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    表現の自由が許される限界

     本稿では主として創作倫理を模索する目的で表現の自由の限界を考察するが、法学的方面での考察をするつもりは一切ない。法的議論は現状がどうであるか、及びどのように変えることができるかの確認と分析にしかならず、物事がどうあるべきかの考察には繋がらないからである。法律の話はあるべき形が定まってから、その可否や是非を検証するために行えばよい。もっとも、法律など所詮は作為的な約束事であるため、議論の参加者達がどうしたいと思っているかでその結論はいくらでも変わってしまう。一般の支持が得られる見込みがあるかはさて措き、法学者達は法学的見地から殺人を合法化する理屈を考え出すことさえできるだろう。法学者達がそうしないのは、まさに一般の支持が得られないからであり、本人達がそうしたいと思わないからである。従って、二重三重にも法学理論をこの種の問題に持ち込む意味はない。従って、本稿では考察の尺度として法学以前の普遍的利害と論理的類推を使用する。ある意味では実用主義的立場にあるのかもしれない。
     この議論においては、まず表現の自由が無制限のものではありえないことを前提に置く。これは公理として扱うが、異論は出ないものと思う。少しでも想像力のある者ならば、表現の完全な自由が実現した時に何が起こるかを容易に思い浮かべることができるだろう。想像力が欠片もない者のために具体例を挙げると、それが一私人であるにもかかわらず、マスコミが他ならぬ読者のことを徹底的に調べ上げ、住所氏名、年齢、家族構成、職業、主な友人、インターネットの通信履歴、一日のオナニーやセックスの回数、初めて書いたラブレターの内容、入浴中の体毛処理の画像などを「記事」に纏めて全国紙の一面で暴露するようなことがあっても、それを自由な表現の一つとして許容しなければならなくなるのである。こうしたことを防ぐためにも、表現の自由には一定の制限が必要となる。
     しかし、これは法学的原則でもあるのだが、制限は必要最小限のものでなければならない。何でもかんでも禁止できる可能性があるようでも、やはり悲惨なことにしかならない。何があっても手出しできない聖域がなくてはならず、しかもそれは大きければ大きいほどよい。
     またもう一つ、表現の自由を定めた国際人権規約第十九条には、表現の自由を制限することが許される目的として「(a)他の者の権利又は信用の尊重」と「(b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」が挙げられている。法学的話はしないとは言ったが、法学を超えた普遍的理念であるように思われるので、これもまた考えの基礎に取り入れる。ただし、a項が原則として正当なものである一方で、b項が「国の安全」以外が不当な制限であることを指摘しておく。「公の秩序」が国のためのものであれば「国の安全」以上を求めるべきではなく、個人のためのものであれば「他の者の権利又は信用」の範疇で処理すべきである。「公衆の健康」も「他の者の権利又は信用」でよいし、「道徳」に至っては誰かがかくあるべしと定めてよいようなものではない。道徳に関して更に言えば、それを定めようとすることと、道徳を理由に他者の行動に干渉しようとすることとは、共に最も不道徳な行為である。無条件で通用してよい道徳とは、互いに物理的乃至客観的な損害を与えず、約束を破ることも破らせることもしないという相互保障の道徳のみであり、それ以外の一切は特定の個人や集団の都合に過ぎない。
     それはさて措いて、こうした前提を踏まえた上で現実的に必要且つ妥当な規制乃至自主規制を考えると、それはどうしても実害を基準とせざるを得ない。その表現が為されることでいかなる対象にいかなる実害が生じるか。それだけを基準とすべきである。
     ここで言う実害は客観的にその存在を確認乃至推定し、その因果関係を立証乃至推定しうる損害を指す。作中で製品を事実と異なる形で描写されたせいで企業の業績が急落することがあれば、それは算定可能な典型的実害である。また、ある人物の個人情報や行動範囲を公開することは個人情報を悪用される危険を招くために実害がある。ある人物の人生中の出来事を無断で作品化することは、たとえ見ず知らずの者にはわからないほど情報を暈したとしても、見る者が見ればわかってしまう点ではプライバシーを侵害している。ここで争点となるのはプライバシーの侵害が実害に当たるかどうかだが、一つの論理的推論として、世の中のほとんど全ての人間がそれを無条件で公開していない以上、それには保護されるだけの価値があると看做すのが筋である。他方、ある作品や描写を不快に感じるというだけであれば実害ではなく個人的感想に過ぎないし、ある業界の人物が職能や職権を用いた悪事を働く作品に対して業界の信用を棄損すると抗議するのは客観性のない推論の域を出ない上、完全に虚構の出来事として表現されたものであれば、実際にそれで信用が傷ついたとしても作品の責任ではない。保険会社の外交員が身寄りのない老人の家に上がり込んで金品を盗み取るという犯罪を描いた作品のせいで外交員が警戒されるようになっても、それは人々が従来意識していなかった可能性を新たに意識するようになった結果に過ぎない。責任はむしろそのようなことが可能であるような状況を放置している保険業界の在り方にこそ帰する。
     ただし、実害の中にも例外規定は必要である。もし例外が一切ないとすれば、犯罪や不正を報道することも許されなくなってしまう。それを行えば確実に犯罪者や不正者に実害を及ぼすからである。犯罪者が困るから犯罪の報道を規制するというのは論外なので、悪事――法に抵触すると合理的に推定されるものに限るが――に関しては例外とする必要がある。だが、これではまだ足りない。人工中絶の規制緩和を公約に掲げて活動する議員が望まぬ妊娠をした娘の中絶を認めず出産を無理強いした事実を世間に知らしめることができないからである。そのようなことをすればその議員は国民の批判を浴びて政治活動に支障を来すことになりかねない上、人工中絶は現状倫理上の問題であって法の介在する余地はない。従ってこの問題は世間の目に曝す必要のない当該議員の個人的事柄である。しかし、これは政治家の言行不一致を示す情報であり、有権者が政策や活動を評価する際の重要な判断材料となるため、こういったことが報道されなければ有権者は自分にとって本当に望ましい政治家を選べなくなる。すると、皆が知るべきことは広く知られるべきであるという結論に行き着かざるを得ない。従って、実害が生じるとしても、その実害を防ぐ価値がない場合と、その実害を防ぐことによってより大きな実害が生じる虞がある場合は、例外的に実害が許容されるべきなのである。しかしながら、この実害を必要以上に拡大することがあってはならない。犯罪の事実とその実行者、政治家の言行不一致などの情報を報道するのはよいとしても、その家族や友人への影響を極力抑えなければならない。罪もない一市民の顔と名前が「容疑者の友人」としてテレビ画面に映ったり、件の議員の娘の個人情報を顔写真付きで週刊誌が報じたりするようなことは各件とは何の関わりもない。くどくどと語ったが、これらもまた法学で言う公共の福祉及び公益性の概念とほぼ等しい。
     ここで挙げたものは考えられる実害のほんの一部でしかないが、おおよその方向性は示せたものと思う。
     回避されるべき実害を示した後は、保護すべき対象を考えなければならない。これもまた無差別無制限ではありえない。そういうことをすると、登場人物の人権を保護すべしなどと叫ぶ正気と知性を母親の子宮の中に置き忘れてきたような論外の愚物の主張が通ってしまうことになる。だからこそ、まず架空の人物は保護対象には当たらない。
     話を現実世界に戻す。
     まず、当然のことながら個人は保護されなければならない。これは国際人権規約第十九条a項に素直に従うべきである。だから、原則として、当人の許可なく実在する個人を表現の対象としてはならない。これは直接その個人を表現することばかりでなく、テーマやモデルとすることも含む。少なくとも、対象となる個人を知る者が目にした時に合理的証明を伴って同定できるようではいけない。たとえば、安倍晋三に風貌が酷似した安倍野晋助なる総理大臣を作品に登場させたとしたら、それは安倍晋三を作品に登場させたのと実質的に同じことであることを忘れてはならない。名前や顔が似ているだけだから別人であるという論理を世間一般では屁理屈と言う。
     その時点では最早存在していないことになる故人の扱いは悩ましいところではあるが、遺族の利害と言うよりも死者の名誉もまた守られるべき価値を持つだろう。これは事の真偽の判定可能性を念頭に置き、有名と無名、及び事実と虚構で分ければよいと思われる。公的記録や民間伝承等に事の真偽を判断するのに十分な情報が残っている著名な故人の場合は、その情報には知られるだけの価値がある上、捏造や誤報の判断も容易であるため、その扱いに強い保護は要らない。しかし、その逆、情報が十分に残っていない無名の故人の場合は、誤解を解き、捏造を斥けることが難しい上、原則としてその情報に大した価値がないことから、強力に保護して然るべきである。更に、事実の報道と虚構の創作という二つの観点についても考えてみる。事実――これはきちんと立証された事実とする――を報道する場合、重要なのは対象の知名度ではなく公益性と公共の福祉である。知られないままにしておく必要性がない事柄や知られないままにしておいてはならない事柄であるかどうかが判断基準となる。虚構の創作――本稿で重点的に扱いたい主題である――においては、今度は公益性と公共の福祉ではなく知名度が物を言う。坂本龍馬が夜な夜な街路を徘徊して人を斬っていたという描写をしても読者がそれを真に受けることはないし、もしそういう読者がいても史料からそれが事実無根であることを説明して誤解を解くことができる。しかし、青森林吾氏の曾祖父である青森豪雪中尉が戦時中に満州で中国人を虐殺したかどうかは、その真偽の判定が現実的に不可能である。これは最早読者がどう思うかでしかない。ゆえに、作中で坂本龍馬に辻斬りをさせてもよいが、青森中尉に虐殺を行わせてはならない。もっと言えば――これは普遍性のない個人的主張だが――登場させる必要がなければそもそも実在の誰をも出すべきではない。坂本龍馬に辻斬りをさせることにはその知名度や一般的認識から言って作劇上の効果と特有の必要性があるだろう。だが、無名の一軍人である青森豪雪中尉という特定の個人を作品に敢えて出す必要性は乏しい。辻斬りが岡田以蔵であるか坂本龍馬であるかは大きな違いを生むだろうが、虐殺の実行者が実在する青森豪雪中尉であるか架空の近畿京一中尉であるかで作劇上の効果が変わるとは思えない。
     その他、実害の例に企業の風評被害を挙げた点からもわかるかもしれないが、組織もまた保護の対象とすべきである。この点においてくどくどと語る必要はあるまい。要するに個人に準じる扱いをすればよい。
     しかし、全ての個人と組織を全ての場合に保護対象とする必要はない。
     まず個人と組織では、個人の保護は厳重にすべきだが組織の方は多少保護が弱くてもよい。次に公的存在と私的存在では、私的存在に保護は必要だが公的存在に大した保護は必要ない。この前提を掛け合わせると、私人は公人よりも強く保護されるべきであり、私的組織は公的組織よりも強く保護されるべきである。他方、私人は私的組織よりも強く保護されねばならず、公人は公的組織よりも強く保護されねばならない。しかし、公人が私人の面を持つことも忘れてはならない。保護の在り方は報道と創作とでも違いを見せる。報道の場合は先述した故人の場合に準じればよい。それが公共の福祉と公益性に適うとすれば、報道すべきであることか、してもよいことである。逆にそれに適わなければ保護の対象となる。創作の場合はやや勝手が異なり、まず存命中の個人に関しては公私問わずできる限り扱わない方がよい。登場させる場合はそうする作劇上の意義が必要であるし、その際も事実と異なる説明や描写や言動をさせるべきではない。現実的に考えると、出番は最小限に留めた方がよいということである。ただし風刺やパロディの類は除く。その際は風刺やパロディのマナーに従って行えばよい。これらのマナーは人によって言うことが違うが、風刺は弱者を虐げるべきではないし、パロディにはネタにされた当人も苦笑するような馬鹿馬鹿しさが必要であるように思う。実在人物を作中に登場させる場合については、先ほど安倍晋三を引き合いに出したので、また説明の役に立ってもらう。たとえば現代日本を舞台とする場合、時代や社会情勢をさりげなく描写するために安倍晋三の実際の記者会見の様子を多少用いるとか、日本が侵略を受けた際に実際の描写を伴わず単に「安倍総理大臣が自衛隊に出動を命じた」などという一文で済ませるとかというのが無難なところであろう。ここで安倍晋三の名前を出す作劇的意義は、そこに何か政治宣伝的な意図がない限り、現実世界との距離を近づけて迫真性を増すところにある。二〇一七年の日本が某国と戦争状態に陥るという虚構を描く時、現実味を出すために二〇一七年現在の首脳や社会的事件を登場させるのは創作手法としてはありふれている。
     組織に関しては個人よりも緩く考えてよかろう。少なくとも事実に反していたり悪意があったりする描写をしない限り、またたとえ事実に即さない部分があっても明らかなパロディや虚構であれば、公私問わずあらゆる組織を登場させることに問題はない。そうすることに何らかの作劇的意味があるなら、アップルやマイクロソフトの名前を作中に出すことに何の問題もないし、ウィンドウズ 10 絡みの強制アップデートの件を針小棒大に当てこするのもよかろう。あるキャラクターがウィンドウズ派であるかマック派であるかは、あるイスラム教徒がシーア派であるかスンニ派であるかほどではないが、キャラクター性を表現する上で意味を持つ。またウィンドウズの一件も、作者の正直な見解と取られるような書き方をすればただの悪口になりかねないが、わざと大袈裟に書いて明らかに冗談であるとわかるようにしたり、あくまでもある一人のキャラクターの発言として、その嗜好や思想の描写としての機能を持たせたりすれば、一つの毒はあるが愉快でもある表現が成立する。これはパロディや風刺に当たる。しかし、これ以上のことを私的組織にすべきではない。マイクロソフトやその製品を作中で取り上げるのはよいが、それ以上のことを勝手にするのは好ましいことではない。実在非実在を問わずマイクロソフトの関係者を出すべきではないし、マイクロソフトという企業の行動や内部を描くべきでもない。ここまでに述べた以上のことをしたければ、きちんと許可を取るか、公的組織を使うしかない。政府や公官庁や軍隊や警察などはその代表例である。実在の人物さえ登場させなければ、これらの組織には大抵のことをさせてよいし、してもよい。自衛隊をアットホームな学生サークルのように描写しても、人民解放軍も真っ青の犯罪組織めいた悪魔の軍隊のように描写しても、或いは自衛隊を大活躍させようと主人公の引き立て役として惨敗させようと、実在するナントカ一等陸佐だのを登場させない限り、全く自由である。第三十一普通科連隊本部などの実在する部署を扱っても、統合幕僚監部運用部運用第九課なる架空の部署を扱ってもよい。
     個人と組織の扱いにおける可否と是非の線引きはこういったところでよかろう。要約すると、まず個人と組織で扱いは違い、公的か私的か、また事実の報道か虚構の創作かでも扱いが変わる。個人は常に組織より、私的なものは常に公的なものより、それぞれ強く保護される。事実の報道は公益性や公共の福祉に適わなければすべきでないかする必要がなく、虚構の創作は実在する個人や私的組織を傷つけてはいけないが、公的組織は概ね自由に取り扱ってよい。以上の条件全てに適う扱いならば、法的にはともあれ倫理的非難を浴びる謂れはなかろう。
     他方、個人でも組織でもないものは保護するに値しない。これらは事実上フリー素材である。社会階層であるとか地域住民であるとか職業であるとか人種であるとかといった曖昧な存在、集団ではあっても組織として一体化しておらず単なる個人の集合に過ぎないようなものは不特定であり、実害を受ける存在を特定することができないため、そもそも保護することができないと言うべきかもしれない。表現の自由を制限するためには、はっきりと指さして特定できる個人なり組織なりという明確な「被害者」が必要である。従って、国際人権規約などでは禁じられているが、人種的偏見を盛り込んだ差別的表現も、それが特定の個人や組織に向かうものでなければ自由な意見として認められることが望ましい。単にメディア上で黒人は知能が低いと発言したり、創作物の中で女が男に比べていかに劣っているかを描写したりしても、それは「黒人」や「女」という抽象的対象へ向かうものであり、実在する誰かに向かうものではない。下品な表現であることに疑いはないが、それを口にする権利を取り上げるべき筋合もない。それに対して否定的感想を述べ、非難の声を上げる自由もまた存在するが、集団で同調して謝罪や撤回、絶版などに追い込み、その表現を発信できないようにすることは表現の自由に対する攻撃以外の何物でもない。また、個人としてであれ組織としてであれ、その抽象的集団の代表者面をして意見の封殺に乗り出すが如きはあらゆる意味で僭越の極みである。そういう連中は実際に表現から攻撃された個人や組織のために戦えばよい。
     要約すると、表現の自由の制限という形を取る表現からの保護は、まず個人に対して最大限に発揮されねばならない。私的組織はそれに次ぐ扱いを受ける。公的組織には一切の保護が必要ないし、個人でも組織でもない抽象的な集団には主体者となる資格がない。また、報道と創作では適用すべき基準が異なり、報道は常に創作よりも慎重を要する。これらを更に纏めると、報道は語る必要或いは価値のある事実を語る時以外、個人や組織を傷つけてはならず、創作は一部の例外を除いて個人も組織も傷つけてはならない。しかし、個人でも組織でもないものへの配慮は要らない。
     なお、これから述べることは一つの逆説なのだが、黒人なり女なり同性愛者なりが本当に単なる弱者であるならば、このような公然たる――と同時にある意味暢気な――反攻などできるはずがない。たとえば、イスラム圏の女は疑う余地のない弱者である。もし公然と世間に男の横暴を訴えたとすると、多分一週間もしない内に、その女は何らかの事情から意見を発信できなくなっているだろう。しかし、そこまで抜き差しならない状況に追い込まれているようならば、最早暢気に創作物の一表現如きに文句を言っていられる段階ではない。より強大な敵に対し、より熾烈な闘争を挑まねばならない。従って、暴力や世論を始めとする強制力に妨げられることなく言論によって公然と反撃可能である時点で、その集団は少なくとも表現の自由を保障される程度には強力である或いは公平な扱いを受けているのであり、表現の自由を以て表現の自由に反攻することが可能なのである。なお、これは実質の話をしている。表現の自由があるという建前の下、実態としてそれが許されない存在、たとえば企業に対する従業員などの存在には、確かに表現の自由がないことを但し書きしておく。それはさて措き、だからこそ、表現の自由が保障された状況において、人はそれにふさわしい態度を取るべきなのである。現実と照らし合わせるに、これは日本はもちろんアメリカにさえ本当の民主主義が存在しないという滑稽な事実を意味してしまうのだが、いずれにしても、悪意に満ちているとしても決して特定の個人や組織に対する攻撃ではない一表現を腕力と怒声で黙らせるというのは民主主義の理念に反する。いやしくも民主主義社会の一員を自任するのであれば、対立候補の演説を自陣営の候補への一層大きな歓声で掻き消すくらいの機転を利かせるべきである。黒人は先天的に知能が低いという偏見に満ちた作品に対しては、白人の知能も大差ないことを示す作品や黒人が活躍する作品を世に問えばよい。それが文化的な態度というものであり、文化的闘争とはそういうものを言う。そういう場合であれば、いっそのこと、有志が適当な団体を結成し、黒人の社会的地位向上に資するような好ましい作品を募集する黒人創作大賞か何かでも創設してもよいだろう。
     改めて要約する。表現の自由から保護されるべきは具体的に範囲を絞って指さすことのできる実在の個人と組織のみであり、その一線を守る限り、表現の自由もまた守られなければならない。そして、保障された表現の自由に対抗するには同じく表現の自由を以てすることが民主主義の理念に適う。
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    近現代西洋魔術資料集

     利用者は前書きを全て了解し承諾したものとする。


    最新版
     近現代西洋魔術資料集Ver.3.doc
     近現代西洋魔術資料集Ver.3.pdf
     PDFとDOCの二種類があるが内容に違いはない。

    説明
     本資料集は、作成者が必要に応じてその都度作ってきた断片的な覚書の蓄積に手を加えて纏め直し、他者の利用に堪える形に仕上げたものである。しかし、手を加えたとの言葉通り、全てが全て、これまでの蓄積であるわけではない。書き留めるまでもなかったものや複雑すぎて書き留めるのに向かなかったものもある。本資料集にそういうものが含まれているとしたら、それは他者の目を意識して補った情報である。他方、作図の難しさから小世界図や作図法解説の収録を見送るなど、覚書自体は存在しても人に見せる気が起きなかったものもある。
     本資料集の情報源、言い換えればこれがいかなる知識体系に依拠するものであるかということについても一言断りを入れておく。文書末の参考資料目録が示す通り、アレイスター・クロウリーの体系を基礎とし、G∴D∴、I∴L∴、I∴O∴S∴等の近現代西洋魔術の体系がそれを補完している。従って、厳密に言えば、西洋魔術という大きな流れに属すことは確かでも、その中のいずれの体系にも当て嵌まることがない。言ってみれば我流であり、必ずしも既存の体系の定説に沿うものではない。このため、特定の体系に専門的関心を有する者の参考にはならないかもしれない。更に付け加えると、本資料集はあくまでも黄金の夜明け団以降の近現代西洋魔術を念頭に置くため、同じ西洋のものであってもそれより古い魔術や文化や地域の異なる東洋や南米等の魔術は敢えて除いた。もっとも、能力的限界の方が理由としては大きい。作成者は魔女術や易卜、ヨガやタントラ、陰陽道、神智学や人智学等の知識がないわけではないが、たとえ相手が初心者であってさえ、人に説明できるほどには理解していない。取り入れたところで、資料の充実どころか、却って混乱や破綻の元になるのが落ちである。生兵法にすら達していない。
     このような次第から、本資料集には差し当たり、元素や惑星、黄道十二宮、錬金術等の記号、元素の対応方位や色彩、ヘブライ文字の名前や数値、タロットの番号と名称、セフィロトの樹の天球や小径、デカンとクィナンスの天使や悪魔、エノキアンタブレットの基礎知識などを掲載するに留める。その際、想定利用者の理解度と参照の便宜を踏まえれば不要であろうと判断し、理論的解説は行わず情報だけを端的に提示するに留める。初心者向けの簡易版『七七七の書』といったところである。
     この部分は照応がおかしいなどの指摘、この表とこの表は隣り合わせにする方がわかりやすいなどの意見、宝石の照応表を載せてほしいなどの要望、正常に表示されないなどの報告等は歓迎する。もし何かあれば、指定の連絡方法に従って伝えてほしい。能力や時間、根気、著作権、必要性等の制約から全てに応えることはおそらく不可能だが、対応できる範囲で何とか対応したい。なお、参考資料間で記述が矛盾する場合、順番や表記の異同はクロウリーに従い、クロウリーの見解と明らかに対立する異説や新説等は伝統に従って排除するか、両論併記する方針であることを前以て述べておく。異同を示す際は、黄金の夜明け団によるものはXXX(GD) のように特記する。GOETIA の場合も同様に、XXX(GT) 、またそれ以外の異説は纏めてXXX(Oth) とする。現時点では黄金の夜明け団と GOETIA とその他という大分類で済ませるが、今後校訂資料を細分化する必要が生じた時は、資料の分類名を一覧化して凡例とする。

    諸注意
     一、作成者に権利放棄の意思はないため、本資料集の著作権を始めとするあらゆる権利は作成者が有する。著作権法の範囲内での利用は自由であるため、法律の定めるところに従って利用すること。
     二、ファイル差し替えの形で改訂を行うため、本資料集へのリンクを行う際はファイルへの直接リンクは避け、公開場所として指定した URL にリンクすること。
     三、作成者に連絡を試みても返事がない場合、いかなる用件であっても勝手な判断をせず返事をいつまでも待つこと。沈黙は暫定的な不承認、拒絶を意味する。
     四、本資料集の入手、利用等によって何らかの問題や損害が発生しても作成者は一切責任を負わない。自己責任で利用すること。

    作成者ブログ
     幸茸のブログ

    公開場所
     近現代西洋魔術資料集

    連絡方法
     ブログのメールフォーム若しくは公開場所のコメント欄を使用する。緊急或いは回答必須の用件はメールで行うこと。


    変更履歴

    Ver.2 での変更点
     ・前書きの諸注意第一及び第二項を一部変更。
     ・分類「魔術師の権能」を削除し、表「エリファス・レヴィによる魔術師の権能二十二種」を分類「その他」に移行。
     ・分類「人体との照応」を作成し、表「アダム・カドモン」を移行。更に表「チャクラ」を追加。
     ・全体を通して名前の発音を再検討。
     ・表「エリファス・レヴィによる魔術師の権能二十二種」の欄の大きさを変更。
     ・分類「ヘブライ文字」に表「七複字の効果と惑星」を追加。
     ・表「十一惑星の魔術」を表「ケネス・グラントによる十一惑星の魔術」に改名。
     ・表「十二宮の天使1の異同等」、註「十二宮の天使2の異同等」の表現を一部修正。
     ・表「デカンの悪魔」の日本語表記を一部修正。
     ・表「十二宮と十二氏族」の欄の大きさを調整。
     ・表「ヘブライ文字の綴字とゲマトリア数価」の綴字を訂正。
     ・分類「セフィロト」に註「色階と小世界図についての註記」、表「四色階」、表「小世界図」を追加。
     ・表「セフィロトの三柱」を一部修正。
     ・参考文献に大橋喜之訳『ピカトリクス 中世星辰魔術集成』八坂書房、二〇一七年を追加。
     ・作成者覚書に文章を追加。
     ・表「コートカード1」を表「基礎的照応」、表「コートカード2 ――象徴札簡易指標」を表「象徴札簡易指標」に名称変更。
     ・分類「コートカード」に「占星術的照応」を追加。
     ・表「アテュ2」に外惑星との現代的照応を反映。
     ・分類「ヘブライ文字テレズマ配属」を削除し、表「ヘブライ文字テレズマ配属」を分類「ヘブライ文字」に移行。
     ・分類「独自研究及び実験的着想」を新設し、表「生命の樹と六道と十界」を追加。

    Ver.3 での変更点
     ・前書きを修正。
     ・分類「独自研究及び実験的着想」に表「生命の樹と日本神話」を追加。
     ・分類「エノキアンタブレット」に表「各元素の銘板及び小角の配置」、表「小角の軸における聖四文字の対応」を追加。
     ・分類「元素」の表「五大元素2」の項目「タットワ」に英語表記を付記。
     ・分類「セフィロト」に表「セフィロトの神名、大天使、天使」を追加。
     ・分類「セフィロト」の表「セフィロト2」の項目「天球」に日本語訳を付記。
     ・参考文献に宇治谷孟『日本書紀(上下)』講談社、一九八八年を追加。
     ・分類「その他」に表「魔術師の位階と結社の構造」を追加。
     ・分類「ヘブライ文字」に表「ヘブライ文字とギリシャ文字の対応」を追加。


    収録内容

    作成者覚書

    参考文献
     和書
     訳書
     洋書
     ウェブサイト

    記号
     元素記号
     錬金術記号
     十二宮記号
     惑星記号

    元素
     五大元素1
     五大元素2
     五大元素3――セフィロト
     五大元素4
     五大元素5
     五大元素(Oth)1
     五大元素(Oth)2

    ヘブライ文字
     ヘブライ文字表
     九室のカバラ
     ヘブライ文字の綴字とゲマトリア数価
     ヘブライ文字とギリシャ文字の対応
     七複字の効果と惑星
     ヘブライ文字テレズマ配属

