。全く以てたちが悪い。
     草薙素子の言葉に啓発されてしまう者は、醜悪ではないかもしれないが、滑稽さが群を抜く。そのさまは、ブラック企業の経営者が書いたビジネス書に触発され、経営者気取りで自己のサービス残業を賛美する労働者のそれに似ている。と言うのも、草薙素子の言葉は忍耐と自主規制の強制であり、どこまでも支配者の都合である。文句があればそれを黙って呑み込み、不満を感じないように自発的に意識を変えてくれる。これは手のかからない実に理想的な奴隷である。ところが世の中には、支配者にとって都合の良い言葉を金言として自らの胸に刻む奴隷が案外多い。これこそ体を張ったギャグである。人間が本当の意味で責任を負って忍耐すべき事柄は少ない。大抵のことは自分以外の誰かのせいであり、人はその尻拭いや肩代わりを強いられているのに過ぎない。取るべき責任とは、不正な手段を取らない限り避けようのないものを指す。真っ当な方法で回避できるようならば、取る必要のない責任である。そういう事柄は都合が悪ければ投げ出しても一向に問題がない。それで困るのは、本来責任を負うべき立場の者と、誰かが責任を押しつけられるのを積極的或いは消極的に容認した者達と、責任があるともないとも言えない利害関係者達である。たとえば、上司の指示を忠実に実行した部下や上司から手に負えない仕事を押しつけられた部下が失敗した時、責任は上司と彼に地位を与えた会社にある。部下には何の責任もない。それが使う者と使われる者の関係性である。この時、指示の内容や命ぜられた仕事の難易度によっては、部下が事なかれ主義の無能なイエスマンの烙印を捺されて能力相応の扱い、即ち冷遇或いは放逐の憂き目を見ることがあっても当然よい。例を挙げれば、明らかな犯罪行為を指示されて従う者や子供のお使い程度のこともこなせない者は、さすがに庇う余地がない。しかし、それはそれとして、そもそもの責任は管理能力不足の上司と会社に帰する。また、現状に不満があればそれを打破しようと足掻くのも人間として当然の振る舞いである。不満を抱く自分が間違っているという思考法は、一見傑物のそれのようで実は家畜のそれである。人間のそれですらない。人の歴史は人のものであり、家畜のものではない。歴史は人の足掻きの繰り返しを経て織り成されてきた。盲従して食い物にされる家畜の出る幕はない。不満は呑み込むものではなく吐き出すものである。何でも自分のせいにするのは、何でも他人のせいにするのと変わらない。まともな人間は自分と他人の責任を峻別し、他人に責任を押しつけず、他人の責任を背負い込まない。
     以上を振り返って総括すると、草薙素子のこの台詞は、然るべき立場の者が口にする場合を除き、身勝手な卑怯者の言葉にしかならない。また、その言葉を受け容れてしまう者もまた、尊厳なき奴隷に過ぎない。他者に向けて賢しらにこの台詞を引用してみせたり、逆にこの言葉を神妙に受け容れたりした最初の者が、一体どこの誰でいかなる立場にあったのかは知らないが、どのみちろくなものではあるまい。
     とはいえ、「それが嫌なら……」に続く部分次第では、言い換えれば明らかにされず濁された部分を引用者がどう捉えていかに用いるかによっては、この台詞は非常に建設的なものとなりうる。
     もちろん、「殺してやる」、「死んでしまえ」と続くようならば、徹頭徹尾服従と忍耐の要求である。そこに文意の変化は起こらない。本稿はほぼ無意味な代物と化す。
     だが、冒頭で述べた通り、「命懸けで世の中と戦え」などと続けば趣旨が逆転する。ということは、不満を抱えて燻る者に発破をかける目的で、危急存亡の秋に将帥が訓示によって国民と軍勢を鼓舞するようにして、またスターリングラードのロシア人達が「戦うか死ぬかだ」と叫んだようにして自他に用いれば、奴隷に落とされつつある人に挑戦者として立ち上がる道を示すことにもなろう。
     そして、そのような解釈は現に可能なのである。台詞単体を見れば、きちんと文章が結ばれていない以上、後に続く言葉を好き勝手に補って解釈する自由がある。発言者である草薙素子の性格を見れば、不満を抑えられない者と戦う体制の犬としての覚悟と共に、自分ならばそうするという自負なり願望なりが窺える。その後に続く物語を見れば、変えるべき現状がありながらも変えるための手段がない時、第三の選択肢もまた一つの道であるという主題が表れる。

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    艦これは先人への冒涜であるか否か――どうすればよいのか

    「艦これ」こと『艦隊これくしょん』は、日本のために血を流した先人と彼らが苦楽と運命を共にした艦艇を冒涜する不謹慎極まるものであると非難する声がある。
     これは一面において妥当であり、一面において誤解である。結論から言えば、根本的な部分において不謹慎であるため、全体としては不謹慎という評価に落ち着く。反面、各論的に見れば判断は錯綜する。その設定は冒涜でも何でもない一方、ビジネスモデル、ゲームシステム、プレイング並びにユーザーは結果として冒涜とならざるを得ない。
     このような話をすると、ゲームと現実を混同している、艦娘は単に艦艇と同じ名前を持つだけで実物とは関係がない、といった批判の声が必ず上がる。
     先んじてこれに答えておくことにする。
     一般にこのような指摘が意図するところは、たとえば中世ヨーロッパ風を謳うファンタジー作品に対し、中世ヨーロッパの水準はこうだったのだからこの描写や設定は間違っている、などと言い出す輩への非難である。この類のことを真面目に言う者は確かに現実と虚構の区別がついていない。また、中世ヨーロッパを舞台とする作品はいかなる場合であっても完璧に中世ヨーロッパを再現しなければならない、と考える者にも、この指摘は当て嵌まる。いくらそれが当時のヨーロッパの標準であるからと言っても、甘い恋愛物語のヒロインの体に香水でもごまかしきれない悪臭を纏わせることが作劇上正当であるとは限らない。作中の登場人物や社会の性質を示すために為される差別的表現を槍玉に挙げて表現狩りを始める者もこの指摘の対象であろう。魔法使いの国で魔法の使えない者が人権のない人間未満の生き物として惨たらしい扱いを受けていても、それは徹頭徹尾架空のお話である。現代アメリカを舞台とする作品に黒人を差別して虐げる白人が登場したとしても、架空の人物として具体化された抽象的な黒人が想像上の世界で虐待される架空の物語に過ぎない。
     しかしながら、この論理にも限界がある。現実と強く関連付けられた作品をこの論理で守ることはできない。前述の中世ヨーロッパの恋物語などは、その主眼が中世ヨーロッパ風世界での恋愛模様にある以上、現実の中世ヨーロッパの再現度は重要ではない。ところが、実在の人物や事物を用いた歴史物等となると話が変わる。ここでは題材となる時代の再現度も評価の対象となる。作劇的に都合の悪い事実の描写を避けることはよいとしても、史実に反することを描くのは明らかによろしくない。全てを描く必要はないが、嘘を描いてはいけないのである。また差別問題にしても、社会的に重大な落ち度のない実在の一私人や私企業等の私的組織を不当に貶める形で描けば非難は免れない。この類のものは、差別を芸術の対象としているのではなく、芸術によって実在の個人や組織を攻撃しているのである。作品外から俯瞰することで差別の否定が窺えたり、単なる事実の列挙が結果的に対象の非難を意味してしまったりすることだけが免罪符となりうるが、そう認められるのは決して簡単なことではない。ただし、現行法が許すかどうかを措いて倫理のみを規準に言えば、社会的に大きな非がある私人や私的団体には事実に反しない範囲でいかなる否定的描写をしてもよいし、公的組織、非合法組織、民族、国家、宗教等の公的存在には配慮すべき理由などないからどのように描いてもよろしいと思われる。表現の自由の観点から言えば、その尊厳や利益を尊重する対象は、特定の私人や私的組織に限るべきである。無闇に何でも保護すればよいというものではない。しかし、尊重の必要がないと思われる各主体にも、不当な描写に抗議や非難を行う権利自体はあり、これを奪うことは誰にも許されない。たとえおかしなことであっても表現すること自体は自由だが、表現の是非とは関係なく、それをおかしいと感じるものに「正しさ」を押しつける自由はない。
     従って、『艦隊これくしょん』のようなゲームをこの論理で正当化することはできない。称讃であれ非難であれ、現実との関連を特色とするゲームが現実との関連に基づいて論評されるのは当然のことである。
     戦争中の記憶を引き継ぐと目される艦娘は、当然大東亜戦争という史実と特別な関連を持たざるを得ない。これが単なる仮想戦記であれば、実在の兵器や人物の存在も、並行世界の別物なりありえたかもしれない可能性なりとして現実からある程度切り離しうる。「大和」が連合艦隊総旗艦として三面六臂の大活躍の果てにアメリカ艦隊を撃破する話やミッドウェー海戦で撃沈されてしまう話にとって、実際の「大和」が沖縄方面で撃沈されたという史実は非難の根拠になりえない。「大和」撃沈以前に遡って物語を開始させているため、単なるシミュレーション、即ち歴史のIFと見るべきである。沖縄で沈められた「大和」が活躍する話など不謹慎でけしからんという非難は非難たりえず、あくまでも個人の感想の域を出ない。だが、撃沈された史実を踏まえた上で、艦体を引き揚げてどうこう、艦の魂がどうの、などという話を展開したり、そのものずばり撃沈時の様相を作品化したりするとなると、現実と関係のない空想や想定として片付けるわけにいかなくなってしまう。「大和」の撃沈を下敷きに話を展開する以上、「大和」が多数の軍人軍属を抱えて海中に没した事実との向き合い方は当然評価の対象となる。
     纏めれば、『艦隊これくしょん』は現実から独立することができないため、艦娘の描写は史実上の艦艇に責任を負う。ゆえに大東亜戦争という歴史的事実を根拠に評価されることを免れない。
     通常の虚構と『艦隊これくしょん』のような作品の相違はこれで説明できたので、ここで本筋に立ち返り、基本的部分から考えていくことにする。
     まず、戦争という事象を芸術や娯楽の対象とすること自体は不謹慎でも何でもない。戦争に限らず実際に起こった不幸や惨事から着想を得て何かを作ることも同じである。
     他方、実際の戦争を直接の対象とすることは不謹慎の謗りを免れえない。例外と言えるのは、芸術性や娯楽性の手前に記念や記録、再現、研究等の意図があるもののみである。創作と記録の境が曖昧であった古代の神話や叙事詩は娯楽である以前に民族の歴史記録であるし、有名な戦争やその中の一事件や一場面を題材とする絵画や歌謡や演劇や物語等は記念や記録の色彩が強い。模型等は蒐集趣味を満たすものであると共に実物の再現を通じた記録や記念の要素を持つ。教訓を導き出そうと戦史を読み漁るのも研究の側面がある。たとえ叙事詩が心を躍らせ、絵画が目を楽しませ、模型が棚を飾り立てようと、また軍人や研究者が戦史研究に知的楽しみを感じようと、それらは副産物でしかない。しかし、『三国志』を娯楽小説化した『三国志演義』のように、実際にあった戦争を利用して一つの娯楽作品に仕上げるが如きは不謹慎な楽しみである。『三国志演義』であれ『坂の上の雲』であれ『艦隊これくしょん』であれ、根本的な部分が不謹慎であることに違いはない。
     従って『艦隊これくしょん』が先人への冒涜であるか否かの答えは、根本的な部分では是である。
     だが、虚実問わず戦争が芸術や娯楽の対象として良くも悪くも認知されていることに鑑みると、単に戦争が題材であるからという理由で不謹慎だの冒涜だのと非難するのも道理に合わない。不謹慎であることは当然の前提とした上で、その中でもどのくらい不謹慎であるか、換言すれば殊更に先人の名誉や心情を傷つけるような真似をしていないかどうかによって、最終的な評価を下すべきである。言わば、同じ糞であるとしても、目糞なのか、鼻糞なのか、それとも糞便なのかということが重要となる。
     この観点において、第一に、軍艦を美少女として擬人化すること自体に問題はない。古来、海洋関係は女性形で表現される。母なる海、母港、母艦などと言うし、船舶の人称代名詞は「彼女 She」である。父なる海、父港、父艦とは言わないし、船舶を「彼 He」と呼ぶこともない。付け加えれば、『艦隊これくしょん』のプロデューサー田中謙介が新装版の解説及び帯のコメントを書いたことで賛否両論を呼んだ大井篤の『海上護衛戦』には、気負いや衒いもなくごく自然に老朽艦を「お婆さん艦」と評した部分がある。また大井篤は同書でデリー丸撃沈を「あわれや彼女は手もなくやられた」と表現している。「お爺さん艦」や「彼」と書かなかったことが重要である。これは海軍軍人の間に艦艇を女に見立てる文化或いは慣例乃至慣習が根付いていたことを示す。よって艦艇を見目麗しい婦女子として描くことに特段の不思議はない。擬人化された艦艇達との恋愛めいたやり取りが設定されている点も、現実の兵士達が命を預ける兵器に抱いた愛着を踏まえれば、取り立てておかしなものではない。波間に消えた帝国海軍の将兵が艦娘というキャラクターを目にした時、美少女化という行為に呆れたり、美的感覚の相違や考証の正誤を巡って争ったりすることはあっても、特に堅物と言われるような人でなければ、キャラクター化それ自体に不謹慎であると怒り出すことはないものと思う。ドイツ装甲部隊の父と呼ばれるハインツ・グデーリアンが装甲兵総監として認可したことで知られる『ティーガーフィーベル』という実例もある。これなどはティーガー戦車をエルヴィラ・ティーガーという金髪巨乳美女に擬し、エルヴィラの口説き方を指南する形を取ってティーガーの使い方を戦車兵に指導している。全裸や乳首が解禁されている分、艦これよりもよほど過激であるし、最終的に戦車兵とエルヴィラが結婚してしまう点は艦これの先駆者と言ってもよい。こうした点から、軍艦の美少女化やそれとの恋愛表現は特に咎め立てるべきことでもないと言える。
     実在の軍艦を娯楽に供することも同様に非難される筋合にない。戦争は伝統的に芸術と娯楽の対象である。大東亜戦争だけが聖域であるべくもない。また、大東亜戦争を聖域とするのであれば、艦これに限らず、仮想戦記や戦史を基にした創作等もすべからく非難すべきであるが、鼻息荒く艦これを不謹慎だと非難する者達の全て乃至過半が戦争を題材とする他の娯楽作品を同様に非難しているとは寡聞にして聞かない。戦争と軍艦を娯楽の種にすること自体を取り沙汰する者達の多くは、美少女として擬人化することに嫌悪感を抱いているか、大義名分のありそうな批判者の尻馬に乗っているか、単に艦これに個人的悪意を持っているだけのように感じられる。
     擬人化された軍艦であるところの艦娘という存在の位置付けにも殊更な悪意は見られない。詳細な公式設定は明かされていないので何とも言えないが、要するに艦娘とは、第二次世界大戦で国益を守るために戦って失われた軍艦の転生者か記憶の継承者か何かであり、彼女らは戦争の辛苦と恐怖を知っていながら、提督たるユーザーの指揮下、人類を守るために再び戦場へ赴くのである。この際、艦娘は共に沈んだ史実の戦死者達の存在も背負っているものと看做さねばならない。戦いから解き放たれて安らかに眠っていた死者に鞭打つ行為である、戦中の徴兵同様の強制性を以て少女達を戦場に送り出している、運命を共にした将兵とその遺族への侮辱である、などといった見方も無論成立する。事実、考察や二次創作物の中には、艦娘達は無理矢理戦場に駆り出されていると解釈するものもある。だが、多彩な解釈が許されるのであれば、任務を果たせず沈んだ無念を晴らす機会を得たとも、恐怖や苦悩を堪えて再び立ち上がってくれたとも、戦いの道具として生み出された者達が本分を果たす場を与えられたとも、また忘れ去られるばかりであった艦艇と乗組員に今一度光が当たったとも、当然受け取ってよいはずである。すると、この設定そのものは白でも黒でもない。見る側がどう捉えるかで決まる。この時、肯定意見と否定意見はどちらも尊重しなければならない。良いように取らねばならないということもなければ、悪いように取らねばならないということもない。すばらしい設定なのだから肯定せよと迫ったり、不謹慎な設定だから否定せよと迫ったりすることがあれば、どちらであっても傲慢な押しつけである。
     更に言えば、設定もしっかりしている。艦娘達のキャラクターには元となった軍艦の外観や逸話が反映されているし、その他の設定にも史実が細やかに活用されている。この部分をこういう形で表現するのか、よくこのような細かい部分まで取り入れたものだ、こういう逸話があったのか、と驚嘆させられる点は非常に多い。萌え系の絵柄や内容のせいで食わず嫌いをされがちだが、こういった部分に関して『艦隊これくしょん』は真面目である。真面目に馬鹿なことをやっていると言うと一層雰囲気がわかりやすいかもしれない。ただし、これがあくまでも小説や漫画等を含めたコンテンツ全体を眺めての話であってゲーム単体への評価でないことは気に留めておかねばならない。ゲームのみを見る限り、史実要素が占める割合は決して高くない。キャラクターとそれを取り巻く要素に史実要素が明確且つ縦横に表れているかと言えば否であるし、各イベントも史実要素こそ取り入れられているものの史実知識の有無が成否に関わることはない。メディアミックスを前提としていなければありふれたギャルゲーもどきの一例に終わったかもしれない。史実を下敷きにした作品としての艦これ像は、メディアミックスによるゲーム外の表現に因るところが大きい。
     それはさて措き、他にも見るべき面はある。どういった形であれ、軍人や研究者といった専門家や軍事オタクのような半可通の類以外が最早忘れ去りつつある過去に、専門家でも愛好者でもない普通の人々がもう一度関心を寄せる機会を作ったことは大きい。パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』は誇張や隠蔽や誤認が少なからずあることが判明して賞味期限の迫った感こそあれ良い資料であるし、デビッド・M・グランツの『詳解 独ソ戦全史』はソ連側の資料に依拠した珍しい良書でもある。小林源文の作品も国産ミリタリー漫画――当人は「劇画」と称しているが――の白眉である。しかし、いずれも関心のない者からすれば取っ付きにくいことこの上なく、事実上、専門家とオタクのためのものと化している。どれだけの良書であろうと読まれなければ意味がない。世間の関心を惹いたという意味では、昔気質の軍オタの他、本格派や硬派を自任する軍オタなどが顔を顰めそうなもの、内田弘樹の『どくそせん』や「ストパン」こと『ストライクウィッチーズ』、「ガルパン」こと『ガールズ&パンツァー』等の方が、よほど貢献している。萌えや擬人化は厳密に言うと不純物や雑音であるため――『バルバロッサ作戦』に美少女化されたドイツ兵の挿絵が必要かどうかを考えればわかりやすい――この手の形式が溢れ返るようでは辟易するが、間口を拡げて人々を深みに誘い込む呼び水としては重宝する。
     人が増えれば自ずと場は豊かになる。「ガルパン」の放送を受けて戦車関係の企画が賑やかになったことは周知の実例であるし、艦これについても角川書店からの『海上護衛戦』再販に大きく貢献したと見て間違いない。何しろ、先述した如く、帯には「赤城」が描かれ、解説はプロデューサーの田中による。あの時期にこれが出てこの通りになったのであれば、関連性は否定しようがない。全国の軍オタの少なからずはこの点に限り艦これに足を向けて寝られまい。帯や解説に批判の声が上がるのもわかるが、その辺は付加価値でしかなく大本の価値である本文を乱すものではないので深く気にするのは生産的でない。この辺りの擁護と批判は、いずれ『海上護衛戦』の書評を書く時に詳しく触れたいと思うので、ひとまず措く。
     結局のところ、第二次世界大戦で失われた軍艦が美少女として蘇って再び戦いに赴く、という背景設定自体を批判する向きは、物事の道理を説いているのではなく自身の感情や嗜好や思想を主張しているのに過ぎない。それはそれで一つの意見や反応として表明の自由を保障されるべきではあるが、特別な正当性や強制力などなく、またあってはいけない。嫌ならば好きにならなくてよい。気に入らなければ気に入らないでよい。しかし、嫌だから、気に入らないから、と封殺を試みるのは我儘が過ぎる。このことはよく理解しておかなければならない。
     しかしながら、実在の人物や事物を題材とする創作物や二次創作物の制作においては、いかなる場合も留意すべきことがある。制作物を当人や関係者に堂々と見せに行くことができるかどうかである。結局全てはこの点に帰すのかもしれないが、これは不謹慎であるか否かの重要な判断基準となる。相手が一緒に楽しんでくれそうであるとか、楽しみはしないまでも苦笑一つで済ませてくれそうであるとかと思えるのであれば、多分不謹慎ではない。一方、もし出来栄え以外の理由でためらいが出るようならば、それはおおよそ不謹慎なものと考えて差し支えない。元ネタである艦艇の乗組員に艦娘を見せたところ好意的な反応があった、という話を錦の御旗にする向きがあるのもこの点によるのであろう。ところが、この逸話には落とし穴がある。乗組員が見せられたものは比較的綺麗な部分に過ぎず、決して全てを一望した上でよしとしたのではない。「那珂」の乗組員の件がよく引き合いに出されるが、同人誌に限らず Pixiv 辺りで掃いて捨てるほど発表されている成人向けイラストを二、三点見せてなお、同様の好意的反応を得られるかどうかは甚だ怪しい。たとえば、艦娘「那珂」が薄汚い男達に犯されて泣き喚く絵を見た関係者が喜ぶとは考えにくい。もちろん、乗り組んだ艦艇や戦友にさしたる愛着のない人や、虚構は虚構と割り切って歯牙にもかけない人もいるだろう。そういうものも含めて一つの文化や遊戯であると笑い飛ばす鷹揚な人もいるだろう。しかし、そうであろうと勝手に期待する、或いはそういう態度に付け入ることは決して褒められたやり方ではない。ここで述べたのはゲーム単体ではなくゲームを取り巻く界隈全体という単位での話だが、社会的作用が界隈を通じて総合的に現れる以上、ゲームの枠を越えてこの視点に立たざるを得ない。
     こういう意味では、『艦隊これくしょん』が招く妥当な批判は、背景設定ではなくその表現方法と展開方法に向けられるものであるように思う。
     艦これはゲームだから、ビジネスモデル、ゲームシステム、プレイング、ユーザーが該当する。
     一通り眺めてみると、これは確かに冒涜的と非難されるに値する。これは本当に酷い。非難する者が出るのは無理もない。
     ビジネス面で言えば、二次創作活動を前提とする点に大きな問題がある。始動当初から散々言われてきた通り、艦これは課金ではなく広告収入、メディアミックス、グッズ展開等を主要な収益源とするビジネスモデルを採用している。ゲーム自体は利益が低くてもよいのである。このモデルを成立させるためには艦これの知名度とユーザーの定着率を高める必要がある。二次創作の容認はその対策の一環である。これは『東方Project』の展開方式を参考にしたとも言われており、東方同様、艦これもまたその隆盛を二次創作活動に依存している節がある。二次創作をどうするかは権利者の胸三寸でよいのだが、艦これビジネスの都合を云々するばかりで元ネタへの配慮が全く存在しない点は利己的且つ無責任である。制作側の不作為による無為無策が、先に述べた「那珂」の例のような『艦隊これくしょん』の成人向け二次創作物の氾濫を招いた。
     システム面で言えば、目玉となるコレクション要素と戦闘要素が癌となっている。前以て断っておくと、コレクション要素は艦娘自体ではなくその艤装であるとの説もある。つまり、建造と解体は艦娘をどうこうするのではなく艤装をどうこうすることを指し、ドロップもその艤装を装備した艦娘との遭遇を指すという見方である。この見方をゲームや関連作品の描写を基に考察すると、各艦艇の艤装に適性を示した少女をクローン化して戦力化しているとか、艤装が装着した少女の心身を乗っ取って艦娘に変形させているとかといったSFやオカルト的説明が思い浮かぶ。しかしながら、いずれであるとしても、意味合いが変わるのは少女達の扱いであって艦艇の扱いではない。艦艇が艦娘であろうと艤装であろうと、艦艇の化身たる何かが扱われる点は等しい。たとえ艦娘が艦艇の生まれ変わりそのものであろうと、或いは神道における分霊のように本体となる艦艇から無限に分けて生成可能な分身に過ぎないのであろうと、それは艦艇に由来するものである。ゆえに艦艇の本体が少女であるか艤装であるかは特に問題としない。
     前置きはこれで終えて本筋に戻る。
     コレクション要素について言えば、各艦娘に稀少度の差があることもそうだが、それ以上に同一艦娘を複数体入手可能である点、艦娘を解体することで資源として再利用できる点、近代化改修によって艦娘を強化するために別の艦娘を素材にできる点、保有数に制限がある点に問題がある。海軍内での位置付けや軍艦としての知名度や性能等、またそれに基づいて設定されたゲーム内での性能等に応じて、稀少度に差が出てしまうのは仕方がない。戦艦「大和」と駆逐艦「吹雪」が同等であるべくもない。もしこの二隻を同等に扱えば台無しになる。だが、同じ艦娘を複数体入手可能となると、必然的に稀少度の低い者や既に入手した者が何度も手に入って、いわゆる外れ籤が出てしまう。解体や近代化改修はつまるところ不要な艦娘の有効活用であり、これに選ばれた艦娘は軍艦の本分である戦力としてどころか、擬人化の目的である愛玩や鑑賞の対象ですらなくなる。艦娘の保有数の制限は、どうしても不要な艦娘という存在を生み出してしまう。
     戦闘要素に目を向ければ、轟沈時に聞ける特別な台詞や損傷時のお色気要素も問題となる。これらは艦娘を轟沈させたり損傷させたりしない限り、決してユーザーの目に触れることがない一方、一度は見ておきたいと好奇心を掻き立てもする。
     これらが冒涜的なプレイングの土壌となる。と言うのも、全ての艦娘を揃えようと建造等を繰り返していけば、必然的にダブり艦娘が出てくる。この時、同一艦娘を集めているなどの事情でもなければ、ユーザーにとってその艦娘は外れである。母港の登録枠を埋めてしまう邪魔者ですらある。この場合、ゲーム上の効率を求めるのであれば、外れ艦娘は解体か改修の用に供することになる。また、ゲームを味わい尽くすという意味では、轟沈時の台詞や損傷時の姿なども一通り見る必要がある。その場合、手塩にかけて育てた精鋭が敢えなく沈むというのは親切設計のゲームバランス上、なかなか考えにくい。気をつけていても全滅する時はあっさりと全滅する『ウィザードリィ』とは異なり、現在の『艦隊これくしょん』はユーザーが無理をしなければ艦娘が轟沈することはない。従って艦娘が轟沈するのは、ユーザーが牟田口中将級の無謀な采配を振るうか、神少将のように轟沈前提の計画を立てるかした時である。要するに艦娘の轟沈はユーザーがそう仕向けた時にだけ起こる。後者の場合、大事な艦娘を敢えて死なせることは普通ありえないため、不要な艦娘の処分を兼ねて余った者に特攻を命ずることになる。艦娘を外れ扱いするのも、不要物として処分するのも、わざと傷つけるのも、元となった史実上の存在とその関係者を敬っているか軽んじているかで言えば、明らかに軽んじている。
     既に取り上げた酷いプレイングはゲームシステム上必然的に発生する。もちろん、艦娘や元となった軍艦に深い思い入れを抱き、まるで生身の部下や友人のように親身に接したり、実際の乗艦のように愛護したりするユーザーがいないとは言わない。また、そうすれば有利になり、そうしなければ不利になる不公平な択一問題ではあるが、最終的な選択権がユーザーにあることも事実である。だが、ゲームシステムがそれを可能とし、しかもそこにゲーム上の利益がある以上、格別の思い入れのないユーザーにとって選択肢はないに等しい。ユーザーの道徳心に期待するのは無駄である。『ウルティマ4』が悪行にペナルティを科したように、不道徳なプレイが不利益に繋がるシステムでなければ、所詮はゲームであるという認識から、ユーザーの多くは効率のために自覚的或いは無自覚に道徳を踏み越える。
     ゲームがどういうシステムを採用しているのであれ、プレイするのがユーザーであることに変わりはない。この点においてユーザーにも責任がある。しかし、ゲームがそうしたプレイングを促すように出来ているのであれば、ゲーム側にも当然責任がある。
     この論理は濫用してはならないものである。もし濫用すれば際限のない連帯責任が可能となってしまう。子供が暴力事件を起こすのはゲームの過激な暴力描写のせいであるとか、書店に並ぶ護身術の教本のせいであるとかという主張が好例である。濫用が窮まれば、殺人に使われた包丁の販売者や製造者が責任を問われることすらあるだろう。
     製造者や提供者に発生した損害や失敗の責任を問うてよいのは、製造物なり提供物なりの主な目的や機能が有害な作用を惹き起こすことである時、その物品の提供や製造自体に規制や制限がある時、有害な用途に使用されると推定できる時、問題点を認識していながら放置している時、明示的と暗示的とを問わず推奨する使用法に問題があり、且つその指示に使用者に対する何らかの影響力があった時のみである。使用者に対する影響力の有無は、使用者が特定個人であればその個人、不特定多数であればその内のどれだけが指示に従うか否かで判断する。どれだけが従えばよいか、その割合に一定の基準はない。たとえば、一万人の使用者の内の千人が従えば確実に影響力があると言えるが、十人の使用者の内の一人が従うだけでは影響力があるとは言いがたい。従って事例や分母ごとに個別に判断する外ない。
     最後の、即ち第五の区分の判断にはとりわけ注意を要する。他の四つは責任の所在が明確なため議論が紛糾することもないが、こちらは製造者や提供者の責任の有無を巡って意見が分かれやすく、この講釈の発端となった論理の濫用の土壌となる。その物品等が持つ影響力に実際どれだけの実効があるかを考慮に入れなければならない。ただそのような指示や示唆があるというだけでは不充分である。護身術の教本に「身辺や地域の安全のためには、ここまでに教えた技術を駆使して積極的に不審者を捜索し、事を起こす前に再起不能にしなくてはならない」と書いてあれば不特定多数に対する指示に当たるが、実際に不審者を狩り出して攻撃するような者はまずいない。この時、指示に実効的影響力はない。従って、もし実行に移す者が出ても、責任は実行犯の度外れて劣悪な知能にしかない。ところが、名札の佩用は不審者に個人情報を知られる危険を伴うが、学校が推奨すれば従う保護者や生徒は多いはずである。推奨する方法の有害性と指示の影響力を完備するため、法的にはどうあれ道義的な責任の分担は避けられない。
     これだけでは想像や理解が難しいと思うので、参考までに具体例を挙げる。主要な目的や機能それ自体が概ね有害であるものにはたとえば麻薬、製造や提供に制限があるものにはアルコールやポルノ等が該当する。有害な用途に使用されると推定できる時とは、たとえばたびたび暴力犯罪を起こした人物が武器を求めてきた時である。問題点を認識しながら放置しているというのは、SNSや掲示板で発生するトラブルの多くが該当する。そして、推奨する使用法に問題があり且つその指示に使用者への実効的影響力がある時には、他ならぬこの『艦隊これくしょん』が該当する。
     前四例の詳細な説明は要るまい。第五の例、『艦隊これくしょん』は多少わかりづらいところがあると共に本稿の主題でもあるため、これのみ特に触れる。『艦隊これくしょん』が推奨する使用法とは、第一にビジネスモデルに沿った取り扱いである。これは関連物の購入や各種イベントへの参加、二次創作活動等がこれに当たる。第二の使用法は、ゲームシステムに適うプレイングであり、ゲームシステムに適うプレイングはその通りにすればゲーム上の利益に繋がるため不特定多数のユーザーへの充分な訴求力を持つ。より多くの建造に繋がるとわかっていれば大半のユーザーは敢えて解体を避けようとはしないであろうし、解体措置が任務として指示されて実行しないユーザーも多くはあるまい。しかし、既に述べてきたように、ゲームシステムが推奨するプレイングはどうしても先人への冒涜に繋がってしまう。この点から、『艦隊これくしょん』及び制作側は責任をユーザーと分かち合うことになる。
     当然、制作側にも言い分はあろう。
     現在、創作物の商業展開には二次創作の容認が大きな助けとなる。特にオタクを対象とする場合は事実上必須ですらあり、程度の差はあれ、認めざるを得ないのが現状である。一般の認知度を高め、オタクを惹きつけるために、二次創作が盛んになるよう計らうのは戦略として何もおかしなところはない。またその際、二次創作活動を萎縮させないために、なるべく枷を嵌めない方針を取るのも頷ける。事実、何を根拠に規制を加えるのか、規制の適用基準はどうするのか、といった問題がそこにはある。単純に性的描写を焦点にするにしても、性的であることが問題であるのか、陵辱等の状況が問題であるのか、直接の描写がなければ何をしてもよいのか、などの議論が紛糾することになろう。また、基準を曖昧にすれば、ユーザーから厳格に裁くつもりがないと看做されて有名無実化するか、何が抵触するかわからないと懼れられて活動が萎縮することになる。厳格にすると、過不足のない基準を設定するために大変な手間がかかる上、それを理解するユーザー側にも大変な労力が求められる。現実的に考えると、制作側が「物分かりの良さ」を示すのも無理からぬことではある。またユーザー側と言うか消費者側としても、二次創作の幅が広ければ広いほど楽しめることは事実である。制作側とユーザー側の利害と需給は一致している。
     艦娘の重複入手が不可能であれば、一体手に入れるたびに目当ての艦娘の入手確率が上がっていく。また、艦娘を失いさえしなければ、ユーザー間で最終的な試行回数に差は出ない。艦娘の種類と同じ回数だけ試せばよい。そして、全種が揃った段階で艦娘の建造という要素は一旦死ぬ。これにより、ユーザーの執着心や課金額は伸び悩むことになる。この商業的失敗を回避するには、艦娘の種類を急激に増やしていくか、新艦娘を手に入れる機会を極端に減らすか、通常のトレーディングカードと同様に重複入手を可能とするかしかない。第一のものは労力と予算の面から難しく、第二のものはそもそものコレクション要素を殺してしまうから、結局、現状の通り重複入手を可能とする外ない。また、ユーザー側に、同一艦の蒐集や予備の確保の需要、ユーザー個々の独自性の追求や表現、即ち自由や個性を求める需要があることも事実である。
     解体措置には一定の意義がある。登録枠が限られる以上、艦籍を抹消できなければプレイに支障を来すし、ゲームシステム上、建造時の資源消費は馬鹿にならない。解体は、不要となった艦娘から登録枠を解放すると共に、支払った代価を多少なりともユーザーに還元するための措置となる。外れた宝籤でも十枚集めれば三百円になるのと同じようなものと見ればよかろう。それでも、解体措置の必要性を認めた上で、「解体」という表現を取ること自体の是非を云々する声があるかもしれない。これについては、実際の退役艦艇のように、記念艦にしたり民間に払い下げたりしたところで、不要な艦艇を処分するという点に違いがないため、表現を変えることに大きな意味はない。解体であれ払い下げであれ、「処分」の言い換え以上の意味を持たないのであればどちらも同じである。ただし、記念艦として栄光を手にしたり、民間船として第二の人生を楽しんだりする描写が入るようならば、多少雰囲気もましにはなるだろう。記念艦や民間船とすることが特別なイベントやボーナスに繋がれば、単なる処理以上の実感も生まれよう。とはいえ、所詮「不要物の処分」の言い換えであること自体に変化がなければ、根本的な解決にはならない。
     近代化改修は擁護しようがない。現実の改修は別の艦艇から部品を奪ってくるようなものではないのだから、これは制作側が敢えてそう設定したものである。解体と同様の登録枠解放や不要艦娘活用の手段に位置付けたのかもしれないが、手段は解体だけで足りている。その上で更にこのようなものを盛り込むのであれば、制作側の悪趣味な思いつきとの謗りを免れ得ない。『真・女神転生』シリーズの悪魔合体、特にイケニエ合体にも同様の問題点があるが、こちらは背徳的な行為であるとの認識を前提とする分いくらかましである。
     保有数制限は仕方がない。リアリティの面から言えば、港湾や基地の能力には限界があるから、自ずと管理可能な艦艇数は限られる。商業上の理由から言えば、制限がないと誰も彼もが艦娘を際限なく増員し続け、データ量が増大してサーバー維持費が跳ね上がってしまうし、上限拡張のために課金する方が利益も出る。艦娘獲得の困難にしても対処できるが、艦娘を集めるゲームでありながらそれが難しいとなればコンセプトを揺るがしてしまう。このため、リアリティ的にも商業的にも文句のつけどころがない。ただし、拡張可能数が艦娘の種類よりも少ない点は考えどころである。艦隊編成の個性表現に繋がる一方、これもまた、不要な艦娘を生み出すことに繋がる。
     轟沈時や損傷時の特別な演出も、キャラクター性の強調や史実との関連付けという意味では効果的である。一般的なシミュレーションゲームのメッセージのように「戦艦『長門』が轟沈しました」などと事務的に表示するのに比べ、こちらの方がキャラクターをより具体的に感じることができる。明らかにゲーム部分よりもキャラクターが主軸となるこのような作品にはふさわしい。それを見ることがゲーム上の目的の一つと化してしまうジレンマが悩みどころなのであり、これは採否いずれを選んでも違った理由でゲームの完成度を損なう如何ともしがたい難題である。
    『艦隊これくしょん』というゲームのシステムは、大筋において、ああいったものにならざるを得なかったか、或いはああいったものとなったことに合理性を有する。ゆえにここを責めては制作側にあまりにも多くを求めることになる。
     だが、言い分に理ありと認めるに際しては、営利事業として成立させる上では、との但し書きが必ずつく。既に述べた問題点を残らず解消した場合、おそらく採算が取れず、事業は破綻してしまうからである。事業として成立させるためには、このような問題点の発生は止むを得ない面がある。しかし、そのようなことは、元となる実在の艦艇やその関係者及び愛好者にとってどうでもよい。彼らがどうか作ってくれと頼んだわけではない。営利事業なり創作活動なりをしようと思う側が勝手に始めたことである。要は、自分達の都合に反しない範囲で元ネタに配慮する、ということだから、何の正当化にもならない。元ネタを完璧に尊重しない限り、倫理的正当性を得ることも、非難を免れることもできない。法的にはともあれ、倫理的に人は全ての事柄に無限責任を負う。たとえ現実的に不可能であったとしても、完璧を実現できない限り、その人の行為には瑕疵がある。その部分は能力不足か妥協の結果として扱われる。不完全な結果が許容されるのは、完全の実現が不可能であり、且つ多大な努力や苛酷な条件、誠実な態度などの情状酌量に繋がりそうな要素が過程に含まれるからである。しかし、この情状酌量は厳格に行わなければならない。上辺だけのものを評価してはいけない。事実、制作側は軍艦への愛や先人への敬意を表明しているようだが、その愛も敬意も所詮は二義的なものである。しかも、元ネタに対する愛情や敬意はあって当然のものであって、それによって何かを正当化できる免罪符ではない。
     しかしながら、悪いのは制作側だけではない。ビジネスモデルやゲームシステムとそこから生じるプレイングの責任が制作側にあることは既に述べた。だが、この事実はユーザーの無謬性を示すものではない。プレイしているのがユーザーである以上、ユーザーにはユーザーの非がある。
     ユーザーの非は様々である。たとえば、冒涜的なプレイングをしていること、艦これ文化を押しつけて回っていること、無神経な発言を繰り返していること、艦これをネタに下衆な二次創作を行っていること、批判に対して自己正当化に走ることなどを挙げられる。他にも考えられるが、いちいち列挙しても仕方がないので今はこれだけに留める。全ての非を犯すユーザーは珍しいが、一つ二つの非を犯してしまったユーザーは珍しくもあるまい。
     冒涜的なプレイングは明らかに悪い。艦これのシステムがそれを促していることはここまでに指摘した通りである。しかし、このことは酌量に繋がりはしても免罪に至りはしない。結局、利益の逸失や機会の損失という損害が生じはするものの、回避しようと思えばできる以上、最終的な責任はユーザーに帰する。冒涜的なことをすればその時点でユーザーにも責任が生まれる。
     艦これ文化を周囲に押しつけるのもよろしくない。好きなものを好きだと言うのに遠慮は要らないが、自己主張をするのにそぐわない場でまでそういう発言をしたり、強引に物事を艦これに関連付けたり、嫌いだと言う者に敵愾心を燃やして非難したり、興味を示さない者に執拗に布教したりするような行為は、控えめに言って単なる迷惑行為である。擁護の余地がない。
     無神経な発言の数々も非となる。ダブってしまった艦娘が邪魔であるとか、どうせ大した功績のある艦でもないとか、この艦娘は気に入らないから解体した或いは轟沈させたとか、ダブっていた誰を何人解体したとか、解体するのであれば誰が適しているとか、頻繁に手に入る艦娘は生きた資源であるとかといった発言も、聞く者の中には顔を顰める者も当然いよう。元ネタとなった艦の関係者や愛好者、また国家のために戦った人々に敬意を払うべきと考える者の少なからずが憤懣や落胆を覚えるであろう。内輪の雑談としてであればまだよいが、インターネット上などの不特定多数の知るところとなる公の場で堂々と放言するのは好ましくない。なお、このことは決して『艦隊これくしょん』ユーザーに限ったことではない。軍事研究者や軍事愛好者の会話についても、また他の様々な分野においても同様である。「戦争末期の第X歩兵連隊は速成教育を受けただけの雑魚揃いだからあっさり玉砕して何の役にも立たなかった」などの悪意ある表現を公の場で示せば非難を免れない。
     二次創作にも色々とあるが、「二次創作の貴賎――上品さと下品さ」で述べたように、原作への敬意がないものは賤しい。敬意がないとは、悪意があると言い換えてもよい。『艦隊これくしょん』の場合は、原作に更に元ネタがある点から、三次創作と見ることもできるし、配慮すべき対象は通常の二次創作の倍もある。さすがに、作品がそういった意図で構成されていない限り二次創作物に登場する艦娘を一足飛びに現実の軍艦と結びつける者はあまりいないだろうが、元ネタの尊重という観点からは、そういう部分に慎重になることが望ましい。一見無意味とも感じられる部分を疎かにするところから敬意が綻びていき、そういう部分にも配慮するところから敬意が培われていくものだからである。悪意ある作品が何かは一概に言えるものではないが、作者や読者の性欲と嗜好を満たすためだけに、作劇上の必然性や必要性もなく、まさにその描写自体を目的として性描写や虐待描写を入れたようなものは非難されても文句を言えない。一般的な感性にとって、こよなく愛する何かが他者の性欲の捌け口にされるさまは不愉快極まる。
     自己正当化は極めて見苦しい上に不毛である。批判を受けた際、自身の立場や事情を相手に説明すること自体はよい。相手の抗議の結論となる要求を拒否することも構わない。むしろ、唯々諾々と相手の言い分を受け容れたり、逆に取り付く島もなく黙殺したりするよりは誠実な態度と言える。しかし、客観的に是非を決定できない論点や相互に正当性のある論点、たとえば感情的問題や思想的問題について、自身の正当性を主張したり、相手の正当性を否定したりするのは多くの場合論外である。これらは往々にしてどちらも正しいかどちらもおかしいのであり、一方的な正しさやおかしさを結論付けることはできない。艦これが先人の戦いを侮辱していると言われたならば、実際に侮辱の意図があったかどうか、また一般的にそう映るかどうかはどうでもよい。その人物が現にそう感じたことが重要なのである。侮辱の意図がなければないと答えるべきだが、それだけで終わらせたり、侮辱と捉えることが間違っていると責めたりしては筋が通らない。侮辱であると感じさせるような表現があったこと自体が問題となるのである。他方、もしこのことを理由に『艦隊これくしょん』のサービス停止や表現の修正等を併せて求められたとしても、法律の範囲内で行っている以上、従う謂れはない。要するに、侮辱の意図はなかったがそう感じさせてしまったとしたら謝罪する、しかし、サービスの停止や変更といった対応を行うつもりはない、という回答が最大限の主張である。また、自分達は正しく批判は全て的外れであると決めつけていては、問題の存在を認識することも改善することもない。要するに、いかなる意図でしたことであれ不快だと言われれば詫びる外ないが、不快だからやめろと言われても応じなくてよい。しかし、いずれであれ、それに不快感を持つ者がいること自体は心に留めておくべきなのである。
     もちろん、冒涜的と評したプレイングにも似た行為が、他ならぬ旧海軍でも当然のように行われていたことは事実である。財政や戦略や思想により、特定の艦種を重用或いは軽視することもあれば、世界水準から取り残された低性能艦を処分することもあった。標的艦として仲間の手で撃沈されたものもあった。建造の優先度を落とされた艦艇も、軍部や国民から持て囃された艦艇もあった。また、軍人達が、配属先として艦艇の当たり外れを言い合うこともあった。この艦は当たりだとか、あの艦には乗りたくないだとかといった論評は、階級の上下や歳の長幼を問わず盛んに交わされていた。
     こういう意味では、艦艇を変に神聖化するのは良くない。艦艇といえども所詮は器物であり、現実の都合に翻弄される存在である。
     しかし、誰かがやっているから自分もやってよいという論理は詭弁である。また、以上に述べたような振る舞いが、ここまで言っては大袈裟かもしれないものの、まさにそれに人生を懸けた人々のものであることを失念してはならない。一国の興廃と安全に責任を持つ政治家や軍人は、その時々の事情と制約と着想に基づいて、少しでも国防に資する道を選ばざるを得ない。必然、ある特定の観点下に優れた艦と劣った艦という区別が生じ、優れた艦を採って劣った艦を捨てることになる。前線で戦う将兵にとって、乗り組む艦は、平時であれば人生設計や日常生活を左右し、戦時ともなれば命を左右する。少しでも居心地が良くて強い艦艇を求めてありがたがり、そうでない艦艇を忌避して馬鹿にするようになるのも仕方がない。また、苦楽を共にした艦艇に親愛の情を覚えて幾分か気安く扱うようになるのも当然の成り行きである。そこには当事者としての受け止め方がある。
     翻って、ユーザーにとって艦これは所詮ゲームに過ぎない。人生も生活も懸かっていない。やりたければやればよく、やりたくなければやらなくてよい。やったからと言って人生が開けるわけでも、やらなかったからと言って人生が閉ざされるわけでもない。何か成功があっても実生活は潤わず、逆に失敗があっても実生活は傷つかない。実に気楽な立場であり、関係性もひどく薄い。所詮局外者である。
     関係性の濃淡親疎で言えば、軍人と艦艇は寝食を共にする親友、ユーザーと艦艇は挨拶や雑談をするだけの隣人、というほどの差がある。長年の親友と単なる隣人が同じように振る舞うことなどありえないし、受け容れられるべくもない。共に親しみを表す意図があるとしても、親友が「あいつは馬鹿だから」と笑うのと、ただの隣人が「あいつは馬鹿だから」と笑うのとでは印象が違う。前者は遠慮のない軽口だが後者は僭越な悪口である。他方、相手を軽蔑するつもりで口にするとしても、親友が「あいつは人間のクズだ」と吐き捨てるのと、隣人が「あいつは人間のクズだ」と吐き捨てるのとでも、やはり印象が異なる。親友と言えるほどの間柄ならば相手の長所も短所も知悉しているであろうし、単なる隣人に過ぎなければ相手のことなど上辺だけしか知らないに違いない。それだけに、親友が親友を軽蔑するには多くの苦悩や葛藤を経る必要がある上、そうして出された結論は一定の重みを持つ。ところが、隣人が隣人を軽蔑するのに特別な精神的障壁は存在しないため、気軽に出された結論は上辺だけを見た浅薄なものとなる。ゆえに、前者は親友にそこまで言わせる何かがあったのかと重く響くが、後者は赤の他人が知った風な口を利く鼻持ちならなさを伴う。
     関係者が艦艇に遠慮のない口を利くことが容認される一方で、部外者が気安い態度を取れば非難される。
     また、関係者は愛着や体面上、気軽に艦艇を非難できない反面、一旦非難を示せば重みを以て受け止められる。
     逆に部外者は所詮赤の他人に過ぎないため、気軽に非難の言葉を吐ける反面、発言は反感を以て受け止められる。
     こうした相違に多くの人々は無自覚である。
     しかし、認識されないことと存在しないことは異なる。相違は気づかれないままに摩擦を起こし、齟齬を生み出している。艦これユーザーは、赤の他人でありながら長年の親友のような態度を取り、その身の程知らずによって顰蹙を買う。
     ユーザーの非の例を列挙して簡単に説明してきたが、これらは確かに非ではあるものの、何らかの強制力を以て断罪すべきかと問われれば明らかに否である。ゲームシステムやそこから導かれるプレイング、即ち制作側の非についても、何らかの強制力を以て裁くべきものではない。なぜならば、ユーザーも制作側も、その行いに法に反するところが全くないからである。
     彼らの行為に違法性や不法性があれば話は単純である。法が妥当なものであることは当然の前提だが、法に反するものはそれが何であれ罰を与えたり改めさせたりしてよい。法はその影響下にある者全てが共有する普遍的規範である。法に適う行為は全て許され、反する行為は全て許されない。法に適う行為を妨げる権利と法に反する行為を続ける権利は誰にもない。
     この通り、法が禁じていないものを禁じる法は存在しない。
     だが、法が禁じていない限り何をしてもよいという考え方は唾棄すべきものである。物事には限度があるし、法律も万能ではない。明らかに道理に合わない法が定められることもあり、これは一般に悪法と呼ばれる。悪法も法なりと唱えた者もあるが、悪法は法であって法でない。つまるところ、韓非が説いたような徹底した法治主義は共産主義同様現実の人間の手に負えるものではない。従って、法が覆いきれない部分は道徳や倫理で補う外なく、法が人間存在のあらゆる事柄に土足で踏み込むべきでもない。法が及ばない部分は自ら正すべきであり、法の過剰な支配を誘わないためにも自主規制は必要である。法的に許されているという論理は、批判に対する自己正当化には向かない。不当な要求や指示への反撃にこそ有効である。
     個人ではなく集団として何かを禁ずるためには、何らかの一般規準が存在しなければならない。従って、法で禁じることができないものを禁じたければ、法以外の規準を持ち出す外ない。その中でとりわけよく振りかざされるものが道徳である。様々な規準の中で最も正当性と権威があるように見えるのかもしれない。
     しかし、法が許しても道徳が許さない、という論理もまた極めて危うい。いっそこう言ってもよい。道徳を根拠に人を支配する行為は極めて不道徳である。そもそも道徳は他者に強いるものではない。道徳の基礎は自らを律するところにある。道徳とは本来自己規範である。他者に強制したければ法とせねばならない。つまるところ法の基礎は道徳の共有にある。共同体の成員全てが守ることに特別の利益があると認められる規範や成員の多くが既に自己に課している規範を共有のものとするところから法の形成が始まる。特別の利益があるとまでは認められなかったり、ごく一部が守るに過ぎなかったりする規範は、あくまでも道徳であって法でなく、各人の自己規範の域を出ない。自己規範は自己のためのものであり、他人に強いるべき筋合のものではない。法が許しても道徳が許さないという論理は、気に食わないものを弾圧するためではなく、自他に重大な実害をもたらす何某かやたとえ殺されることになっても決して許せないと思う何事かのために取っておくべきである。
     以上に示した法律と道徳の性質と関係から、改めて『艦隊これくしょん』への向き合い方を整理する。
     まず『艦隊これくしょん』とそのユーザーには明らかな非がある。しかしながら、それはあくまでも道徳的なものであるため、その非を鳴らすことはともあれ、非を改めるよう迫ることは道理に合わない。
     従って本稿では、制作側とユーザーに何らかの制裁や懲罰や規制を加えるためではなく、またそれらの必要性を訴えるためでもなく、単に現状の要因を明らかにするためだけに、背景にあるものを考察する。その結果見えてきたものを自身の裡にどう処理するかは読者個々の問題であり、本稿の関知するところではない。指摘した問題点の改善を望み、本稿の内容に理があると思うのであれば判断や行動に取り入れればよいし、本稿に理がないと感じたり、そもそも問題の存在や改善の必要を認めなかったりするのであれば無視すればよい。それこそが分析の自己完結性であり、当事者の主体的判断である。
     ここまでに取り上げてきたものを総合すると、根底に自覚と主動の欠如、即ち無自覚と受動性があることを見て取ることができる。無自覚であるからこそ列挙してきた様々な問題点を作ってしまう。主動がないからこそ、問題点を認めることも正すこともせずごまかしてしまう。自分達が何をしているかを自覚していれば、身を慎むという選択肢も生まれるし、断行するとしても寄せられる非難を甘んじて受ける覚悟も生まれる。主動的であれば、勧奨に流されることも、非難に苦しめられることも、評価に惑わされることもなく、自信を持って己の思うがままに振る舞うことができる。自覚があれば、『艦隊これくしょん』というゲームの不謹慎な点に気づくはずだし、そのようなゲームやそれを楽しむ者が世間からどう見られるかもわかるはずである。そうであれば、非難を甘んじて受けることも、冒涜的なプレイングを自ら慎むこともできよう。主動的であれば、自分の認識と価値観を基礎に物事を判断できる。ゲームシステムが利益による誘導を通じて推奨するプレイングに流されることなく自身が望むプレイングに徹することができるであろうし、他人の異論を許せず非難にいちいち反論したり、周囲の評価を気にして変に取り繕ったりする醜態を曝さずに済むであろう。
     自覚と主動はどちらが欠けてもいけない両輪である。片方がなければもう片方があったところで意味がない。自覚があっても主動的でなければ環境に流されるままに終わり、主動的であっても自覚がなければ見当違いの方向に走り出すことになる。
     翻って艦これ界隈の人々の少なからずが自覚も主動も持ち合わせず、兼備する者に至っては極めて乏しい。自覚がある人は受動的であり、主動的な人は無自覚であるのが現状である。
    『艦隊これくしょん』界隈に蔓延する自覚と主動の欠如は、次の比喩で表現できる。即ち彼らは、ガイウス・テレンティウス・ウァロの敗戦を検証すること、ウァロの敗戦を記録すること、ウァロの敗戦を作品化すること、ウァロとカンナエに取材して架空の人物に物語の中で轍を踏ませること、ウァロの転生なり末裔なりであると設定された人物を再び包囲殲滅戦で打倒することの区別がつかないか、区別をつけていながらその点をごまかしているのである。