    セフィロト
     セフィロト1
     セフィロト2
     セフィロト3――錬金術配属二種
     セフィロトの三柱
     セフィロトの階層
     パス
     四色階
     小世界図

    タロット――アテュ
     アテュ1
     アテュ2

    タロット――コートカード
     基礎的照応
     象徴札簡易指標
     占星術的照応

    タロット――スモールカード
     スモール1
     スモール2
     スモール3-1
     スモール3-2
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――棒
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――杯
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――剣
     シェムハメフォラシュの天使と悪魔――円盤

    七惑星並びに十二宮
     惑星の天使と霊
     十二宮1
     十二宮2――GD式
     十二宮3――二区分(性別)
     十二宮4――三区分(様相)
     十二宮5――四区分(元素)及び三幅対
     十二宮の天使1
     十二宮の天使2
     デカンの悪魔
     十二宮と十二氏族

    エノキアンタブレット
     統一のタブレット
     各元素の大王の名前と照応惑星
     各元素の六長老の名前と照応惑星
     三大秘密神聖名
     各元素の銘板及び小角の配置
     小角の軸における聖四文字の対応
     第一の大いなる東の物見の塔、気のタブレット
     第二の大いなる西の物見の塔、水のタブレット
     第三の大いなる北の物見の塔、地のタブレット
     第四の大いなる南の物見の塔、火のタブレット
     
    アエティール
     三十のアエティール

    エノキアンタブレットの天使
     アエティールの九十二の統治者及び照応する地域、氏族、天使、閣僚数、方角、神名(Oth)

    錬金術
     金属の変成順序及び変成の円環
     性的二元論

    人体との照応
     アダム・カドモン
     チャクラ

    その他
     十一惑星の魔術
     エリファス・レヴィによる魔術師の権能二十二種
     魔術師の位階と結社の構造

    独自研究及び実験的着想
     生命の樹と六道と十界
     生命の樹と日本神話


    参考文献

    和書
    秋端勉『実践魔術講座リフォルマティオ(上下)』三交社、二〇一三年
    宇治谷孟『日本書紀(上下)』講談社、一九八八年
    藤森緑『実践トート・タロット』説話社、二〇一七年
    レオン・サリラ『魔術師のトート・タロット』駒草出版、二〇一五年

    訳書
    アレイスター・クロウリー『アレイスター・クロウリー著作集4 霊視と幻聴』フランシス・キング監修、飯野友幸訳、国書刊行会、一九八八年
    アレイスター・クロウリー『トートの書』榊原宗秀訳、国書刊行会、二〇〇四年
    アレイスター・クロウリー『777の書』江口之隆訳、国書刊行会、二〇一三年
    イスラエル・リガルディ『柘榴の園』片山章久訳、国書刊行会、二〇〇二年
    イスラエル・リガルディ編『黄金の夜明け魔法大系1 黄金の夜明け魔術全書』(上)江口之隆訳、秋端勉責任編集、国書刊行会、二〇〇六年
    イスラエル・リガルディ編『黄金の夜明け魔法大系2 黄金の夜明け魔術全書』(下)江口之隆訳、秋端勉責任編集、国書刊行会、二〇〇六年
    ウィリアム・G・グレイ『現代魔術大系4 カバラ魔術の実践』葛原賢二訳、秋端勉監修、国書刊行会、一九九七年
    エリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀 教理篇』生田耕作訳、人文書院、一九八二年
    エリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀 祭儀篇』生田耕作訳、人文書院、一九八二年
    エリファス・レヴィ『魔術の歴史』鈴木啓司訳、人文書院、一九九八年
    エリファス・レヴィ『大いなる神秘の鍵』鈴木啓司訳、人文書院、二〇一一年
    大橋喜之訳『ピカトリクス 中世星辰魔術集成』八坂書房、二〇一七年
    ケヴィン・バーク『占星術完全ガイド ――古典的技法から現代的解釈まで』伊泉龍一訳、株式会社フォーテュナ、二〇一五年
    ジェラード・シューラー『現代魔術大系5 高等エノク魔術実践本』岬健司訳、国書刊行会、一九九六年
    セルジュ・ユタン『錬金術』有田忠郎訳、白水社、一九七二年
    ダイアン・フォーチュン『神秘のカバラー』大沼忠弘訳、国書刊行会、二〇〇八年
    デイヴィッド・コンウェイ『魔術 理論篇』阿部秀典訳、中央アート出版社、一九九八年
    デイヴィッド・コンウェイ『魔術 実践篇』阿部秀典訳、中央アート出版社、一九九八年
    フラター・エイカド『現代魔術大系6 QBL―カバラの花嫁』松田和也訳、秋端勉監修、国書刊行会、一九九六年
    フランシス・キング編『黄金の夜明け魔法大系3 飛翔する巻物―高等魔術秘伝』江口之隆訳、秋端勉責任編集、国書刊行会、一九九四年
    ローズマリ・エレン・グィリー『魔女と魔術の事典』荒木正純、松田英訳、原書房、一九九六年

    洋書
    Crowley, Aleister, GOETIA
    Crowley, Aleister, Liber LXXXIV Vel Chanokh
    Crowley, Aleister, Liber 777 Revised.
    Crowley, Aleister, The Vision & the Voice : With Commentary and Other Papers (The Equinox IV:2)
    Crowley, Aleister, Magick in Theory and Practice
    Jones, Frater David R., The System of Enochian Magick
    Regardie, Israel, The Golden Dawn
    Regardie, Israel, The Complete Golden Dawn System of Magic
    Skinner, Stephen, The Complete Magician's Tables

    ウェブサイト
    ANIMA MYSTICA
    Flight of the Condor
    Holy Order Of The Golden Dawn Initiation & The Hermetic Tradition
    Sacred Magick The Esoteric Library
    The Hermetic Library
    Thelemapedia
    Web of Qabalah
    火星交換士分館・ソロモンの72柱 - 72 Spirits of Solomon
    西洋魔術博物館

    保毛尾田保毛男に対するLGBTの暴論――自分達は保護されるべき特別な存在であるという妄想

     お笑い芸人のとんねるずが演じる架空のキャラクターに保毛尾田保毛男という人物がいる。簡単に説明するとこのキャラクターは、濃い髭、太い眉、わざとらしい女性的言動や女性的所作という特徴を具えた類型的オカマ乃至ホモを連想させることで視聴者の笑いを誘う目的で作られた存在である。当人はあくまでも女性的な男性であって同性愛者でも性同一性障碍者でもない。ただそれらしく見えるというだけの人である。
     このキャラクターがつい最近、物議を醸した。今年九月二十八日に放送された『とんねるずのみなさんのおかげでした』の三十周年記念スペシャルに久々に登場したこのキャラクターは、ホモ即ち男性同性愛者、要するにLGBTへの差別乃至それを助長する唾棄すべき存在として社会的批判を受け、フジテレビの社長が謝罪する騒動にまでなった。
     この批判者達の主張――あくまでも公式な団体が公式に出した抗議――は、既に述べたような差別に関連する内容である。「性的少数者への差別や偏見を助長し、特に学校で子どもたちが危険にさらされる可能性がある」というものが報道で明かされている。
     これを前面に出してきたということは公にはこれを争点にしたいのだと見てよい。公式の事実としては、あくまでも差別の助長や子供への悪影響を懸念したゆえの抗議であって、決して同性愛者が笑い物にされたことが不愉快でならないといった身勝手な動機による我儘ではない。この機会に存在感を示して社会的発言力を増そうという薄汚い戦略もそこにはないはずである。
     しかし、たとえ本当にそうであったとしても、今回のLGBT団体の主張には何の正当性も公平性もない。どう取り繕ったとしても、社会正義を錦の御旗にして自分達の要求を通そうと目論む一団体の我儘でしかない。
    「マイノリティを脅かす最悪の敵――無能な味方」という記事で詳しく論じたことをここでくどくどと繰り返すつもりはないので要点だけを述べる。この程度のことは差別にもその助長にも当たらない。保毛尾田保毛男という同性愛者がおり、このキャラクターがそれを演じるものであるとすれば、その個人に対する侮辱や名誉棄損に当たるかもしれないが、これはおそらく実在する特定の個人を表現したわけではない。また――そうした意見を発信すること自体は表現や言論の自由として認められるべきだが――同性愛者を迫害するよう呼びかけたわけでもない。どう転んでもそこに傷つくべき実在の個人は存在しない。それを観て傷つく者がいるとしても、それは傷ついた当人の事情であり、社会全体が配慮すべき性質のものではない。それはさすがに甘えが過ぎる。ある一人の失業者が、失業した主人公が家庭内で冷遇される作品を観て、自分の境遇を重ねて傷ついたと言ってテレビ局に抗議したというニュースが流れれば、寄せられるのは同情ではなく嘲笑である。この失業は必ずしも当人の無能や失敗によるものではないかもしれない。しかし、社会はこのような性質の問題においてそのようなことを斟酌しないし、またすべきでもない。
     大体にして、このようなことはあらゆる人種と職業に対して行われている。「無能なコンビニ店員」、「ブラック企業の社員」、「気持ち悪いオタク」、「物分かりの悪い年寄り」、「夢見がちな不細工」、「怪しい外国人」などを冗談や風刺のネタにすることは許されており、それに個人として不快感を表明する者はいても公的な正義としてそれを掲げる者はいない。保護されるべきはあくまでも個人であって特定の集団ではない。先ほど述べた失業者の例で言えば、不特定多数の失業者を代表して声を挙げるのは全く馬鹿げたことであっても、これが実在する東京一郎氏をそのまま作品化したものであれば、名誉や肖像権やそれらの不当な扱いに関する精神的苦痛を「被害」として訴え、「是正」や「対策」を求めるのも全く正当なことである。
     それでも、現に傷つく者がいるのだという主張があるかもしれない。しかし、そのような主張が罷り通るとしたら、人間は何をすることもできなくなってしまう。人間は何をしても、また何をしなくても、それによって他者を傷つけるように出来ている。個人の生存や社会の存続に必要なものに限って認めるという特例を設けても、表現はその特例の中に入らない。それがなくても人は生きられるし社会は続いていくことができるので、一切禁止されてしまうだろう。極端なことを言えば、ある題材が扱われて不快になる者とその題材が扱われなくて不快になる者とは同時に存在するのだから、まずどちらを優先するかを考えなくてはならない。こういう時は行動を起こす側の責任が重く看做されがちであるため、ある題材を扱うことで不快感を与えることが戒められる結果となるだろう。すると、何も表現できないことになる。どうしても表現したければ、傷つけてよいものといけないものを分けなければならないが、それを分けること自体が差別の始まりである。これこそ慎まなければならない。
     LGBTだけがこうしたことの例外であるべき必然性はない。それが何らかの犯罪行為であるとか、或いは実在する特定個人を攻撃対象としているとかの事実がないのであれば、抗議する権利など誰にもない。不愉快だったという感想を言うのは個人の自由だし、表現者がそれを汲み取って自身を改めるのも個人の判断だが、不愉快だったので二度とやるなと表現者に強いるのはそれを逸脱している。他の集団や属性が笑い物にされるのはよいが自分達が笑いの種にされることは許さないというのも筋が通らない。人間個人は当然保護されなければならないが、その保護が当人の完全な満足を前提とするものであるべくもない。そこには他者の権利との競合と調整があり、他者の権利をある程度制限する一方で自身の権利もある程度制限されること、或いは自身の権利を行使する一方で他者の権利の行使も認めることを受け容れねばならない。つまりは人間社会の一員であるためにはどうしても我慢しなければならないことが存在するのである。それを拒否することができる人々、つまり我慢しなくてはならないことが全くない、或いは他者に比べて明らかに少ない人々を特権階級と呼ぶ。LGBTが特権階級であったことは一度もないし、特権階級になるべき理由も存在しないし、社会は公然と特権階級になろうとする者を受け容れはしない。LGBT団体の目的が市民権を得ることではなく貴族になることであるとしたら、LGBT「差別」は永遠に解消されることがない。目指すべきは何ら特別なところのない社会の一員としての権利の獲得であって特権の獲得ではないのである。
     とんねるずのネタがネタとして面白いか、また快いかどうかとは無関係に、その表現の自由自体は保障されなければならない。LGBTでさえ、と言うよりも、LGBTが社会の一員として正当に扱われることを望むのであればむしろ、この枠組みから逸脱してはならない。不愉快或いは不快という感想を世界に向けて発信するのはよいし、あれはやめてほしいと仲間内で言い合うのもよいが、何らかの強制力やそれに準じる力を持つ形でそれを表明するのは、本当に直接実害を及ぼす本物の差別と闘う時のために取っておくべきである。
    このエントリーのタグ: 創作姿勢 社会 差別 マイノリティ LGBT 創作倫理

    上達を目指す上で最も大切なこと

     上達することを目指して行う訓練で最も大事なことは何かと問うと、様々な答えが返ってくる。継続すること、漫然と行わず理解と展望を以て意識的に行うこと、より良い訓練を作り出す或いは選び出すこと、良い指導者を見つけること、根を詰めず適度に息抜きをすることなどは上達の秘訣として比較的よく耳にする。
     全部間違っている。いずれも大切なことではあるが、最重要のものはここにない。おそらく大多数の盲点を衝く解答であろうが、それは、間違ったことをしないというごく単純で消極的にすら感じられることである。もちろん、この前提には実際に訓練を行うというものがある。しかし、これは当然の前提なので言及する必要はあるまい。もし必要があるとしたら、そのままそれが一番大事なことになってしまい、一切の話が無意味と化す。とはいえ、逆説的ではあるが、実践しないという選択は百害あって一利なしであり、従ってこれもまた避けるべき「間違ったこと」の一種と言えるかもしれない。
     とにかく、間違った訓練だけは絶対に避けなくてはならない。そのようなものはやらない方がまだましである。自宅から最寄り駅に向かうことを想定する。一般的に考えられる交通手段は、自動車、バス、自転車、徒歩である。どれが一番都合が良いかはそれぞれの地理関係や事情によって異なるが、一般論としては、遠ければ自動車、近ければ徒歩、バスと自転車は条件次第といったところだろう。一輪車という選択肢はまずない。だが、多分普通に歩くより時間も労力もかかるだろうが、一輪車でも駅には行ける。一輪車は単に効率の悪い手段であるに過ぎない。しかし、曲がり角を一つ間違えることは、いかなる交通手段を採用していようと関係なく大きな失敗である。二つ間違えたとなれば――つまりそれだけ地理に暗いという絶望的な前提が存在するということでもあるのだが――最早挽回は不可能だろう。家に帰りつければ御の字、駅への到着など望めまい。間違った訓練とはそういうものである。だから、まず無益な或いは有害な訓練を選択肢から除外しなくてはならない。そのような訓練を重ねても時間を無駄にするばかりである。
     他方、より良い訓練を殊更に探し求める必要はない。一輪車でも、間違った方向に進みさえしなければいつかは目的地に着く。効率的な訓練を探して右往左往したまま足踏みするくらいならば、可もなく不可もないありふれた訓練に励む方がよほど良い。第一、どれほどつまらない訓練であろうとも、上達していけばやがて自ずと為すべきことが見えてくる。循環論法とか論点先取とかと言われれば反論のしようもないが、上達の方法を知ることもまた上達に含まれるし、その方法が見えてこないのであれば上達したとは言えないのである。また、漫然とした惰性であってもよい。惰性でも進んでいることは確かである。続けている内は少しずつ目的地に近づいている。むしろ、最も効率の良い訓練を毎月特定の一日に二十四時間不眠不休でこなすだけの者よりも、怠け心と折り合いをつけて普通の訓練を毎日十分だけこなす者の方が、一年後の結果は目覚ましいものになる。継続は力なりの金言がこの段階でやっと活きてくる。毒矢の喩えではないが、とにかく早期に始め、長期に亘って続けることが大事なのである。若い頃から最高効率の訓練を探し続け、四十歳になってやっと見出して取り組み始めた入門者がいるとすれば、その人物にとっての最高効率とは十代の内からありふれた訓練を始めることであった。いつまでもぐずぐずと足踏みをして実践に踏み出さないことと、怠け心を出して継続的に訓練しないこととは、共に害しかもたらさない「間違ったこと」の好例である。もちろん、訓練マニアや指導者はその限りでない。訓練する暇があったら、少しでも多くの訓練法を勉強しなければならないし、指導は明確な理解と展望を伴わなければならない。
     こうしたことを総括すると次のようになる。即ち、本当に上達したければ、その訓練が少なくとも間違っていないとわかった時点で四の五の言わずに取り組み、一度に多くを得ることよりも毎日弛まず続けることを重んじ、成果が出るまで諦めてはならない。
    このエントリーのタグ: 創作姿勢 創作者 学習 創作上達法

    新卒採用という大学無償化の障害

     希望する誰もが高等教育を無償で受けられるというのは、人道的見地からも国家戦略的見地からも良いことである。それは機会平等の部分的実現であると同時に、優秀な人材の発掘にも繋がる。
     しかし、これには前提として解決すべき課題がある。財源は全ての大前提だが、これは主として税収の問題であるため、制度を変えればどうにかなるような話ではない。借金以外での新財源確保は現状、現実的な話ではない。従って、この問題は既に克服されたと仮定し、本当に問題が解決する将来を見越した話をするか、新規財源に頼らない割安な手段を考えるかのどちらかを決めなければならない。本稿では後者の道を行き、現実的な大枠を考えていく。
     道は二つある。全ての学生から費用を一切徴収しない完全無償化か、学費免除者を増加することで実現する限定的無償化かである。だが、後者は一部学生の学費を誰かが肩代わりするというだけのことなので、結局新たな財源を確保して国が支払うか、免除条件から外れた学生の学費を値上げして賄うかしかない。これはやらない方がましである。
     従って目指すべきはあくまでも完全無償化であるが、そのために生じる財政的負担は局限しなければならない。
     前提として、学生の数が少なければ少ないほど無償化にかかる費用は削減できる。従って、大学無償化は大学縮小と並行して行う必要がある。ただし、それには大学の縮小による大量失業や連鎖倒産が伴うことになるため、限界はある。とりわけ学生を主要顧客とする業界や地域は壊滅的打撃を受けることになるだろう。将来のコスト削減を見越して一時的な大負担に耐えるか、中途半端に終わってしまうことを覚悟の上で国家が負担を許容しうる範囲で漸進的に縮小していくことになろう。ただ、学生が減ればその分国が負担すべき学費も減るので、それによって浮いた従来の助成金の類のいくらかを充当すれば、救済措置も十分に行えると思われる。また各業界への打撃も、先述した通り、長期間に亘って漸進的に計画を進めていけば対応できるだろう。それでもどうにもならないというであれば、それは最早淘汰されるべき企業や事業主である。
     容れ物を縮小する目途が立ったならば、今度は注がれる水を減らす作業に取りかかる。と言うのも、大学を縮小するということは学生をそれだけ減らすということだが、誰もが大学に入りたいのに受け皿だけが小さくなるのでは、単に学生達に空手形を掴ませてその気にさせた挙句、学ぶ機会を奪うのと同じである。それくらいならば現状のままでよい。大学に進学したいと思う者を減らすことがまず必要である。
     本当であればこれは大して難しい話ではない。学生の多くは就職や猶予期間のために進学するのであって、学術研究を志す者が全体の一割でもいるとすれば驚くべきことである。これは大袈裟としても、半分以上は単なる就職予備校生か就職忌避者に過ぎまい。こういう連中が大学に行く理由をなくしてしまえば、自ずと学生数も適正なものになる。前者は大学に行かなければ就職できないと思うから進学し、後者は多かれ少なかれ前者の切実な理由をまだ働かずに遊んでいたいという本音を隠す建前とするからである。前者は大学に行かなくても概ね望み通りの就職ができると思えば高校を出てすぐ就職するだろうし、後者は諦めて就職するか別の口実を見つけなくてはならなくなる。
     これは決して荒唐無稽な話ではない。現在、労働者の内、大卒者のどれだけが本当に大学卒業程度の学識等を必要とする職務に就いているかを考えてみればよい。研究職や幹部候補者などであればおかしな話ではない。研究は当然専門知識を要求するし、経営学や政治学などの高度な知識は幹部候補者にとって役立つだろう。しかし、単なる営業員や事務員に高度な学術知識が必要であるとは思えない。あれば何かの役に立つかもしれないが、ないからと言って要求される仕事ができないということもあるまい。よく、大学は学問の場ではなく社会勉強をして人生経験を深める場であると豪語する訳知り顔の連中がいるが、高卒や中卒で働く人々の経験が浅薄であるかと言うと、そのような事実は全くない。彼らの多くはただ単に高度な学術知識を持ち合わせないだけで、世間知や人間性において大卒者に劣るということはない。大学生がサークル仲間と交流して色々な経験を積む一方、中卒、高卒の社会人も友人や職場の先輩や同僚との交流で人生経験を積む。中卒者や高卒者にない経験とは、あくまでも大学生としての経験に他ならない。多分ではあるが、一般的な企業が営業担当の新入社員に求める素養などというものは、授業時間数が高校と同じと仮定すれば、就職予備校とでも言うべき教育機関に三ヶ月も通えば十分身につくだろう。合宿形式なら一ヶ月もかかるまい。わざわざ四年以上もの時間をかけるほどのものではない。実際、夏目漱石の研究に四年間を費やしてきた新卒社員が会社から要求されるのは、過労死しろと言われれば疑問を持たず過労死する会社への忠誠心と、ビジネスマナーと呼ばれる社会人ごっこのルールに精通することであって、最高学府で培った学問ではない。
     ところが、現実はといえば、営業職や一般職の採用条件にも新卒が入っている。これだから、どこかそこそこの規模の企業で事務員でもしながら食うに困らない程度の生活をしたい、という程度の連中までもが大学に進まざるを得なくなるのである。聞けば、IT業界やゲーム業界でも、どこの馬の骨ともわからない人間でもあっさりと採用されていた昔と違い、今は相応の学歴――技術ではない――を要求されるようになってきたという。ゲーム制作者になりたいという者の最終学歴が高校であったら、それだけで門前払いされるというのである。ゲーム制作とは一体何であるのか疑問は尽きない。馬鹿馬鹿しいこの潮流は下手をすると、寿司職人や大工、芸術家、芸能人までもが学歴を必須とするような世の中になるのではないか――これはもちろん皮肉である――と思わされるほどである。
     要するに、大学無償化を目指すのであれば、まず解決すべきものがこの現状である一方、これが単純に思考法の改革に過ぎないものであるため、最終的な敵を決定権を持つ人々の因習に対する忠誠心に定めることができる。人の心を変えるのは難しいことではあるが、必ずしも多額の費用を求めるものではない。考え方はその気になるだけで変えられる。
     本来、賃金とは労働の質と成果に応じて支払われるべきものであり、それらとの関係が存在しない経歴まで計算に入れるものではない。研究職を採用する際、博士に提示する初任給が学士に提示するそれよりも高額であることは正当な措置だが、大卒と高卒で事務員の初任給に差をつけるのは明らかに不合理である。それで差をつけることが妥当ならば、荷物の梱包のアルバイトでさえ、高卒以下と大卒以上で時給に差をつけねばならない。これらのことは、野球選手の年俸が学歴ではなく選手としての実績と将来性で決まること、また大卒と高卒の自衛官の初任給が学歴ではなく採用区分ごとに一律に決められていること、及び勤続年数の長い叩き上げの曹が幹部候補生学校を出たばかりの幹部よりも高額の給与を受け取っていることなどに疑問を持たないのであれば、この実態がいかに不合理なものであり、改めたところで大局的にはさほどの不都合が生じないこともわかるだろう。
     結論として総括すると、大学無償化を本当に目指したければ、まず社会における大卒者の需要そのものを見直すところから始めればよいということである。就職に関係しないのであれば大学に行く理由もない、という大学生が大勢いるのが日本という国である。
    このエントリーのタグ: 社会 教育 学校教育 高等教育

    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第二部第四講

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第二部 臆病者達〔yellowbellies〕のためのヨガ
             第四講