    具体性なき紋切り型の批判の扱い

     何作も書いていれば、「情景が目に浮かんでこない」とか、「ストーリーが破綻している」とか、「キャラクターが生きていない」とか、「文章が冗長で目が滑る」とか、そういう具体性を欠いた誰にでも言えそうな批判を受けることも時にはあるだろうと思う。具体的な指摘を伴わないこの種の批判は、取り敢えず文句を言いたいだけの者が持ち出すことがよくある。
     しかし、決してそれだけのものではない。読者という生き物の多くは、良い方向であれ悪い方向であれよほど感情を揺さぶられたのでない限り、感想を述べるのに時間をかけようとはしないものである。
     学者は論文を書く時、前提を整理して根拠を示し、順を追って論理を展開した上でようやく結論を提示する。批評家は批評を行う時、自身が感じたことを万人が理解できるよう客観的な形に直して説明する。編集者は修正を求める時、作品の改善点や編集者としての要求を明確に突きつける。そうすることによって、学者は研究を前進させ、批評家は作品を評価し、編集者は制作に参画する。それができない者は学者や批評家や編集者として承認されない。いずれもそうする必要があるからそうしているのである。
     だが、読者に学者等の態度を期待してはいけない。批判に具体性を求めるのは贅沢が過ぎる。読者は普通、自身の楽しみのために読む。学者のように研究するのでも、批評家のように評価するのでも、編集者のように参画するのでもない。甘えたり頼ったりすべき相手ではない。
     読者の立場は学者等とは全く異なる。普通の読者は、何かを解明し、誰かを納得させ、共に制作するために感想を書くのではないし、読者たる要件は感想を書くことではなく作品を読むことである。読者にとって感想とは本分である鑑賞の添え物に過ぎない。だからこそ、ほとんどの者は何も言わず、どうしても何かを言いたくなった時にのみ沈黙を破る。多くの者は単に一言二言面白いかつまらないかの結論を述べるだけで終える。何が良くて何が悪かったかを簡潔に説明する者でさえ、親切な少数に留まる。原稿用紙何枚何十枚分にも及ぶ感想を述べる者などは滅多にいない。
     従ってこの種の批判を扱うに当たっては、単なる悪意によるものである可能性は無論あるとしても、論証を省略した結論である可能性も念頭に置く必要がある。建設的な何かを望むのであれば、それらの批判を単なる誹謗中傷として一顧だにせず斥けるのではなく、未熟な批評として一旦受け止めてみるべきなのである。自分に悪意を持つ者がいることを教える以外の機能を持たない無価値な悪口として切り捨てるのはそれからでよい。
     誰にでも言えるような具体性なき批判は、単なる悪意や斜め読みなどを除外すれば、少なくとも五通りに解釈できる。
     一、読者の思考力や表現力や意欲が足りない。
     二、作者の理解力が信頼されている。
     三、改まった論証の必要を感じられないほどに問題点があからさまである。
     四、長々指摘するに値しない駄作である。
     五、紋切り型の批判で事足りてしまう程度の作品である。
     一の場合が多数を占めると思われる。大抵の読者は、ろくに考えず感じたことを感じたままに口に出しているか、頭の中に確たる考えを持ちつつも的確に伝達できずにいるか、一から十まで伝えるだけの意欲を持たないのである。
     二の場合はむしろ誇ってよい。これはその作者が一を聞いて十を知って動き出せる人物と看做されていることを意味する。情景が目に浮かばないとだけ指摘すれば、わざわざどこがどう駄目なのかを説明せずとも作者はすぐに了解し、迫真の情景描写を書き直してくれるものと読者は期待しているのである。
     一と二の場合であれば何の問題もない。一の場合は一般的な読者の反応であるから特別な対処は必要ない。二の場合は、それだけの信頼を勝ち取る作者ならば当然患部に思い至って適切な処置を施すであろう。どちらの場合も、等閑に付すことなく感想を吟味する以上の注意点はない。
     三以降の場合は猛省が必要である。読者の評価能力が正当なものであると仮定すれば、これらの評価の陰には、あからさまな問題点の存在に気づけないほど作者に客観性や常識が欠如しているか、そもそも論評する気になれないほどに作品がつまらないか、紋切り型の批判で事足りる紋切り型の作品でしかない事実が潜む。
     肯定的であれ否定的であれ、微に入り細を穿つ感想の扱いは難しくない。どうすべきかは全てそこに書いてあり、作者はただそれに従うか拒むかを決めればよい。
     問題は素っ気ない紋切り型の批判が寄せられた時である。作者はこの時にこそ批判を注意深く見つめなければならない。与えられた言葉を額面通りに受け取り、表面だけを見て満足してしまってはいけない。与えられたものの意味やそれが与えられた事実の意味にも目を向け、周りや裏を見なければ、それが本当に意味するところに気づけない。
     より良いものを作りたいと願う創作者には、己は絶対的に正しいと信ずる自負のみならず、己は間違っているのではないかと疑う内省とが不可欠である。この矛盾を両立させられなければ、傲慢さのゆえに潜在能力の限界に達する遥か手前で伸び悩むか、卑屈さのゆえに挫折して筆を折ることになろう。