    〈朝の息子達〉への拝礼!【訳註1】

     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。

     今晩、私は先の三回の講義で何が述べられたかを極めて簡単に総括することから始めたいと思うが、もし私が、私が述べたことの全てを完全に忘れ去っていなければ、これは簡単であろう。しかし、全般的な一連の主題がヨガ行者の精神的修練であったという旨のいくらかの弱々しい輝きがそこにある。そして、本当に顕著な特性は、まず存在論に、次いで通常科学に、第三に光の真の参入者の高等〈魔術〉に触れることなしにそれらを議論することが徹頭徹尾不可能であることを私が発見したことである。
    〈存在論〉と〈科学〉のどちらもが、全く異なる立場から現実の問題に取り組み、全く異なる手法で彼らの研究を追求し、それにもかかわらず、同じ行き詰まりに至ったことを我々は理解した。そして全般的結論は、唯一の現実は我々の精神の重大な装置の範疇を超えているそのような種類の直接的体験にあるに違いないという、いかなる種類のいかなる知的観念においても現実は存在しえないというものであった。それは〈理性〉の法則に従うことができない。それは初等数学の足枷においては見出せない。ただその主題における超限の概念と不条理の概念だけが、もしかすると、矛盾の正体としてのそのような何らかの逆説における真理の予兆となりうる。我々は更に、ヨガの実践に起因するそれらの精神状態が、それらが実際に通常の思考状態を超越するために、適切にも忘我状態〔trances〕と呼ばれることを見出した。
     この時点で、〈魔術〉のそれと共にバッコスの舞踊若しくはパンの狂宴に比べて整然とした(そしてある意味では退屈な)ヨガの小径のほとんど無自覚な素描を我々は理解し始める。それは、〈魔術〉が科学の極致であると同時にヨガが窮極的には哲学の極致であることを示唆する。その方法は、思考を超越したこれらの高次段階を開花させるためのそれらの性質の美徳に基づく、これらの思考の低次の要素間の自由な調和であり、二者は一者になる。そして、それはもちろん、〈魔術〉である。そして、それはもちろん、ヨガである。我々は今、それらの最高点におけるこれらの二要素の最終的な同一化を考慮し、それらの低次な要素群における共感よりも実践的な何かがない可能性があるのかどうか考えることができる――私は相互支援を意味する。
     私がそれを最初に踏み締めた時よりも〈賢者の小径〉が一層滑らか且つ短くなったと思うことを私は喜ばしく思う。これはまさに〈魔術〉とヨガの昔からの二律背反が完全に解決されたというこの理由による。
     諸君はヨガが何であるかを全て知っている。ヨガは結合を意味する。また、諸君は、知性のボイラー工場の騒音を遮断し、星明かりの静寂が耳に届くのを許すことにより、それをどうやって行うかを全て知っている。それは〈造物主〉〔Nature〕の普遍的表現の奴隷からの高貴な解放である。
    〈魔術〉とは一体何なのだろう? 〈魔術〉は〈意志〉に応じて起こる変化を惹き起こす科学にして芸術である。我々はいかにしてこれを達成するのか? それが環境の支配に達するところにまで意志を高揚させることによる。そして、我々はこれをどのように行うのか? 注意が常に選ばれた対象に想起されることになるそのような手法において、全ての思考と言葉と行動を順序付けることによる。
     私は木星の「知霊」を喚起したいと思う。私は木星の照応関係を私の作業の基礎とする。私は数字の四とその従属数である十六、三十四、百三十六を私の計算の基礎とする。私は正方形或いは菱形を採用する。私の聖獣に関しては、私は鷲或いはその他木星のための聖獣を選ぶ。私の香料に関してはサフラン――私の献酒としてはいくらかの阿片、若しくはポートワインのような芳醇でありながら甘くて力強いワインを準備する。私の魔術武器に関しては、私は笏を取る。要するに、私は、私が木星の喚起を目的として常に私の意志を想起させられるような方法であらゆる行為のために道具を選び続けている。より適切に言えば、私は全ての対象を拘束する。私は私を取り巻く複雑な現象から木星的要素を抽出する。もし私が私の絨毯を見れば、青と紫は頽廃して不明瞭な背景に対して〈光〉として際立つ色彩である。そして、そのようにして私は日常生活を続け、木星に関心を向けるための自己啓発の中に、時間の一瞬一瞬を費やす。精神はすぐにこの修練に反応する。それは木星でないものを全て非現実的なものとして極めて早く自動的に拒絶する。その他全ての物事が関心から免れる。そして、一貫して全ての献身と勤勉を伴って準備してきた召喚儀式の時が来たら、私は速やかに激情を燃え上がらされる。私はユピテル【訳註2】に同調し、私はユピテルによって充填され、私はユピテルによって吸収され、私はユピテルの天上の中に取り込まれ、また彼の雷鳴を振りかざす。ヘーベーとガニュメデスが私にワインを持ってくる。神々の女王は私の傍らで玉座に就き、私の遊び仲間達に対しては地球の最も魅力的な巫女達である。
     ヨガ行者がより科学的に完全ではあるがより厳格で困難な彼の手法を用いて行わざるを得ない不完全な(そして、こう言っては何だが、現実離れした)この道の全ては一体何なのか? また、ここで〈魔術〉の優位は、参入の過程が自発的であり、言わば、自動的であるということである。諸君は何らかの素朴な元素霊の喚起を扱う最も控えめなやり方で始めてよい。しかし、作業過程において、成功を得るために諸君は高次存在と折り合いをつけることを強いられる。他の全ての生命体のように、それが摂取したものによって、諸君の野心は成長する。諸君は極めて速やかに大作業そのものへと導かれる。諸君は聖守護天使の知識と会話への熱望へと導かれるが、またこの野心は同様にして、新たな諸力を与える獲得の更なる困難を自動的に呼び起こす。一般に『霊視と幻聴』The Vision and the Voice〕と呼ばれる『三十のアエティールの書』〔The Book of the Thirty Athyrs〕において、各アエティールに入り込むことが次第次第に困難になる。実際、その侵入は各アエティールの天使によって次々に授けられた秘儀参入の力を借りることでのみ達成された。この書物に記録されているヨガの実践には、この更なる同一化があった。時にはアエティールに存在するために必要な集中が非常に強烈になったため、確かにサマディ的な成果が獲得された。その時に我々は、魔術的訓練による精神の高揚が(誰かが言うかもしれないように、それ自体にもかかわらず)、単純明快なヨガにおいて起こる時と同様の成果に繋がることを目にする。
     私は諸君にもう少しだけこれらの幻視について語るべきであると思う。それらを獲得する方法は、四十九の花弁の薔薇十字が美しく彫り込まれた大きなトパーズを用いることであり、またこのトパーズは赤く塗装されたオーク材の木製十字架に嵌め込まれた。私はこれをディー博士の有名な見者石〔shew-stone〕の思い出の中で見者石と呼んだ。私はこれを手に取り、そのアエティールにふさわしい特別な名前をその都度使用し、エノク或いは天使の言語の第三十アエティールの召喚呪文の詠唱を始めた。今度は概ね十七番目まで非常にうまくいったと、そうだったと私は思うが、それから、高次或いは遠方のアエティールの困難を予見するその天使が、私にこの命令を与えた。私は『コーラン』のある章を暗唱した。ムハンマド教徒が「単一性の章〔Chapter of the Unity〕」【訳註3】と呼ぶものである。『コーラン』より、唱えよ、「彼はアッラー、唯一なる方」、アッラーは自ら在り、お産みなさらず、お産まれになられもせず、彼に比べうる者はない。〔Qol: Hua Allahu achad; Allahu assamad: lam yalid walam yulad; walam yakan laha kufwan achad.〕サハラの大いなる東の砂海で私が私の駱駝の後ろを歩いていた時、私はこれを口に出し、一日に千と一度、各章の後に大地に向けて頭を垂れた。私は誰かがこれがかなり良い運動であることに異論を唱えるだろうとは思わない。だが、私の論点はそれが確かに極めて良好なヨガであったということである。
     私が以前の講義で述べたことから、諸君はこの訓練がヨガの初期段階の全ての条件を満たすことを全て認めるだろうが、そうであるがゆえに、私が以前よりも極めて高い効力で第三十アエティールの召喚を用いることができたような状態に私の精神を置いたことは驚くべきことではない。
     その結果、私は、ヨガは単に〈魔術〉の下女であるに過ぎないと、或いは〈魔術〉はヨガを補う以上の機能を持たないと述べていると思われているのだろうか? 決してそのようなことはない。それは恋人達の協調である。それはここにある事実の象徴である。ヨガの実践は〈魔術〉における成功にほとんど不可欠である――少なくとも私は、私がヨガの厳格な訓練を全面的に基礎としていた時に私の魔術的成功の結果として世界を一変させた私自身の経験から言うことができる。しかし――私は過去三年間を日々の魔術的方式の訓練に費やしていなかったので、私がごく短期間でヨガにおける成功を獲得することなどあってはならないと私は絶対的に確信する。
     私が真剣にヨガを始める直前に、私が環境のもたらす緊張の中での〈魔術〉実践のヨガ的手法を発明しかけていたとまで言うことができる。私は見事に考案された私自身の神殿で大量の魔術器具を用いて作業することに慣れていた。今、私は船上に、或いはメキシコシティの薄暗い寝室の中に、或いは孤立した熱帯谷の砂糖黍に囲まれた私の馬の傍らでの野営に、或いは地肌が剥き出しの火山性の高地にある全ての枕の代わりに私のリュックサックを用いる横臥に自分自身を見出した。私は私の魔術器具を置き換えなければならなかった。私は私のベッド横のテーブル或いは乱雑に積まれた石を私の祭壇として用いるだろう。私の蝋燭若しくは私の山岳用ランタンは私の光であった。杖の代わりに私の破氷斧、杯の代わりに私の水筒、剣の代わりに私の山刀、そして術の万能章の代わりにチャパティ或いは塩の小袋! 慣行はすぐにこれらの粗雑で手早い代替品に慣れ親しんだ。だが、私の魔術作業がますます私の心身において絶対的になったことには、孤独と物理的困難そのものが役立ったのかもしれないと私は薄々感じており、数ヶ月が過ぎた頃、私は私自身が一切の外的器具を用いることなくニオファイトの術式(それに関しては私の論文『魔術』を参照)を含む完全な操作を執り行ったことに気づいた。
     これら全ての形式主義的なアーリアの賢人達の梅毒! 極めて融通の利かないものであることを誰かが望まない限り、第一に外面の、そして次いで内面の状況によって私が強いられたこの儀式の形式が、極めて完全に近い何かにおけるアーサナ、プラーナヤーマ、マントラ・ヨガ、そしてプラティヤーハラの新たな形式以外の何かであると主張することはむしろ不合理である。そして、従って、そのような儀式の結果として生じる〈魔術的〉高揚が全ての本質的な点でサムヤマと同等であったことは驚くべきことではない。
     他方、ヨガの修練は魔術的絶頂をもたらす意志の最終的な集中に対するすばらしい補助であった。
     そうして、これは現実である。即ち、直接的体験。知的分析の風の最初の一吹きによって非常にたやすく揺さぶられる感覚的印象の平凡な日常の体験は、どのように異なるのか?
     さて、第一に答えると、常識的には、相違は単に印象が深くて揺さぶられにくいことである。分別と教育ある人々は、彼らが彼らのあらゆる現象の観察の質を誤解しているかもしれないことを認める準備が常にできており、少しだけましな人々はほぼ確実に、感覚の対象が単なる間仕切りに映る影ではないかどうかというような沈着な思索の類に到達する。
     私は眼鏡を外す。今、私は私の原稿を読むことができない。私は二組のレンズを持っていたが、一組は天然、一組は人工である。もし私が旧式の望遠鏡を通して見るとしたら、私は三組のレンズ、二組の人工を持っているはずである。もし私が行って他の誰かの眼鏡をかければ、別の種類の暈しを得ることだろう。私の眼の水晶体が私の人生行路の中で変化するので、私の視覚が私に伝えるものは様々である。要点は、我々が映像の真実が何であるかを判断することがまるで不可能であるということである。それでは、私はなぜ眼鏡をかけて読むのか? ただ、それを身につけることによって作られた幻影の特定の型が、私が求めて何気なく思い描く特定の意味において予め定められた符号の体系を解釈することを私に可能とするからである。それは私の視覚の対象について何ら私に伝えない――私が紙とインクと呼ぶもの。どちらが夢なのか? はっきりと判読可能な活字なのか、解読不能な暈しなのか?
     だが、いずれにしても、完全に正気の人間は日常生活の体験と夢の体験の間に区別を設ける。確かに、夢は時折ひどく鮮明であり、それらの性質が永続的に一定であるため、人々は意外と、彼らが夢の中で何度も見た場所が彼らが覚醒中の生活の中で知っている場所であると信じ込むように欺かれる。しかし、彼らは記憶によってこの幻影を批判する能力が十分にあり、また彼らは欺瞞を認めている。まあ、同じように、高等〈魔術〉の現象とサマディ〔the phenomena of high Magick and samadhi〕【訳註4】は真実性を持ち、夢に対するように覚醒中の生活の体験に対して内的確実性を与える。
     しかし、全てのこの種の事柄はさて措き、体験は体験である。また、我々が現実を獲得することの真の保証は精神の階層におけるその階級である。
     少しの間、我々は我々自身に覚醒した精神によって判断されるような夢の印象の特徴が何であるかを訊ねよう。いくつかの夢は迫力があるため、目覚めている時でさえ、それらはそれらの現実味を我々に確信させる。それではなぜ我々はそれらを批判し却下するのか? なぜならば、それらの中身は支離滅裂であり、それらが属す自然の秩序が――曲がりなりにも――整合性のある体験の種類と適切に一致しないからである。なぜ我々は覚醒中の体験の現実性を批判するのか? ちょうど同じような根拠による。僅かの点で、それは我々の精神構造の本能的な深層意識と適合し損なうからである。性質! 我々はそのような獣になるのだ。
     その結果は我々が一定限度の範囲の覚醒中の体験をありのままに受け容れることである。少なくとも我々は、たとえそれが哲学的真実でないとしても、行動方針をそれに基づかせるに十分なほど具体的な信念に我々が我々の行動を基づかせるこの範囲に対してそうする。
     強い信念の窮極の実地試験とは何なのか? まさにこれが我々の行動基準である。私は読むために眼鏡をかけた。私がそうする時、不鮮明な外見が鮮明になるということを私は確信している。もちろん、私は間違っているかもしれない。私は間違って他の体の眼鏡を拾ったかもしれない。私がそれらを適切な場所に着ける前に私は盲目になるかもしれない。そのような自信にも限界がある。だが、それは本物の自信であり、そしてこれは我々がなぜ人生の課題を強行するのかの説明である。我々がそれを熟考する時、あらゆる種類の障害物があり、哲学的に否定不能或いは実際的観点からもそうであるあらゆる命題を考案することが不可能であることを我々は知る。我々はあらゆる種類の障害物があることを自分自身に対して認める。しかし、我々は運を天に任せ、我々の自然体験によって叩き込まれた一般原則の中で前進する。無論、体験が不可能であることを証明することは非常にたやすい。第一に、我々の何らかの現象の自覚は決して事柄そのものではなく、それの判読困難な象徴のみである。
     我々の立場はむしろ、神経質な自動車を持つ男の立場である。彼はそれが一般原則で承認されなければならない曖昧な理論を有す。しかし、それをどのような状況においてどのようにして実行するのか、彼は全く確信がない。現在、〈魔術〉とヨガの体験はこの全てを大きく上回っている。他の型の体験を批判する可能性は、妥当な言葉で我々の印象を表現する可能性に基づく。また、これは〈魔術〉とヨガの成果には全く当て嵌まらない。我々が既に理解したように、通常の言葉で説明する試みは無駄である。冒険の主人公が宗教論で縛り付けられているところでは、我々は十字架の聖ヨハネ【訳註5】のような人々の退屈でおべっかにまみれた戯言を聞く。全てのキリスト教神秘主義者達は同じような欠点を持つ。彼らの忌々しい宗教は彼らに感傷的な言動を強制する。また、高貴且つ啓発的な〈悲哀の忘我状態〉の代わりに、彼らは彼らに〈作業〉を引き受けるよう促す悲惨で、卑劣で、身勝手な罪悪感を持つだけであるため、原罪論は彼らの立場全体を損なう。
     我々は真の法悦と忘我の猿真似の模造品である単なる病的な反射のような霊的病原体の一種であるあらゆるキリスト教徒によってもたらされた体験に対する我々の精神の主張を悉く斥けることができると私は考える。全ての本物の表現はそのものの性質を取り入れなければならず、従って、ちょうど忘我状態が意識の通常の法則から自由であるように、それ自身が日常会話の規範から解放されたその言語だけが許容できる。換言すれば、詩、芸術、音楽だけが適正な翻訳物である。
     もし諸君が常識の観点から最高の詩を観察するならば、諸君はそれはくだらない代物であるとしか言えない。そして、それら自身の言葉の中になく、「おお、吹き曝しの星が吹き飛ばされて空を横切る!」という言葉によって示唆される心象の中にもない何かが詩にはあるため、実際には諸君はそれを観察することが全くできない。本物の詩はそれ自体が言語に絶するものへの鍵となる魔術の呪文である。音楽にとってこの論文はほとんど言及の必要がないのと同じほど明白である。音楽は表現された知的内容を何ら持たず、音楽の唯一の評価基準は魂を高揚させるそれの力である。その結果、そうなるべくして〈魔術〉とヨガを実践するこれらの人々によって達成されたような、何らかの崇高なものを感覚的な形で作曲者が表現しようと努めていることは歴然としている。
     同じことが造形美術にも当て嵌まるが、明らかに遙かに度合が少ない。また、これらの芸術を知り且つ愛する全ての人々は、高尚な芸術の場合のように、古典的絵画及び彫刻がこれらの法悦の超越的絶頂感を作り出す能力をほとんど持たないことをよく知っている。一つは観察の印象に縛られている。一つは静的対象の凝視に引き戻される。そして、この事実は、現代において、芸術の中で芸術を創造しようと努力してきた画家達によく理解されている。また、これは「シュルレアリスム」のような運動の真の説明である。芸術家が、実のところ、ヨガ行者或いは〈魔術師〉にとって極めて上位にある存在であるということを私は諸君に印象付けたい。「大金によって私はこの自由を獲得した」と彼のローマ市民権を誇っていた百人隊長に聖パウロが返答したように、彼は返答することができた。そしてポールは、出身校を示すネクタイ〔Old School Tie〕を爪繰り、嘲笑った。「しかし、私は生まれながらに自由である」
     我々がここで、たまたま、ある人間が最高次の現実と密接に関わるこの権利を生まれ持つべきであるかどうかを調査する必要はないが、ブラヴァツキーは、生来の才能が〈魔術〉とヨガの学徒が熱望する霊的階層における階級の獲得を運命付けるというこの同じ意見である。彼は、言ってみれば、芸術家の卵である。そして、彼の才能が、彼の現在の化身において、彼の成就の成果を生み出すに十分なほど自動的になっているであろうということは、おそらくなさそうである。けれども、疑う余地なく、そのような実例があり、またそれは私自身の経験の中にある。
     私は諸君に一時の間、非常に精力的に所定の魔術的訓練に取り組んだ男――非常に劣っていてくだらない詩人――【訳註6】の事例を引用することができた。彼は非常に幸運であり、すばらしい成果に到達した。彼がそのようにして間もなく、彼の詩それ自体が天上の光と活力で一杯になった。彼は傑作を制作した。
     それから、更なる成長の課題が彼を愕然とさせたため、彼は彼の〈魔術〉を諦めた。その結果は彼の詩が湿った吸い取り紙の水準にまで完全に成り下がったというものであった。
     私は諸君にほとんど文盲の一人の男、九歳の頃から加工場で働いていたランカシャーの男【訳註8】についても伝えよう。彼は何年にも亘って弁論家達〔Toshophists〕と共に何の成果もなく勉強していた。その時、彼はしばらくの間、私と文通した。彼はまだ何の成果も持たなかった。彼は私の許に身を寄せるためにシチリアに来た。ある日、我々が入浴のために下っていた時、我々は少しの間、すばらしい滑らかな砂から成る浜【訳註7】を持つ岩石から成る小さな入り江に繋がる崖の縁に立っていた。
     私は何かを非常に気軽に言った――私はそれが何であったか思い出せたことがない――彼もまた今まで思い出せなかった――が、彼は突然切り立った小さな道をヒマラヤ山羊のように駆け下り、彼の外套を投げ捨てて海に飛び込んだ。彼が戻ってきた時、彼の体は光を発していた。彼が彼の体験を完了するために一週間独りきりになる必要があることを私は理解したので、私は小川の縁に大きく広がる木々の下の静かな谷間の山岳用テントに彼を宿泊させた。時折、彼は彼の魔術記録、驚嘆すべき深遠且つ壮麗な幻視に次ぐ幻視を私に送付した。私がこれらの記録を当時私と一緒にいた偉大な文芸評論家に見せたという彼の功績に、私は非常に満足した。数時間後、私が〈僧院〉【訳註9】に戻った時、彼は興奮の炎を私に爆発させた。「あなたはこれが何だか知っていますか?」彼は泣き喚いた。私はそれが非常に良好な幻視であることを気軽に答えた。「あなたの姿が邪魔です」と彼は声を荒らげた。「あなたはその文体に気づかなかったのですか? それは純然たるジョン・バニヤン【訳註10】です!」それはそうだった。
     しかし、これは全てここにもそこにもない。小径に対して誰かがすべきことがたった一つだけあり、それは次の段階を見極めることである。そして、我々全員が我々を慰撫しなければならないという事実はこのことである。即ち、全ての人間はそれぞれが彼或いは彼女の現在の地位に応じて成就するための能力を持つことである。
     たとえば、星幽界の視力に関しては、私は私の人生行路において何百もの人々を訓練する特権を有しているが、彼らの中の大体十数人程度しか成功することができなかった。ある事例において、これはその男が全てのそのような予備的練習の枠を既に超えていたからである。彼の精神はすぐに、全ての想像、全ての思考を超越した無形状態を取った。他の落第者達は、何の類の実験を行う能力もなかった愚劣な連中であった。彼らは知的慢心と偏見で一杯であり、私は彼らをジェーン・オースティン【訳註11】に取り組む【訳註12】という命令で追放した。だが、平凡な男女は非常にうまくやっており、これにより、私は教養人だけを大切にするわけではない。実際には、人類の原始的人種に共通して、あらゆる種類の奇妙な能力がすばらしい反映を伴って発達していることはよく知られている。
     まず、我々一人一人の課題はその場合、次の通りである。第一に、我々の現在の地位を解明すること【訳註12】。第二に、我々の適切な方向を定めること。第三に、それに応じて我々自身を支配すること。
     私のための課題はまた、全ての人間にとって有用であるほど十分に融通の利くものになる手続きの方法を説明することでもある。私は〈魔術〉とヨガの二つの小径を結合することを通じてこれを行うことを試みた。もし我々が各人の能力に応じた予備的訓練を遂行するのであれば、その結果はきっとある技法の習得であろう。そして、特にもし我々が、あたかもそれらが対立する流派であるかのように二つの方法を区別することのないように、しかし喫緊の必要が生じた時には一方を他のものの補助に用いるようによく念頭に置いていれば、これは我々が上達するにつれて遙かに簡単になっていく。
     もちろん、私がそれを行うよりよく理解している者はいないものの【訳註14】、諸君のために諸君の作業を行える者もいないが、他の人々の経験を――――ごく限られた若干の範囲内で――活用することは可能であり、また、諸君が快く受け容れるであろうと私が考えるものを指定した奉仕の栄誉に私が浴す〈偉大な結社〉は、満足且つ実践的な教育課程である。
     諸君は少なくともその主題に関する何点かの古典の研究に三ヶ月を費やすことが期待される。これの主要な目的は諸君を指導することではなく、諸君を基礎的作業に習熟させること、とりわけ、諸君が賛否の分かれる問題に何らかの正義や不正があるという考えを得るのを防ぐことである。諸君は諸君の精神がこの事柄を十分に基礎としていることを確認する狙いのある試験に合格し、それから諸君は見習者〔Probationer〕【訳註15】となる。諸君の読書は諸君がうまくいくような事柄に関して諸君に何らかの示唆を与えるだろうし、諸君は諸君に上達を約束すると思われるような訓練を選択する。諸君はこれらを推進し、また諸君が何を行い、いかなる結果が生じたかを注意深く記録する。十一ヶ月後、諸君は諸君の先輩に記録を提出する。諸君の間違った部分を矯正すること、特に諸君が失敗してしまったと考えるところで諸君を勇気付けることが、彼の義務である。
     私はこのことを言うが、なぜならばそれは、最も頻繁に生じる面倒が、〈自然の本質〉がそうであろうと彼らが考えていたものではなかったことを彼らが感じてしまい、卓越した作業を行っている人々がそれを投げ出してしまうことであるからである。だが、これはあらゆる現実の最良の試験である。諸君の知識に適合する全てのもの、諸君に阿るものは、幻影である可能性がある。そうして諸君は初参入者〔Neophyte〕になる。そして熱心者〔Zelator〕の〈課題〉に取り組む。この制度には更なる位階があるが、一般原則は常に同じである――科学的研究と調査の諸原則。
     我々は始めたところに行き着く。「車輪は一周して戻ってきた」我々は過去の経験を使って未来の経験を決定し、またその経験が質的に増大するにつれて質的にも向上する。そして〈小径〉は信頼できる。そして〈目標〉は信頼できる。と言うのも、〈目標〉は〈小径〉だからである。

     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    訳註
    1 原文は Salutation to the Sons of the Morning! であり、一見講演前の単なる挨拶のようだが、朝の太陽 Sun of the Morning や、ハタ・ヨガの基本姿勢である Sun Salutation との掛詞である可能性がある。
    2 同じ Jupiter でありながら、木星とユピテルの訳が混在する点について混乱を避けるために説明する。この区別は術式が喚起であるか召喚であるかに基づく。木星と訳した部分は喚起儀式の話をしており、ユピテルと訳した部分は召喚儀式の話をしていると解釈した。ヘーベーやガニュメデスが登場する点も加味した。原理の正確な説明には程遠いが、以上の説明の意味がわからないという読者に対しては、一般に神は召喚するものであって喚起するものではないとだけ言っておけば差し当たり十分であろう。
    3 『コーラン』第百十二章「純正 Al-Ikhlas」を指すものと思われる。
    4 「高等〈魔術〉とサマディの現象」とも読めるので原文を註記しておいたが、「サマディの現象」という表現に違和感があるので本文では訳文のように解釈した。
    5 Juan de la Cruz は十六世紀のスペインのカトリック司祭、神秘思想家で、カトリックと聖公会の聖人。
    6 おそらく、兄弟オムニア・ウィンカム Frater Omnia Vincam 或いは兄弟ラムパダ・トラデム Frater Lampada Tradem ことヴィクター・ニューバーグ Victor Neuberg のこと。ニューバーグはクロウリーの弟子の代表格であり、詩人でもあった。パリ作業や三十のアエティールの探索という著名な魔術的実験の助手を務めたことで知られる。クロウリーの著作中では、今回のようにしばしば悪罵と共に登場させられる。
    7 原文では beach f marvellous smooth sand とあったが、校訂の結果、of のo が脱落していると判断して修正した。
    8 おそらくこの人物は、兄弟プログラディオル Frater Progradior ことフランク・ベネット Frank Bennett であろう。
    9 この〈僧院〉はセレマ僧院のことであろう。
    10 John Bunyan はイギリスの教役者にして文学者。『天路歴程』 The Pilgrim's Progress の著者。
    11 Jane Austen は十八世紀後半から十九世紀初頭のイギリスの小説家。『高慢と偏見』 Pride and Prejudice などの作品がある。
    12 『高慢と偏見』を読めという当てこすりを意味するのであろう。
    13 「解明する」の原文は to acertain なのだが、これは to ascertain の間違いであると判断して修正した。
    14 ここの主語は nobady だが、クロウリーの著作で no one や nobady が現れた際は注意が要る。それは 特段の強調表現がない以上、深読みが過ぎるかもしれないが、NEMO を意図している可能性がある。NEMO は神殿の首領の称号の一つである。たとえば、クロウリーよりも実践の要諦を弁えた者はいないが、NEMO はクロウリーよりもより深い「理解」を持つのかもしれない。つまり、真の文意は、NEMO を除けばクロウリーよりも彼の作業を理解している者はいない、といったものになるかもしれないのである。
    15 Probationer はクロウリー以降の魔術団体の位階制度における最下級、0=0の等式で表される正式な入団を待つ団外の団員であり、見習者の他にも、仮入会者、仮参入者などいくつかの訳がある。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第二部第三講

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第二部 臆病者達〔yellowbellies〕のためのヨガ
             第三講


    親愛なる〈子供達〉へ

     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。

     諸君は我々の先週のヨガの研究が我々を教父達へと導いたことを憶えているだろう。我々は、それらの哲学と科学が、独立した経路を辿って我々をテルトゥリアヌスの有名な詠嘆へと導いたことを理解した。即ち「不可能ゆえに確かなり」。全く教会はどのように〈理性〉の権威を否定してきたのか!
     我々は「信仰」によって教会が何を意味するのかを直ちに調べるようにほとんど誘惑されている。聖パウロは信仰は「待望されたものの実体。見えざるものの証拠」であると我々に教える。それなら、私は、この信仰という言葉が忌々しく肥満した好色な田舎者、マルティン・ルターが主張したものを意味すると我々が想像するとは思わない。彼が語る信仰は物質の他に何もなく、証拠に関してはどうかと言うと、子供達が言ったように、我々が真実でないと知っていると信じる権威に過ぎない。とにかく、何らかの気の利いた意味を持つためには、信仰は体験を意味しなければならず、その思考法は我々が私の直前の講義において導かれた結論と正確に一致する。それがいかなる種類の非難によっても揺るぎない確実なものでない限り、我々にとって使い道がないとすると、宇宙にはこれらの条件に適合するたった一つのものがある。それは即ち、霊的真理の直接的経験である。ここで、そしてここだけで、全ての時代の偉大な宗教心と全ての地域が一致する立場を我々は見出すのか。独断的教義は知的声明から成り立つため、それは必然的に独断的教義〔dogma〕の上にあり、そして更に、その矛盾はそれぞれ簡単に争われて滅びることがある。
     諸君はおそらく、イエズス会において、聖職志望者がこれらの高度に物議を醸す主題全てに関して論争するよう訓練されていることに気づいていることだろう。彼らは、彼らに対して起こるあらゆる驚くべき冒涜的言動を証明する若者を候補者として指名する。そして若者がより一層に衝撃を受けることは彼の精神のために好ましい訓練であり、最後には彼がより良い奉仕を〈会〉に与えることになるだろう。だが、彼の精神がそれ自身の正義への自信を完全に捨て去ったか、或いは正しくあることの可能性さえも捨て去った場合に限る。
     合理主義者は、彼の浅はかな流儀で、この訓練が精神的自由の放棄であると常に強く主張する。とんでもないことであり、それがその自由を得るための唯一の方法である。同〈会〉において、服従の訓練は同様の原理に基づく。司祭は彼の修道院長が彼に命じることをしなければならない――死者の如き服従〔perinde ac cadaver〕。プロテスタントはこれが最も理不尽で擁護の余地のない暴政であることを常に表明している。「かわいそうな奴は」と彼らは言う、「彼自身の意志を持たないよう強いられている」それは純然たる世迷言である。神聖なる服従の訓練を通じた彼の意志の放棄によって、彼の意志は非常に強靭になり、強靭であるため、彼の生来の本能、欲望、または習慣は介入することができない。彼はこれらの邪魔な意志の全てを取り除いた。彼は秩序の機構の完全な機能である。〈会〉の総長においては、ちょうど人体において全細胞がその特定の性質を生体の集中された意志に対して完全に捧げられるように、これらの全ての個別の意志の力が集中されている。
     換言すれば、イエズス会は、元の作品、即ち生きた人間の骨格の完全な模造品を創造したのである。それは神に定められた物事の道理に従っており、それは、我々が計算上決して重要でなかったと見ていたにもかかわらず、肉体がヨーロッパの発展における最大の影響力の一つであった理由である。それは必ずしも完全に機能しているとは限らないが、それは体制の欠陥ではない。そして、そうであってさえ、その業績は驚異的である。また、それに関する最も注目に値することの一つは、その最大且つ最重要の功績が、科学と哲学の領域にあったことである。それは宗教上何も為さなかった。より厳密に言えば、それが宗教に干渉したところにおいては、ただ害を及ぼしただけである。何と言う過ちか! 何故に? それが宗教に無関心である立場にあったという単純な理由からである。これら全ての事柄は教皇によって或いは教会会議によって決定されたため、従って〈会〉は、修練士が修道院長の意志の中に彼の個人的空想を沈めることによって彼の道徳的責任から完全な自由を獲得するのと全く同様に、宗教の紛糾からそれ自身を解き放つことができた。
     聖イグナチウス【訳註1】の『霊操』【訳註2】がそれらの本質において実に見事なヨガの訓練であることに、私はここで言及したいと思う。嘘偽りではなくそれらは魔術的技巧の色彩を帯び、またそれらは教義上の目的のために考案されている。しかしながら、それにもかかわらず、創立者の本来の意志が〈改革〉への激しい反発として戦争の原動力を生み出すことであったため、それは必要であり、且つ良き魔術でもあった。哲学としてのその抽象的価値にかかわらず、最も効率的にその単一の目的を果たす計画を考案することに対して彼は非常に賢明であった。唯一の問題は、この目的が、内的諸力に抵抗するための領域において十分に秩序立っていなかったことである。これらの修練の実践によって高次元に達し、彼らは〈会〉の本来の目的が彼らの力に全く適切でないことを理解した。言わば彼らは、過剰な原動力を具えていた。彼らは愚かにも支援するために創設された他の担当部局の宗教的領域に侵入し、その結果として我々は、彼らが教皇権の獲得に著しい失敗をしつつ実際に教皇と反目するのを見る。このようにして彼らの努力の中で阻止され、また彼らの目的の中で混乱し、彼らは彼らの修練の情熱を倍加させた。そしてそれは全ての宗教的修練の特性の一つであり、もし正当且つ効率的に実行されれば、それらは常に諸君を全ての教義上の留意事項、全ての知的概念が無効にされる高次元へと導く。そのようなわけで、我々は、修道会総長と彼の側近達が無神論者であると考えられていることが全く驚くに値しないことを理解した。もしそれが真実であるならば、彼らが世界の実務的政治への彼らの執着心によって堕落したことを示すだけであり、それは無神論の基盤以外にあっては実行不可能である。それが偽装のための全く愚劣な偽善でなければ、外交機関専用に限定されるべきである。
     修道会の総長達が本当に霊的知識と自由の最高潮を窮めたと推定することはおそらくもっと賢明であろうし、彼らの態度を表現する最良の言葉が〈汎神論的〉であるか〈グノーシス主義的〉である可能性は十分にある。
     我々がヨガの実践の成果をより詳細に議論するに至った今、これらの検討事項は我々にとって最も大きく役立つものでなければならない。それは本当のことなのだが、世界中の偉大な神秘主義者達の忘我の爆発の間には、全般的な類似がある。類似はしばしば対象の学徒によって引き出される。私はただ一つの例でしか諸君を手間取らせないだろう。即ち「汝の意志を為せ、それが汝の〈法〉と成らん」この命令は何なのか? それは聖アウグスティヌスの「愛し、汝の意志を為せ」の一般化である。しかし、『法の書』において、聴衆が無律法主義の発作に幻惑されるといけないので、更なる説明がある。即ち「愛こそ法なり、意志下の愛こそが」
     しかしながら、要するに肝心な点は、これらの主題が議論不能であるという我々の第一公準を我々が有するがゆえに、ヨガが老子またはパタンジャリ或いは聖イグナチウス・ロヨラによって推奨された様式であるかどうかがヨガの成果を議論する役に立たないということである。彼らについて論争することは、我々を〈なぜならば〉の陥穽に放り込み、〈理由〉の犬どもと共に滅びさせるだけである。我々の経験の説明の使用は、従って、彼らがヨガの実践において成功を収めた時に彼らの身に発生するある種の観念を学徒が得ることを可能とするために限られる。我々はダビデの〈詩編〉の中での言葉を有す。即ち「私は思考を嫌うが、そなたの法は愛する」【訳註3】我々は聖パウロの言葉を有す。即ち「肉体の心は神に対して反抗する」【訳註4】聖パウロの手紙の精髄は精神に対する戦いであるとも言えるかもしれない。即ち「我々は血肉に対して戦わない」――諸君は残りの部分【訳註5】を知っている――私は全てを引用することによって困惑させることができない――『エフェソ人への手紙』第六章第十二節〔Eph. vi. 12.〕。
     それは、世界の歴史への彼の無知のために、敵を意味する彼の名前であるサタンを気〔Air〕の力の君主として描写した聖パウロである。それは、ルアクの、叡智のそれである。また、聖パウロの回心に影響を与えたものがダマスカスへの道での幻視であることを我々は決して忘れてはならない。彼が異教徒への使徒として活動を始める三年前にアラビアの砂漠に姿を消したことはとりわけ重要である。聖パウロは教養ある〈師〉〔Rabbi〕であった。彼はヘブライの律法の最も優れた註解者の愛弟子であったが、彼の幻視の一瞬において、彼の全ての見解は一撃で叩き壊されてしまったのである!
     我々は、聖パウロが当時何らかの発言をしたとは伝えられていないが、彼が黙って旅立ったことは伝えられている。これは偉大な教訓である。結果を議論することはない。『神々の春秋分点』を所有する諸君は、〈註解〉における途方もない禁止命令に非常に驚いているかもしれない。即ち〈書〉の議論の全面禁止。私自身はその禁止命令を十分に理解していなかった。私は今それを行う。
     我々はここでプラティヤーハラの実践の間に発生する現象のいくつかを取り扱うことにしよう。
     カンディーでの我が隠遁の最初期、私は鼻先に向かって両目を傾けることによって集中することを試みていた。ところで、これは良い訓練ではない。一つには、両目に負担をかけがちである。しかし、私が夜に目を覚ました時、それは起こった。私の手は鼻に触れた。私は部屋に誰かがいたと直ちに結論付けた。そのようなことは全くない。私は、それに集中する訓練によって私の鼻が私の観察範囲から消え去ったので、そう思っただけである。
     同種のことがあらゆる対象への適切な集中と共に発生する。不可視の現象に、不思議なことに、それは結び付けられている。諸君の精神がそれ自身の中に深く入り込んでそれ自身と周囲に無自覚になった時、最も平凡な成果の一つは肉体が他の人々から不可視になることである。私はそれが写真にとって大した影響がないとは考えないが、そうは言うものの、私はこう言うための証拠を持たない。しかし、それは数えきれないほど私に起こった。それは私がシチリアにいた時、毎日のように発生した。
     我々一同は、幻想的な形の岩石の小島が突き出した非常に美しい砂浜から成る湾によく降りていった。それは海洋生物の宝石で覆われた断崖で縁取られている。その道は剥き出しの山腹の上にあった。数百ヤードの葡萄園を除き、そこは何にも覆われていなかった――否、兎のためにではない。だが、一同の一人が私に話しかけるために振り返り、そうして私を見損なうということがしばしば起こった。私が指示した時にこれが起こることを私はよく知っていた。私の椅子は明らかに空いていた。
     ちなみに、原則として無意識裡に行使されると私が考えるこの能力は、実在の魔力である可能性もある。
     非常に多数の興奮した群衆が非友好的な意図で私を探していたある時に、それは私に起こった。だが、あたかも私が路地の周りを音を立てずに影のように動いているかのように、私は軽快な感覚、恐怖感を抱かせる不可解な奇妙な感覚を経験した。そして実際に、私を探していた群衆の誰一人として、彼らが私の存在に気づいているという徴候を全く示さなかった。
     この出来事と並行して奇妙なことがあり、福音書の一つの「彼らは彼にぶつけるために石を拾ったが、彼はそれにもかかわらず、彼らの中を通り抜けて彼の道を進んだ」という箇所を我々は読んだ。
     このプラティヤーハラの課題には別の側面があり、我々が語っていたことに対して完全に矛盾するように言えるかもしれない。
     もし諸君がそれを調査するという考えから諸君の注意を肉体の一部に集中させるならば、つまり、私が思うに、極小の制限内で精神が動くことを許し、諸君の意識全体がその小さな部分において集中することになる。私はパスカニー湖での我が隠遁の際にこれを沢山実践したものだった。私は通常、指や爪先を取り、そうして私は、私がそうすることを許した小さな動きで私の意識全体を識別する。この経験について詳細に立ち入って論じることは無益であろう。私は、諸君が力を獲得するまでは、諸君は果てしなく震える法悦の純然たる驚異と歓喜を知ることはないとしか言えない。
     もし私が正しく記憶しているならば、この訓練とその成果は、〈神殿の首領〉の〈位階〉に関係し、また宇宙の有機的組織体のある種の完全な理解であり、その驚異の熱狂的崇拝である〈驚異的な入神状態〉〔Trance of Wonder〕と呼ばれるものをその後に達成する主な要因の一つである。
     この〈忘我状態〉は〈至福直観〉よりも遙かに高次であり、その理由は後者が常に内包される心――精神〔phren〕――であるからである。前者が人の神的知性である直観的知性【訳註6】であるのに対し、心は知的及び道徳的能力の中心であるに過ぎない。
     しかし、諸君が諸君自身を物理的に占有する限り、諸君の成果はその次元にしか存在しないだろう。また、肉体の小さな部分へのこれらの集中の主要な効果は、感覚的快楽の理解、いやむしろ堪能である。しかしながら、これは無限に純化され、この上もなく見事で強烈なものである。熟練した達人が他者にこの快楽を提供することのできる技巧を獲得することはしばしば可能である。多分、どこにでも三平方インチの皮膚を精密に表現し、極端に優しい愛撫により、当人に行いうる全ての可能な感覚的快楽を患者に起こさせることが可能である。私はこれが極めて異常な主張であることを知っているが、それを実証することは非常にたやすい。私が唯一恐れることは、専門家が講義の真価を獲得するのではなく、むしろその報酬によって我を忘れてしまうことであり、感覚の下劣な快楽は絶対的に無価値である。
     この訓練は、全てにとって有益である限り、肉体的欲望の奴隷から、快楽への渇望の自己破壊的感覚の解放を目指す第一歩として看做されるべきである。
     私はこれはマハー・サティパッターナの利益になるちょっとした横道に逸れる良い機会であると考える。この訓練は、仏陀によって非常に特別な言葉で推奨されたものであり、また彼が大きく称賛した唯一のものでもある。彼は彼の弟子達に、もし彼らがただそれを厳守してさえいれば、遅かれ早かれ、彼らは完全な成就に達するだろうと説いた。この訓練は、意識の観点における宇宙の分析のから成る。諸君は、歩行における肉体の運動のようなごく単純で規則的な何らかの身体運動、或いは呼吸の際の肺の動きを行うことから始める。諸君は何が起こるかに注意し続ける。即ち「私は息を吐いている。私は息を吸っている。私は息を止めている」場合によっては。全く警告なしに、諸君が考えていたことが真実ではないという発見の衝撃によって驚愕させられる。諸君は「私は息を吸っている」と発言する権利を持たない。諸君が本当に知っていることの全ては、そこに呼吸があるということだけである。
     従って、諸君は諸君の覚書を書き換え、また諸君は言う。「そこに吸気がある。そこに呼気がある」等々。そしてすぐに、もし諸君が熱心に実践するならば、諸君は別の衝撃を受ける。諸君は呼吸がそこにあると言う権利を持たない。諸君が知っていることの全ては、そこにそのような類の感覚があるということだけである。再び、諸君は観察の理解を改め、そうして、ある日、感覚が消滅したという発見をする。諸君が知る全てのことは、そこに吸気或いは呼気の感覚の認識があるということだけである。引き続き、それが幻影であることがもう一度発見された。諸君が見出したものは、自然現象の感覚を知覚する傾向が存在するということである。
     前の段階は頭で理解しやすい。それらを見つけ出したという彼らに人は直ちに同意するが、「傾向」に関しては事実と異なり、少なくともそれは私個人としてはそうではなかった。私が「傾向」が何を意味するかを理解するまでに、私は長期間を必要とした。諸君がこれを理解するのを助けるために、私は良い実例を見つけ出したいと思う。たとえば、時計は全く何もしないが、時刻表示を提供する。それは、これが我々がそれについて知ることのできる全てであるように組み立てられている。我々は時刻が正確であるかどうかについて議論することができるが、たとえば、時計が天文学者がたまたま正気である天測点から電気的に制御されているかどうか、それと時計が世界のどこにあるのか等々を我々が知らない限り、それは何も意味しない。
     私が以前に中国雲南省の辺境のすぐ内側、騰越〔Teng-Yueh〕【訳註7】にいた時のことを私は記憶している。正午にはいつも北京から領事館に電報が送られた。電気はほとんど瞬間的なものであるため、これはすばらしい発想であった。もしそれが嘆かわしいものであったとしたら私はそれを怪しく思うのだが、残念なことは、その伝達内容が永昌〔Yung Chang〕【訳註8】と呼ばれる場所を経由しなければならないことであった。そこにいる通信士達はほとんど常に阿片を吸引する良識を持ち合わせていたので、時折、北京は正午だったことを告げる一組の電報が一ダースほどの束で様々な日に到着するのである! 従って、全ての肉眼的現象は、これらの全ての感覚と知覚は幻影である。人が間違いなく言うことができたのは、北京の狂人達の一部が騰越の人々に何時であるかを伝える傾向があったということだけである。
     しかし、この第四蘊【訳註9】でさえ、まだ最後のものではない。実践では、それもまた同様に幻影として現れ、そのような傾向の存在のありのままの意識に留まるだけに過ぎない。
     私はそれを自分自身で十分にやってのけていないので、私は諸君にこれについて大したことを伝えられないが、ヴィナーナム〔vinnanam〕【訳註9】という単語の翻訳として「意識」が何らかの意味を持つかどうか、私は甚だ疑わしく思っている。よりましな翻訳は、我々がこれまでそれを使ってきた意味で使われる、全ての発言の背後と彼方にある直接的現実としての「経験」であると私は考える。
     これらの現象の暫定ではあるが道理に基づいた説明を与えることが、況してやそれらを正しく分類することが、いかに困難であるかを諸君が認識することを私は望む。それらは互いを連動させる奇妙な特徴を有す。これは、私が信じるところでは、ヨガについて何らかの本当に満足のいく文献を見つけ出すことが全く不可能であった理由の一つである。その人の進歩がより高度になると、知っていることが減り、そしてわからないことが増える。その効果は私が今までに述べてきた全てのことの単なる付加的証拠でしかない。即ち、物事を議論することがほとんど役に立たないと言うことである。必要とされるものは、実践への継続的な献身である。

     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    訳註
    1 聖イグナチウスは Ignacio Lopez de Loyola のことで、イエズス会の創立者の一人で初代総長を務めた。著書に『霊操』がある。
    2 聖イグナチウスの著書で原題を Spiritual Exercises と言い、イエズス会の霊的修行の手引書である。霊操とは即ち体操の精神版を意味する。
    3 『詩編』第百十九編百十三節。原文は I hate vain thoughts : but thy law do I love.
    4 『ローマ人への手紙』第八章第七節。原文は、Because the carnal mind is enmity against God.
    5 「我々の闘争は、血肉を相手にするものではなく、支配者を、権威者を、闇の世界の諸力、天の領域にいる悪の霊的諸力を相手にするものである」。原文は For our struggle is not against flesh and blood, but against the rulers, against the authorities, against the powers of this dark world and against the spiritual forces of evil in the heavenly realms.
    6 専門用語としての nous は一般に直観的知性を意味するが、宇宙の原理や最初の流出物を意味することもある。
    7 騰越 Teng-Yueh は現在では騰衝市として知られ、中国雲南省保山市の管轄下にある。
    8 中国雲南省保山市周辺の古地名、永昌郡のことではないかと思われる。
    9 Fourth skandha とは五蘊の四番目のものを指すのであろう。おそらく行蘊即ち Samskara 乃至それと密接に関わる業 Karma を意図するのであろう。Samskara は意志作用或いは意志形成作用とされる。
    10 vinnanam は五蘊の第五番目のもの、即ち識蘊のことであろう。これは認識作用を司る。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第二部第二講

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第二部 臆病者達〔yellowbellies〕のためのヨガ
             第二講


    議長閣下、殿下、猊下、閣下、淑女と紳士の皆様。

     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てとならん。

     すぐ前の講義で私は諸君を妄想の泥沼に導き入れた。私は諸君を妄想の沼地の中で窒息させた。私は妄想の砂漠で諸君を渇きに陥らせた。私は諸君が妄想の密林に迷い、思考である全ての怪物の餌食になるのを置き去りにした。それに関して何かすることを私に委ねていたということが私の精神の状態となった。
     我々はあたかも我々がそれらについて何かを知っているかのように神秘的存在について絶え間なく議論してきたが、これは(調べてみたところ)必ずしも実情に即さないことが判明した。
     もし我々が認識の最も単純な命題、SはPなりを取り上げるならば、我々の意見を理解できるようにするには我々はSとPにいくつかの意味を付け加えなければならないため、認識それ自体が不可能である。(私はそれが真実であるかどうかについては何も言わない!)。そして、これは定義を包含する。さて、第二のAが我々に最初のAについての更なる情報を与えない限り、同一性の元の命題、A=Aは、我々に全く何も示さない。従って我々は、AはBCなりと述べるべきである。一つの未知数の代わりに我々は二つの未知数を有する。我々はBをDE、CをFGとして定義しなければならない。今、我々は四つの未知数を有し、あっと言う間に我々はアルファベットを使い果たしてしまった。我々の全ての議論が循環論法になれるように、我々がZを定義するとなると我々は元へ戻って他の文字の一つを使う必要がある。
     我々が作り出す言説の一切は明らかに無意味である。それにもかかわらず、猫が四本の脚を持つと我々が言う時、我々は何かを意味する。そして、我々がそう述べる時、我々が何を意味するかを我々の誰もが知っている。我々は、我々の経験を根拠として、その命題に同意するかそれを差し控える。だが、その経験は上記で立証したように知的ではない。それは差し迫った直感の問題である。我々はその直感の保証を持つことができないが、それと同時に、それを動揺させるあらゆる知的議論は我々の確信を揺さぶるものではない。
     これから導き出される結論は、精神の器具は知的でも合理的でもないということである。論理は単に破壊的であり、自滅的な玩具である。しかしながら、その玩具は、たとえその使用の成果が検査に堪えなかったとしても、何らかの意味でも有益である。だから、我々は、論理を廃止する特定の襲撃が論外であり、我々は勝手に設定された限界の内側で推論するという細則を作る。それは我々が我々の基本的思考の性質の調査を進めることができるというこれらの状態に依存する。そして、我々が瞑想の成果の性質を考慮し始めてから、思考の背景についての我々の理解は全く異なる方法で決定されるため、これは必要である。我々が見てきたような説得力のない知的分析によってではなく、結論を導く啓発によってである。従って、我々の通常の思考の要素の調査を進めよう。
     諸君がアインシュタインの相対性理論を批判している時、私は諸君が疑うことなく心に留めている数学的定理を反復する必要がほとんどない。私が望むのは、その定理の最も単純な要素を諸君の精神に思い出させることだけである。仮にも何かを記述するためには、諸君は四つの測定結果を必要とするという事実である。それは基準点から東或いは西まで、南或いは北まで、上或いは下まででなければならず、基準時の前後でなければならない。そこには空間の三次元と時間の一次元がある。
     今、我々は空間から何を意味するのか? アンリ・ポアンカレ、最近の世代の最も偉大な数学者の一人は、空間の概念は、彼の筋肉の運動の経験を彼自身に説明するための幻想的(そして明らかに無意味で漠然とした)努力の中で狂人によって考え出されたと考えた。そのずっと以前に、カントは我々に、空間は主観的であり、思考の必要条件であると語っていた。そして、誰もがこれに同意しなければならないのに、それがそれについて我々に多くを伝えてくれないことは明らかである。
     これから我々の精神を詳しく調べ、もしいくらかでもあれば、我々が空間について形成できる概念が何であるかを見てみよう。空間は明らかに連続体である。それは完全にその場所であるため、それのいかなる断片の間にも差異はありえない。それは全ての意識の純粋な背景、可能性の領域、本質の状態などである。従って、それはそれ自体において完全に虚無である。そうなのですか、皆様?
     ここで、我々はこれらの可能性の一つを達成したいとしよう。我々が取り上げることのできる最も単純なものは点であり、我々は、点は部分も大きさも有さず座標だけを有すると言われていた。しかし、そこに一つの点しかない限り、座標は何も意味しない。未だ何らかの肯定的な意見は生み出される見込みはない。従って、我々は二つの点を取るであろうし、そしてこれらから線分の概念を得る。我らがユークリッドは我々に、線分は長さを有するが幅を有さないと伝えた。だが、二点しか存在しない限り、長さそれ自体は何も意味しない。或いは、精々、区分を意味するくらいである。我々が二つの点について言うことのできる全ては、二つがそこにあるということだけである。
     ここで、我々は三つめの点を取り、ようやくより実証的な概念に至った。第一に、我々は平面を有しながらもそれ自体においては依然として意味がなく、そこに二つの点しかない時、長さと同じように何も意味しない。しかし、三つめの点の導入は、我々の長さの概念に意味を与えた。我々は線分ABは線分BCよりも長いと言うことができ、我々は角度の概念を取り入れることもできる。
     第四の点は、それが元の平面にないことを条件として、我々に立体の概念を与える。だが、それを比較する他の立体が存在しないため、これまでのように、それはそのような立体について我々に何も伝えない。それが単なる瞬間的な幻影の類であるため、それはそれが位置するところでは全く立体ではないことを我々は理解する。我々が目標の代わりに時間を持たない限り、我々は何かを観察するどころか想像することもできない。
     それでは、時間とは何なのか? それはちょうど空間と同じほど儚い幻想であるが、あるものともう一つのものの間の区別の可能性は、三つの異なる方法においてではなく一つの方法によってしか生じることができない。我々は順序の概念によって調子を合わせて二つの現象を比較する。今、これが全く無意味であることが諸君全員に対して全く明らかになるであろう。可能な限り単純な対象を考えるために、たとえ発明の晴れ舞台において非現実的と看做されるとしても、我々は概念を発明し続ける必要がある。我々はどのようにして支離滅裂な幻想の世界から感覚で作られた普通の世界へ逃げ出すのか? 当然、我々はかなり多くの想像力の働きを必要とするだろう。我々は我々の数学的観念に、ヒンドゥーの哲学者達がサット、チット、アーナンダ【訳註1】と呼び、通常、〈存在〉、〈知識〉、〈至福〉と翻訳される三つの観念を与えなければならない。これが実際に意味することは次の通りである。サット、実在するように対象を思い描く傾向。チット、それが知識の対象であると見せかける傾向。そしてアーナンダ、我々がそれによって影響されていると想像する傾向。
     我々が体験の最も単純な対象に到達することでさえ、存在が完全な幻影であるばかりか不条理で理不尽で自己矛盾した観念であるというこれらの多数の想像上の特性を我々が対象に与えて初めてのことである。そしてもちろん、この対象は常に増大されなければならない。さもなければ、我々の経験は記述できない単一の対象に限定される。
     我々があらゆる種類の異なる方法における我々の体験の異なる対象を比較するため、我々はまた、我々の悪夢の創造に及ぼす神的な力めいたものを我々自身に起因するものと考えなければならない。ちなみに、(結局のところ)我々が始めたのは絶対的な〈無〉であったから、対象を増加させるこの最後の操作は明らかに無効であることを示す。この内、我々はどうにか一つではなく多くの獲得を成し遂げた。しかし、全てのことに関して、我々の手順は我々の知的機構の必要な操作に従っている。その機構は我々が有する唯一の機構なので、我々の議論はこの機構の性質に何らかの意味で他の適合した有効なものでなければならない。機構とは? それは完全に実在物である。それは数えきれないほどの部品、力、そして能力を含む。そして、それらはそれが創造した外界の宇宙と同等の悪夢である。とんでもない、あなた、パタンジャリは正しいのです!
     今、我々はどのようにしてこの〈無〉から来る何らかのものの困難を乗り越えるのか? 我々が〈無〉によって何を意味するかを調べることによってのみである。我々はこの観念が通常の精神にとって全く想像を超えていることを理解するだろう。と言うのも、もし〈無〉が〈無〉になるとしたら、それは可能な限りの方法において〈無〉とならなければならないからである。(無論、これらの方法のそれぞれはそれ自体が想像上の何かであり、それらのアレフ=ゼロ【編註1】――超限数――がある)。たとえば、もし、我々が〈無〉は四角い三角形であると言ったら、我々はそれを言うために四角い三角形を発明することが必要である。しかし、より卑近な例を挙げる。我々は「猫達がその部屋にいる」という発言によって我々が何を意味するかを知っている。我々は我々が「その部屋にいる猫達はいない」と言う時に我々が何を意味するかを知っている。だが、もし我々が「猫達がその部屋に《いない》ということは《ない》〔NO cats are NOT in the room〕」と言えば、我々は明らかに《何匹か》の猫達がその部屋に《いる》ということを意味する。この発言は、この優秀な聴衆に非難を加えるために意図されたものではない。それだから、もし〈無〉が本当に絶対的〈無〉を意味するのでないならば、我々は〈無〉が存在の範疇に入らないということを意味する。絶対的〈無〉が存在すると言うことは、存在する全てが存在すると言うに等しく、古の偉大なヘブライの賢人達は、現実の最高の観念から成る称号を与えることでこの事実を書き留めた(我々が既に示されていた彼らの背後にいる部族神イェホヴァ〔Jehovah〕は、いと高き方――デミウルゴス【訳註2】においてさえ、最も単にヨガの四要素であるに過ぎない)。
     エヘイエ・アシェル・エヘイエ〔Eheieh-Asher-Eheieh〕――我は有りて有る【訳註3】。
     もしこの中に何らかの意味があるとしたら、我々はほとんど同じ思考体系を世界中で見つけることを期待できるだろう。この神学についてはヘブライの専売特許ではない。たとえば、我々はゾロアスターと新プラトン主義者の教義において、非常によく似た発想を見出す。我々は、あらゆる可能性の背後にプレローマ【訳註4】、虚無を有し、これは、七柱の惑星神、アラトロン、ベトール、ファレグその他【訳註5】に相当する七柱の下級神【訳註6】を順々に使役する光の至高神によって満たされる。それらの順番におけるこれらは物質を創造するためにデミウルゴスを任命する。そして、このデミウルゴスがイェホヴァである。古代ギリシャ人と新プラトン主義者の発想はどちらもそう変わらない。調べてみると、用語における相違は、思考における地域の都合の違いだけではないように思われる。しかし、これらは全て依然として古代エジプト人の古い宇宙創生論に回帰し、我々はそこに空間であるヌイト、視点であるハディト【訳註7】を有す。これらの体験は集合し、それにより、ラー・ホール・クイトとホール・パール・クラート【訳註8】の観念の結合であるヘル・ラ・ハ【訳註9】を生み出す。これらは我々が知るヴァウと最終形のヘーの双子【訳註10】と等しい。生命の樹の体系の明らかな起源がここにある。
     我々は純粋な知的検討によってこの体系に到着したのであり、そしてそれは批判に対して開放されている。だが、今夜、諸君に注意を喚起したい点は、それがサマディの体験を反映する精神の偉大な段階の一つに密接に照応するということである。
     私の内的生活において基本的重要性を持ち、私の魔術日記において生み出されて絶えず参照される奇妙な性質の幻視がある【訳註11】。私が知る限り、この幻視の現存する記述はどこにもなく、私は自分の記録を見て、私がそれに私自身で明確な説明を与えていないことを理解し、驚いた。或いは、人が一対の肺を具えているということを誰もが知っていると看做すように、私が無意識の内にそれを一般知識の問題と看做すということが私自身の一部に必要であるという理由は、従って、その事実に率直に言及することを控えるのだが、多分その問題をしばしば十分に仄めかしているかもしれない。
     言語の困難と論理的矛盾を伴う現象であり、意識の状態が正常に獲得できる以外のものである事実を考慮して、この幻視を可能な限り記述することは非常に重要であると思われる。
     その幻視は徐々に明らかになった。私がそれがどの時期に完成と呼ばれることになるのかを言うことのできないくらいにそれは何度も繰り返された。しかしながら、始まりは私の記憶の中で十分はっきりしている。
     私はニューハンプシャーのパスカニー湖を見下ろす別荘で魔術的大隠遁【訳註12】をしていた。私は一切の意識を喪失したが、無数の輝く点を有する宇宙空間があり、これがその本質的な構造と私が呼ぶことのできるものである宇宙の物理的表現であることに私は気づいた。私は絶叫した。「〈無〉だ、輝きと一体化している!」【訳註13】私がこの幻視に集中したその結果、それの主な要素である虚空は重要性を減じることになった。空間は燃え立つように見えたが、それにもかかわらず輻射点は混乱されておらず、そして私は絶叫と共に私の文章を完成させた。「しかし、何という〈輝き〉だ!」
     この幻視の次の段階は、観念、魂その他の、大空の星々と一緒になった燃え上がる点々の識別へと導いた。私はそれぞれの星がそれぞれ別の星と光線によって結ばれていたことも見抜いた。観念の世界において、それぞれの思考はそれぞれ別の思考との必要な関係を持った。そのような関係のそれぞれは、もちろん、それ自体における思考である。そのような光線のそれぞれはそれ自体が星である。最初の論理的困難それ自体が出現するのはここである。予見者は無限級数の直接的知覚力を持つ。従って論理的には、それは空間全部が均質な光の輝きで満たされなければならないかのように思われるだろう。しかしながら、これは当て嵌まらない。空間は完全に満杯であるにもかかわらず、それを満たす単子は完全に区別できる。普通の読者は当該の陳述が精神的混乱の徴候を示すということをよく叫んだかもしれない。主題はより大雑把な試験を要求する。それに従う一定の立場と同様、上記の立場が徹頭徹尾正当であるかというバートランド・ラッセルの『数理哲学入門』Introduction to Mathematical Philosophy〕を批評家に参照させる以上のことが私にはできない。
     私は諸君に、解剖学者によって記述されたような神経系を具えたこの宇宙的体験の驚くべき最終的な同定に注目することを特に望む。
     この時点で我々は、我々が客観的宇宙と呼ぶものと、我々が主観的体験と呼ぶものとをもう一度考慮するように導かれることになるだろう。〈本質〉とは何か? 観念論の画期的な体系の基礎を築いたイマヌエル・カントは、おそらく空間、時間、因果(要するに、存在の全状態)が実際には思考の状態以上のものではないことを明確に証明した最初の哲学者である。私は、可能な限りの全ての述語を非常に多くの次元として定義することによって、より簡単に表現することを試みた。対象を正しく説明するためには、四次元の時空連続体においてその座標を決定することは十分ではないが、我々はそれがどのようにして全ての分類と尺度、その全ての可能性の「種類」の基準において有効であるのかを調べなければならない。我々は、その新鮮さ、その硬度、その流動性その他に関するそれについて何を知っているのか? その上、我々は、我々がその対象の説明となると想像していることは、実際は全くそのようなことがないということを解明する。
     我々が記録した全ては我々の道具の動作である。我々の望遠鏡、分光器、そして天秤は我々に何を伝えたのか? そしてこれらはまた、我々の感覚に依存する。我々の道具の、我々の感覚器官の実在に関しては、最も遠隔な現象と同じくらいに説明と証明を必要とする。そして我々は、我々が知覚する一切は「それを知覚するという我々の性質のために」我々によって知覚されるに過ぎないとの結論を強いられるということを我々自身で理解する。それから我々は仏教の偉大な修練の第四段階、マハー・サティパッターナ【訳註14】において、我々をしつこく苦しめる〔badger〕【訳註15】これらのうんざりするほど続く襲撃の巣穴から抜け出す代わりに直接且つ即座に我々がこの事実に気づく、ということを体験するであろう。カント自身は彼の流儀で言う。即ち「自然の法則は我々自身の精神の法則である」と。なぜ? 我々が認識できるのは精神自体の中身ではなくその構造に過ぎない。だがカントはこの程度にも進まなかった。もし、今までに彼の攻撃における最後の言葉が「理由そのものが唯一の実在である」であると彼に突き付けられていたとしたら、彼は非常に驚愕しただろう。更なる調査をしてみると、この窮極の真実でさえ、結局は無意味であることがわかる。それは春本のよく知られた循環定義のようなものであり、それは次の通りである。即ち、そのような観念がそのような種類の書物によって刺激されるような人の精神における特定の観念を刺激する。
     私は、我がすばらしい司会者が欠伸を堪えて笑顔を作るために努力していることと、私が幾分か悪意のある印象を得たと発言することに関して彼が私を赦すつもりであることに配慮する。だが、彼がそれに関して傲慢になるのも当然のことである。これらは確かに「何という馬鹿な話だ、エールハウスで主婦達を楽しませるお喋り〔old, fond paradoxes to amuse wives in ale-houses〕」【訳註16】である。哲学が始まって以来、諸君の公理が不条理であることを証明することは常に絶好のゲームであった。
     諸君は、これらの愚劣な娯楽に耽溺することに関し、とりわけ、私が現実的な科学的観点からこれらの主題を取り扱うと保証することから始めた時に、私に対して当然ながら苛立つであろう。もし私がこれらの交錯した思考の輝く蜘蛛の巣を弄ぶことがあったら、私を赦してくれ! 私は諸君のためにそれを徐々に壊していこうとしているだけなのである。私は続いて、百合のように白い我が手を一振りして、根拠が乏しく、薄靄のようなこのガラクタ、「夢から出来上がったようなかかるガラクタ」を解消する。
     一般的な読者のためには、我が良き旧友J・W・N・サリバン【訳註17】が後期に書いた『現代科学の基礎』〔The Bases of Modern Science〕よりも良い導入はない。私はこの称賛に値する書物から長すぎる引用をして諸君を待たせることを望まない。私はむしろ諸君が諸君自身で読むことでそれを理解することを望む。諸君は諸君の時間をより良く使えそうもない。しかし、我々は、幾何学上の問題に関する彼の発言に少しだけ時間を費やそう。