    人間関係の処方箋として戦争術との対比の内に恋愛工学を見る――種付け工学の美化、理念や哲学としての破綻、構造的欠陥を抱える理論、強姦術という本質と展望、商業上の都合或いは専門分野の呪縛がもたらす構造的欠陥、戦争術との類似と相違、取り置かれるべきものと捨て去られるべきもの

    一、前書き
     ちょっとした調べ物の最中、検索語句の予測に唐突に「恋愛工学」なる単語が現れたことにより、恋愛工学というものが存在することを知った。
     好奇心から概要を調べてみた結果、それが恋愛をゲームと定義した上でその攻略法を模索するものであることがわかった。
     これは一種のゲーム理論かもしれない。戦争をゲームと定義する戦争術にも通ずるものがあるかもしれない。事実、恋愛と戦争の近似性を示唆する言説も多い。また、事実、恋敵を出し抜き、意中の人を口説き落とす恋愛と、関係者との関係を調整し、敵対者を撃破し、政治目的を達する戦争との間には、似通った性質を見出せる。こう考え、戦争術の研究に資するものがあるかどうか、詳しく調べてみることにした。
     調査と考察の過程で気づいたことや考えたことを次項以下に纏めていく。
     ところで、恋愛と戦争の照応について、述べておくべきことが若干ある。
     まず、恋愛が所詮平和的な人付き合いの一種でしかないことを思えば、なぞらえるべきは戦争ではなく外交である。その意味では、本稿で考察対象とする恋愛工学や戦争術側の代表者の如く扱うクラウゼヴィッツよりも、カリエールの『外交談判法』(Amazon)でも読んだ方がよほど参考になろう。そのものずばりの交際ではなく戦争から恋愛を考えるのは、率直に言って迂遠極まりない。戦争は形を変えた政治や外交の継続であると言っても、平時の話をするのであれば政治や外交に直接当たる方が断然効率的である。敢えてその先にある戦争から遡る必要はない。
     それでも、恋愛を戦争に喩え、戦争術によって読み解くことには意義がある。戦争とは解決すべき問題であり、戦争術とは問題を解く方術である。状況と環境の中で望ましい結果を追求する方策として捉えれば、戦争術の思考法自体は解決すべき問題と達成すべき目標のあるところ、どこへ行っても通用する。むしろ、他の一切の建設的目的を削ぎ落とし、問題解決という極めて非建設的或いは消極的目的のみに適応した方術が戦争術であると言ってもよい。そのように考えると、具体的な技術は当然恋愛やそれに近い分野、たとえば既に挙げた外交などを参考とすべきであっても、根本的な思考法の範を戦争術に求めることは決して的外れな思いつきではない。従って本稿では、一つ一つの技術の有効性ではなく、方向性や思考法という根本的な枠組みを論点に恋愛工学を見ていく。

    二、名称と実態
     情報を漁る中で最初に気づいたことは、これが「恋愛」と銘打っておきながら、実は恋愛を扱ってなどいないことである。もっともらしく「セックストリガー理論」だの「Good Genes or Good Dad 説」だのを持ち出し、まずセックスすることが大事であるかのように謳うことで、恋愛面への言及を巧みに回避している。セックスするまでは指南するがそこから先は各自に任せる、ということである。セックスさえできれば後はうまくいく、と言い換えてもよい。このため、セックスが目的となっている。
     次に気づいたことは、男が女をものにすることが暗黙の前提となっていることである。女の視点はほぼ排除され、男の都合と価値観の下に構築されていた。基本的に、恋愛工学は男に行動を呼びかけ、女に許容を求める傾向にある。
     以上のことから、「恋愛工学」なるものは「授精工学」か「種付け工学」に過ぎないと言える。「恋愛工学」と称する理由は定かでないが、おそらくは単なるイメージ戦略であろう。ヒトラーの『我が闘争』(Amazon)を引くまでもなく、古来、何かを世に広めるには、内容以上に印象が物を言う。もし「種付け工学」の看板を掲げていたら、到底大っぴらに語られるものにはならなかったであろう。印象が悪すぎて、とてもではないが人前で堂々と口にできるものではないからである。疑う向きは、インターネット上に散乱する恋愛工学を論じる文章中の「恋愛工学」を「種付け工学」に置換してみるとよい。低俗な表現と、それでも文意の変わらない低俗な本質に、笑いが込み上げること必至である。ところで、これは人間存在の知性への絶望を誘う疑念ではあるのだが、本音ではセックスを目的としつつも単に世間体のために「恋愛工学」という建前に同調するのではなく、本気でこれを高尚なものと思い込んでいる馬鹿も、ひょっとするといるのかもしれない。そういう連中はまさに恋愛工学商法の良いカモである。新興宗教に財産や尊厳を毟り取られて喜んでいる連中と精神性において変わりがない。
     ちなみに、女側の視点を盛り込めばよいというものではない。問題はそこだけではないのである。そうしたところで「繁殖工学」に育つだけに過ぎない。
     しかしながら、繁殖工学になることすらあるまい。恋愛工学の考案者や信奉者の言説は、どれだけ言葉を飾っていても、透けて見える本音に「気持ち良く射精したい」以上の内容がない。男による男のための男の理論である。理念は徹頭徹尾独善的であって客観的反省がなく、行動も徹底的に自分本位であって他者を尊厳ある人と見ていない。その上、詭弁に満ちた詐術ですらある。

    三、哲学や理念として
     次に抜粋する文章は先ほど述べたことを見事に象徴する。

    考えて見てくれ。見知らぬ男女が出会い、男が声をかけ、連絡先を交換して、デートして、男はセックスに誘い、女はそれを断った。そして、二度と連絡を取らなくなった。
    この場合、誰が勝って、誰が負けたのだろうか。男が負けて、女が勝ったのだろうか。ふたりとも貴重な時間を使って何も起こらなかったのだから、少なくとも誰も勝ってはいない。ふたりとも負けたのだ。
    しかし、ふたりがセックスしたとしよう。そのままふたりは付き合いはじめて、やがて家族になるかもしれない。たとえ別れることになったとしても、女はその男から他では得られない多くの経験をして、多くのことを学んだだろう。そしてセックスの快楽に酔いしれることもできたはずだ。
    セックスは女が男に与えるものでも、男が女から奪うものでもなく、男と女で分かち合うものなのだ。そして、恋愛はふたりでプレイしてふたりとも勝つゲームなんだよ。
    「恋愛工学の教え通りに行動したら本当にモテるようになるのか検証してみた その1」より孫引き)



     これを根底にある理念や哲学を論じた部分と看做し、少し分析を加えてみる。
     まず、説明に際し、ゲームを一方的に仕掛けることをさりげなく是としている。その後も、仕掛ける側に都合の良い勝利条件を達成することが仕掛けられた側の得でもあることを熱弁している。何とか利益を引き出そうと企む詐欺師が用いる詭弁である。
     著者は「この場合、誰が勝って、誰が負けたのだろうか。男が負けて、女が勝ったのだろうか」と反語表現的に疑問を提起し、「ふたりとも貴重な時間を使って何も起こらなかったのだから、少なくとも誰も勝ってはいない。ふたりとも負けたのだ」と答えている。これ自体は正しい洞察である。射精したい男は射精ができずに終わり、相手をしたくない女はどうでもよい男に付き合わされ、共に時間を消費した。しかしながら、挑戦の代価として時間を支払ったに過ぎない男よりも、落ち度もなく時間泥棒に遭ったに等しい女の方が損失は大きい。すると、まずこのゲームの構造自体が不公平である。何しろ、そのつもりで行動している以上、失敗したところで男は実質的に損をしない。そのようなことに時間を割くつもりのなかった女だけが損をする。二人の時間消費を等価と看做すのは、自爆テロの実行犯と被害者の死を等価と看做すに等しい。
     その上、この不公平な共倒れの解決として提示される論理も悪い意味で凄まじい。先述した独善性や自己中心性が強調されている。
     説明は「ふたりがセックスしたとしよう」という仮定から始まるが、うまくいった場合の話はほんの添え物でしかない。「そのままふたりは付き合いはじめて、やがて家族になるかもしれない」とほんの一文、取ってつけたような三十文字程度で済ませている。結果如何にかかわらずセックス後の関係を管轄外とする恋愛工学の性質に照らすと、うまくいった場合はどうでもよいのである。
     この部分の要点はむしろうまくいかなかった場合の正当化にある。その内容もまた、恋愛工学の性質をよく示している。女が何を得られるかを述べるばかりで男が得るものに一切触れない点は象徴的である。ここに、恋愛工学が男の性欲を満たすためだけのものであることが暗示されている。
     男の利益を提示する必要がないのは当然である。恋愛工学の目的が気持ちの良い射精である以上、セックスに漕ぎ着けた時点で男は既に目的を達成している。女に振られても何の問題もない。普通の男にとっては頑張って口説き倒した意中の人と別れるのは大きな喪失だが、恋愛工学の論理に従えば、つまり忠実な信奉者にとっては大した痛手でもない。今の相手が駄目ならば次を探す、というのが対処法だからである。精々、都合の良い相手が一人減ったとか、お気に入りのオナホールを失くしたとか、その程度の感覚に過ぎない。意中の相手に逃げられたら、余計な作業が増えたことに舌打ちしつつ、また次を探しに行くだろう。それが恋愛工学信奉者のあるべき姿である。
     だからこそ、逆説的に、あれこれと理屈を捏ねて、女の方も損をするばかりではないと言い訳する必要が出てくる。しかし、ゴミを財宝に見せかけるのが不可能であり、その不可能を求めるのが詭弁である以上、このような屁理屈は多少なりともまともな知能のある者には通じない。これに納得してしまう者は男女問わず論理性か常識が欠如している。有り体に言って頭が悪い。詐欺に引っかかったり、カルト宗教やマルチ商法の手先になったりしやすいタイプである。男にとって都合の良すぎるこの論理を方便や建前でなく真理と受け取る恋愛工学信奉者は、カルト団体の末端勧誘員やマルチ商法の末端販売員の素質充分と言える。聞こえの良い理念を本気で信じる勧誘員や販売員は、全くの善意から相手の望まぬ幸福を押しつけて回る。
     急に声をかけてきたどこの馬の骨とも知れないその辺の男から得られる経験や学習が「他では得られない」特別なものである必然性はなく、「快楽に酔いしれる」ほどのセックスができる必然性もまたない。長い時間をかけて真剣に吟味して関係を築き上げた男女でさえ、性の不一致があるのだから、行きずりの男との相性だけが常に抜群であるべくもない。この辺を真に受けてしまう人は大変頭が悪い上に考えも浅いので、都合の良い想定の上に成り立つ馬鹿げた投資話も真に受けるに違いない。
     ある男Aから得られるものは確かにAからしか得られないに違いない。しかしそれは、「A愛用のペン」はAからしか借りられない、というのと同種の言葉遊びか哲学的考察である。ペン自体は大抵の人間が持っている。多分性能にも目立った差はない。ならば、敢えてAに拘るべき理由はない。他の誰かに借りるのでも何の問題もなく、むしろ本当に気に入ったBから借りるべきなのであり、大抵の人はそうしたいものである。どうしてもペンがなければ困るという人は相手が誰であれ差し出されたものを受け取る外ないが、そういう状況になる人は決して多くない。
     セックスの快楽云々にしても、必ずしも相手が上手であるとは限らない。相性が合うかもわからない。試した結果うまくいく可能性は否定できないが、駄目だった場合は明らかに無駄な時間を過ごし、不快な経験を積むことになる。セックスと握手を区別する必要を感じないとか、人肌の棒や穴があれば気持ち良くなる自信があるとかいう人でもなければ、気に入った相手とだけ楽しみたいと思うものであろうし、普通の人は実際にそうする。仮に快楽のみが問題となるとしても、うまくいかない可能性を無視しえないからこそ、感情面から快楽が強化される見込みのある気に入った相手と過ごそうとするのが合理的判断である。普通、誰でもよいということにはならない。
     そして、そもそもの話として恋愛工学は、なぜペンを借りるべきなのか、合理的な説明をしていない。確かにペンを借りる利点を示しはした。だが、その利点が本当に利点となるかは定かではない。対して、ペンを貸す側にとっては、ペンを貸すことができれば常に利益となる。この対比は、この主張がペンを貸したい側の都合に立脚していることを示す。ペンを借りるべき利点とはペンを貸したい欲求の言い換えでしかない。銀行がやたらと金を貸したがる時にどういう思惑を抱いているかを考えるとわかりやすかろう。そして、その思惑をたとえおぼろげにであれ推し量ることのできない者は、人付き合いに慎重になった方がよい。
     このように我田引水の正当化を展開した上で、著者は「恋愛はふたりでプレイしてふたりとも勝つゲームなんだよ」と得意気に締め括る。驚くべきことに、結びまでもが詭弁的である。一体勝利とは何を指すのかという疑問が浮かぶ。何でもよいからとにかく何かを得ることを勝利と定義するのであれば、恋愛を拒否した経験や拒否された経験を得ることも立派な勝利であり、従って恋愛ゲームをプレイする必然性はない。一方、当人の欲するものの獲得を勝利と定義するのであれば、望まざる快楽や恋人の獲得は勝利ではない。時間や労力の浪費や経歴の毀損も含めれば、明らかな赤字、敗北である。従って、恋愛が利益を分かち合う協力ゲームであるとしても、ゲームをしたいと思う者同士でするから協力ゲームが成立する。一方が無理矢理ゲームに付き合わせるのでは、即ち一方がゲームの「楽しさ」の共有を強いるのでは、ゲーム上の得点が積み重なる中、誘われた側は時間や労力や金銭や貞操等を失い続ける破目となる。嫌いな上司や先輩の奢りで無理矢理飲みに連れて行かれたり、世話を押しつけられた弟妹や甥姪の遊びに付き合わされたりするようなものである。タダで飲み食いしたり玩具を使ったりできる点は、それ自体を取ってみれば確かに得であるものの、一般的にこれを得するとは言わない。ゆえに、恋愛を協力ゲームと捉えるのであれば、恋愛ゲームを楽しみたい者同士で話を進めるべきなのである。ところが恋愛工学は、射精したい男の論理で話を進めながら、獲物として定義される女にその論理の共有を求めている。恋愛そのものが二人または複数の協力ゲームであることに異論の余地はないが、恋愛工学が扱う恋愛ゲームは協力ゲームどころか対戦ゲームですらない。一人用のエロゲーが一番近い。
     以上を振り返るに、恋愛工学は理念や哲学として破綻している。理念や哲学が成立する要件は出発点の倫理的是非ではない。極端な話、「万人に快い恋愛を与えたい」であろうと「気持ち良く射精したい」であろうと、そこは問題ではない。問題となるのはそこから展開される論理の整合性である。然るに、恋愛工学にそれはない。既に述べた通り、「気持ち良く射精したい」という本音と論理展開が不整合を起こしている。仮に恋愛工学が女側の利点やセックスの綺麗事を一切論わず、人生経験や社会勉強にも結びつけず、自己正当化もせず、女を喋る便器とでも定義し、ひたすらに射精の気持ち良さや価値を並べ立てることに終始するものであったならば、内容の是非と関係なく哲学や理念たるだけの芯を持ちえた可能性がある。