    「ユークリッド幾何学に基づくニュートンの方程式が重力の現象を説明するのに不十分であるという発見によって、我々の主観的存在としての空間の概念は完全に混乱している。我々にとって直線を考えることは本能的である。それは何らかの形で公理的である。だが、これが客観的宇宙に存在しないことを我々は学ぶ。我々はもう一つの幾何学、楕円幾何学の一種であるリーマン【訳註18】の幾何学を用いなければならない(無論、それらを構築するための不合理な公理と同じくらい多くの幾何学体系がある。三本の線は一つの楕円を作る。諸君の好きな不条理なら何でもよい。諸君はそれの辻褄が合っている限りは誤りのない幾何学を構築することができる。そして、結果については正しいも間違いもない。唯一の問い。それは即ち、現象を説明する目的のために何が最も便利な体系であるか? 我々は洗練されていない重力の観念を発見した。我々はリーマンを頼った)」

     これは現象が平面から成る背景に対して起こっていないことを意味する。面自体が湾曲している。我々が直線と考えていたものは、全く存在しない。そして、これは想像することがほとんど不可能である。少なくとも、自分自身が視覚化することはまるで不可能である。それに取りかかる最も手近なものは、諸君が光沢のあるドアノブに鏡写しになるのを想像する試みによる。
     一九〇〇年、アインシュタインの世界を揺るがす論文が登場する四年前に、私が空間を「有限でありながら無涯」と記述したこと、ちょうど大雑把に言えば彼がそれにより数学的な詳細【編註2】を与えたということを私が諸君に伝えなければならないことで、私は世界に対して気まずい思いをするところだった。諸君はこれらの三つの語句が曲線幾何学を説明することを直ちに理解するだろう。たとえば、球体は有限の物体であるにもかかわらず、諸君は一度たりとも終点に達することなくあらゆる方向に表面上を進むことができる。
     私はリーマンの幾何学は自然現象を説明するのに全く十分でなかったことを上述した。我々は連続体の様々な部分における様々な種類の曲率を求めなければならない。そして、それでも我々は幸せではない!
     ここでサリバンをもう少し!

    「時空間の様々な部分における様々な弧度を認める余地のある幾何学は極めて一般的である。この曲率は重力効果に起因する。従って、時空間の曲率は大質量の周囲で最も顕著であり、その理由はここで重力効果が最も際立つからである。もし我々が物質を基礎として取り上げるならば、我々は時空間の曲率を惹き起こすものは物質の存在であると言うであろう。だが、時空間の曲率によるものとして物質を考える異なる学派がある。換言すれば、我々は、我々が物質と呼ぶものとして我々の感覚に現れる時空連続体を基礎として仮定する。どちらの視点もそれらを推奨する強力な根拠を有す。しかし、物質が時空連続体の幾何学的特性から生じうるかどうかにかかわらず、我々はそこから重力が導き出されるという確立された科学的事実としてそれを取り上げることができる。これは明らかに非常に偉大な成果であるが、それは全く手つかずの別の大きな現象の類、即ち電磁的現象をそのままにしている。アインシュタインのこの時空連続体において、電磁力は全く異質であるように見える。重力は、言わばリーマン幾何学の中に取り込まれ、重力現象に関する限り、力の概念は撤廃されている。しかし、電磁力はまだ影響を受けずに活躍している。それらが時空連続体の幾何学的特性の権限であるという示唆はない。また、それはリーマンの幾何学の何らかをそれらに関連付けることが不可能であることを示すことができる。重力はある種のリーマン的時空連続体の幾何学的特性に合致することを示すことができる。しかし、電磁力は完全にこの構想の蚊帳の外である」

     数理物理学がその中毒者を導いた巨大な泥沼がここにある。ここで我々は現象の二つの種類、物理学の統一の全てを有する。だからと言って、ある種類を記述し説明する方程式は、他の種類のそれとは互換性がない! これは哲学の問題では全くなく、事実の問題である。宇宙が粒子から成ることは考慮することはない。そのような仮説は一つの現象の種類の基礎を成すが、電磁気方程式に適用すると無意味であり、それは波動のそれに関する粒子の概念を放棄することを主張する。
     ここに夕食のためのウェルシュ・ラビット【訳註19】がある!

    「アインシュタインの有限宇宙は、その半径がそれにおける物質量に依存するようなものである。より多くの物質が創造されれば、宇宙の体積は増加するだろう。物質が消滅すれば、宇宙の体積は減少するだろう。物質がなければ宇宙は存在しないだろう。従って、単なる空間の存在は、その計量的特性の他に、物質の存在に依存する。この概念によって、回転を含む全ての運動を純粋に相対的なものと看做すことが可能となる」
     我々はここからどこへ行くのか、少年達よ?

    「物理学の現在の傾向は、想像を絶する存在間の数学的関係の観点から宇宙を記述することに向かう」

     我々は、ケルビン卿【訳註20】のあまりにも頻繁且つあまりにも不当に引用された、彼が力学モデルを構築できなかったものを何も想像できなかったという発言からは距離を取っている。ヴィクトリア朝の人々は、実際にはバークレー司教【訳註21】の観念群が間抜けなろくでなしの酒浸りの頭脳〔grey cells〕の表層に浸透する時にジョンソン博士【訳註22】の吐き気を催す痴愚者が地団太を踏むのを真似する傾向が少しある。
     ここで私は、よろしいか、我々が恒星間の距離を計算したという苦労をよく考慮し、G・N・ルイス教授【訳註23】の見解を聞くことを諸君に求める。

    「[彼は]光線によって二つの原子が結び付けられることが実際の物理的接触と看做されうることを仄めかす。光線の両端の「間隔」は、相対性理論上のゼロであり、ルイス教授はこの事実が真剣に扱われるべきであると示唆している。この理論では、光は全く伝搬されない。この観念は、我々が何もない空間における光の通過を確かに観測できないという理由から、科学理論を構築する際には観察可能な要因以外を使用すべきではないという原則に従う。我々はそれが物質にぶつかった時にだけ光を認識する。物質に衝突しない光は純粋に仮想的である。もし我々があの仮説を立てなければ、その結果、何もない空間は存在しない。ルイス教授の理論では、我々が遠くの星を観測する時、我々がそれを押した時に我々の指がテーブルに接触するように、我々の目は実際にあの星と物理的に接触している」

     それで、諸君全員は、私の議論が堂々巡りをしていると思わなかったか? 私は諸君にそのように語ることに最大の苦痛を感じていたので、私はもちろん諸君がそう思ったことを願う。しかし、それはサリバン氏の著書における議論の核心ではない。それは事実の問題である。彼は人間的価値について話していた。彼は科学がそれらを認識できるかどうかを問いかけていた。ほら、彼がここに来る、偉大な指導者が! 喝采せよ、我が戦友に、喝采せよ!

    「しかし、首尾一貫した唯物論者はおそらく常に稀であったが、人間研究で重要な事実は、科学がその宇宙の記述に価値を含める必要を見出さなかったということを残したままであった。と言うのも、科学は、この省略にもかかわらず閉鎖系を形成したように思われるからである。もし価値が現実の不可欠な部分を形成するのであれば、科学にそれらを無視する現象の一貫した説明を与えることができなければならないということが奇妙に感じられる。現時点において、この困難は二つの方法で満たされている。一方では、科学が周期的定義の考案によってそれ自身の領域の内側に留まっている、換言すると、それが始まる抽象概念が今までに語られたことばかりであることが指摘される。それは現実との斬新な接点を作らず、それゆえに、何らかの妨げになるかもしれない要因に出くわすことは決してない。この観点は、特にエディントン【訳註24】によって採用されたある種の概要説明から、相対性理論に由来する。この理論は閉じた輪〔closed circle〕を形成する。理論の主要な用語、「事象点〔point-events〕」、「潜在的作用〔potentials〕」、「物質〔matter〕」(等々――それらの内の十個がある)は、その輪の円周上の様々な点に位置する。我々はどこからでも出発して輪の周りを回ることができ、つまり、これらの用語のどれからでも我々は他のものを推論できる。理論の主要な構成要素は互いに定義され合っている。この演習課程において、我々は物理学で学んだ〈自然〉の法則を導き出す。演繹の連鎖の特定の時点で、たとえば「物質」では、我々は、我々が我々の抽象概念の客観的で具体的な化身という何かについて話していると判断する。しかし、物理学において起こるような問題は、特定の抽象概念の集合以上のものではなく、それに続く我々の推論はこれらの抽象概念のみに関係する。客観的現実が保有するであろうような他の特性が我々の構想に入り込むことは決してない。だが、相対性理論における物質と呼ばれる抽象概念の集合は、我々の物質の科学知識全体に対して適切ではないように見える。量子現象が残っている」

     嗚呼!

    「つまり我々は彼女を置き去りにした、つまり我々は彼女を置き去りにした、
     彼女の浅黒い血族の放浪から遠く離れて――
     血族の放浪
     猩紅熱に、猩紅熱に浮かされて、
     猩紅熱の療養所」
    〔So we leave her, so we leave her,
     Far from where her swarthy kindred roam --
     kindred roam
     In the Scarlet Fever, Scarlet Fever,
     Scarlet Fever Convalescent Home.〕

     それで今は、悪魔が豚の中に入り込む可能性を疑わしいと推測するこれらの従来の不信心者に関して混乱させられた最近の報道における騎士道的な紳士にして最も尊き師であるカンタベリー大司教猊下にも劣らず、我々は科学的指導を行い征服された竜に遭遇した。しかしながら、慣習的な宗教的立場からであろうとなかろうと、また唯物主義の対極からであろうとなかろうと、我々は精神の問題を攻撃するが、その結果が全く同じであることを我々は理解していた。

     サリバン氏からの最後の引用である。

    「宇宙は最終的に不合理なものであるとわかるかもしれない。科学的冒険は放棄しなければならないかもしれない」

     しかし、それが科学について彼が知る全てである、彼のかわいらしい勇気に祝福を! 我々は諦めない。「お前は嘘をついた、ドルメーア〔d'Ormea〕、私は悔い改めたりしない」実験の成果は経験にとって未だに有効であり、調べてみたところ宇宙が結局のところ理解不能であると判明したという事実は、経験そのものが現実であるという我々の根深い確信を補強する働きしか為さない。
     高次の体験を獲得することが、それ自身の自明の保証の効力によって全ての思考に対して揺るぎない、解析を超越できる精神的機能を発見し開発することが、不可能であるのかどうか、その時、我々は自問するかもしれない。大白色同胞団【訳註25】(私がここでそれを代表する)の用語において、諸君は深淵を横断する。「動けなくなった哀れな難破船を置き去りにして」――ルアク【訳註26】――「そして」ネシャマー【訳註27】の「岸辺へと牽いていく」。深淵上に関しては、もし諸君が『春秋分点』第一巻第五号の〈附録〉を研究すれば理解するであろうように、観念はそれがそれ自身の内にその矛盾を含有する限りにおいて真実であるに過ぎないと言われる。
     なぜならばそれらは分析の影響を受けにくいため、なぜならばそれらは構成要素を持たないため、なぜならばそれらはそれらの非常な〈不条理〉の効力によって存在するため、こうしてサムヤマの実に重要な諸成果を構成するそのような精神状態は、そしてこれらの成果は、哲学的思索によって破壊されない――「不可能ゆえに確かなり!〔certum est quia impossible est!〕」【訳註28】それらは表現することができない、と言うのも、それらが知識を超越するからである。固有の手法によるそれほど重要でない体験に慣れ親しんだ他者に、我々はある程度、我々の経験を伝えることができる。そして、これは、人に対する〈神〉の言葉であるヨガに関する有益な作業――錬金術、魔術等々――教条的ではなく象徴的な――がなぜ〈詩〉と〈芸術〉に与えられているかを説明する。
     私の次の講義においては、私はこれらの成果を得る技術を少し深め、そして更に、下準備の道筋で起こりそうな事柄の類についてのより詳細な説明を行うよう努めるつもりである。

     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    編註
    1 我々はもしかすると、これもまた無理数と同じように考えるかもしれない(即ち、√-1)。
    2 『タンホイザー』一九〇〇年八月、メキシコのO・F【訳註29】にて執筆、一九〇一年四月にデリーで書かれた我が『ベレシト』も見よ。〔Tannhauser, written in Mexico, O.F., August, 1900. See also my Berashith, written in Delhi, April, 1901.〕

    訳註
    1 Sat, Chit, Ananda 即ち存在、知識、歓喜はインドの哲学的概念であり、ヴェーダーンタやアドヴァイタ或いはバラモン教やヒンドゥー教などに見られる。真我であるアートマンに達して梵我一如の境地に至った者が認識する窮極の実存の構成要素とされる。
    2 Demiourgos は元々はプラトンの『ティマイオス』に登場する造物主であったが、やがてグノーシス主義に導入された。当然、人間よりは高位の存在だが、窮極の存在ではなく、それに傅く下級神の一種、神と言うよりは上級の天使に似た存在。愚劣な偽神とされるヤルダバオート Jaldabaoth という名のデミウルゴスが知られ、グノーシス主義者の間でアブラハムの宗教における唯一神と同一視される。
    3 『出エジプト記』第三章第十四節における神の自己紹介。なお、Eheihe は「我有り」を意味し、魔術カバラではケテルのアツィルトに照応する。
    4 pleroma はグノーシス主義における霊的高次世界。真の神々が住まうとされる。
    5 archons は archon の複数形。デミウルゴスを始めとするグノーシス主義における下級の神々。真の神々の配下として働くため、位置付けとしては天使に近い。
    6 西洋魔術で言うオリンピア霊。七惑星に照応し、土星のアラトロン(Aratron, Arathron)、木星のベトール(Bethor)、火星のファレグ(Phaleg, Phaleg)、太陽のオク(Och)、金星のハギト(Hagith)、水星のオフィエル(Ophiel)、月のフウル(Phul)から成る。詳細は手前味噌ながら『近現代西洋魔術資料集』を参照。
    7 Nuit と Hadit(Hadith) はエジプト神話を出典とする神格であるが、クロウリーのセレマ体系における主要神格でもある。ヌイトが女性原理と無限空間と円周を象徴し、ハディトが男性原理と極小点と中心を象徴する。二柱が宇宙の構成要素であり、その交合が息子であるホルス乃至ラー・ホール・クイト及びホール・パール・クラートを産む。
    8 Ra-Hoor-Khuit, Hoor-paar-Kraat はセレマ体系の神話におけるヌイトとハディトの子供である双子の神であり、ホルスの両側面を示すとされる。ラー・ホール・クイトは戦争と復讐の神であり、ホルスの内向的側面に当たる。ホール・パール・クラートは沈黙の神であり、ハーポクラテスとも呼ばれ、ホルスの外向的側面に当たる。
    9 Heru-Ra-Ha はラー・ホール・クイトとホール・パール・クラートが結び付いた二重神であり、ホルスと同一視される。
    10 第二部第一講で取り上げられた聖四文字の家族関係において、息子と娘は双子の兄妹とされるが、更に両者は聖なる結婚によって新たな父と母になる。この理論は『魔術――理論と実践』の他、『トートの書』等、クロウリーの著作の各所で仄めかされる。
    11 以下に描写されるのはいわゆるパスカニー湖の幻視のことであろう。パスカニー湖の幻視については「THE "STAR-SPONGE" VISION」と題して『The Confessions of Aleister Crowley』八十二章に収録されており、参考情報三に「「星型海綿」の幻視」として訳出してある。
    12 Great Magical Retirement は通常、大いなる魔術的隠遁乃至魔術的大隠遁と訳される。魔術作業を目的として一定期間に亘って俗世を離れて過ごすことを言う。
    13 この原文は Nothingness, with twinkles! なのだが、文献によってカンマの有無が異なる。たとえば、訳註11で提示した出典には、本書の記述と異なりカンマがない。今回はカンマによって文節が区切られたものと解したが、もしカンマがなければ「輝く〈無〉」乃至「輝きを伴う〈無〉」などと訳せる。「参考情報三」の訳註3も参照。
    14 maha-satipatthana は仏教における観想法の一種。クロウリーはおそらく『大念処経』のことを念頭に置いたのであろう。
    15 badger には穴熊という意味もあり、一種の掛詞である可能性がある。
    16 シェークスピア『オセロ』第二幕のパロディかもしれない。
    17 John William Navin Sullivan. 英国の科学ライターにしてリテラリー・ジャーナリスト。二十世紀初頭に活躍し、クロウリーとも交流があった。
    18 Georg Friedrich Bernhard Riemann. 十九世紀ドイツの数学者。リーマン幾何学を確立した。
    19 英国のチーズトーストの一種。溶かしたチーズに香辛料や牛乳等を混ぜてトーストにかけたもの。
    20 William Thomson, 1st Baron Kelvin は十九世紀に活動したアイルランド生まれの英国の物理学者。絶対温度の単位ケルビンの由来。
    21 George Berkeley は十七世紀から十八世紀のアイルランドの哲学者にして聖職者。世界は観念から成ると主張した。
    22 Samuel Johnson は十八世紀の英国の文学者であり、『英語辞典』の編纂者として知られる。
    23 Gilbert Newton Lewis は十九世紀後半から二十世紀前半、クロウリーと同時代を生きた米国の物理化学者。光子 photon の命名者であり、相対性理論に関する研究もある。
    24 Sir Arthur Stanley Eddington は十九世紀後半から二十世紀前半、クロウリーと同時代の英国の天文学者。相対性理論の研究でも知られ、英国に相対性理論を紹介する役割を果たした。
    25 Great White Brotherhood は大いなる白き同胞団、グレートホワイトブラザーフッドなどと訳される。神智学に由来する近代に発生した比較的新しい概念であり、様々な方面で使われる。近代西洋魔術で言うところの第三団に相当する段階に達した超人的存在によって構成され、人類に霊的な指導や啓発を与えているとされる。
    26 Ruach はカバラにおける人間の意識の階層乃至構成要素の一つ。人格や自我や知性に相当し、動物的意識であるネフェシュ Nephesh の上、神的意識であるネシャマー Neschamah の下に位置する。
    27 Neschamah は神的意識を指す。訳註26参照。
    28 テルトゥリアヌスの言葉。「不条理なるが故に我信ず Credo quia absurdum」という形で引用されることが多いが、クロウリーの引用が原形に近いとされる。
    29 Distrito Federal 即ちD・Fの誤記の可能性がある。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第二部第一講

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第二部 臆病者達〔yellowbellies〕のためのヨガ
             第一講