    四、理論体系として
     理念や哲学としての恋愛工学の価値は否定された。しかし、これは恋愛工学自体の否定を意味しない。理念や哲学の側面で敗北しても、理論の側面が依然として残る。
     とはいえ、恋愛に持ち込む理論としては疑義がある。セックストリガー理論や Good Genes or Good Dad 説を前提とする場合、これが恋愛理論として成り立つためには、まさに前提理論の正確性が問題となるのだが、これが非常に怪しい。独自に学術的な検証をしたわけでもその手のまともな論文を読んだわけでもないから推測になるが、おそらく、これは個人差が大きすぎて一般化できない問題である。
     まず、セックストリガー理論だが、セックスから恋愛に入っていく女が絶対にいないとは言わない。しかし、過半数がそうであるとも思えない。セックスと握手を区別しない女が一度セックスしただけで愛に目覚めることなどなさそうである。逆に非常に保守的な貞操観の持ち主ならば軽々しく体を許しはせず、もし押し切られたとすれば後でひどく傷つくであろう。もちろん、相手には親しみどころか憎しみと恨みを抱く。男の手口が強引なものであれば、法的な制裁を求める者も時には出よう。仮に恋愛感情が刺激されたとしても、当人の理性やまた別の感情がそのように迫る男への拒否感を示すことにより、未発に終わる可能性もある。また、本当にセックスが鍵となるのであれば、純然たる強姦であっても事後に愛情が芽生えることになってしまう。だが、そのような状況で芽生える愛情は単なる逃避反応であろう。強姦されたという事実に耐えられない精神が、自分はこの男が好きで受け容れたのだと自己欺瞞を行い、事実を捻じ曲げるのである。これは非常に痛ましいばかりでなく、精神的損傷の常として、ふとした拍子に麻酔が切れて痛みが蘇り、猛烈な自己嫌悪や敵愾心を目覚めさせるため、非常に危うくもある。
     やはり、セックスに先立ってある程度の気持ちがなければ、セフレや金蔓にはなれても恋人にはなかなかなれまい。それどころか、下手をすれば浮気相手や性犯罪者になってしまう。なお、ここで言う気持ちは恋愛感情に限らない。誰でもよいから恋人が欲しいとか、恋愛感情ほどではないがそこに繋がりうる好意があるとか、そういうものを含めた心理的下地を指す。
     次に、Good Genes or Good Dad 説にしても、各人が自己の補完に求める遺伝子が一律であるはずがないことを踏まえると、Good Dad はともかく Good Genes は成立しにくいように思える。また、遺伝子の普遍的良し悪しや遺伝子評価能力の有無、それらと恋愛との相関も問題となる。
     まず遺伝子に普遍的良し悪しがあるとすると、環境の如何にかかわらず、ある遺伝子は常に生存して繁栄し、ある遺伝子は常に死滅して衰退することになる。しかし、適者生存原理における適者は環境に応じて常に変動する。いずれの遺伝子が繁栄に繋がるものかは一律ではない。安定した孤立環境下であれば一定の方向性が生ずる可能性があるが、そうなると「優良遺伝子」が大半となって個体差がどうでもよくなるか、共通の基盤の上に更なる多様性が生まれて優良種のバリエーションが地に満ちるかすることになる。一つの方向性に収斂しないようであれば、「劣悪遺伝子」にも淘汰されずに残るだけの何らかの「優良性」があるわけだから、やはりこれも「優良遺伝子」の一種となる。どのみち、一括して良し悪しを量ることはできない。とはいえ、体質や遺伝子疾患など、その環境下に限って不利となる要素を持つ遺伝子が存在することは否めない。突然変異もあろう。しかしながら、他の利点を台無しにするほど不利な要素を持つ遺伝子は、むしろ例外的である。そこまで不利な要素を抱えていると、大抵は早い内に淘汰されてしまい、そもそも出会う機会がない。
     次いで、遺伝子評価能力の有無を考える。本稿では遺伝子に普遍的な良し悪しはないものとするので、この場合の評価対象は現在の環境での有利不利や自身との遺伝的相性とする。
     全ての女が遺伝子の良し悪しを的確に見分けられるのであれば、明らかに不利な要素や相性の悪い要素を持つ男と子作りをする女などいるはずもない。不利と承知でなおその男と子作りする女がいるとなると、遺伝子は決定的要素ではない。逆に、遺伝子が決定打となるにしても、各人が異なる遺伝子を持つ以上、相性の良い遺伝子と悪い遺伝子、言い換えれば子孫繁栄に必要な遺伝子には必然的に個体差が生じ、結果として誰を Good Genes と看做すかは反応が分かれる。普遍的に Good である Gene はない。
     一方、見分けられないとすれば、そもそもそのようなもので相手を選んでなどいないか、相手の容姿や言行などから遺伝子の有利不利や相性を推測しているかであろう。恋愛工学における Good Genes 説の活用では、後者であることを前提とし、Good Genes を装うべく指南するようである。つまりは遺伝学や生物学と言うよりも心理学や生理学に属する。
     恋愛工学は、多くの雌と交尾する雄とそうでない雄を同時に目にした時、雌は前者の雄を気に入る傾向にあった、という動物実験の結果から、多くの女に持て囃されるようになればそれを見た大勢の女の好意を更に得られる、つまり「金が金を呼ぶ」ならぬ「女が女を呼ぶ」という結論を導き出した。女という生き物は他の女に好かれる男を好きになる、との解釈である。また、結論を更に掘り下げ、女に囲まれる男が持つ独特の雰囲気を女に示すことにより、同様の効果を得られるとも主張している。モテる男は一層モテるとし、そこからモテる男と同じように振る舞えばモテる男と同じようにモテるという理屈である。「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」といったところかもしれない。これが恋愛工学の鍵となる方法論である。
     しかし、ここに大きな解釈の転倒がある。素質優秀だが入営間もない新兵と素質は凡庸だが場数を踏んだ古兵がいるとする。戦場で頼りにされるのは古兵である。もし歴戦の兵と同じように振る舞うことのできる新兵がいれば、その新兵も大いに頼られるであろう。だが、もし新兵が古兵の上辺だけを真似るに過ぎなければ、むしろ普通の新兵以上に蔑まれることになる。古兵の真似をするには古兵に匹敵する力量が要るし、そのような力量は古兵になるまで育たない。従ってそのような新兵は結局本物の古兵である。
     つまり、モテる男の真似をするのではなく、付け焼刃でない人間性や能力を磨いて見せつけることが必要となる。要するに、振る舞いや装いや境遇ではなく、中身や内面の問題なのである。結果は中身についてくる。女が寄ってくるのは肯定的に評価される能力を示したからであり、周りに女が大勢いるからではない。
     それでも、周囲を女達に取り巻かれることには確かに意味がある。観客が大勢いる見世物にはそれだけで人が寄ってくるものである。
     ただし、これは恋愛工学が意図的に無視するか拙劣にも見落とすかしたことだが、興味と好意は違う。何らかの理由で興味を持たれなければ好かれることもないが、興味を持たれれば好かれるわけでもない。従って、この仮説はそもそも着眼点がずれている。
     必要なものは周囲を取り囲んで好意を示す女達ではなく、個体としての優れた能力や強い魅力と、それを展示する機会である。群がる女達は機会を作る手段の一つでしかない。女に自分を売り込む手法は一つでなく、それぞれにはそれぞれなりの特性がある。派手な広告宣伝で広く人目を惹く店もあれば、玄人好みの品やサービスでたまに訪れる上客をしっかり捕まえる店もある。近所付き合いの延長で集客を行う店もある。それで経営者の企図通りの経営が成り立つのであれば、全ての手法は申し分ないものである。
     なお、もし Good Genes or Good Dad 説が正しいとしても、恋愛工学の文脈では何の意味もない。遺伝子が欲しい男と一緒に子育てしたい男が違うという以上、Good Genes を演じるだけでは真っ当な関係が続きづらい。人生の伴侶になりえないと振られたり、子供が出来た時点で母としての意識に目覚めた女に捨てられたり、Good Dad と結婚した女の Good Genes として浮気相手にされたりすることになろう。しかしながら、恋愛工学は Good Genes に仲間入りする方法ばかり論じて Good Dad のことはなおざりにしている。ここに恋愛術としての矛盾がある。
     ところで、心理学や生理学と言えば、恋愛工学では女を捕まえる理論も取り上げているが、これらも心理学や生理学に属する。こうした理論が恋愛関係の構築や維持に役立つかと言うと、これもまた微妙なところである。そもそも恋愛工学の趣旨に照らすと、そのテクニックはセックスに辿り着くためのものであって、恋愛を維持するためのものではない。大体において、即効性はあるが持続性のないものであり、その時その場の勢いで押し切れる範囲を超えて効果が続くことはない。
     この点から、セックスすれば恋愛に繋がる或いはセックスできればどうとでもなるという思考法は、セックスを目標としセックスに依拠するがために却って当てにならず、従って恋愛に持ち込む理論としては信頼性が乏しい。
     もしセックストリガーや Good Genes or Good Dad 説を信じて、つまりセックスが恋愛という戦争目的実現に繋がる戦争目標たりうると無邪気に信じて女を口説くのであれば、その男は旧日本軍と同様の過ちを犯している。旧日本軍は、戦争の勝利は作戦の成功で獲得でき、作戦の成功は会戦の勝利で実現できると考えた。従って会戦に勝利することが戦争の勝利であり、戦争とは即ち会戦であるとすら論理は飛躍し、ひたすら会戦技術の錬成に終始するに至った。そうして会戦に強くなった反面、会戦の結果を戦争の勝利に結びつける方法がわからなくなり――と言うよりも会戦に勝つことと戦争に勝つことが前提として等号で結ばれているせいで両者が別物であるという認識がなくなってしまい――戦術馬鹿や作戦馬鹿が幅を利かせる軍隊になってしまった。その結果があの大東亜戦争の大惨敗である。旧日本軍は戦争に勝ちたいと思っていたが、戦争に勝つ方法を忘れてしまった。会戦に勝てば後は何とかなると考えたのが旧日本軍ならば、セックスすれば後は何とかなる、或いはとにかくセックスができればよい、と考えるのが恋愛工学信奉者であろう。旧日本軍が愚劣であれば恋愛工学信奉者も愚劣であり、恋愛工学信奉者が愚劣でなければ旧日本軍も愚劣でない。ところで、恋愛が人生の全てを解決する、つまり恋愛を成就させれば人生の不都合が全てどうにかなると考える者は、戦争に勝てば全て解決する、即ち軍事的成功が一切の政治的問題を解決すると考えるに等しい過ちを犯している。恋愛工学で恋愛に取り組もうとする者は、或いはこの種の間違いも犯している可能性がある。
     クラウゼヴィッツは戦争術における戦争の目的、目標、手段を論じた際、基本的な構造として、戦端を開く相手、時機、理由等の政治的事情は戦争術の管轄外とし、目的は自らの意志の強要、目標は敵の抵抗力の粉砕、手段は戦闘であると論じた。要するに、政治的に設定された要求を通すために戦争をするのであり、抵抗力を奪ってしまえばいかなる要求も拒めず、抵抗力を奪うには叩きのめすしかない、という理解である。この考えは極めて理に適う。
     通常の恋愛をクラウゼヴィッツの枠組みに対応させると、誰を好きになるかや恋人や夫婦としてどう過ごすかは人生の問題であって恋愛の埒外にあり、目的は意中の相手と結ばれること、目標は気持ちを受け容れさせること、手段は何らかの意思表示をすること、となる。標準的には、目的は恋人や夫婦となること、目標は相思相愛になること、手段は多岐に亘る――恋愛工学が主眼とするセックスも一応含まれる――が一般的には告白であろう。ここには戦争術との見事な階層的一致がある。恋愛成就の術として実に真っ当である。
     ところがこれが恋愛工学となると、恋愛の行く末は管轄の外、目的は気持ち良い射精、目標は股を開かせること、手段は手練手管、となる。徹頭徹尾プレイヤー一人の思惑があるばかりで、主体的に動く対戦相手への視点が欠如している。あくまでも主体と客体の関係であって主体と主体の関係ではない。これでは恋愛のれの字もない。恋愛への発展を期待するのは無謀である。恋愛に繋がると本気で信じるのはエロゲーマーくらいであろう。エロゲーのヒロインは、わざわざ誠実な恋愛過程を経ずとも、ホテルに連れ込んで何時間かセックス漬けにすれば大体おとなしくなって懐いてくるものである。
     要するに、まともな相手とのまともな恋愛を期待するのであれば、恋愛工学は全く頼りにならない。日々を真面目に生きて機会の訪れを座して待つ方がまだ見込みがある。無能な働き者と無能な怠け者であれば、後者の方がまだましである。
     一方で、セックスに持ち込む理論として見る場合、それなりの有効性がある。実際にこの理論が使用された場合、押し切られてしまう女はそこそこいるのではないかと思う。
     強姦紛いと言うか事実上の強姦としか言いようのない手法は、恋愛工学の中でもとりわけ「実用的」であろうし、実際、中心的に或いは要所要所で使われているように見受ける。本稿ではこれを強姦術と呼ぶことにする。具体的には、暴力や薬物等の強制力によって抵抗を潰すものと、詭弁や人間関係等の圧力を駆使して拒みづらい状況に追い込むものとに分かれる。前者は強姦魔の手口であり、後者は悪徳商法の手口である。恋愛工学はあからさまな暴力や脅迫を表立って肯定してはいないようだが、使用者の報告には大分それに近い手を使っている例もあった。表に出る部分でさえそれなのだから、陰ではもうちょっと過激なことが行われていても不思議ではない。よって、多くの者が後者に属す手法を試みていると見てよかろう。よくある「ノーと答えづらい誘い方」も厳密には後者の詭弁に属する。セックスに持ち込む理論である以上、その有効度の基準は倫理でなく効力に求めることになる。その観点においては、つまりセックスができるかどうかで言えば実際にできてしまうわけだから、この方法は倫理面や危険性や合法性を考えなければ有効である。殴りつけて股を開かせようと、暴力をちらつかせて従わせようと、酒や薬物で抵抗を封じて倫理観を鈍らせようと、甘酸っぱい恋愛の果てに部屋に迎え入れてもらおうと、打算的な見合い結婚の後に事務的な初夜を迎えようと、全てセックスには違いない。いかなる手段を用いても、たとえいかなる制裁が待ち受けていようとも、たとえ誰がどれだけ傷つこうとも、気持ち良く射精できれば一切気にしないのであれば、この強姦術は極めて有効である。事実、強姦に限らず個人に対する犯罪の実行自体はたやすい。加害者が一度実行すると決めた時、標的がきちんとした知識を持って警戒して対策を練っていない限り、事はほぼ確実に成ってしまう。犯罪に際して難しいのは、犯罪の事実を隠し通したり、制裁から逃れたりすることである。何らかの形で接触可能な女を強姦すること自体は簡単である上、そういう手を使う馬鹿男は、被害者を黙らせることもまた簡単であると甘いことを考えているか、そもそもそれが悪いことであるという認識がないため、呼吸するように暴挙に及ぶ。
     また、相手を丸め込んだり自分を魅力的な男のように鍍金したりしてセックスに持ち込む手法も、関係の継続を考慮しなければやはりそれなりの有効性がある。こちらの手法は和姦術と呼んでおく。これは詐欺師の手口である。詐欺師への対処法は聞く耳を持たずに無視する以外にない。どういう方向であれ聞く耳を持って反応を示してしまえば、早々に話を打ち切らない限り泥沼に引き込まれることになる。恋愛工学の使用者は要するに詐欺師なので、慣れれば頭の軽い女をうまく乗せるくらいはお手の物であろう。この方法の問題点は、既に述べた通り、すぐ効く反面すぐ醒めるところである。しかし、単にセックスしたいだけならば問題あるまい。そういう意味ではこの和姦術もまた有効である。むしろ、民法的にはともかく刑法的に問題がない点は、強姦術よりも明らかにましであろう。女の側に拒否の機会が一応ながらあることも大きい。女を食い物にするところに変わりはないが、そもそも恋愛工学に倫理観が欠けているのだから、今更言っても詮無いことである。倫理観を度外視した技術を倫理観のない連中に向けて伝えるのが恋愛工学の事業形態である以上、恋愛工学の徒に倫理観などを期待する方が間違っている。
     強姦術にせよ和姦術にせよ、決して絵空事ではない。旧日本軍は会戦至上主義に陥って駄目になったと既に述べたが、会戦に長けていたとも述べた。ゆえに、もし一回若しくは数回の会戦の成否で結果が定まる戦争であれば、旧日本軍はなかなか強かったに違いない。事実、マレー半島での作戦成功が戦勝を意味するのであれば、大日本帝國は間違いなく戦勝国である。同じことは恋愛工学にも言える。恋愛を目的とすると今一つ役に立たないが、一度のセックスを目的とするのであれば充分に通用するのであろう。
     以上に眺めた通り恋愛工学は、恋愛に持ち込む理論としては頼りないものの、セックスに持ち込む理論としては見るべきものがある。
     しかしながら、人間関係のアートとして見ると、目的が恋愛であろうとセックスであろうと関係なく、共通した欠陥を有する。このため、恋愛工学信奉者達の嘯きとは裏腹に、数多ある怪しげなナンパ術の一種以上のものには決してなりえない。時には効く。それだけである。本格的に恃みとできるほどのものではない。もし恋愛工学で安定した成果を挙げられる者がいても、それは恋愛工学が凄いのではなく当人が凄いのである。率直に言えば、恋愛工学で成果を挙げられる者は、恋愛工学以外のナンパ術を用いても同等の成果を挙げうると思われる。
     以下に恋愛工学の欠陥を述べる。複数項目に亘るが、各項目の指摘や結論に重複があることを先に断っておく。これは物事の欠陥とその原因や部品が常に一対一になるとは限らず、時には複数の原因から一つの欠陥が生じることも、逆に一つの原因から複数の欠陥が生じることもあるためである。
     第一項、普遍性がない。恋愛工学の手法は恋愛工学が想定する通りの性質を持つ女にしか通用しない。これは何であってもそうだから恋愛工学特有の弊ではない。しかし、恋愛工学の場合はそれが極端すぎ、理論としての普遍性に欠ける。要するに恋愛工学は、女とはこういうものである、という都合の良い想定を基礎に理論を構築しているため、論点先取の過ちを犯す結果となった。手法の性質から推し量るに、恋愛工学が想定する攻略対象は、恋愛する前にセックスに応じる女、セックスすれば恋愛を始める女、恋愛工学の技法を弄する余地を与えてくれる女、主体性がなく雰囲気に流されやすい女、人肌や恋愛に飢えた女、恋愛や性への好奇心が強すぎる女、初めから好意を寄せてきている女、要するに頭か股の緩い女、欲求不満の女、好奇心旺盛で世間を知らない女、既に落ちている女である。男にとって都合の良いこういう女達に、特別な手法は一切必要あるまい。むしろ、恋愛工学を使用することで落とせる女は、恋愛工学をじっくり用いることができるだけの間柄であったり、恋愛工学を使用できる程度に女慣れした男であったりすれば、敢えて恋愛工学を意識するまでもなく落とせそうである。それも、恋愛工学が設定する手順を大分省略できる可能性すらある。それでいて、最初から好意を寄せてきている女を除けば、真剣な恋愛の相手にふさわしいかどうかは甚だ怪しい。一方、先ほど挙げたいずれにも該当しない女は、恋愛工学の原理に基づいていては攻略できない。しかし、本当の意味で研究する価値があるのは、そういう女を相手にする方法である。そして、難攻不落の要塞を攻め落とす方法は、単純な恋愛術の範疇に収まるものではない。たとえば、旅順要塞を陥落させるためには、小手先の戦術や戦略以前に鍛え抜かれた大軍と幸運が必要であった。このことは極めて示唆的且つ教訓的である。
     第二項、固有名詞を対象としていない。恋愛工学の原則は、下手な鉄砲を数多く撃ち、一人の女に拘らないことである。何人も口説いていれば誰かしら落ちてくるであろう、そのためには一人に時間と労力をかけすぎてはいけない、という考え方がそこにある。これは論理として間違っていない。試行回数と成功回数は比例する。的確な損切りは赤字決算を回避し黒字決算を支援する。しかし、これは甘く見積もって十人の内の一人か二人とセックスできる理論であって、十人の中にいる特定の一人と恋愛できる理論ではない。言うなれば客引きの理論である。ここに恋愛技術論としての限界があり、課題解決のアートである戦争術との相違がある。恋愛工学にはいわゆる「徹底抗戦」や「重点形成」の考え方がないのである。
     戦争術は特定の敵を打倒するアートである上、失敗も許されない。こちらから攻め込むのであれ相手を迎え撃つのであれ、一旦戦端を開いたならば、絶対に勝たなければならない。攻め込んできた敵と戦うと被害が出るので戦わずに降伏する、攻め込みはしたものの敵が思ったよりも手強いので早々に講和して別の国を攻め直す、というわけにはいかない。攻め込んできた国を撃退しなければ自国がよいようにされてしまうし、ある国に攻め込んだのはその国でなければならない理由があるからである。戦争術においてこのような選り好みが許されるのは戦術次元までであるが、戦争は戦術ではなく戦略や作戦の次元で動くため、必ずしも倒しやすい敵ばかりを相手にできるわけではない。機械化歩兵師団で砲兵中隊を踏み潰せる状況もあれば、軽歩兵連隊で機甲師団の進撃を絶対に阻止しなくてはならない状況もあり、そのどちらも任務を遂行しなくてはならない。この際、軽歩兵連隊には損害を厭わず機甲師団を止める義務がある。相手取るのは「倒せる敵」ではなく「倒すべき敵」――もちろん「倒せる敵」を兼ねることが望ましい――である。また、複数の目的や目標の追求は努力と資源の分散に繋がるため、戦争術の観点からは可能な限り避けねばならない。戦争術では副次目標や代替目標を設定して保険をかけることは許されるし時に推奨もされるが、それでも目的と目標は可能な限り一つに還元して絞ることが望ましい。多重目標を課す必要がある場合であっても、少なくとも、部隊や兵士には各自に一つずつを与えるに留めるか、せめて能力的に同時対応可能な範疇に留めるべきである。多重目標は多重債務に等しい。あれもこれもでは何一つ手に入らない可能性がある上、戦争においては一時的な獲得では獲得したことにならない。完全に確保して初めて獲得したことになる。もちろん、内線作戦のように、複数の部隊を同時に相手取る作戦方式もある。これは、恋愛工学信奉者が本命を狙いつつ他の女も同時並行で狙っていくのと同じように見えるかもしれない。しかし、内線作戦は結局のところ、実際に矛を交える相手が一国乃至一連合体である点で事情が異なる。一国の軍が部隊を分割したところで、一つの軍が形を変えて迫ってくるだけに過ぎない。他方、個人が国家に相当すると看做す場合、数ヶ国を相手取る多正面戦争は、何人もの女の攻略を並行するようなものと見えるかもしれない。しかし、実際は抽象的な一個の敵を相手取っているに過ぎない。相手が戦時において同盟した国際連合体であれ、連携を取らない孤立国家群であれ、同時発生した戦役個々の状況が戦争全体に影響しないはずがないのだから、戦略的視点では一つの地域なり連合体なりを基本単位と眺めることになる。ところが、恋愛では一個人はあくまでも固有の一個人であり、集団を抽象的な個人になぞらえることは許されない。また、もっと根本的な位置付けの相違もある。内線作戦とは、どこでもよいから征服したいので周囲の三ヶ国に総当たり攻撃を仕掛ける、というものではない。言うなれば内線作戦とは、相手方の女が同時に突きつけてくる多数の要求を巧みに捌く方策であるか、相手方を取り巻く環境、即ち家族や友人等の人間関係、職業上の都合や経済的な事情などから生じる問題に対処する方策である。たとえば、海外旅行に行きたい、高級レストランに行きたい、などの要求を同時に受けた際、旅行については良さそうな国や旅行会社を探していると口先で時間を稼ぎつつ、まずは食事の要求を片付けて機嫌を取り、然る後、本格的に旅行の準備に取りかかる、相手方の親兄弟が反対するのを個別に説得することで一人一人納得させていく、勤務の都合で恋愛に割く時間がない上に経済的な事情で転職もできないという状況に相手がある時に当面の生活費の面倒を見て転職させる、といった対処がこれに当たる。攻略中の相手に高価な贈り物をしつつ、キープしておきたい他の女には安物を贈って茶を濁す、なども原理的には内線作戦に相当するものの、恋愛の在るべき形を一対一の交際とする場合、そもそも無用な交戦に当たるため論外である。ともあれ、以上のような理由から、戦争術には徹底抗戦と重点形成が必須となる。
     恋愛工学では全てを懸けて一人を追いかけてはならない理由と大勢に愛想を振り撒くべきである理由が解説されているが、この人でなければ嫌だと思うたった一人だけをものにできないのであれば、大抵の人はその恋愛術を無価値と断じる。クラウゼヴィッツが『戦争論』(Amazon)で、直接の敵対国以外が重心である場合はそちらを打撃すべきであるとしたことは事実である。だが、あくまでも観念上の戦争の話であり、現実の政治的事情がそれを許さない時、第三国への攻撃は選択肢から消える。そして恋愛においては、たとえ戦略的に必要であろうとも、その人でなければならないという政治的事情があるため、その「理想的」乃至「効率的」選択肢は除外されるべきである。他方、恋愛工学は手段を制約する政治的事情を考慮しない。誰かしらとセックスできればよいと言うか、まさにそこを目的とするその点こそ、恋愛工学が単なる種付け工学に過ぎない所以である。恋愛では固有名詞に対する固有名詞の交渉が重要であるのに、恋愛工学は不特定多数の統計に終始する。
     第三項、様々な意味で人間を相手にしていない。このことには三通りの意味がある。
     一、人間を「動物」として扱っている。恋愛工学では動物的本能や生理学的反応を重要な突破口に位置付けている。これ自体は正しい。酒が入れば守りも緩むだろう。狭い場所で肩を寄せ合えば異性として意識もするだろう。性的刺激を受ければ性的昂奮が起こるだろう。しかし、犬や猫が「動物」ではなく犬や猫であるように、人間は「動物」ではなく人間なのである。「動物」という名の生き物はいない、或いはもっと踏み込んで、「人間」という名の個人はいない、と言い換えてもよい。犬に当て嵌まる理屈が猫にも当て嵌まるとは限らないように、人間には人間にのみ当て嵌まる独特の理屈があり、更には個人には個人にのみ当て嵌まる固有の理屈がある。生物の目的は繁殖かもしれない。だが、人間個々は必ずしもそうではなく、繁殖したいという本能的欲求は社会的立場や人間関係や人生設計や性的嗜好等の理性的要求に絶えず抑制或いは助長されるため、必ずしも本能通りの行動をするとは限らない。恋愛や性欲を扱うに際しては、人間の動物的側面を刺激することと同じくらい、このような人間に特有の側面、人間的側面に配慮することも重要なのである。そこを軽んじる限り、恋愛工学は男女を動物として扱うことに終始し、現に人間である男女から目を背け続ける。そして事実、セックスの前に様子見や友達付き合い等の段階を求める女に対し、恋愛工学信奉者はそれらに先立ってセックスを求めるような擦れ違いを起こす。女がセックスへの猶予を求める理由に、雄の能力を見定める機会を欲する等の雌の動物的本能がないとは言わないが、自分にとって好ましい性格であるかどうかを見定めたり、恋愛の駆け引きを楽しんだりすることを欲する人間的理性の絡んだ部分もまた多分にあるだろう。そしてそれは、今すぐこの雄に抱かれたい、という本能的欲求と対立することもあるだろう。重要なことは、そこに動物的本能以外のものがあるため、本能に適うだけでは必ずしも正解とならないことである。人間的理性から猶予を求める女にも動物的本能から速やかなセックスを求める男にも、それぞれ言い分はあるはずであり、どちらが決定的に正しいということはない。だが、決定的な正当性が双方にないのであれば、変化を望む側が現状維持を望む側に食い下がって自分の都合を押しつけるのは筋が通らない。これは先払い方式を取る業者に後払いを認めさせようとごねるようなものである。先払いが嫌ならば他の業者を当たればよいし、現に恋愛工学は手間取るようならば執着せず別の相手に移るよう勧めている。もしそこで食い下がるようならば、固有名詞に執着することを戒める恋愛工学の原理を信奉者が自ら否定することになる。そこには紛れもなく、固有名詞への執着があるからである。ここには恋愛工学の人間性との間の大いなる矛盾が秘められている。
     二、女を対等の人間ではなく言語を解する犬猫の雌の如く捉えている。あらゆる意味で女を狩の獲物に見立てており、実のところ、当初の口説き文句とは異なり、セックスを分かち合う間柄とも、恋愛ゲームを一緒にプレイするパートナーとも見ていない。女性蔑視がどうの男尊女卑がどうのという倫理的な話は敢えてしない。理論が人間の尊厳を冒涜することなど珍しい話ではないし、研究の進度や内容によってはどうしてもそうならざるを得ない時がある。ゆえに、理論の有効度を評価する時に限っては、取り立てて咎めるべき事柄ではない。こういう場合に論点となるのは、ある見方の倫理的是非ではなく、その視座が理論にいかなる影響を及ぼすかである。その観点から言うと、女の人間的側面を考慮の外に置き、動物的側面への過度の注目を促す過ちに繋がってしまっている。犬や猫はその習性を把握することで様々な調教や誘導が可能だが、人間をそのように捉えて高を括るのは人間を見縊りすぎている。人間の調教や誘導が不可能であるとは言わないが、これは一朝一夕にいかない。技術と設備と時間が要る。また、これは女を一段低い生物として扱うことに繋がり、恋愛工学で完全に制御しうるとの思い上がった認識にも繋がる。この思い上がりは孫子(Amazon)やリデルハート(Amazon)等にも見られるものであり、彼らは指揮統帥の面で我が敵に優越することを暗黙の前提とし、敵や戦場は我の意思通りに制御可能であるかのように理論を展開した。しかしながら、彼らはさすがに一流の兵学者であり、洞察自体には普遍性がある。理論自体はあらゆる戦争のあらゆる局面に適用可能な普遍性を持つ。問題は、その状況の成立条件が現実で完全に満たされる見込みが乏しい点である。しかしながら、常に完全に近い形で成立するし、道理に反したことは何一つ唱えていない。孫子やリデルハートは、無価値な謬見や机上の空論ではなく、形稽古や約束組手の指導と捉えるべきなのである。一方、恋愛工学を約束組手や形稽古の指南と見る場合、不備がありすぎて到底実践的ではない。恋愛工学の原理で攻略可能な対象の幅はあまりにも狭い。現代の武道や武術の多くは、対等の条件下で行う一対一の戦いを想定している。格上への立ち向かい方や格下の料理法を特に扱うことがないでもないが、自身と同等以上の実力者多数に包囲された状況や装備に差がある状況での戦いを想定しないものは多い。平均的な柔道家がナイフやスタンガンで武装した暴漢三人を相手取る練習をしている事実を寡聞にして知らない。同様の問題が恋愛工学にもある。このために、恋愛工学は孫子はおろかリデルハート程度の深みすら持てない。
     三、意思を持つ人間を相手取るという認識が欠けている。これについてはクラウゼヴィッツの言葉を引用すれば概ね説明がつく。クラウゼヴィッツは戦争を定義する際、「拡大された決闘」、「生きた力が死せる量塊へ働きかける行動ではなく、あくまでも生きた力と生きた力との衝突であって、しかも相闘う生きた力の両者のうち一方が完全に受け身の立場にあれば成り立たないものものである……こうなると私はもはや私の行動の主人であるわけにはゆかず、私の行動は敵によって惹き起されるものとなる」と述べた。また理論を評価するに当たっては、「兵学理論がもしこのような人間性を理解することなく、いたずらに絶対的観念上の推論や法則をのみ弄んでいるとすれば、もはやそのような理論は現実的闘争には何の役にも立たないものとなろう。理論というものは人間的なものを十分顧慮すべきもの……」と断じた。よりはっきりと「それゆえ相闘う両者はそれぞれ、相手の今ある状態、今なしつつある行動によって己れの行動を決定する資とするのであって、厳密な観念を単純に演繹して己れの行動を決定するのでは決してない」、「軍事行動の第二の特性は、生きた反応であり、それによって生まれる交互作用である」とも言った。翻って恋愛工学の理論は、こちらの働きかけに独特の論理と発想を以て反応する生身の人間を想定していない。相手は理論が定める通りに動き、完全に受身の立場にあって能動的に意思を突きつけてくることはない、と暗黙裡に決めつけている。そこには人間性の理解もなければ人間的なものの顧慮もない。恋愛工学の理論にしか存在しない都合良く抽象化された「女」を対象とするものであり、現実に存在する生身の女を対象とするものではない。恋愛工学の理論と信奉者達は、ある刺激にある決まった反応を示す機械のような存在として女を見ている節がある。これは言わば、金融工学で言うところの抽象的な「財」やマーケティングで言うところの不特定多数の「顧客」を扱う理屈で固有名詞を持つ個人を扱おうとするようなものである。この悪弊は恋愛工学信奉者の失敗談に特によく象徴されている。失敗者達は、標的の選定や攻略方針という戦略次元で失敗を犯したとはなかなか考えない。肩に触れる前に会話を盛り上げておくべきであったとか、もっとじっくりと相手と目を合わすべきだったとか、体に触れるのが少し早かったとか、もっと大胆に密着すべきだったとか、少し口が過ぎたとかと、一つ一つの手順や段階に当たる作戦次元や一つ一つの動作に当たる戦術次元で自分に至らないところがあったのではないかと反省するのである。言うなれば、方法はいかなる場合にあっても絶対的に正しく、うまくいかない時は方法選びではなく技倆に不備があった、という論理が働いている。これは信仰の論理でもある。成功すれば絶対的に正しい神のおかげであり、失敗した時は信心が足りなかったのである。神即ち恋愛工学に不備があるのではないかと疑うことは許されない。恋愛工学ではその技法を使って女の本能を刺激すればセックスに行き着けることになっているのだから、拒まれたとしたら技法を使いこなせなかった自分が悪いのである。恋愛工学信奉者達は、大日本帝國が大東亜戦争に勝てなかった理由も、アメリカがベトナム戦争に勝てなかった理由も、未だに理解できていないに違いない。とはいえ、この認識は、特定の刺激にある決まりきった反応を示す存在に対する確立された方法についてのものであれば正しい。たとえば、エロゲーマーやギャルゲーマーが攻略対象となるヒロインの攻略法に持つ認識がそうである。つまるところ恋愛工学とは、エロゲー脳やギャルゲー脳の産物にして、それらを育む土壌でもある。そして、ギャルゲーやエロゲーの攻略法で生身の女を攻略しようとしたところで、うまくいく道理がない。うまくいくとすれば、ギャルゲーやエロゲーのヒロインと同程度の女に遭遇できた場合に限られる。旧日本軍も似たような悪弊に囚われていた。旧日本軍は自軍のドクトリンを実践したり、敵軍のドクトリンを分析したりするのは大の得意だったが、反面、教条主義に毒されてドクトリンにない状況を苦手としてもいた。また、敵が独自の意思を持ち、状況に応じて創意工夫を凝らす知性であることを失念してもいて、敵が従来のドクトリンから外れた行動を取ると、途端に混乱してしまって対応が鈍る傾向もあった。つまるところ、恋愛工学信奉者と旧日本軍は、ギャルゲーの攻略手順が生身の女にも通じると思い込んだ気色の悪いオタクと本質的に変わらないのである。
     第四項、科学や理論を過大評価し、人間精神や偶然性その他の摩擦を無視している。ハインリヒ・ディートリヒ・フォン・ビューローという兵学者がかつて同様の過ちを犯した。クラウゼヴィッツの『戦争論』やジョミニの『戦争概論』(Amazon)で批判されていることだが、ビューローは戦争の一切を物質的要素に求めた上、作戦を含めた万事が科学的に計量可能であるかの如く主張した。ビューローは精神や偶然という計量不能な要素を無視したのである。恋愛工学もまたビューローの後追いをしている。恋愛工学はビューローと異なり、心理的要素に重点を置くかに見えるが、その実、人間精神を物質的、生物的、機械的なものとして捉えて標準化しているに過ぎない。物質ならば物理法則に従い、生物ならば共通する習性があり、機械ならば常に一定の反応を示すのだから、働きかけることで自在に操ることができる。恋愛工学の根底にはそういう思考法がある。「工学」の由来はその辺りにあるのかもしれない。再現性は科学原理の基本要件であるため、科学性を謳うものは自然、再現性を装わざるを得なくなる。再現性は当然標準化を要求する。しかしながら、人間心理や恋愛関係は蓋然性と個性の支配するところであって再現性を持たないし、A氏とB氏の比較を通じて人間を標準化することはできても、実際のA氏とB氏は依然としてA氏とB氏のままであり、標準的人間C氏になったりはしない。それにもかかわらず再現性を主張しようとすれば、何らかの矛盾が生じる。これを解決するには、科学であることを諦めて芸術を目指すか、課題への対処を諦めて科学的観察に留まるかしかない。ところが、恋愛工学はどちらも選ばなかったようである。科学の看板を掲げたまま、科学に従属させえない領域までも科学で支配しようとし、案の定破綻してしまった。恋愛工学は融通の利かない不完全なサイエンスと化してしまい、課題を解決するためのアートとして不備が出てしまったのである。大雑把に言えば、サイエンスは正しさを確立する役割を担い、アートは正しさを適用する役割を担う。そして――「術」でなく「学」である時点でそう自己紹介しているのだが――恋愛工学はサイエンスに属する。それが必ずしも悪いわけではない。しかし、いやしくも現実の課題に取り組もうと言うのであれば事情は変わる。明らかに悪い。恋愛工学がサイエンスであるとすれば、これは恋愛の成就を実現するものであってはならない。実のところ、ここまでに指摘した種々の欠陥は、サイエンスによる課題解決を目指した結果、即ちサイエンスにアートの領域を侵犯させた結果生じたものである。結局、恋愛工学にはアートの視点が欠けている。現実から乖離した恋愛工学を有効に機能させるためには、アートの論理に翻訳して現実に適用し直すしかない。しかし、アートを排除することで成り立つ恋愛工学にアートを取り入れることは、恋愛工学を別物に生まれ変わらせることを意味する。事実、強姦術を用いることなく成果を得ている者は、恋愛工学に全く頼っていないか、少なくとも脱構築しているはずである。これが恋愛工学の成果と言えるかどうかは甚だ怪しい。
     第五項、似非科学による権威付け、隠語や術語による選民意識、過度の教条化と単純化により、カルト化を推し進めている。考案者のツイッターやブログや発行物を通じて考案者と信奉者の擬似的な双方向性を演出するなど、恋愛工学派の運営手法自体にもカルト団体によくある手口が見られるが、そこは理論体系の話から外れるので取り上げないでおく。
     まずは各問題点を簡単に説明した上で、それの何がいけないかを併せて述べる。
     まず似非科学による権威付けは、学術的内容の利用を通じて行われている。恋愛工学は上辺を見るとかなり学際的な原理から成り、人文科学も自然科学も取り入れているのだが、実際はあまり学術的ではない。自然科学上の原理などはかなり都合の良い解釈の下で使っており、ソーカルが『「知」の欺瞞』(Amazon)で批判したのに近い権威付けの印象が漂う。こうした権威付けは権威以外の根拠を持たない奇妙な説得力を生むと共に、進歩的若しくは知的であると看做されたい人々や、その逆と看做されたくない人々の虚栄心を刺激し、反論を封じる作用を持つ。自分の頭ではなく権威を基準に判断する者と、見栄っ張りで主体性のない者を惹きつけるのである。
     独特の隠語乃至術語については、「ACSモデル」だの、「グダ」だの、「ヒットレシオ」だの、と様々なものが使われている。わけのわからない隠語や怪しげな術語の数々は、エリート気取りの学生が得意気に使うインチキ臭い虚仮威しの片仮名語やグルジエフの『ベルゼバブの孫への話』(Amazon)の他、「ナルコ」だの「ポア」だののオウム真理教の用語や警察やヤクザの隠語を思い出させる。こういう仲間内でのみ通じる隠語や術語は、仲間意識や団結心を育てると同時に、仲間以外に対する優越感や選民意識を生む。相手の知らない専門用語を連発して煙に巻いたり、公共の場で術語をやり取りしていかにも専門的な会話をしているように装ったりするのは、自分が特別な人間であると錯覚する非常に手軽な手段である。これは抑圧され、軽んじられる者にとって殊の外甘美な魅力を持つ。
     またこうした多彩な術語は、教条化と単純化にも繋がる。様々な術語や豊富な図式は、一見、隅々まで行き届く懇切丁寧且つ単純明快な説明のようだが、度が過ぎると悪影響しか生じない。瑣末なものも含めた全ての事柄が説明されれば思考は停止する。手順や尺度となる図式が与えられればそれを基準に物事を推し量るようになる。こうすることで、行動は教条化し、認識は単純化する。更に、覚えるべきことが多いせいで、内容の検証よりも習得が優先されやすくなったり、詰め込んだ知識を己の優秀さと混同しやすくなったりもする。いわゆる勉強のできる馬鹿ほどこの陥穽に嵌まる。一般的な傾向から言えば、勉強すらできない馬鹿はこういうものにのめり込むには学習能力が乏しく、勉強のできる俊才はもっと時間を有意義に使う。学力で言えば、中の中から上の下辺りの層に、勉強のできる馬鹿が多い。この人種は学校の勉強を理解できる程度の学習能力を持つのでそこそこの成績を出すが、根本的な知性が乏しいためそこそこ以上にはなれない。それでいて、多少の実績があることから、自分が優秀であると勘違いしやすい。その高すぎる自己評価とそこから生じる承認欲求は、与えられた術語を記憶していくだけで熟達したような気分になれる環境と相性が良い。障害物を乗り越えれば達成感が得られるし、褒められもするから、こういう人種は乗り越えるのに大した苦労のない障害物が並ぶレールを辿っていくことを好む。
     以上に指摘した通り、恋愛工学はカルト化しやすい要素に満ち、権威に判断を委ねる盲従者、主体性のない見栄っ張り、抑圧された者、実績以上の自己評価を持つ者、勉強のできる馬鹿などをとりわけ強く惹きつける。志願者がこれらの属性を持っていれば持っているほどカルトの引力は強まる。大抵の人間はこの内の一つくらいは具えているものだが、程度が軽いため、深刻な危険にはならない。だが、多くを兼ね具える者や一つであっても重度に達する者も確実にいる。こういう者は極めて危うく、カルト構成員の主要母体となる。決して多数派ではないが、マーケティング的に言えば、そのほんの数パーセント以下の連中を獲得できれば充分なのである。
     カルト化を招く構造は説明した通りである。続いては、このカルト化がいかなる問題をもたらすのかを述べる。
     カルトはしばしば社会性と客観性を欠き、内輪の価値観の下に暴走して外部の顰蹙を買う。また、教義や価値観の方向性が確定してしまうため、加速度的に先鋭化していく反面、軌道修正は一切起こらない。自浄能力が働かないと言ってもよい。恋愛工学であれば、できるだけ多くの女に股を開かせることが偉いという教義が石版に刻まれて不変のものとなり、後は効率的に射精する方法が際限なく探究されるばかりとなる。その探究過程に倫理的抑制は働かないし、苦言を呈する者は許しがたい背教者か道理を知らない野蛮人としか映らなくなる。これが内向的な集団であれば、カルト化から生じる害は集団内で完結するので問題ない。白色矮星がブラックホールに変わったとしても、その重力圏に近づかなければ無害である。だが、恋愛工学は外に向かい、自己を喧伝したり獲物へと接近したりする。カルトは外部から拒否感を示されるのが常であるから、恋愛工学がカルト化すれば、周囲との軋轢は必至となる。自己主張の強い集団のカルト化は自他に害を振り撒く。気に入られたり受け容れられたりするための理論体系が拒否感を誘うのでは本末転倒である。