     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。

     私の最初の四講によって取り上げられた領域を一通り続けることを通じて、我々は今晩始めよう。ヨガは結合を意味し、この結合は全ての現象の原因であった、と私は諸君に語った。神秘的感覚と神秘的刺激の連動から意識は生じる。これらの所見の主題であるヨガの種類は、単にこれの拡張であり、宇宙と自己意識の結合である。
     我々はヨガの八支則を語り、肉体的訓練と経験に言及する四つのものを取り扱った。
     残りの四つは精神的な訓練と体験を取り扱い、これらはその後の所見の主題を形成する。
     我々がこれらの詳細を取り扱う前に、数学的或いは魔術的見地と呼ばれるであろうものからヨガの術式について考察することが参考になると私は考える。この術式は私の教本の『魔術』第三章「〈テトラグラマトン〉の術式」【訳註1】に記述されている。この術式は魔術的操作から成る宇宙全体を取り扱う。普通イェホヴァと発音されるこの語句は、〈口にすべからざる名前〉と呼ばれる。正確に発音された時、その振動が宇宙を破壊すると主張される。そして、我々がより深い解釈をする時、これはまさしく真実である。
     聖四文字〔Tetragrammaton〕は、その言葉の中の四つの文字からそのように呼ばれる。即ち、ヨッド、ヘー、ヴァウ、そしてヘー【編註1】。これは家族関係――ヨッドは〈父〉、ヘーは〈母〉、ヴァウは〈息子〉、そして最終形のヘーは〈娘〉(文章では、彼女は時に、文字に小さな点を打つことによって彼女の母と区別される)――になぞらえられる。これはまた、元素、火、水、気【訳註2】、地への言及でもある。私は更に進むために、全ての可能な既成物は、特定の操作の利便性のためにこれらの元素の一つ以上に関連するものとして分類される、と言う。しかし、これらの四文字、ある意味においてではあるが永遠の構造を象徴し、言ってみれば、原型ではない。たとえば、我々が生命の樹、十のセフィロト或いは数字の上に聖四文字を配置すると、我々は最初のセフィラーには組み込まない。ヨッドは二番目に属し、ヘーは三番目に、ヴァウは四から九までの組に、末尾のヘーは十番目に属す。第一はヨッドの頂点によって象徴されると言われる。
     我々が得る明示的宇宙である十番目に限定されたものは、名前の最初の三文字、能動的元素である火、水、気、他の諸力のヨガの成果としてこのようにして示された(これらはヘブライ文字の三つの「母字」である【編註2】)。最後の元素、地は、普通、三つの統合体の一種であると考えられる。だが、もし我々が宇宙の現実の全てを認めるのであれば我々は哲学的混沌の中にあるため、それはむしろ、それを考慮するのに不十分な手段である。しかしながら、これは現時点では我々に関係がない。
     我々がこれらの象徴をヨガに適用する時、我々は火がヨガ行者を象徴し、水が彼の瞑想の対象を象徴することを理解する(もし諸君が好むのであれば、諸君はこれらの帰属を逆転することができる。形而上学者を除き、それは何の差異も作らない。そして彼にとってほとんど大したことはない!)。
     息子ヴァウを生み出すため、ヨッドとヘーが結び付き、〈父〉と〈母〉が結合する。この息子は主体と客体の結合によって生み出された精神の高揚状態である。この精神状態は、ヒンドゥー教の専門用語でサマディ〔samadhi〕[三昧]と呼ばれる。それは様々な種類を持ち、絶え間なく絶頂が増大する。しかし、それはヨガの主題であるこの結合を暗示する一般的な用語である。この点において我々は、法悦――私は性的絶頂と言うべきか?――とその吸収であるかわいそうな幼い最終形のヘーを思い出さねばならない。即ちそれを相殺する埋め合わせ。私は、私自身を表現することがあまりにも難しいことを発見する。それは絶えず続く瞑想の結果として私の精神の中で非常に深く固定されるこれらの着想の一つであり、最終形のヘーの最善の翻訳は「静寂の中に上昇する法悦」であると私が言う時、私が全く弱々しい存在であることを私は感じる。教訓。即ち、諸君自身を瞑想し、それを解決せよ! 最終的に、他の方法はない。
     ヨガ的過程と性的過程との間に存在する類比の正確さを強調するために、我々が厳密な科学的観点からヨガを研究しているので、私はそれが非常に重要であると考える。もし諸君が生命の樹を見るならば、諸君は頂点の〈一番目〉はそれ自体が〈二番目〉と〈三番目〉、同等且つ反対の〈父母〉の中に分割され、それらの結合は〈息子〉、〈ヴァウの集合体〉の複雑性を結果としてもたらす傍ら、象徴全体は〈娘〉の最終形のヘーの単一のセフィラーの中でその単一性を取り戻す。
     それは生物学において全く同じである。精子と卵子は、生物学的に見てその単純な機能の中にある不明瞭な単細胞の分離でありながら、それはそれ自体の潜在的形態の中に全ての原始的な単細胞の可能性を含む。それらの結合は、子供の中にこれらの性質の発現をもたらす。それらの潜在力は、時間と空間の観点において表現され且つ成長させられる一方で、結合の活動に付随し、それらの子孫の産出のための必要条件であるそれらの消滅の意識から成る自然な結果である法悦である。
     情熱の成長、それに付随する飢餓、満足感によってもたらされる激烈な救済と歓喜から成る人間の通常の経験からの類推によってこの命題を発展させることは容易であろう。私はむしろ、全ての真正な宗教は部族生活におけるこの宗教的儀式の単なる有用性だけではなく、今夜、私が諸君に説明するこの真の意味でのヴェールのように、芸術的であり、劇的であり、性的過程の象徴を持つという事実を考えることを好む。人生における全ての体験は、より深遠な人生の真正な体験の象徴として看做されるべきであると私は考える。〈神殿の首領〉の誓約にはある条項が存在する。「私は全ての出来事を我が魂への神の特別な取り扱いとして解釈する」
     平凡な知性を持つ人物によって容易に理解可能な言葉でその着想を表現する〈偉大な結社〉を批判することは我々には不要である。我々は言い回しの形而上学的意味合いを無視し、その明白な意味を把握しなければならない。だから、全ての活動はヨガの活動であるべきである。そして、これは我々が今まで後回しにしてきた課題へと我々を直ちに先導する――集中。
     集中! 性的類推は未だ我々に奉仕する。諸君はブラウニングの神父【訳註3】を憶えているか? 〈愛の法廷〉を統括するよう頼まれ、この称賛に値する判決の中で、彼は情熱が全く価値を持たなかった対象の女に賞を贈った。

    「一つへの、そして一つ限りの、
      語られる愛
     おそらく獲得するかのように恐ろしく思われる
      〈神〉の選択」
    〔The love which to one, and one only,
       has reference
     Seems terribly like what perhaps gains
       God's preference.〕【訳註4】

     それはありふれたことであり、状況次第では(たとえば、心の汚れたアングロサクソンの中に常に見られるような)恋人達は狂人であるという冗談の一種である。彼らの命令の全ては彼らの情熱のための奉仕を強いられている。全ての犠牲の類、全ての屈辱の類、全ての不快感の類――これらは全て物の数に入らない。全ての活力は張り詰めて捻じれており、全ての活力はその終焉という単一の目標に向けられている。瞬間的な分離の苦痛は耐えがたいと思われる。成就の喜びは表現できない。確かに、耐えることはほとんど不可能である!
     今これはまさにヨガ行者がすべきことである。全ての書物――それらはその他全ての点に異議を唱えるが、それらはこの愚行に同意する――は、時に思慮深い立場で、より頻繁に偏見と迷信の立場で、彼はあれこれを諦めなければならない、と彼に教える。高度な段階において、人はその人をその段階に至らせたまさに美徳を放棄しなければならない! 着想と看做される全ての着想は、ガラクタで、重荷で、毒物である。しかし、これらの行為を犠牲の行為として表現することは全くの誤りである。その人が欲する何かから成るその人自身を奪うことに疑問はない。この過程は、その人の情熱の本当の対象の発見の幕開けの前の暗黒の中で、むしろその人が欲しいと思ったものを切り捨てることの学習である。 それゆえに、よく留意せよ! 集中は我々の道徳的義務をそれらの最も単純な言葉に要約する。教皇がどうした!【編註3】 もしニューバーグ風ロブスターが諸君の消化を乱すならば――同時に良好な消化が諸君の訓練に必要であるならば――その時、諸君はニューバーグ風ロブスターを食べてはいけない。これが明瞭に理解されない限り、ヨガ行者は宗教的且つ道徳的な狂信者の啓蒙によって絶えず脱線させられる。大司教など糞食らえ!【編註4】
     諸君はこの種の課程に取り組むことが入念な計画立案を必要とすることをあっさりと認識するだろう。諸君は人間として行うことが可能である限り、重要な期間について前以て諸君の人生を計画しておかなければならない。もし諸君がこの元々の戦略的処理に失敗するとしたら、諸君は単にこの戦役をやり遂げるつもりがないのである。予想外の付随事象が必ず発生し、従って予防策の一つは、思いも寄らない攻撃に対して投入するための底力の蓄積をいくらか有しておくことである。
     これは、もちろん、日常生活における単なる瞑想に過ぎず、それはヨガの実践のより深い集中から成る非常に厳格な課題のために人を準備させる上記の集中の習慣である。準備課程を受講するこれらの者達にとっては、彼らが程度の差はあれありふれた生活をする傍ら、『春秋分点』で提案された訓練よりも望ましいものはない。学徒に大作業のことを思い出させるための活動の確定された様式が存在するはず――存在するに違いない――である。
     主題の最高傑作は『アスタルテの書或いは緑柱石の書』〔Liber Astarte vel Berylli〕[第百七十五の書](『魔術――理論と実践』五百三ページ〔Magick, p. 390〕参照【原註1】)、〈特定の神〉への〈勤行〉の書である。この書物は称賛しきれないほどにすばらしく、語句の完璧な輝きを以て全ての細目における主題全体を批評している。その実践はそれ自体が帰依者を高次の達成に導くために十分である。これは少数者のためだけのものである。しかし、全ての学徒は一日に四回必ず(『レシュの書』〔Liber Resh〕[第二百の書]【原註2】で提案された方法において)太陽を礼拝すると共に、彼はガヤトリー・マントラ〔Mantra Gayatri〕【訳註4】を用いて月の出の際に月を礼拝しなければならない。最良の方法は、月を見てすぐにマントラを唱え、注意力が乱れるかどうかに気を配り、それが全く乱れなくなるまでマントラを繰り返すことである。
     彼はまた『第三の書或いはユゴルムの書』〔Liber III vel Jugorum〕(『魔術――理論と実践』五百四十九ページ〔Magick, p.427〕参照【原註3】)を熱心に実践しなければならない。この訓練の最重要点は、諸君が一日の中でかなり頻繁に無意識に繰り返される馴染み深い思考、言葉、または仕草を選択し、諸君がそれを用いることで背信するたびに、誂え向きの手段によって諸君自身の手首や前腕の上を鋭く切り裂くことである【訳註6】。
     その上更に、キリスト教の都市を歩く時に非常に有用であることを私が理解した実践がある――祓魔を行う(定められた形で四方八方に腕を振り回し、定められた言葉を以て。即ち「アポ・パントス・カコダイモノス」【原註4】)法衣を着る人物のそれ。
     これらの全ての訓練は集中を助け、人を警戒状態に留める役割をも果たす。それらは、それが繊細な、常により繊細になっていく、精神の運動の問題となる時、本物の集中の大仕事のための極めて有益な予備的訓練を形成する。
     我々はここで、ヨガの実践そのものの考察に取りかかるかもしれない。私の直近の講義から経過した二週間において、諸君がアーサナとプラーナヤーマの中で諸君自身を完成させたことを私は前提とする。諸君が毎日、硫酸で一杯の皿を諸君の頭の上で事故を起こすことなく十二時間に亘って平衡を保たせること、空中浮揚が起こらない時に諸君が皆、蛙のように忙しなく飛び跳ねること。そして、諸君のマントラが諸君の心臓の鼓動と同じくらい規則的であること。
     ヨガの残りの四支則〔four limbs〕は、プラティヤーハラ[制感]、ダーラナー[総持]、ディヤーナ[禅定]、そしてサマディ[三昧]である。
     私は一つ一つの行程で四つの定義を全て諸君に与えるつもりであり、それぞれは以下である程度説明する通りである。プラティヤーハラはおおよそ内観として説明されるかもしれないが、それはまたある種の精神的体験を意味する。たとえば、ハンフリー・デイビー卿【訳註7】がしたように、諸君は唐突に、宇宙が専ら思惟のみから成るという確信を得るかもしれない。或いは、もし我々がその先端に集中すれば我々の中で最高の者に起こるかもしれないように、諸君が鼻を具えていないという直接体験を諸君はしているかもしれない。
     ダーラナーは、それを明確化する、或いはその包括的理解を増大する意図を通じた主題の深遠な考慮から成る瞑想の類ではないが、目的のために選択された単一の想像上の対象に対する意識の実際の制限に適した瞑想である。
     これらのヨガの二支則は、従って、ある意味において、ヨガ行者によって採用される二つの手法である。その理由は、サマディの達成における成功のずっと後に、人は精神の深奥への最も広範な探険を実行しなければならないからである。
     ディヤーナという言葉は定義することが難しい。それは多くの著述家達によって全く反対の意味で使われている。この問題は私の『第四の書』の第一部で非常に詳細に議論されている。私は、私がそれに関する結論として書いた事柄を引用する――

    「我々は最終的な定義を試みよう。ディヤーナは多くの点でサマディと共通する。そこには自我と非我の結合があり、時空と因果の感覚の消失がある。あらゆる形態の二元性は破壊される。時間という観念は、二つの連続的なもの、二つの異なるものの空間、二つの関連するものの因果を内包する」

     サマディは、それどころか、ある意味では定義が非常に簡単である。語源学は、宗教的伝統の持続の支援の下に、ここで我々を助ける。サム〔Sam〕は、意味を変えることなくギリシャ語の接頭辞シン〔syn〕に発展したサンスクリットの接頭辞である――概要〔synopsis〕、統合〔synthesis〕、関連物〔syndrome〕のシン〔syn〕。それは「と一緒に」〔together with〕を意味する。
     アディ〔Adhi〕もやはり何世紀にも亘って沢山の舌に受け継がれている。それは人間の言葉の中で最も古い言葉の一つである。それは、それぞれの音がそれにふさわしい明確な意味、発声の際に筋肉の動作によって暗示される意味合いを持った時から始まる。かくして、文字Dは元来、「父」を意味する。だから、死して「〈神〉」とされた第一の父は、アド〔Ad〕と呼ばれた。諸君が『法の書』の中に見るように、この名前は変化することなくエジプトに伝わった。サンスクリットのアディ〔Adhi〕という言葉は、通常、「〈主〉〔Lord〕」と訳された。シリア語形においては、我々はハダド〔Hadad〕【訳註8】にそれを重ね合わせる。諸君はシリア王ベン・ハダド【訳註9】を思い出したまえ。主に関するヘブライ語の語句はアドン〔Adon〕或いはアドナイ〔Adonai〕である。アドナイ、我が主は、その名前を挙げるにはあまりにも神聖すぎるところで、或いは他の理由で書き留めることがふさわしくないところで、イェホヴァ【編註5】の名前を置き換えるために聖書の中で繰り返し用いられる。アドナイもまた、薔薇十字団【訳註10】の伝統を経て、聖守護天使【訳註11】、従って崇拝或いは集中の対象を意味するようになった。それは同じことである。崇拝〔worship〕はふさわしさ〔worth-ship〕であり、価値〔worthiness〕を意味する。そして、選択された対象以外のものは、必然的に無価値な対象である。
     ディヤーナもまた分割性の消滅の状態を意味するため、それとサマディの間を見極めることは少し難しい。私は『第四の書』第一部で書いた――

    「これらのディヤーナ的状態は平常の思考のものに反するが、サマディにおいてそれらはディヤーナにおけるよりも遙かに際立つ。そして、後者の最中においては単なる二物の結合のように見え、前者においてはまるで万物が一緒になって急いで結合するように見える。人はこう言うかもしれない、ディヤーナの中にはやはり潜在的な性質があり、一つの存在物は多くの非存在物と対立している、と。この定義は熟慮からではなく事実から成る」

     しかし、それは一九一一年に書かれ、それ以来、私は膨大な経験を獲得してきた。私はこの瞬間、ディヤーナは、前の講義で説明した蛙のような跳躍での〈空中浮揚〉よりも、むしろサマディの側に立つということを述べたいと思わせられる。換言すれば、ディヤーナはサマディへの不均衡或いは不純な接近である。主体と客体は無感覚へと上昇する法悦に伴って結合して消滅するが、その他、意識の新しい種類にはある種の説明がまだある。この見解においてディヤーナは、むしろ不用意に混ぜ合わせた火薬の爆発のようである。そのほとんどは爆発音と共に消え去るものの、そこには元の成分の屑が残る。
     三つの適切な瞑想の組全体がサムヤマ〔samyama〕という言葉で纏められているため、これらの議論自体はそれら自体においてあまり重要ではない。諸君はサム〔sam〕が「一緒に」を意味し、ヤーマ〔yama〕が「制御」を意味することを既に知っているので、諸君は諸君自身のためにそれを極めて巧みに翻訳することができる。それは、腕の別々の細胞、骨、静脈、動脈、神経、筋肉その他の全てが無意識の満場一致の中で単一動作を作り出すために結合するのとまさに同じように、小さな個別の制御行為群の統合を単一の所作の中に表現する。
     さて、プラティヤーハラの実践は正しく言えば内観であり、ダーラナーの実践は正しく言えば単一の想像上の対象への思考の制限である。前者は精神の活動であり、後者は全ての活動の停止である。そして、内観は我々が一定の距離を前進し、通常の理性的観念と全く異質な状態を洞察する時にのみ明らかにされる意識の基盤の探険を意味するため、諸君がダーラナーにおいて大きな進歩を遂げるまでは、諸君はプラティヤーハラで大変な成功を得ることはできないだろう。通常の思考の第一法則は、AはAであるという同一性の〈法則〉であり、それはそう呼ばれる。それで、我々は宇宙をAと非Aに分割することができる。第三のものはありえない。
     今や瞑想の訓練のかなり早期に、ヨガ行者はこれらの法則がいかなる窮極的な道程においても真実ではないという自覚を直接体験として得る可能性がある。彼は理性的観念が最早効果的ではない世界に到達した。彼らはまさに人生の日常の事柄に踏み止まるが、思考の通常の法則は単なる機械的装置以上のものと看做されている。因習の法体系。
     高等数学と形而上学の研究者は、しばしば、これらの事実のいくらかを僅かに察する。彼らの合理的な調査のより便利な実施のために、彼らは不合理な観念の使用を余儀なくされる。たとえば、二の平方根またはマイナス一の平方根は、それ自体ではそれ自体として理解することができない。それは原始人による彼の指を数える方法の発明を超えた思考習慣に関連する。
     学徒にとってダーラナーの最初の実践も更には同様である。もし彼がそうすれば、彼は副産物としてプラティヤーハラの成果のいくらかを得るであろうし、彼はプラティヤーハラの実践方法についてかなりの洞察を得るだろう。それはおそらく、プラティヤーハラはヨガの達成の本筋から離れていたかのように最初は聞こえるであろう。それは人がダーラナーとサマディの実現によって精神の中に確立された新しい状態に対処することができるため、これはそうではない。
     私は今、初歩的訓練を説明することができる。
     諸君はごく短期間から始めるべきである。諸君が使用している装置に負荷をかけすぎないことが最も重要である。精神は極めて緩やかに訓練されねばならない。初めの頃は、私はしばしば一度に一、二分で満足した。三、四分のこのような期間は一日に二、三回である。諸君が逃げ出すことができる全ての初期訓練は、それを行うことの困難さの暗示であるので、あらゆる最初期の段階においてアーサナで大成功を収める必要はない。
     私は黄色の四角形のような単色の単純な幾何学的被写体を取り込むことから始めた。私は『春秋分点』の正式な指導を引用する。

    「ダーラナー――思考の〈制御〉。
     一、想像上の単一の単純な物体の上にそれ自身を集中させるために精神を拘束せよ。五つのタットワ〔tatwas〕【訳註11】はこの目的に有用である。それらは次の通り。黒の楕円。青の円。銀の三日月。黄の正方形。赤の三角。
     二、単一の物体の組み合わせ方に進め。例を挙げると、黄の正方形の内側の黒の楕円などである。
     三、揺れ動く振り子のような単純な運動をする物体に進め。回転する車輪など。生き物は避けよ。
     四、振り子が揺れている間にピストンが上下するところなど、動く物体の組み合わせに進め。二物間の運動の関係は、異なる実験によって変更されるべきである。(或いは、弾み車、偏心器及び調速機の機構ということもある)
     五、これらの訓練を行う間は、精神は決定した物体に対して完全に縛り付けられなければならない。その他の思考が意識に入り込むことを許してはならない。運動する機構は規則的且つ調和的でなければならない。
     六、実験中は、入り込んできた思考の数と性質を注意深く気に留めよ。即ち、それのために計画された方向から外れて行く物体それ自体の傾向、及びそれら自体が示すであろうその他一切の現象。過度の緊張を避けよ。これが大変重要である。
     七、生き物の想像を始めよ。たとえば人間のような、できれば諸君が尊敬する知人がよい。
     八、これらの実験の合間に、諸君は異なる感覚の物体を想像し、それらに集中することを試みてもよい。たとえば、チョコレートの味、臭い或いは薔薇【訳註13】、ベルベットの感触、滝の音、或いは時計が刻む音。
     九、最終的に何らかの感覚から成る全ての物体を締め出し、諸君の精神の中で発生する一切の思考を抑制するために努力せよ。諸君がこれらの実践である程度の成功を果たしたと感じた時は、試験を願い出て、諸君が合格することがあれば、一層複雑且つ難解な実践が諸君のために指示されるであろう」【訳註14】

     さて、諸君の初期の実験の最も興味深く刺激的な特質の一つ、それは即ち妨害する雑念である。第一に、諸君が熟考している物体の不始末がある。それはその色と形を変化させる。その位置を移動させる。形状を失う。そして、実践における不可欠な困難の一つは、出来事に対して速やかに警戒態勢に入るために多量の技術と経験を必要とすることである。諸君は、諸君の思考が全くさまよっていることを理解する前に、かなりの長期間に亘って白昼夢を味わうことができる。これは、油断のなさと用心深さを生むものとして前述の実践について私が非常に強硬に主張する理由であり、万事において何らかの前進をするためには、絶好調になり且つ最も好都合な精神状態にならなければならないことが、全く明白なものであることを諸君ははっきりと理解する。しかし、諸君が諸君の集中の中断を見つけて数える中で少し実践した時、それらの性質が諸君の達成状況を示すものであるため、諸君はそれら自身が有用であることに気づくであろう。中断は以下のように分類される――

    「一、まず、肉体的な感覚。これらはアーサナによって克服されていたはずである。
     二、次に、瞑想の直前の出来事によると思われる中断。それらの活動は激しいものになる。この実践によってのみ、精神がそれを意識することなく、感覚によって実のところどれほど観察されるかを理解する。
     三、第三に、幻想或いは「白昼夢」の性質を帯びる中断の種類がある。これらは非常に狡猾である――当人が全く迷子になっていることを理解することなく、それは長期間に亘って続くかもしれない。
     四、第四に、我々は、それ自身の制御の逸脱の一種である極めて高度な種類の中断を得る。諸君は「私はどのくらいそれをうまくやっているのか!」と考えるが、或いはおそらく、もし諸君が砂漠の島にいたとしたら、または防音の家の中にいたとしたら、若しくは滝の近くに坐っていたとしたら、それは良い発想となるであろう。しかし、これらは警戒心それ自体からくる些細な変化に過ぎない。
     五、中断の第五の種類は、精神の中に発見可能な根源を持ち合わせていないように思われる。それは具体的な幻覚、通常は聴覚の形を取ることさえあるかもしれない。もちろん、そのような幻覚は稀であり、ありのままに理解される。さもなければ、学徒は医者に行った方がよい。通常の種類は、学生自身の声ではなく、理解可能な人声乃至は彼が知る誰かの声でかなりはっきりと聞こえる、異様な文章或いは異様な文章の断片から成る。同様の現象は無線通信士によって観測され、彼らはそのような通信を「空電」と呼ぶ。更に別の中断があり、それは切望された結果そのものである」【訳註15】

     私は既にこれらの訓練がいかに退屈であるかを示した。何と巨大な困惑か。何と絶え間ない失望か。ディヤーナの発生のずっと前から、理性的限界の崩壊を示す極めて多くの小さな成果が存在する。もしこれらの成果が、諸君の精神のまさに基盤が諸君によって打撃されていると諸君に感じさせるなら、諸君は混乱してはならない。実際の教えは、諸君がアーサナにおいて学ぶのと同じく、通常の肉体がそれ自体において苦痛の媒体に過ぎず、通常のそれ自身もまた狂っているということである。それ自身の基準によると、それ狂って《いる》。あらゆる十分な議論が名辞矛盾に繋がることを理解するためには、諸君はジョード教授【訳註16】の『哲学入門』〔Guide to Philosophy〕のような非常に単純で初歩的な著作を読むだけでよい。もし諸君が「AはAである」から始めると、諸君が「AはAでない」に行き着くことを示す何ダースもの方法がある。精神はこの結論に反対する。それは、それ自身に麻酔をかけて自分が招いた怪我に対抗し、逆説的ごまかしの分類に対する哲学を規制する。しかし、それは意気地がなくてみっともない態度である。ヨガ行者は我々が全て錯乱する気違いであるという事実に立ち向かわなければならない。その狂気は――もしそれが少しでも存在するならば――私塾の知的校則の束縛を免れた精神状態の中に存在する。
     真面目な個人的懇願を伴い、それゆえ、悔改者席〔mourners' bench〕とくだらないお喋りに対して率直に近づくために、今晩、私はもうお暇するつもりである。

     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    原註
    1 アレイスター・クロウリー「アスタルテの書」『魔術――理論と実践』島弘之、江口之隆、植松靖夫訳、国書刊行会、一九九七年、五百三から五百二十ページ〔Crowley, Aleister. “Liber Astarte vel Berylli” Magick: In theory and Practice. London: Ordo Templi Orientis, 1929, 390-404〕
    2 アレイスター・クロウリー「レシュ、もしくは太陽の書」『魔術――理論と実践』島弘之、江口之隆、植松靖夫訳、国書刊行会、一九九七年、五百四十七から五百四十八ページ〔Crowley, Aleister. “Liber Resh vel Helios” Magick: In theory and Practice. London: Ordo Templi Orientis, 1929, 425-426〕
    3 アレイスター・クロウリー「第三の書、もしくは掟の書」『魔術――理論と実践』島弘之、江口之隆、植松靖夫訳、国書刊行会、一九九七年、五百四十九から五百五十三ページ〔11Crowley, Aleister. “Liber III vel Jugorum” Magick: In theory and Practice. London: Ordo Templi Orientis, 1929, 427-429〕
    4 Apo pantwz kakodaimonoz 「私に近づくなかれ、あらゆる邪悪な霊よ〔Away from me every Evil Spirit〕」

    編註
    1 hwhy この形式にはアドナイ(主)という言葉の符号(母音)がしばしば付属する。その単語それ自体は単語としては決して話されず、式文としてのみ用いられる。この式文に言及する時、我々は、テトラグラマトン(四重の名)、または文字通り御名として翻訳されるヘブライ語のハシェム〔Hashem〕を使う。
    2 シン、メム、アレフ。
    3 重点が追加された。
    4 重点が追加された。明らかに、これらの講義の元々の伝達の間に、クロウリーはこれら二つの文句を叫んでいた。彼の意図は、疑いようもなく、人々を動揺させることであった。クロウリーは、特にそれが思想、とりわけ宗教的洗脳である時、人々を彼らの思考様式から引き離すことが彼の特別な義務であると感じた。
    5 この発音はラテン語訳によって惹き起こされた誤解である。論点次第でより近い推定はイェフ・エヴ〔YeH eW〕 となる。最後のヘーは、いかなる母音との繋がりもなく無音となる。しかしながら、その名前がイェヘシュア〔JeHeSheWa〕【訳註15】或いはヨシュア〔Joshua〕【訳註16】とほとんど同様であることを我々は知っている。YHWHとYHWVH。

    訳註
    1 クロウリー『魔術――理論と実践』第三章「〈テトラグラマトン〉の術式」。
    2 四大元素としての air は「風」と訳されることが多いが、wind との区別上、空気そのものと看做して「気」と訳す。
    3 Browning は地名ではなく、詩人の Robert Browning のことを指すと思われる。Abbe はその登場人物であろう。文脈としては「ゲーテのメフィストフェレス」に等しいはずである。
    4 ブラウニング『Asolando』の一節と思われる。訳出に自信がないので原文を併記しておいた。
    5 ヴェーダの奥義とされる最高峰のマントラ。元来は太陽神サーヴィトリーへの賛歌。オーム(Aum)から始まる。
    6 『ユゴルムの書』では、自主的に禁止事項を定め、それに違反した場合は罰則として手首等を剃刀で傷つけるという精神的訓練を推奨している。
    7 Sir Humphry Davy. 十八世紀末から十九世紀初頭を生きた英国の化学者にして准男爵である人物を指すと思われる。
    8 Hadad は古代シリアの神。嵐乃至風を司り、バアルと同一視される。
    9 Ben Hadad はハダドの子の意。聖書に登場するシリア王の名前。
    10 薔薇十字団 Rosicrucian, Rosenkreuzer は中世ヨーロッパ発祥とされる西洋の神秘主義的秘密結社。フリーメイソンや歴史上の神秘主義者との関連が取沙汰される。現代では黄金の夜明け団の教義的源流としても知られ、西洋魔術の技法や思想に多大な影響を与えた。
    11 聖守護天使 the Holy Guardian Angel, HGAには様々な意味合いがあるが、ここではクロウリーの魔術体系に登場する神格乃至神秘的存在を指す。魔術師の霊的発達を助ける霊的支援者の名称だが、『魔術――理論と実践』と『霊視と幻聴』で、或いはクロウリーの魔術人生の前半と後半とで説明が異なるなど、正確な位置付けには若干の混乱がある。『魔術――理論と実践』ではティフェレトでの小達人による聖守護天使の知識と会話の際に遭遇し、深淵を越える際に離別するとされているが、『霊視と幻聴』では下位セフィラーで遭遇するのは単なる幻で、本当の出会いは深淵の横断後であるかのように描かれる。また、クロウリーは最初、聖守護天使を本質的に魔術師自身である高次の自己 Higher Self と説いていたが、やがて人間以上の存在、独立した小宇宙として認識するようになった。
    12 tatwas は複数形。単数ではtatwa. tattva とも表記する。サンスクリット語であり、インドの宗教や思想が源流。魔術においては黄金の夜明け団が導入した。五大元素に照応し、黒や藍の楕円形や卵形で示される霊のアカシャ Akasha、銀や白の上が欠けた三日月形で示される水のアパス Apas、青の円で示される気のヴァーユ Vayu、赤の三角形で示される火のテジャス Tejas、黄の四角形で示される地のプリティヴィ Prithvi から成る。
    13 原文では smell or roses とあり、「臭い或いは薔薇」と訳したが、or が of の誤記である可能性もあり、その場合は「薔薇の香り」と訳せる。文脈的にもこちらの方が沿っていると感じる。事実、『魔術――理論と実践』の訳者は、同様の考えから原文を誤記と看做したか、or ではなく of とされた異なる底本を用いたかして、「薔薇の香」と訳している。
    14 以上の出典は『Eの書もしくは修業者の書、第九の書(LIBER E vel EXERCITIORVM sub figura IX)』。『魔術――理論と実践』に附録として収録されている。
    15 これを全体の一部分とする文章が『The Confessions of Aleister Crowley』「PART TWO: The Mystical Adventure」にある。参考情報二を参照。
    16 哲学者であり、BBCのブレイントラストを務めた Cyril Edwin Mitchinson Joad のことではないかと思われる。
    17 近代西洋魔術においてイェヘシュア JeHeSheWa は YeHeSheVaH 即ちYHShVH、聖五文字 PentaGrammaton を意味する。これは神人としてのイエス・キリストを象徴する。
    18 文脈的にはイエスを指すと見てよい。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第一部第四講 アーサナとプラーナヤーマ――ヨガの技術的訓練

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第一部 劣等人種達〔yahoos〕のためのヨガ
             第四講 アーサナとプラーナヤーマ――ヨガの技術的訓練


     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。

     先週、我々は仕事の裏側が破綻していたと感じることができなくなった。我々は悪い方法、悪妻達、悪天候を取り除いた。我々は、誰も我々を悩ますことのないまま、日向にゆったりと導かれている。我々は我々の仕事以外をする必要がない。
     このような我々の幸運な状態のため、我々は我々の次の段階を検討するのに役立つように一時間を費やすことができるかもしれない。まず、我々は、我々が我々の任務の精髄であると確信したものを思い出そう。それは分裂性を撃滅することであった。「私のために場所を空けろ」同志フィッツジェラルド【訳註1】が翻訳し、私がその名を忘れてしまったウマル・ハイヤームではないペルシャの詩人が怒鳴る。「二人分の余裕のない寝椅子を私のために空けろ」――豪華な共同住宅〔flatlet〕の注目に値する予言的先取り。
     我々が後で理解するように、我々は、気高い無関心の状態にすぐに変化し、その上、上述の第一当事者と上述の第二当事者[意識の主体と客体]の双方を消滅させる法悦の中で意識の主体と客体を結合する。これは明らかに、我々が無限に到達するまで恒常的に増加し、それを消滅させ、その結果として我々の原初の無を取り戻す更なる会合――人はほとんどカクテルパーティと言うだろう――における成果である。それにもかかわらず、それは原初の〈無〉と同じものなのか? 是――そして《否》! 《否》! 《否》! 千回の否! 明確な言葉の中に顕れる原初の〈無〉の全ての可能性を満たしたことにより、我々はその結果としてそれのあらゆる損害の可能性を絶えることなく潰してきた。
     我々の任務はこのように全く単純で、我々は大勢のうんざりする聖賢達【訳註2】や托鉢僧達【訳註3】の助力を必要としなくてよい。我々は時代遅れの阿羅漢達【訳註4】やベテル・チューイング【訳註5】をする菩薩達【訳註6】の一団に伝授に関して問い合わせなくてよい。『春秋分点』【訳註7】第一巻第一号で我々が述べたように、

    「我々は当てにしない、
     聖母や聖霊【訳註8】を。
     我々の手法は科学、
     我々の目的は宗教」
    〔We place no reliance
     On Virgin or Pigeon;
     Our method is science,
     Our aim is religion.〕【訳註9】

     観察に基づく経験に導かれた我々の常識は十分であろう。
     我々はヨガ的過程が存在のあらゆる現象の陰にあることを見てきた。我々がしなくてはならないことの全ては、それを思考作用に意識的に拡大することである。我々は思考が連続した変化なくしては存在できないことを見てきた。我々がしなくてはならないことの全ては、変化の発生を未然に防ぐことである。全ての変化は、時間と空間とその他の種類のことによって条件付けられる。あらゆる存在物は座標軸の体系の手法によって記述可能でなければならない。
     カフェ・レ・ド・マゴのテラス【訳註10】では、ヨガの教義の全体をできるだけ少ない言葉で明らかにする必要があった。「大天使の声と〈神〉のラッパの鳴り響く内に合図の声で〔with a shout, and with the voice of the archangel, and with the trump of God〕【訳註11】」聖パウロの『テサロニケ人への第一の手紙』第四章第十六節。私はそうした。
    「静かに座れ。考えるのをやめろ。喋るな。出て行け!」
     これらの指示の最初の二つは、ヨガの技法の全体を含有する。最後の二つは現在の基礎段階で詳説することが不適切な奥義である。
    「静かに座れ」という命令は、意識の中で運動を生み出しうるあらゆる肉体的刺激の抑制を組み込むことが意図されている。「考えるのをやめろ」という命令は、これのあらゆる精神的刺激への拡大である。後者が前者と別々に存在しうるかどうかをここで議論する必要はない。少なくとも多くの精神的過程が物理的過程から発生することは明らかである。それだから、もし我々が肉体を検査していれば、我々は道の間に一定の距離を取ることができるだろう。
     私は少しの間本題を離れ、全てのアングロサクソン精神に起こることが確実である勘違いを払拭しよう。神秘主義者の軟弱な流派の最悪の遺産については、肉体的な機能と欲求が道徳的暗示を持つという着想から生まれる忌むべき思考の混乱である。これは次元の混同である。善悪の間に真の区別は存在しない。発生する唯一の問題は、提案された何らかの操作の関係の利便性である。時代の道徳と宗教の材木の全ては、ヨガを試みる前に永遠に廃棄されなければならない。諸君はそれが間違いを犯すという意味であることにあっけなく気づいてしまうだろう。全ての行動は、行動の全過程に終止符を打つために我々に役立つ限りにおいて、比較的正当であるのに過ぎない。
     これらの比較的有用な行動は、従って、制御または「美徳」を生み出すものである。極度の複雑性を伴う膨大な量の中で、不都合や出費に全く構うことなく、それらは分類されていた。実際には、様々な体系の術語体系を学ぶことを自分自身にただ許可するに過ぎないというそのような主張は、たった一つの成果を持つことしかできない。即ち、諸君の転生の残りの部分のために諸君の脳を混乱させること。
     私は簡潔を心掛けるつもりである。主な見出しは次の通りである。
     一、アーサナ〔Asana〕[座法]、通常「姿勢」と翻訳される。
     二、プラーナヤーマ〔Pranayama〕[調気法]、通常「呼吸の制御」と翻訳される。
     これらの翻訳は、いつものように、完全に間違っており、不適当である。アーサナの本当の目的は、身体から精神に何の刺激も伝えられないようにするための、筋肉系と意識と無意識の制御である。アーサナは身体の静的な側面に関係する。プラーナヤーマは実に身体の動的な側面を制御する。
     その状況には少し逆説的なものがある。ヨガの過程の目的は、それ自身を含む全ての変動を停止することである。しかし、そうすると、制御を終了させた後、苦痛を生み出すエネルギーを解放することになるので、ヨガ行者が自己破壊をするには不十分である。我々はそれが制御であることについての形而上学的議論に入ることができないか、或いは我々がいる場所を我々が知る前に魂に関する仮説によって発狂してしまうだろう。
     我々はこのガラクタを全て忘れ、何をすべきかを決めよう。我々は暴力的行動によって存在の変化を止めることが望ましくない要素を単に解放することでしかないことを理解した。もし我々がダートムーア【訳註12】での平和を望むならば、我々は牢獄の扉を開かない。我々がすることは習慣を確立することである。習慣とは何か? 習慣とはリズムである。もし諸君が眠りたければ、諸君は不規則或いは予想外の騒音を取り除く。求められているものは子守歌である。諸君は門を通り抜ける羊、或いは投票所の有権者達を観察する。諸君がそれに慣れてきた時、列車や蒸気船のエンジンの規則性は心地良い。我々が肉体の従来の機能と共にすべきことは、徐々に鈍らせるようにそれらを規則的にさせることであり、それは我々をそれらの操作を意識しないようにする。
     我々は最初にアーサナの課題を取り扱おう。ゆったりと歩くこと【訳註13】や優しいマッサージよりも落ち着くものなどありはしないと思われるかもしれない。ある意味、そしてある程度までは、そうである。しかし、付随して疲労が発生し、眠りに就くことによって肉体が遅かれ早かれ抗議するため、その活動は継続できない。我々は、従って、肉体的リズムを最小限に抑えるために、最初から我々の精神を作り上げなければならない。
     それらが我々の実践の中で起こるものとしてアーサナの原理を主張することが、哲学的に正当化可能であるかどうか、論理的に正当化可能かどうか、私はよく理解していない。我々は、我々の小旅行と決別し、実験の経験主義を頼りにし、そしていつか我々が観察された事実から理路整然とした形而上学へと立ち戻って作業することができるようになると信じなくてはならない。
     静かに座るという論点は、平明な文字通りの意味で、肉体は最終的に偉大なる魂【訳註14】、ハリー・ラウダ―【訳註15】の命令に応える。「擽るのをやめろ、騎手〔Jock〕【訳註16】!〔'Stop your ticklin', Jock〕」【訳註17】
     我々がアーサナの詳細に迫る時、我々はたちまちにヒンドゥーの衒学のゴミ捨て場に直面する。我々は絶えず先代女王ヴィクトリアの伝統的な霊的態度に近づく。たとえどれだけ一時的な関心を与えるアーサナの唯一の型であっても、それらは私がこの気品溢れる聴衆に提示している高貴な種類のヨガと何一つ関係を持たないので、私は一切語るつもりがない。そうしなければ私は赤面することになるだろう。いずれにせよ、誰がこれらの馬鹿げた姿勢について知りたいのか? もし仮にこの主題に何か楽しみがあるとしたら、それを明らかにするのは愉快なことである。もし諸君が、諸君の頭や肩の後ろに興味のある他者の頭や肩の後ろを並べて置く【原註1】ような課題から始めるならば、達成はある程度の満足を生むことを私は認めなければならない。しかし、これは、私が思うに、ほとんど空虚であるし、私が前に述べたように、それは我々が語ろうと試みているものと何の関係も持たない。
     ヨガの指導者達が推薦する様々な姿勢は、彼らの価値観を支持するヒンドゥーの解剖学と、様々な身体部位に属す治療法的及び奇跡的性質についての神秘的理論に大部分が依存する。もし、たとえば、諸君がウダーナ経絡【訳註18】を制することができれば、諸君は水上を歩くことができる。しかし、一体誰が水上を歩きたい? 水泳の方が楽しい(私は、鮫、赤エイ、甲烏賊、電気鰻、ピラニアを排除する。日帰り旅行客、水着美女【訳註19】、そしてランズベリー氏【訳註20】もまた)。或いは、水を凍らせてその上で踊りたまえ! ヒンドゥー教徒の努力の大方は、最も望ましくない目標を達成することのできる最も困難な方法を発見するところにあるように思われる。
     諸君が諸君自身を縛って結び目を作り始める時、諸君はある体位は他の体位よりも困難且つ不便であることを理解するだろう。しかし、それは始まりに過ぎない。もし諸君が十分に長い間姿勢を保てば、諸君は痙攣を起こす。私は正確な統計を憶えていないが、ベッドで安眠している男による筋肉の運動は一時間当たり十四頭の象を成層圏まで持ち上げるのに十分であると、私は推測する。いずれにせよ、単に私自身がそれを信じなかったからであるとしても、私はそれがかなり信じがたいものであることを憶えている。
     それから、どうして我々は特別に神聖な体位を選ばなければならないのだろうか? 第一に、我々はゆったりと安定することを望む。とりわけ、我々がその実践を試みる段階に辿り着いたならばいつも、我々はその体位でプラーナヤーマができるようになることを望む。
    我々は、従って(大雑把に言えば)以下に続くような姿勢の中で要求される状態を公式化してもよい――

     一、我々は適切に均衡を取りたい。
     二、我々は我々の腕を自由にしたい。(それらはいくつかのプラーナヤーマで使用される)
     三、我々は我々の呼吸器をできるだけ拘束されないようにしたい。

     今、可能であれば、諸君はこれらの点を念頭に置き、諸君が神や聖者にふさわしい伝統的な態度を取ることで神聖になっているというような、まるで見当違いの発想によって主題から外れてはいけない。そしてまた、可能であれば、諸君はそれが諸君を十分に傷つけるのであれば何であれ諸君にとって効果的であるという清教徒的醜態を慎み、少しの実験の後で、これらの条件を満たす姿勢を諸君自身の手で見つけ出すべきである。私は、馬鹿馬鹿しい信仰の類の権威のために私の許に来るよりも、諸君はむしろこれを行うべきであると非常に強く思う。私は決して、私のハイフネーションされた気取った調子のペテン【訳註21】で英国民【訳註22】【原註2】を騙すことを目的とする猪狩り【訳註23】の立派な紳士【訳註24】――プーナ【訳註25】出身でさえない――ではない。私は諸君に、指導者から「正しい」ことを教わり、そして何であれ諸君の学習能力と行動力を萎縮させるよりも、諸君自身によって「間違った」ことをし、諸君の失敗から学んでもらうことを望む。
     諸君が実践するために座る時に起こることについて、諸君が何らかの意見を持たねばならない、ということは、しかしながら、完全に正当である。
     私はしばし本題から離れ、私がIAOの術式に関して〈魔術〉〔Magick〕の教本【訳註26】で述べたことを参照しよう。この術式は全ての学習に広がる。諸君は新しい玩具を持つ子供のように愉快な気分で始める。諸君は退屈し、そして諸君はそれを壊してしまおうとする。しかし、もし諸君が賢明な子供であれば、諸君はそれに対して科学的姿勢を持っており、諸君はそれを壊したり《しない》。玩具が神と化し、最奥の秘密を諸君に打ち明け、そして諸君の人生の生活の一部となった時、諸君は退屈の段階を終え、復活の段階に向かって拷問の煉獄から行動を開始する。最早、これらの粗野で野蛮な快楽と苦痛の反応は存在しない。新たな知識は吸収される。
     アーサナもそうである。選ばれた姿勢が諸君を魅了する。諸君は自己満足に心地良く唸る。諸君はどのくらい賢いと言うのか! 姿勢がどれだけ見事に全ての条件に適っているのか! 諸君は絶対に心地良いマンドリンにうっとりとする。私は〈師〉のための親切な心遣いを出し惜しむことで現に本心を曝した弟子達を知っている! これに関する何らかの間違いがあることは非常に明白である。幸いなことに、時という偉大な癒し手は、いつものように仕事中である。時は週末の休暇を取らない。時は彼自身を称賛するために停止しない。時はそのまま進む【原註3】。いつかその内に、諸君は物事の愉快さに関する何もかもを忘れてしまうし、諸君が〈師〉のことを考えようとすることについて何らかの意見を諸君に伝えることは少しも上品なことではない。
     おそらく、諸君が最初に気づくことは、諸君が明らかに最も快適な体位から始めたというのに、そこには諸君に通知することなくその体位を変更する傾向があるということである。たとえば、もし諸君が膝を揃えて「神」の体位で座っているとしても、諸君はそれらが諸君が気づかない内に少しずつ離れていることを数分で理解する。これが幼児期の性的理論の衝動的激化によるものであることをフロイトは疑うことなく諸君に伝える。吐き気を催すような馬鹿げたことで私を煩わせる者がここにいないことを私は願う。
     今、体位を維持するためにはそれに注意を払うことが必須である。即ち、もし諸君が人を夢中にさせる何らかの精神的探究に従事させられていたら、或いはそれが走り込みなどの純粋に肉体的な活動であってさえ、諸君は諸君が意識していない方法で諸君の肉体を意識するようになる。一見すると逆説的な響きがあるが、肉体に注意を集中することから遠く離れた暴力的な運動は、それを運び去る。それは運動がそれ自体のリズムを有するからである。そして、私が述べたように、リズムは〈沈黙〉の峠の中腹である。
     その結果は非常に良い。肉体の相対的平静においては、学徒は彼の日常生活の中で彼を煩わせることがない細かい音に気づくようになる。少なくとも、彼の精神が興味のある事柄に惹きつけられた時にはならない。諸君はそわそわし、痒くなり、咳をするようになる。可能ならば、諸君の呼吸は諸君の上で悪戯を始めるであろう。これらの症状は全て抑制されなければならない。それらを抑制する作業は非常に困難である。そして、他の全ての抑制の形態と同じように、それは抑制しようとしている現象の凄まじい強調を惹き起こす。
     彼らの学生時代からほとんどの科学者によく知られるちょっとした手品がかなり沢山ある。その内のいくつかは、このヨガとの関係において極めて重要である。たとえば、腕が届く程度の距離で重りを保持するような持久力の問題では、諸君は普通、諸君自身よりも強靭な男を打ち負かすことができる。もし諸君が諸君の腕に注意を向けるとしたら、諸君は多分一分間で疲れてしまう。もし諸君が諸君の精神を断乎として他の何かに集中させるなら、諸君は五分間或いは十分間、またはそれ以上に続けることができる。それは能動的且つ受動的な問題である。アーサナが諸君を煩わせ始める時、それへの回答は、動揺と刺激を和らげるという受動的思考を背景として、細かな筋肉の動作を制御するという積極的思考に適合させてそれを煩わせることである。
     今、私は、いくらか諸君の役に立つであろうこれを行うためのいくらかの規則があることを信じていない。諸君が試みるかもしれない数えきれないほどの小さな技巧がある。だがしかし、姿勢そのものの事例のように、自分で諸君自身の技巧を編み出す方がずっと良い。私はたった一つだけ言及する。即ち、口蓋垂に向かって舌を丸めて引き戻し、同時に、額の中央部の想像上の一点に向かって両目を集中させよう。この態勢にはあらゆる種類の神聖なものがあり、最も崇高な神々の一部に無数の前例がある。どうか、この不条理を忘れてほしい! 利点は単に諸君の注意力が無様な体位を維持することに費やされることを強いられるというものである。諸君は、諸君が他の方法でのどのような息抜きをするよりも早く、気づくようになる。そして、諸君はそれにより、その刺激によって諸君を動揺させようと試みることが役に立たないことを肉体の残りの部分に明らかにする。
     しかし、規則は存在しない。私はそこにはなかったともそこにないとも述べた。激務から逃れるための何らかの巧妙な方法を見つけ出そうとすることが積極的本能であるほど、人間の精神だけがとても怠惰で無価値である。
     これらの技巧は助けるかもしれないし妨げるかもしれない。どれが良いか、どれが悪いか、なぜ、何を、そしてその他の一切の疑問の答えを見つけるかどうかは、諸君次第である。それは最後には全て同じことになる。肉体の動作を静めるための方法は結局は一つしかなく、それはそれを平静なまま保つことである。事を成すのは忍耐である〔It's dogged as does it.〕。
     刺激は極度の苦痛に発展する。これを和らげようとするあらゆる試みは単に訓練の価値を台無しにするだけである。私は合理化【訳註27】しないよう志願者に特に警告しなければならない(私はどうしようもないほど小賢しかった〔bat-witted〕ので合理化してしまった人々を知っている)。彼らは考えた。「ああ、うん、この体位は私にとって適していない、と私は考えていた。私は〈朱鷺〉〔Ibis〕の体位を台無しにした。今、私は〈竜〉〔Dragon〕の体位に取りかかるつもりである」しかし、〈朱鷺〉は何世紀にも亘って一本足で立ち続けて彼の義務を守り、彼の神性に到達した。もし諸君が〈竜〉に取りかかったら、彼は諸君を食い殺すだろう。
     人間性の倒錯によって、最も深刻な苦痛は、諸君が完全な成功まであと少しのところにいる時に発生するように思われる。ガリポリを思い出せ! 私はそれが、苦悶が耐えがたくなる時、それが臨界点の近くにある、という類の症状であるかもしれないと考える傾向にある。
     諸君はおそらく「耐えがたい」の意味を訊ねるだろう。私ははっきりと答える。「調べ出せ!」と。しかし、結局のところ、(実践の終了に当たって)私の左脚を真っ直ぐにするためにしばしば私に十分間を使わせた直近数ヶ月の私自身の作業の中で私がそれを言った時、さほど悪くない着想をそれは諸君に与えるかもしれない。私は両手で足首を掴み、一度に数ミリメートルずつそっと外した。
     この時点で、楽団は演奏を始める。全く唐突に苦痛は止まる。言語に絶する救済の感覚がヨガ行者を圧倒し――私が彼を最早「学徒」或いは「志願者」と呼ばないことに注意したまえ――彼は極めて奇妙な事実を認識する。その体位は彼に苦痛を与えるだけではなく、彼が今までに経験した他の全ての肉体的感覚が苦痛の性質を帯び、あるものからもう片方への一定の素早い移動手段を使って彼によって負担される。
     彼は楽な姿勢を取っている。なぜならば、彼の人生で初めて、彼は本当に肉体に無自覚になったからである。人生は終わりなき苦痛であった。そして今、この特定のアーサナに関する限り、疫病は和らげられる。
     私は私がこれの完全な意味を伝達することに失敗していると感じている。事実は、言語が全く不適当であるということである。肉体的不快感の生涯に亘って切れ目なく続く悪夢からの完全で喜びに満ちた覚醒は、記述することが不可能である。
     アーサナの習得と成果は、ヨガの達成の経過ばかりでなく、人生の最も平凡な状況の中でも役に立つ。疲れた時はいつでも、諸君はただ諸君のアーサナを行いさえすればよい、諸君は完全に休まる。それはまるで、習熟の達成がその特定の体位に固有のこれらの肉体的苦痛の全ての可能性を摩滅させたかのようである。生理学の教えはこの仮説と矛盾しない。
     アーサナの征服は耐久力を作る。もし諸君が不断の訓練を続けるならば、諸君は、姿勢のおよそ十分間が一晩安眠するのと同じほど諸君を休ませることを理解するはずである。
     静的と考えられる肉体の障害物のことはこれでおしまいにしておく。それでは、我々は、我々の注意をその動態の征服に向けよう。
     プラーナヤーマのような主題に取りかかるのは常にすばらしいことである。プラーナヤーマは力の制御を意味する。これは一般化された術語である。ヒンドゥー教の体系には、全てが名前と特性を得た肉体の様々なエネルギーの極めて多くの精妙な基盤がある。私はそれらの大部分への対応を提案しない。人生において大いに実際的な重要性を持つものは二つしかない。これらの内の一つは、このような腐敗した国家では国民に伝えることができない。もう一つはよく知られた「呼吸の制御」である。
     これは単に、諸君がストップウォッチを手に入れ、呼気と吸気の周期を選択することを意味する。両方の操作を可能な限り完璧に行うべきである。肺の膨張と収縮を補助するために、筋肉系はその最大限まで負担をかけられなければならない。
     諸君がこの手順を緩慢且つ規則的に行うと、たとえば、三十秒間息を吐いて十五秒間吸えば、諸君は肺の内外のいずれかに呼吸が留めておかれることに数秒間を追加できる。
    (ちなみに、速やかな呼気がエネルギーの喪失をもたらすという理論により、呼気の操作は吸気のおよそ二倍の長さで持続すると言われる。私はこれには何かがあるかもしれないと考える)
     他にも訓練がある。たとえば、呼吸を可能な限り速くて浅いものにすることができる。どのような良い訓練もそれ自体の現象を惹き起こす可能性があるが、これらの講義の一般的論文に従って、私は、適切な訓練が可能な限り長時間に亘る呼吸の維持を目指すであろうことは一目瞭然であると考える――なぜならば、おそらくその状態が生理学的装置の完全な静止への近似値の接近を象徴するであろうからである。もちろん、我々はそれを静止させていない。我々はその種類のことを何もしていない。しかし、少なくとも我々は我々自身を騙して我々がそれを行っていると考えさせており、そして重要な点は、伝統によれば、もし諸君が十二秒間ほど精神を静止させたままに保っておくことができれば、諸君はヨガの最高の成果を得ることができるということである。諸君が二十秒間吐き、十秒間吸い、そして三十秒間留めるという周期で呼吸する時、精神がその有害な作用を停止する傾向にある停止期間がかなり長期間に及ぶことは、確かに事実である。この周期が習慣化する頃までに、諸君は、諸君が集中のための精神的活動の中に諸君自身を唐突に投げ込むことのできる瞬間の到来を本能的に認識することができる。言い換えれば、アーサナとプラーナヤーマにより、諸君が自由である体位の中で諸君自身を働かせ、諸君は、もしたった数秒間だけでも、諸君は呼吸器や筋肉の系統の攪乱活動による攻撃を未然に防ぐ実際のヨガの過程を試みるべきである。
     それだから? 然り。プラーナヤーマはすばらしい健全な娯楽であると言えるだろう。諸君がそれを極めて長いものにする前に、物事がまず間違いなく起こり始めるにもかかわらず、私は残念ながら述べるが、これは諸君に対する楽しみでありつつもヨガに対する死である。
     プラーナヤーマの古典的な物質的結果は普通、四つの段階に分けられる。
     一、発汗。これは猛烈な運動によってもたらされる通常の発汗ではない。それは独特の特性を持ち、そして、実践を遂行し、経験を獲得し、知識を駆使して諸君自身で私の方へ来る方が諸君にとって遙かに良いので、私はこれらが何であるかを諸君に告げるつもりがない。このような方法で諸君は諸君が正しいことを経験するということを知ることができるのに対し、もし私が諸君に今教えてしまったならば、諸君は十中八九それを想像するだろう。
     二、無意識的硬直。即ち、痙攣の結果として肉体は静止する。これは完全に正常且つ予測可能である。それは犬を相手に行うのが普通である。諸君が鐘形ガラス容器〔bell-jar〕の中で彼を動けなくし、酸素や炭酸その他を投入すると、犬は硬直する〔stiff〕【訳註28】。諸君は彼を外に出し、彼が凍りついたかのように脚をあちこちに振り回すことができる。これは全く同じことではないが、それに近い。
     科学者達は、計り知れないものを黙殺するよう訓練されていることにより、あらゆる調査においてとても不利な立場にある。全ての現象は現時点ではあらゆる厳密な科学的調査方法を受け付けない精妙な性質を持つ。我々は研究室で自然の作用を模倣することができるが、模造品は必ずしも本物と全く同じであるとは限らない。たとえば、J・B・S・ホールデン教授【訳註29】は、プラーナヤーマのこの問題において『春秋分点』の中で提案された実験のいくつかを試み、その過程の中で彼自身を殺してしまいかけた。犬との実験と穏やかな作用の進行の絶頂点として付随して起こる現象の間にある相違を彼は理解していなかった。それは、二十六年のクロ・ヴージョ【訳註30】をゆっくりと飲むことによって生まれる高揚感と、コーンウイスキーの暴飲の狂乱との間にある相違である。それは、コカインを鼻で吸うことはコカの葉を噛むことよりも健康的な作業であると考えるのと同じ愚かさである。なぜ、と彼らは叫ぶ、コカインは化学的に純粋だ! コカインは有効成分だ! 我々の神聖なる薬物が、必要以上に分析を受け付けず、その理由から使うことができない沢山の無価値な野菜と混同されるこれらの汚らわしい葉を我々は絶対に必要としない! この無意識的硬直或いは精妙な止息〔Suksma Kumbhaka〕は、単なる生理学的硬直の発生として定義されるものではない。それは肉眼的な徴候に過ぎない。
     第三段階はブーカリ・シッディ【訳註31】と特徴付けられる。即ち、「蛙のように跳び上がる力」は、この魅惑的な言葉の大まかな翻訳である。これは非常に異様な現象である。諸君は床の上に固定されて座っているが、枯葉が微風に動かされるように、諸君はあちらこちらへ空中を漂い始める。これは発生する。諸君は全く精神的に正常であり、そして諸君は諸君自身がそれを行うのを観察できる。
     これの自然な説明は、諸君が事実を意識することなしに、諸君の筋肉が非常に鋭くて短い突発性の痙攣を起こさせているということである。犬は同様の歪みを作ることで我々を再び助ける。このことに対して、諸君の精神は完全に正常であるように思われると主張されるかもしれない。しかしながら、意識の特定の一点、体重のほぼ完全な喪失の感覚がある。ちなみにこれは、教育された精神鑑定医には少し異様に聞こえるかもしれない。ある種の狂気に起こるのと同じような感覚がある。
     第四段階は〈空中浮揚〉である。ヒンドゥー教徒は、「蛙のような跳躍」は本物の体重減少を意味すると、また、諸君がその過程を完全なものにしていないために跳躍は主として横向きであると言い張る。もし諸君が絶対的な平衡を取っていたならば、諸君は静かに空中に舞い上がったと彼らは主張する。
     私はこれについて全く知らない。私はそれが起こるのを見たことがない。一方、私はしばしばそれが起こっているかのように感じていた。そして、折に触れて、少なくとも比較的信頼できる人々が、彼らはそれが起こっているのを見たと私に話した。私はそれが何であるかを証明しようとは思わない。
     これらの訓練、アーサナとプラーナヤーマは、ある程度までは機械的なものであり、その範囲ではそれは、十分な余裕があって妨害物がなく、人並み外れた自制心を持つ者にとって、イングランドにいてさえ、ヨガの多大な下準備を行うことはまさに可能である。しかし、彼が適切な環境を得ることができるまで、純粋な身体的準備に極めて厳しく拘り、決して適切な集中の練習を試みることがないように、私は彼に助言すべきである。
     しかし、この非常に並外れた道楽に耽るに当たり、私が何かぞんざいなやり方を推奨しようとしていると彼に想像させないでほしい。もし彼がすると決めたならば、我々は言おう、四分の一時間のアーサナを日に二回、やがて日に四回とし、プラーナヤーマも比例して行い、彼はこれをやり通さねばならない――カクテルパーティやフットボールの試合、或いは近親者の葬儀に、一連の動作を妨げることを許さずに。訓練は実践そのものにおける単なる成功のいずれよりも遙かに重要な制御の習慣の獲得である。私は、五十九分間に亘ってじっと座らせるよりも、むしろ諸君の指定された時間、諸君を揺さぶりたい。これの理由は、第二部の四講で十分に取り扱われることになるであろう主題、高度なヨガの留意事項に我々が至った時にのみ明らかになる。特別な要求によらない限り、その種のことが一切起こらないことを私はくれぐれも願う。
     これらの最も難解な主題の並外れて明晰な彼の説明に関して講師に対する感謝の投票を提案する前に、これが実のところプラーナヤーマの一部門であり、この国でも非常に徹底的に実践可能なものであるので、私はマントラヨガの主題にいくつか付け加えたい。『第四の書』第一部において、私は例を挙げて十二分にそれを説明した。私がここで必要とするのは、一瞬の休止もなく昼夜を問わず絶え間なくそれを用いることは、おそらく律動的な形式の前提のための思考の流れの作成を理解することができるのと同じくらい有用な方法であり、律動は不規則性への偉大な癒しであると述べることだけである。それが一度確立されると、障害がそれを妨げることはない。それ自体の自然な傾向は、時が止まるまで振り子のように減速することであり、宇宙の我々の知的理解を構成する印象の順番は、いかなる種類の状態でもなく、それゆえにヨガの成就を完全に象徴するその意識(或いは無意識、もし諸君がそれを好むのであれば、どちらでもないものがそれが何を意味するのかのごく些細な着想を与える)の形態に置き換えられる。