    五、本質と展望
     しかしながら、以上に述べた五点は、恋愛工学の構造的欠陥でありつつも、同じく構造上の理由から重大な問題点になりえない。特に強姦術の分野に限ればまるで問題にならない。
     なぜならば、恋愛工学で取り上げられる強引な手法は、相手の自発的同意を微塵も必要としないからである。要するに、それは意志の強要であり、何らかの手段を用いて相手に抵抗を断念させることで達成される。実際の戦争術に極めて近しい原理がここにある。そして、対象となる女と個人的接触が可能な男にとって、それ自体は実にたやすいことである。強引な身体的接触や自宅訪問や執拗な要求等に曝された時、人間関係の険悪化や暴力行為への予感がもたらす不安と恐怖を撥ねのけて男に抵抗できる女がどれほどいるかなど、考えるだけで悲しくなってくる。痴漢冤罪を利用して小遣い稼ぎをする女の姿をした生ゴミがいる一方で、周囲の協力を期待でき、自らが相手の生殺与奪をほしいままにできる状況下にあってすら、知られることを恐れる羞恥、勘違いや冤罪を恐れる不安、報復等を恐れる恐怖などにより「この人、痴漢です」という最強の社会的即死呪文を唱えることをためらう女も時にはいるのである。二人きりという一層の悪条件下であれば、尚更的確な対処をしづらかろう。標準的な人間は危害に対する忍耐よりも反撃や拒否により強い抵抗感を持ち、黙って耐える道を選んでしまう傾向にある。この内心の抵抗を捻じ伏せるには強靱な意志が必要となるのだが、恋愛工学の理論にとって理想的な攻略対象は、そういう強さを持たない女である。敢えて戦争の文脈で語るが、戦闘によって敵部隊を撃砕して降伏させることと、敵にその危惧を抱かせて降伏させることは、共に「戦闘」の結果なのである。実際に殴ったり脅したりしていないのだからよかろうという釈明は決して釈明にならない。意図や自覚の有無にかかわらず、そのような危惧に乗じて相手の意志に干渉する者に弁解の余地はない。
     そして、インターネット上で無邪気に騒ぐ恋愛工学信奉者達は、現にその真偽定かならぬ報告の中で、多かれ少なかれ強引な手法を用いたことを悪びれもせず語っている。一昔前、まだインターネットと現実社会に線引きがされていた頃ならば、ネット人格の誇張か法螺だと一笑に付せたが、今は悪事の証拠写真を誰に言われるでもなく自発的にアップして案の定炎上する狂った時代である。全員がそうとは言わないが、数割程度が事実を報告していても不思議ではない。
     ところで、孫子に深く感銘を受けたリデルハートは、古代の兵学者の理論を咀嚼して二種類の作戦方式を考案した。孫子の言う正と奇に対応し、それぞれ直接的アプローチと間接的アプローチと言う。前者は主力部隊を正面から叩きつけて敵主力を直接的に粉砕する血腥い作戦を指し、後者は直接的な攻撃を避けて機動や詭計による間接的な攻撃で敵を麻痺させ無力化する洗練された作戦を指す。リデルハートは、大量の犠牲を要求する直接的アプローチを忌み嫌い、最小限の流血で事を決する間接的アプローチこそ理想の作戦であると主張した。
     この二種類のアプローチには賛否両論ある。師匠である孫子は詭計を重視し戦わずして勝つことを上策とすることから一見支持派だが、正と奇の組み合わせを重視するところから、間接的アプローチを盲信するかのようなリデルハートの姿勢には難色を示すかもしれない。リデルハートが強い反感を抱いて反面教師に据えたクラウゼヴィッツは、リデルハートが生まれる半世紀ほど前に、流血の少ない洗練された作戦が存在しうることを認めつつも、それらは進んで求めていくには非常な困難があり、多くの場合机上の空論でしかないと切り捨てている。間接的アプローチは図に当たれば効果が大となり、小さな支出で大きな成果を得ることができるが、成功には技巧と幸運が必須であるため、難度が高く確実性に乏しい。このため、支出に見合った成果しか得られないが単純で確実性のある直接的アプローチを主軸とせざるを得ないのである。また、現代の研究者達にも、孫子やリデルハートの方法論に疑問を表明する者がいる。石津朋之は『リデルハートとリベラルな戦争観』(Amazon)の中で、間接的アプローチは正面を引き受ける直接的アプローチの支えがあって初めて成立するものであることを指摘した。ハンデルは『孫子とクラウゼヴィッツ』(Amazon)で孫子とクラウゼヴィッツの違いを論じた際、詭計を重視する孫子の思考法の根底には将帥や軍隊として我が敵よりも優るとの楽観的な前提があり、詭計を軽視するクラウゼヴィッツの思考法の根底には将帥や軍隊として我が敵に優るとは限らないとの悲観的な前提があるとして対比させた。つまり、実際の戦争で敵を謀るのは難しく、得てして流血を覚悟して正面からの殴り合いで決着をつけざるを得ず、また全ての背景に正面からの打撃の破壊力への危惧が存在せざるを得ない、というのが現実なのである。この意味において、戦争の本質は詭計や機動ではありえない。実際に生起するか否かを問わず、敵を粉砕するための戦闘に重点を置くことになる。
     ここで恋愛工学に話を戻す。
     恋愛工学に和姦術と強姦術があって体系の両輪を成すことは既に示した。この内、いずれが正でいずれが奇か、或いはそれぞれが直接的アプローチと間接的アプローチのどちらであるかを考えると、各々の原理から言って、強姦術を正にして直接的アプローチであると看做さざるを得ない。相手を丸め込むことにより、誘導の結果とはいえ一応は自発的に受け容れさせる和姦術は、技巧や詭計を駆使して武力衝突を極力回避する間接的アプローチに当たる。対して、相手の抵抗を抑え込んで目的を達する強姦術は、明らかに確実な成果を求めて武力衝突を企図する直接的アプローチに当たる。
     恋愛工学信奉者達の報告談が示す通り、恋愛工学は多かれ少なかれ強姦術が重きを成す構造を持つ。なぜならば、恋愛工学は速戦即決と多正面作戦によって数をこなすことを目的とするからである。女が男に好意的であったり関心を持っていたりするなどの好条件に恵まれなければ、必然的に強引な手法が不可欠となる。また、主体性と分別を兼備した者や手の内を知る者に詭計や詐術は通じにくいため、クラウゼヴィッツが結論した通り、そういう相手には結局力押しの正面攻撃を試みる外ない。結局のところ、人間的恋愛感情ではなく効率を重視するのであれば、それが一番理に適うのである。もちろん、諦めて他を当たったり、好意が育つのを気長に待ったりするようならば、強引な手法の出番はない。しかし、ほんの少し、あくまでもほんの少しだけ強引に押せば落とせるような気がした時、眼前にちらつく本能的欲求を抑えて撤退という選択肢を選べる者は、自覚的に恋愛工学を使おうとは思うまい。そして、そのほんの少しが漸増して、遂には退き際を誤って一線を越えてしまうことになる。恋愛工学の都合は女が本能に逆らえない動物であることを求めるが、そうである時、それにもかかわらず男だけが本能に逆らえる理由はどこにもない。恋愛工学を使用する者が本能を抑えて踏み止まることができるというのであれば、人間の本能は理性で克服しうることになるため、生理学や心理学で女を制御できるという恋愛工学の方法論は崩壊してしまう。本能と理性のいずれが優るとしても、恋愛工学には強姦術しか残らないし、それを重視せざるを得ない。
     戦争術の定義をそのまま適用すれば直接的な暴力を振るわない限り間接的アプローチであると言いうるが、戦争と恋愛では暴力の位置付けが異なるため、そのような主張は詭弁となる。恋愛と言うか平時の出来事については、何らかの力や機能を背景として相手に意志を強要する性質のものは全て暴力、即ち直接的アプローチに位置付けてよい。これは直接的な暴力に限らず、酒や薬、過度の身体的接触や強引な自宅訪問や自宅誘致、執拗な交渉などによる脅威、人間関係を利用した圧力など、様々に考えられる。
     この点は戦争術の政治次元を基準とするとわかりやすい。速戦即決の代名詞とも言える電撃戦は間接的アプローチを主とするものだが、それはあくまでも戦略と作戦の次元の話である。一九四〇年の独仏戦を例にすると、ドイツが再びフランスに攻め込んだこと自体は直接的アプローチである。軍事的な正面攻撃を可能な限り回避し、打撃による損害よりも行動による衝撃を重視するのが間接的アプローチである以上、政治次元では実際に軍事侵攻を実施した時点で間接性がなくなった。一方、戦略以下の次元即ち実際の武力戦には再び間接性が現れる余地がある。独仏戦で言えば、北方から反時計回りの戦略的攻勢を仕掛けるという英仏の予想に対するアルデンヌからの突破というドイツの作戦的回答が、英仏の意表に出て混乱させ、抵抗を麻痺させる結果に繋がった。しかしながら、直接的な衝突を司る最下位の戦術次元では、上位の構想と関係なく行動は直接的性質に偏らざるを得ない。間接性を保ちうるのは戦略と作戦の次元に限られる。その上、当初の間接性は戦況が長引くにつれて薄れ、次第に直接的なものへと変わっていく。従って、戦争はその最高部分と最低部分において直接的アプローチであり、中間部分も時間経過に従って間接性を失い、直接性を帯びるに至る。
     この理屈は恋愛工学にも当て嵌まる。いかなる形であれ、強姦術を用いてしまえば最上位の視点では常に直接的アプローチとなる。強姦術の手法の中に直接的な暴力使用を回避する間接性が秘められていても、直接的アプローチをより効果的にするための技巧にしかならない。そして恋愛工学の理論体系は、既に何度も指摘したように、特に都合の良い場合を除いて全て強姦術に指向されざるを得ない。そうしなければセックスが遠のくからである。和姦術であっても、強姦術を使用するための補助以上のものにならない。
     今後、恋愛工学の実践面はますます強姦術に偏っていくことになるだろう。
     成功した間接的アプローチだけが間接性を持ちうるというリデルハートの間接的アプローチ論に寄せられた批判の他、ルトワックが『戦略論』(Amazon)で「逆説の論理」として指摘したことを敷衍すると、知れ渡った奇策は最早奇策の用を成さない。恋愛工学を始めとするナンパ術の数々は今や話題になりすぎた。恋愛工学が絵空事でなく実効性を有する理論体系であるならば、今後一層成果を挙げると共に支持者を増やしていくことになるだろう。すると、こういう手口が存在すると知れ渡ってしまい、それなりに遊んでいたり警戒していたりする女は用心するようになる。また、実際に課題を解決するものがサイエンスではなくアートであり、アートは熟達を必要とすることから、それで女の好意を得られると思う方がどうかしている拙劣な手を打つ者も続出するだろう。これで引っかかる女がいるとすれば、最初から好意的な女以外では、頭の悪い女や無防備な女や気弱な女だけであり、後者は望まぬセックスに傷ついたり憤ったりする破目になる。
     そうした環境下では、最早和姦術は実質的に通用しなくなり、単純粗雑であるがゆえに対策の難しい技術が頼りにされるようになる。その技術こそ強姦術である。強姦術の有効性は、男女が個人的接触を保ちうる環境が確保される限り、遺憾ながら消滅しない。
     気持ち良く射精するための方法に過ぎない恋愛工学の信奉者の大半は、その有効性にためらいなく飛びつくことだろう。元々、セックスしたいだけの輩が食いつく理論なのだから、信奉者の精神性などお察しである。殴って服を脱がせるほど短絡的な者はそういないと思いたいが、自宅に上がり込んで強引に迫るとか、未成年だろうと構わず酒を飲ませて自宅に連れ込むとかといった程度のことはするだろうし、今もしているだろう。そこであくまでも真っ当な方法を選べる倫理観の持ち主は、最初から恋愛工学になど縋らない。恋愛工学を信奉できるというだけでクズの志願資格を十分満たしており、従って信奉者達は例外なく犯罪者予備軍である。ここに倫理性の欠如という性質が欠陥となって響いている。つまり、恋愛工学の理論は倫理的歯止めを持たず、しかも倫理観を持たない者のみが使用者となりうるのである。
     この評価はロリコンやナイフマニアや自衛官を犯罪者予備軍呼ばわりする誹謗中傷とは根本的に違う。ロリコンは単に少女を好む性質を示すのみでその性質をどう処理するかには個人差がある。ナイフマニアも同様に、ナイフを集めてどうするかは人によって違う。自衛官に至っては国防のために技術を磨いているだけでしかない。中にはその性向や技術によって悪に走る者もいるが、それは例外に属する。だが、恋愛工学信奉者はそうではない。まさに、大勢の女とセックスするための理論体系を大勢の女とセックスするために支持している。そこには例外なく行動が伴う。過激派やカルト団体の構成員のようなもの――恋愛工学は実のところ本当に尊師を囲むネットカルトのようなものだが――である。この種の連中は、ある思想や信仰の共有が、思想や教義の実践並びに反対者の排除と不可分になっている。
     これから先――或いは今まさに――恋愛工学の使用者が増加するか対策が広まるかするにつれて、和姦術の比重は低下し、強姦術が実践の中心となっていくだろう。それは急増する俄仕込みの連中が手っ取り早い手段に飛びつくからでもあるし、和姦術が通用しづらくなって強引な手法に頼らざるを得なくなるからでもある。そうなった時、和姦術は女を人気のない場所に連れ込んだり、逆に相手の自宅に押しかけたり、抵抗力を弱めたり、事後の抗議や報復を封じたりする方向に発達し、強姦術を円滑に実行するための二義的なものに成り下がることになる。
     これはまず倫理的或いは社会的な問題点であるが、既に述べたように理論が人道を踏み躙ることはよくある。だから、理論面で評価するのであれば、これは遺憾ながら問題にならない。
     しかし、肝心の理論面に、倫理面や社会面でのそれを遥かに凌ぐ重大な、致命的とすら言える問題点がある。
     効率を追い求めた結果として強姦術に行き着くのであれば、和姦術の研究など全く必要なくなる。そうなると、恋愛工学の理論の大半が無用な不純物と化す。生理学やら心理学やら統計的手法やらを云々するよりも、少し強い調子で声を発したり、腕を強く掴んで引っ張ったりすればおとなしくなって言うことを聞く女の見つけ方であるとか、酔い潰すのにちょうどよい口当たりが良くて度数の高い酒の知識であるとか、ラブホテルと現在地の位置関係であるとか、効率的な恫喝の方法であるとかを云々するべきである。
     窮極的な段階において、恋愛工学はまさにその独自の論理のせいで自殺せざるを得ない。恋愛ではなくセックスを目的とし、セックス以後の関係を理論の外に置く構造が招く必然である。

    六、欠陥の原因
     ここまでに分析した恋愛工学の種々の欠陥は構造に由来する。本項では、その構造的欠陥が生じた理由、即ちそうした構造を取るに至った理由を考察する。
     恋愛工学が木の股から生まれて自ずからこのような形を取ったのであれば、時代や文化等、生成環境に理由を求めることになる。しかし、これはあくまでも一個人が主体となって提唱したものである。従って、理由は考案者である藤沢数希に求める以外にない。なお、藤沢は複数人の共同名義説もあるが、本稿では便宜上、個人とする。
     藤沢がこのような理論体系を構築した陰にあるものは、商業上の都合か専門分野の呪縛か、はたまたその複合物であると推察できる。後者のみならず前者にも、当人の専門にして飯の種である金融工学やマーケティングが深く関わっていると見られるが、詳しくは後述する。
     まず、商業上の都合説から考える。世の男達に役立つ助言をしたいという親切心など欠片もなく、ただ何らかの商業的或いは社会的利益を最大化することだけを目的に、藤沢が恋愛工学を発表したものと想定する。
     恋愛工学の論理や構造がカルト化を促すものであることは既に指摘した。指摘した時点ではこの構造を恋愛工学の欠陥であるとしたが、実は理論構築失敗がもたらした誤算ではなく、元々の計画通りである可能性もある。実際、藤沢による恋愛工学商法は、過激な主張と支持者の跳梁跋扈により知名度を得て、知名度を活かした企画や活動や取材の報酬や人脈の拡大、更にはカルト化した支持者から吸い上げる購読料による収益モデルの確立と、実に鮮やかな手並みを見せている。座っていても金が入ってくる仕組みを作り上げたことは偉大な成功である。藤沢には間違いなく金儲けの才能がある。
     もちろん、そのような意図が全くなかった可能性はある。所詮このようなものは結果からの邪推以上のものではない。
     しかし、マーケティングに詳しい藤原ならば、消費者の傾向や市場の需要に乗じて人口に膾炙する製品を提供することなど造作もないであろうし、カルト化によって顧客を捕まえ続ける手口も知悉しているであろう。また、現にカルト化した恋愛工学により、現金収入や話題性獲得等、藤沢は様々な利益を得ている。
     これらの推測と事実は、藤沢が顧客のカルト化を促しやすい情報商材を意図的に売り出したと推定する状況証拠として立派に通用するはずである。従って、恋愛手法としての是非や優劣など全く考慮せず、ただ顧客受けだけを考えて恋愛工学を設計した結果、恋愛工学がこのような欠陥構造を持つに至ったと解釈するのは、邪推としては上出来の部類に入るであろう。
     続いて専門分野の呪縛説を考える。この時、当人は何らかの個人的利益を求めてではなく、世の男達への善意や当人の探究心に衝き動かされて恋愛を考察し、その手法を理論化したものと想定する。
     人の行動と思考は経験と知識に縛られる。改まって物事に取り組む際、それは特に顕著である。事なかれ主義によって窮地を切り抜けてきた者は、問題に出くわした時、ごく自然に、見て見ぬふりをしてうまくやり過ごす方法を考え始めるだろう。喚き散らすことで要求を通してきた実績のある者は、要求が通らなければ通るまで喚き散らすだろう。論理学や数学を深く学んだ者は、まず論理的整合性や数値的正確性を気にするだろう。文学を学んだ者は、細かい表現や意味に気を配るだろう。同様に恋愛に関する藤沢の考察もまた、自身が専門とする金融工学とマーケティングの方法論と、それによって成功してきた自身の経験を出発点としたはずである。
     金融工学とマーケティングの特徴の内、第一のものは、目的の不在である。金融工学とマーケティングに限らず大抵の理論に当て嵌まることだが、何をするのかという議論に終始し、何のためにするのかという観点が欠如している。金融工学やマーケティングを見れば、経済的利益や商業的成功の追求を目的に掲げつつも、何のために利益や成功を獲得するかを示していない。獲得した利益や成功はより大きな利益や成功を生み出すためのものであり、際限なく資産や事業を拡大していくことが本当の目的であると語る人もいたが、それも結局のところ、その分野の中で完結する循環である。分野が自己目的化している。要するに、目的は各人が考えなければならず、それを怠る者はただ機械的に資産の増減と事業の盛衰に振り回されることになる。目的から解き放たれた在り方は自由に満ちているようで実は不自由である。多様な目的を生み出す政治的論理から解き放たれて自己目的化した戦争が絶対戦争へ向かうように、専門分野を単なる手段に位置付ける上位の目的を見出さない限り、手段は内在する独自の論理を覚醒させて画一的な方向に極端化する。
     金融工学とマーケティングの第二の特徴は、固有名詞の不在である。金融工学もマーケティングも、本当の意味で固有名詞を相手にすることはない。乱暴に纏めてしまえば、金融工学は財と市場を扱い、マーケティングは消費者を扱う。それらは実体性を持たない抽象的な存在であって、特定の組織や個人を指すものではない。財がどれだけあってどう動くか、市場がどこに向かうか、消費者が何を好み何を求めるかを考えはしても、財の持ち主や市場の構成員、個々の消費者に重要性を見出すようにはなっていない。金融工学は、百万円を持っている人がそれをどう扱うかを気にはしても、百万円の持ち主がA氏であろうとB氏であろうと気にしない。市場についても同じで、百万円を持つ人がどれだけいて、ある商品を求める人がどれだけいるかが大事なのであり、百万円を持つ人や商品を求める人が誰と誰であるかはどうでもよい。マーケティングも同様であり、多くの需要がある商品が何であるか、ある商品はいかなる層の需要を満たすかを考えるが、消費者個々の性格や名前に関心を向けない。結局はどちらも集団の統計なのである。金融工学は抽象的な財に注目する。誰の財布から出るものであっても気にしないし、硬貨の発行年や意匠に特別な意味を認めるようなこともない。マーケティングもまた、百人中何人に需要があるか、いかなる層に需要があるかに注目する。百人いる中の誰が買うかに頓着することはない。消費者から特定の条件に合致する層を抽出して訴求対象とする場合もあるが、その中に誰が含まれているかに拘泥することはやはりない。つまるところ、金融工学は市場動向の中で資金や物品が持つ経済的価値に着目するのであって、資金や物品自体は眼中に入れない。この際、価値は実体から乖離し、所詮数字や観念に過ぎないそれ自体が意味を持って独立する。企業価値が企業本体を離れて株券と結びつくようなものである。またマーケティングは、消費者の全体または特定層を分析して平均化した抽象的な消費者を相手取るのであり、実在する人間を相手取ることをしない。このような手法を取る時、価値の測定は特定の尺度に従う一面的なものとなり、対象の定義は観測者の胸三寸となる。これは分析と言うよりも都合の良い相手を探し出す条件検索の性質が強いため、都合に応じていくらでも細分化して定義できる。なお、これがあくまでも設定した条件から該当者を抽出する作業であることを忘れてはならない。特定の基準に従って抽出した該当者から人間一般を帰納することはできない。ともあれ、金融工学は実体から独立した価値の増減と流通を把握した時、マーケティングは抽象的な標的に投射した資本や製品がそれに近似する実在の誰かしらに当たった時、それぞれ成果を挙げたことになるし、現に成果を挙げている。実在の人間から目を背ける金融工学やマーケティングの理論が一定の成果を挙げるのは、まさに生身の人間を扱う必要がないからである。市場の構成員や顧客達の多くにとって、金融取引や消費活動は人生上の一大事ではない。多くの者にとってそれらは、単なる副業や小遣い稼ぎであったり、余剰資金の運用であったり、ちょっとした買い物であったりして、真剣に人生を賭ける者はごく一部に限られる。このように人生上の一大事として真剣に捉えていないおかげで、構成員や顧客は様々なしがらみからも自由でいられる。その結果、人々の多くは理論に基づく助言や標準的な価値観に従って動くようになる。これは人々の行動が客観的に予測可能になることを意味し、この時、理論の中にしか存在しない抽象的な構成員や顧客が現実に誕生する。そして、そのような人々の活動は類型化することができる。
     金融工学とマーケティングの第三の特徴は、精神の不在である。この場合の精神とは、価値に属するものと、人間に属するものの二つがある。まず、価値の話をする。金融工学とマーケティングは窮極的には商取引の理論であるから、必然的に経済的利益或いは商業的利益を以て唯一の尺度とする。結果は数値や現象として定量的に把握できるものでなければならないため、必然的に認識は即物性を帯びるし、事象は相互に兌換可能なものともなる。そこに換算できない価値はなく、交換不可能な絶対的価値もない。もしそのようなものが示されたとすれば、存在しないものとして無視するか、「適正価格」を見積もることで無理矢理文脈に取り入れることになる。そして、換算不可能な価値とは概して精神的価値である。次に人間に属する領域を論じる。これらの分野は当然のこととして人間心理も参考材料とするが、それはこの分野に精神的要素が存在することそのまま意味するものではない。なぜならば、金融工学とマーケティングが取り扱う人間心理とは、個人の複雑怪奇な心理でなければ、人間に共通する非常に大まかな心理でもなく、抽象化した人間の心理的設計図だからである。あるがままの人間から帰納するのではなく、先立ってこういうものと定義した人間から事細かに演繹することで、金融工学とマーケティングは自身が必要とする範囲内での人間心理を把握し、それ以外を不純物として切り捨てる。だが、科学的に性質や機能を解剖できるとする見方は、あくまでも物理を扱うためのものである。このような見方をする時、精神は物質となり、あたかも一定の刺激に一定の反応を示す機械のようなものと化す。従って、金融工学とマーケティングは、精神の一部分のみを物質として取り扱っているに過ぎない。そして、このことは必然的に、金融工学とマーケティングが精神を見ていないことを示す。逆説的になるが、精神とは物質で量れないものを指すのだから、金融工学とマーケティングがこのような取り組み方をする限り、精神を扱うことはできない。また、切り取った頭部や手足を人間と呼ぶことがないように、切り取った精神の一部は精神ではない。各器官各部位が結合した一個の有機体を人間と呼ぶように、全体が揃って精神である。従って、人間を想定しないこのような分野はありのままの人間を扱うのに適さない。
     以上に述べた金融工学とマーケティングが持つ三点の性質、即ち、目的、固有名詞、精神の不在が反映されたことにより、恋愛工学の構造が欠陥を孕んだまま出来上がったのである。具体的に言えば、目的の不在が手段の目的化と展望の欠如を生み、固有名詞の不在が統計的方法論と類型化に繋がり、精神の不在が尺度をセックスと肉体的反応に求めさせた。
     ここで改めて二つの説を総括する。
     まず、商業上の都合説は、恋愛工学を一つの学問ではなく、金融工学とマーケティングを実践して売り出された商材と捉えるものである。実用性や実効性の有無は問題としないし、万人から広く認められる必要もない。
     一方、専門分野の呪縛説は、純粋に当人の限界を指摘するものである。そこに商業的或いは社会的利益を求める意図はなく、ただ完璧な理論のみを求めている。
     しかしながら、恋愛工学の構造の由来をいずれかのみに求めるのは現実的でない。人間心理や現実の事象という混沌は、そうした単純な二分法で量りうるものではないからである。ここではむしろ、呪縛と都合の双方を是とすべきであろう。
     つまり、筋書きはこうなる。藤沢数希は自身の知識と技術を用いて顧客受けの良さそうな商材を企画したが、内容が無価値であれば顧客が続かず大きな当たりに繋がらないため、中身にも力を入れざるを得なかった。しかし、藤沢は自身が得意とする金融工学とマーケティングの論理から離れることができなかったため、結局それに基づいた「科学的」な理論体系を築くことしかできなかった。

    七、戦争術と恋愛工学の類似と相違
     戦争術の価値観に基づいて恋愛工学を概観する内、或いは読者は、恋愛工学の欠点として挙げた点が多かれ少なかれ戦争術にも当て嵌まることに思い至り、首を傾げたかもしれない。
     恋愛工学に最終的な評価を下すに先立ち、その点に回答を示しておく。
     確かに、戦争術にも統計に基づく思考法や推奨される定石が存在する。前述の孫子やリデルハートの如き思考法もある。これらが、具体的な固有名詞としての個人ではなく抽象的な個人や集団を相手取り、敵を受動的な客体と位置付けて我の思惑通りに制御可能なものであると認識する点で恋愛工学と共通することは事実である。
     しかし、戦争術という特殊な領域にあって、これはさして大きな意味を持たない。と言うのも、恋愛と異なり、戦争は必要と強制から成るからである。
     日常生活にとって恋愛は必要でも強制でもない。人生から恋愛が欠けたとして必ずしも痛手になるとは限らず、恋愛をするもしないも当人の自由である。一生恋愛に縁を持たずに過ごす者がいても、それが原因で破滅することは普通ない。必ず誰かと結ばれなければならないこともなく、誰かの求愛に応じる義務もない。無理矢理応じさせようとすれば、少なくとも現代日本では犯罪であるし、犯罪や不道徳とならない時代や地域であっても、肉体はともかく精神を自由にすることは難しい。更に、嫌になれば途中で放り出しても構わない。むしろ、嫌になったら速やかに終えた方がよいとすら言える。この終了に双方の合意は必要ない。片方の気持ちがなくなった時点で関係は終わらざるを得ない。婚姻や婚約等の法的契約や暴力や地縁血縁等の強制力が絡んでいなければ一方が宣言するだけで事足りるし、そうでなくとも論点はいかに契約や強制力と折り合いをつけて関係を終えるかというところに移る。この意味では、恋愛という関係性は双方の合意によってのみ発生し、継続するものと言える。
     対して国家にとって、安全保障という意味での戦争は必要であり、戦争をするかしないかは必ずしも自国の意思で決められることではない。当事国の一方が開戦を決心した時、もう一方は応戦するか服従するかを選ぶ外なく、抵抗の可能性があれば否応なく戦わざるを得ない。他方、理論上はともあれ、現実的には終戦の時期はほとんどの場合、多分に公正と公平を欠くものの、当事国間の合意によって決定される。つまるところ、何らかの合意に至らなかった結果、何らかの合意に至るために当事者間で生じるものが戦争である。
     この違いは非常に大きい。
     恋愛は合意がなければ始まらない。しかし、相手方は必ずしもその合意を必要としないし、そのための交渉に応じる必要すらもない。ここに相手の強みがある。求愛側はまず相手を交渉の席に着かせるところから始めなければならない。ところが、求愛側が求愛という目的に縛られているのに対し、相手の思考と行動は何の拘束も受けない。相手には大きな自由度があるため、その取りうる思考と行動は相手の事情が許す限りにおいて無限である。このような相手への統計の有効度は低く、制御の公算も乏しい。従って合意に至るための手本となる定石もない。恋愛工学が目的とするセックスであれば必ずしも合意は必要ないが、それは基本的に犯罪である上、恋愛にも結びつかないであろうから、何の意味もない。
     他方、戦争の開始に合意は必要ない。しかし、相争う両者の目的は少しでも己に有利な合意に至ることである。つまり、両者は競争状態にある。あたかも対峙する決闘者のようなものであり、両者は各々敵の打倒と我の防護、即ち敵を不利にし己を有利にするという目的に制約されることになる。こうした状況であれば、思考と行動の自由度が限定されるため、相手に統計を当て嵌め制御を試みる余地が生まれる。敵の可能行動が少ないほど戦いはやりやすい。剣で戦っているのであれば、敵は我を斬るために何かをせざるを得ないとわかっている以上、他の情報と合わせてその行動を予測できるし、わざと隙を見せて望む時機での攻撃を誘導することもできる。人間が甲冑を着たまま動き回れる時間は通常十分程度であるという統計があれば、相手は十分以内に勝負を決着しなければならないという前提を踏まえ、軽装で挑んで十分ほど逃げ回る戦術も用意できる。また、敵を一撃で倒したければ隙を作らせて急所を打ち、少しずつ優勢を得たければ小さな傷を沢山つけて出血を誘う、甲冑を着た相手には死角から接近する、といった常套戦術もある。
     以上の説明を整理する。
     統計という手法、制御という発想、定石という原則を具える点で恋愛工学と戦争術は類似する。
     しかし、統計等が恋愛には通じにくいのに対し、戦争にはある程度通じるという点で両者は相違する。ただし、ことセックスに限るのであれば、恋愛工学は統計等をそれなりに活用できている面がある。和姦術にせよ強姦術にせよ、相手を強制的に交渉の席に着かせ、選択肢を奪うことで可能行動を減らし、己の意のままにするものだからである。この点に限れば、やはり恋愛工学は戦争術に近しい。
     ともあれ、戦争術が恋愛工学と同種の「欠陥」を抱えるのではないかとの疑惑は、これで払拭できたものと思う。戦争術において、この「欠陥」は欠陥にならないのである。

    八、恋愛工学の評価
     本稿の結びに代えて、ここまでに展開した分析を整理し、改めて恋愛工学に評価を下す。
     恋愛工学は確かに商業的成功を得た。しかし、人間関係を解く理論体系としてはあまりにもお粗末であり、到底実用性がない。と言うのも、アートでしか解けない現実の課題をサイエンスで解けると想定する方法論が、恋愛工学だからである。
     無論、サイエンス単体でもある程度まで現実上の課題に対処することはできる。しかし、望ましい成果を出すにはアートが必要になる。具体的に言えば、サイエンスを的確に適用するのはアートの仕事なのである。
     恋愛工学はこの点への理解がない、或いはアートを要さないサイエンスを築くべく敢えてアートを排したのかもしれない。後者であるとすれば、確かに魅力的且つ有意義な挑戦ではある。アートの成果は個人の資質に左右され、同じ作業や訓練を経ても成果は不平等である。個人の資質と関わりなく、同じ作業や訓練が常に一定の結果を保証するような手法を確立できれば、アートに長けた者がアートを存分に使い、アートで劣る者がサイエンスに従って一定の成果を挙げることにより、成果の総量は増大する。これは功利主義に適うし、選択肢の増加は自由主義も歓迎するところであろう。
     しかし、このようなことは数限りなく試みられてきたが、未だ成功を見たためしがない。たとえば、クラウゼヴィッツはサイエンスによる戦争遂行などありえないと笑い飛ばし、ビューローは失敗者と呼ばれ、ジョミニでさえも遂にはアートに頼らざるを得ないことを認めた。そして、クラウゼヴィッツの認識は現在も支配的であり、戦争術は今なお大部分をアートに拠っている。もしその辺の一般市民にシュワルツコフが当時持っていたものと寸分違わぬ知識と情報を与えたとしても、シュワルツコフと市民では湾岸戦争に示す処方箋は違うだろうし、多分シュワルツコフの方が良い処方箋を書くはずである。フリードリヒやナポレオン、マンシュタインやアイゼンハワーならば、やはり異なる処方箋を書くことだろうし、それもまた一般市民のそれより良いものであろう。現実の課題への対処はどうしても属人的なものに左右される。
     恋愛――人間関係――に対する恋愛工学も同じ道を辿った。理解の欠如であれ、意図的な挑戦であれ、結局は失敗に終わってしまった。ビューローのように二、三の便利なものを残して打ち捨てられる運命にある。
     クラウゼヴィッツは『戦争論』の序言で「植物の茎が伸びすぎれば良い実がならないように、実際的学術においては理論的葉や花をあまりに高々と繁茂させるべきでなく、その本来の土壌である経験に常に即してあらしめねばならない」と述べた。恋愛工学はそれに従って作り直されるべきである。
     恋愛工学なるピラミッドは、若干の優良な石材と大部分のクズ石から成り、設計には誤りがある。かくなる上は、いつまでも執着しておらずにさっさと解体してしまい、良質な石材のみを取り上げて新しいピラミッドの礎石とすべきなのである。

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