     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    原註
    1 性行為〔In coitu〕
    2 イェイツ=ブラウンという者。イェイツとは何だ? ブラウン、もちろん、それとケネディ〔One Yeats-Brown. What ARE Yeats? Brown, of course, and Kennedy.〕[意味を掴めなかったので原文を併記した]。
    3 ある偉大な思想家がかつて言った。「時は刻々と過ぎていく」何と喜ばしい一節!

    訳註
    1 クロウリーの著作やクロウリーを扱った著作、或いはどこかのウェブサイトで見かけたような記憶があるが定かでない。カフェ・ド・レ・マゴの記述があることも踏まえると、『華麗なるギャツビー』などで知られるフランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドのことである可能性もある。クロウリーの日記や自叙伝を中心に調査予定。
    2 rishis は Rishi の複数形。ヒンドゥー教の聖者の称号であり、「仙人」と訳すことが多いが、「聖賢」、「聖仙」などと訳されることもある。
    3 sanyasis は Sannyasi の複数形。詳しくは第三講訳註 18 参照。
    4 arahats は Arahat の複数形であるが、一般的綴字は Arhatである。これは阿羅漢を意味する。
    5 betel-chewing は檳榔 betel nut に石灰を混ぜたものをキンマの葉 betel leaf で包んで噛む東南アジアの文化。麻酔作用があって習慣化しやすい。南米のコカの葉を噛む文化に近いと思われる。揶揄的或いは侮蔑的文章からは「麻薬常用」などと意訳すべきであるかもしれない。
    6 bodhisattvas は Bodhisattva の複数形。詳細は第二講の訳註 11 参照。
    7 『The Equinox』はクロウリーが率いた魔術結社「銀の星(Argenteum Astrum, A∴A∴)」の機関誌。クロウリー曰く「定期刊行百科事典」。大半がクロウリーの著作から成り、『霊視と幻聴』等、既訳著作の多くが収録されている。第一巻第一号刊行から一世紀が優に過ぎたが、未だにその価値は色褪せていない。
    8 聖霊は一般的に Dove と表すようだが、聖母マリアを指すと思われる Virgin との対応から、聖霊のことを言わんとしていると捉えて Pigeon を聖霊とした。
    9 『The Equinox』第一巻第一号を大まかに確かめてみたが、完全に一致する部分は見つからなかった。近いものとして「THE METHOD OF SCIENCE――THE AIM OF RELIGION」という文句を見つけただけであり、正確な出典は把握できなかった。このため、読者の便宜を考え、原文を残しておく。
    10 Cafe des Deux Magots はピカソやヘミングウェイ等の芸術家達が通ったという、パリにある老舗のカフェのことと思われる。
    11 shout には俗語表現で「飲み物を奢る」という意味もある。カフェと掛けた言葉遊びかどうかはわからないが一応指摘しておく。
    12 英国の地名。デボン州南部に広がる湿原(moor)地形。
    13 swinging には色々な意味があるが、その中で soothing と言えそうなものとしてこの訳を選んだ。人によってはダンスや乱交が soothing なのかもしれないが、一般的な印象を優先した。
    14 mahatma には何通りもの用例があるが、ここでは原義である「偉大な魂」と解した。
    15 スコットランドのバラード歌手である Harry Lauder のことと思われる。
    16 スクールカーストを表すスラングではなく、より伝統的な意味で解した。
    17 ハリー・ラウダ―の歌の曲名。
    18 nerve udana は肺臓及び上半身の全てを支配するとされる神経を指す。udana は五つのプラーナの一種。制御すると体重が軽くなり、水中に沈まず、茨や刃の上に立ち、火の中に立ち、任意に生命を絶つことができるようになるという。
    19 bathing belles は bathing beauty の古い表現。
    20 英国の社会主義者にして政治家であったジョージ・ランズベリー George Lansbury のことと思われる。
    21 haw-haw humbug は解釈に苦しむ一節。解釈例が複数あるため特定できなかった。そもそも、固有名詞を意図するのか慣用表現であるのかそれ以外であるのかすら判断できない。たとえば、「あはは、くだらない」と訳すこともできる。
    22 B(ritish). Public ではないかと推測してそう訳したが、実際のほどはよくわからない。
    23 pig-sticking は猪狩りを意味するが、肛門性交の隠語でもある。性的揶揄の意図の可能性を踏まえ、指摘しておく。
    24 pukka sahib は英領インドで現地人が英国人を呼ぶ尊称であった。
    25 Poona はインドの都市プネー Pune 旧名称。デカン高原のマハーラーシュトラ州プネー県に位置する。
    26 おそらく、クロウリー『魔術――理論と実践』 Magick in Theory and Practice のこと。
    27 心理学における「合理化 rationalization」。
    28 stiff には死体の意味もある。つまりはそういうことなのであろう。
    29 John Burdon Sanderson Haldane. 英国の生物学者。
    30 Clos Vougeot '26 はブルゴーニュワインの銘柄。ヴージョ村に由来。
    31 多少調べたところでは、bhucari はダーキニーの一人であるらしいが、詳しい情報を得ることができなかった。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第一部第三講 ニヤーマ

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第一部 劣等人種達〔yahoos〕のためのヨガ
             第三講 ニヤーマ


     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。

     私の第三講の主題はニヤーマ〔Niyama〕[勧戒]である。ニヤーマ?  ふむ! これらの嫌らしいサンスクリット語を翻訳する崇高な企ての不備さえもが今まさに愉快に証明されようとしている。私が答えられるニヤーマに最も近い意味は「美徳」である! 〈神〉は我々皆を助ける! これはその言葉の本来の語源的意味において美徳を意味する――人の資質【訳註1】。それはどう見ても神の資質である。しかし、我々がヤーマを「制御」と訳したため、我々は我々の二つの単語が元々のサンスクリット語の単語と互いに全く同一の関係ではないことを理解する。サンスクリットの接頭辞「ニ〔ni〕」が――《諸君》が言う前後倒置のように――全部が逆転した意味を与えると同時に、超自然的な極致の結果を生み出すからである。私は適切な定義を考えることすらできないことを理解したものの、私は私自身の精神の中でヒンドゥー教内での意味を完全によく理解している。もし人がその人自身を東洋情緒的思想の中に十分な年数に亘って浸すと、人は知的理解の対象に適用できる用語で表現することが絶対に不可能であるという霊的不安を抱く。従って、それらが有効であるような言葉に我々自身が満足し、どうでもよい話をやめてこれらの予備的訓練の実践的手順に話題を移す方が遙かに良い。
     最大限の演説と最小限の情報をうまく組み合わせた以前の私の講義に出席した注意深い聴衆に、そのことが思い出されないことはほとんどないだろう。それは全て閣僚としての私の訓練である。しかし、私の精神的な混乱から暫定的に姿を現すのは、それを長期且つ大規模に受け容れるヤーマが、それの効果の中でほとんど消極的であることである。我々は、ちょうど水流の自然の重力エネルギーを制御して指向させるためにタービンに流れ込む滝を圧縮するように、現存する力流に抑制を加えている。
     ヤーマの主題からすっかり離れてしまう前に、精神の美と調和を弱めたり壊したりすることを許されるべきものはない、という我々の前提に従ういくつかの実践的結論を列挙しておく方がよい。いかなる種類の社会的存在も、あらゆる真剣なヨガを論外であると宣告する。家庭生活は基本的なヨガとでさえも完全に相容れない。多分、諸君の多くが言うだろう、「それは彼のために非常に良い。彼は彼自身のために語ってよい。私に関してはどうかと言うと、全てがボールベアリング上で滞りなく進行できるように、私は家庭と仕事を運営する」答えがない……【訳註2】
     諸君が実際にヨガの実践を始めるまで、諸君は障害を構成するものが何かを想像することができない。諸君はそのほとんどが、諸君が完全に身動きせずに座ることができると考える。諸君は芸術家のモデルが三十五分以上も何をすることができるか私に教えたまえ。彼らは何もしない。諸君は時計が刻む音を聴かない。おそらく諸君は、タイプライターが室内に入っているかどうかすら知らない。ぎょっとすると、諸君は空襲の間も安眠できただろう。そのようなことはそれとは無関係である。もし諸君が正しくそれを行っているとしたら、それまでの諸君の人生の中で聴いたことのない物音が聞こえることを、実践を始めてすぐに諸君は理解するだろう。諸君は過敏になる。そして、諸君は諸君を攻め立てる五つの外部バッテリー【訳注3】を持つため【訳註4】、諸君は少ししか休憩しない。諸君は以前に顔を拳で殴られたのと同じほど強烈に肌で空気を感じる。
     ある程度まではおそらく、この事実は諸君にとって馴染み深いものである。多分、諸君の大半は夜の静寂として奇妙に知られるものの中へといつか出かけたことがあるだろうし、諸君は暗闇の中での光の微妙な動きや静寂の中の捉えどころのない物音に気づいたことがあるだろう。それらは諸君を安らがせ、喜ばせただろう。これらの変化のそれぞれが諸君に激しい心痛を感じさせるということは決して諸君に惹き起こされないだろう。しかし、ヨガの最初の月においてでさえ、これはしっかりと起こるのであり、それゆえに、諸君が一切を始める前に、諸君の人生全体が厄介事の低俗な原因の全てから恒久的に自由になるように手配することによって準備することが最善である。ヤーマの実践的課題の大部分は、従って、「私はどのようにして作業に身を落ち着けるべきか?」である。その結果、理論的理想条件を遵守しつつ、諸君は、それが諸君に可能な最上の方法の中で発生するように、それぞれの新たな課題に取り組まなければならない。
     我々は今、ニヤーマ或いは美徳の意味を考察する状況にある。ほとんどの人にとってニヤーマを構成する資質は、彼らの自意識によって全く理解されていない。これらは積極的な力だが、それらは潜在的である。それらの開発はただ単に量と効率の表現において測定可能であるだけではない。我々が、粗雑から精緻へと、粗野から繊細へと上昇するにつれて、我々は新境地(そして一見計り知れないものが現れる)に入る。私がこれによって示すものが何であるかを説明することは全く不可能である。もし可能であれば、諸君は既にそれを知っているだろう。どうすれば、スケートをしたことがない人物に氷の上で困難なフィギュアスケートを演じる楽しさの性質を説明できるのか? 彼は彼自身の中に使用準備が済んだ完全な装置を持つ。しかし、体験が、体験だけが、かかる使用の成果を彼に気づかせることができる。
     同時に、ヨガの一般的な解説では、我々の知的理解に基づく限界の暗雲を貫き通す尖端の機能の幾許かの着想を与えるために、それは有用であるかもしれない。
     私は、言わば計算盤【訳註5】のようなものを採用することが、思索のあらゆる種類において非常に有用であることを発見した。占星術と生命の樹によって与えられた宇宙の概要の表現は、とりわけ聖なるカバラ【訳註6】によって補強され、詳述される時、極めて貴重である。この生命の樹は無限の柱状構造を受け容れる余地があり、この結合の中にそれの細かい部分の調査は必要ない。我々には、我々の図表の基盤として占星術師達によって想像されたような太陽系を取ることにより、基本的な目的のために極めて満足のいく図表を作ることができるようになる義務がある。
     平均的な学徒が実際には惑星の意義が一般にギリシャとローマの神々の哲学的観念に基づいていることを承知しているか、私は知らない。我々は最高を期待して進もうではないか!
     骨格を象徴する土星という惑星は骸骨である。即ち、それは肉体の残りの部分がその上に構築される堅固な構造体である。これはどのような道徳的性質に照応するのか? 骨の中の美徳の一点目は、それの硬直性、耐圧性である。そして、ニヤーマでは、我々は、我々が我々の養生法の中での絶対的単一性を必要とすることを見出す。我々は無感覚を必要とする。我々は耐久力を必要とする。我々は忍耐を必要とする。ヨガを実践していない者にとって、退屈が何を意味するかを理解することは絶対に不可能である。私はヨガ行者達を知っており、耐えがたい退屈から逃れるため、避難するためにボトルパーティへと駆けつける男達は、私よりも実に神聖である【原註1】! 生理学的退屈は最も鋭い苦痛となる。緊張は筋肉の痙攣となる。自主制約から逃れること以外はどうでもよい。
     しかし、全ての悪はそれ自身の改善策をもたらす。土星のもう一つの性質は憂鬱である。土星は宇宙の悲哀を象徴する。それは解放任務を引き受ける決断をした者である悲哀の忘我状態である。これが〈法〉の活性化力である。それは、一切が人を任務へと衝き動かし、〈軌道〉上に留める悲哀であるという事実の剛性である。
     次の惑星は木星である。この惑星は多くの部分で土星の反対である。それは、土星が収縮を象徴するように、拡張を象徴する。それは普遍的愛であり、その対象が宇宙そのものにも劣らないほどでありうる無私の愛情である。これは彼らが苦闘する時に土星の力を強めるために訪れる。成功は自己のためではなく全体のためである。人はその人自身の失態を黙認するかもしれないが、人は宇宙に値しないものにはなりえない。木星もまた、宇宙の不可欠で創造的で温和な要素を象徴する。
    彼はガニメデとヘーベー【訳註7】を彼の酌人とするために有する。大作業〔Great Work〕においては、絶大且つ至難の歓喜がある。そして、彼の作業が価値あるものであるとヨガ行者を安心させる歓喜の、忘我状態の理性的な暗示でさえも、それは忘我状態の到達である。
     木星は経験を消化する。木星は〈生命力の主〉である。木星はありふれた物質を取り、それを最高の栄養に変換する。
     次の惑星は火星である。火星は筋肉組織を象徴する。それはエネルギーの最低次の形態であり、ニヤーマにおいては、まさしく文字通りに、その〈作業〉の物理的困難に取り組み、征服することを可能とする美徳として受け取られることになっている。実践的な点はこれだけである。即ち「もう少しとどれくらい、少し少ない、そして何と言う別世界!〔The little more and how much it is, the little less and what worlds away!〕」どれほど長時間に亘って通常の気圧下で諸君が水を九十九度に保っても、それは沸騰しない。私はおそらく、他者が持っていない細々としたものについて語ることで、ある種の内燃機関用燃料の宣伝をしている、と糾弾されるだろうが、私がそれに対する支払いを受けていないことを私は諸君に保証する。
     私が次の学習で扱いたい主題であるプラーナヤーマの例を挙げよう。諸君が、息を吸い、止め、そして吐き出す呼吸の循環【訳註9】がちょうど一分間続くように、諸君の呼吸を管理していると仮定しよう。それはほとんどの人々にとってかなり良い作業であるが、それが諸君の推進力として十分であるとは限らない。諸君が必要な間だけ試すまでは、うまくいくのかどうか、諸君に教えられる者は誰もいない(それと、「必要な間」がどれだけかを伝えられる者も誰もいないかもしれない)。もし諸君が諸君の六十秒を六十四秒に増やすならば、その不可思議な現象は直ちに始まるかもしれない。それは申し分なく聞こえるが、諸君が六十秒行うと諸君の肺が破裂寸前になるので、諸君は基準に達するためにこの追加されたエネルギーを欲する。それは全ての実践の中で発生する困難の唯一の例である。
     更に、火星は情熱の激烈なエネルギーであり、それは最低次の意味での男性性である。それは猛り狂う勇気であり、私は、少なくとも私自身の場合では、私が最も頻繁に抵抗していた抑圧の一つが、私が狂いつつあったという恐怖であることを諸君に伝えるに吝かでない。これは冷静に記録されたそれらの現象が発生した時にとりわけ当て嵌まり、狂気のように見えた。そして、火星のニヤーマは、負傷で死に瀕しているのに傷痕に冗談を言う無慈悲な憤怒である。

    「……コロンゼイの残忍な君主
      彼は大地に転がされ、
      そして彼の刃である死の鋭い痛みに笑った
      致命的な突きは見事に報いた」
    〔  .... the grim Lord of Colonsay
       Hath turned him on the ground,
       And laughed in death-pang that his blade
       The mortal thrust so well repaid〕【訳註8】

     次の天体は万物の中心である太陽である。太陽は装置の心臓部である。彼は万物を調和させ、万物を活性化し、万物を支配する。彼の勇気とエネルギーは他の全てのより小さな運動の形態の根源であり、それゆえに彼自身の中で彼は平静である。彼らは惑星である。彼は星である。彼のために全ての惑星が来る。彼の周りで彼ら全てが動き、彼へと彼ら全てが向かう。これこそが太陽のニヤーマである能力の集中化、それらの制御、それらの意欲である。彼は心臓だけではなく、装置の脳髄でもある。しかし、彼の中の全ての思考が秩序立てられた運動の美と調和の中に還元されているため、彼は「思考する」脳髄ではない。
     次の惑星は金星である。彼女の中において初めて、我々は、最も純粋であるにもかかわらず、より積極的な性質のせいで我々の偏見によってこれまで覆い隠されてきた我々の本質に接触する。金星は木星に似ているが、より低次の階級にあり、火星が土星にするのとほぼ同じように、彼に向かって進路を取る。彼女は本質的に太陽に近似し、彼女は美と調和に関する彼の影響力の具体化と看做されるかもしれない。金星はイシス、太母〔Great Mother〕である。金星は〈本質〉そのものである。金星はあらゆる可能性の総和である。
     金星に照応するニヤーマは、最重要のもの一つであり、最も達成が困難なものの一つでもある。私はあらゆる可能性の総和であると述べたし、また、私は諸君に、私が大作業そのものの定義、何が彼であり何が彼でないのかが理解されて結婚が完全なものになる限りにおいて、彼の全てと彼でない全ての結婚を完全なものにして最終的な理解に至るというヨガ行者の目的に関して前に述べたことのために、諸君の精神の中に戻ることを求める。従って、我々は我々のヨガを選り好みすることができない。そのことは『法の書』第一章二十二節に「お前達の中で、あるものと別のあるものとの間に違いを作らないようにせよ、それによって傷が生ずるからである」と書かれている。
     金星は全ての可能な体験の忘我の受容と一つの経験の中に没頭するあらゆる個別の体験の超越的な仮定を象徴する。
     ああ、そうだ、ところで、このことを忘れないでほしい。より下等な意味において、金星は思慮分別を象徴する。ヨガ行者が直面する課題の多くは、理性的な操作が通用しない。それらは優しく押し戻される。
     我々の次の惑星は水星であり、彼に照応するニヤーマは彼自身の性質ど同じように無数且つ多様である。水星は〈言葉〉であり、最高のロゴスである。彼は対立間の直接的媒介者である。彼は電気、まさに生命の連環であり、ヨガ的過程そのものであり、それの手段であり、それの終焉である。しかし、それの手段によって伝達されるであろう通信内容に電流が無関心であるように、彼は彼自身の中においてあらゆる事柄に無関心である。それの最高の形態における水星に照応するニヤーマは、私が既に述べたことからたやすく推測されるかもしれないが、ヨガの技法において、彼は一切の問題に無限に適合しうる方法の細やかさを象徴するが、それは彼がこの上なく無関心であるからに過ぎない。彼は困難の中で我々を助ける機知と創意である。彼は機械的装置であり、ヨガ行者の人間精神を助けるその象徴体系はこれからやってくるものの認識を得させる。
     何であれ全てへの彼の完全な無関心のせいで(そしてその考えは――諸君が十分に成功する時――智慧の主要点に過ぎない)彼は全く信頼できないということをここで言っておかなければならない。〈小径〉の不可解なまでに忌むべき危険は、諸君が水星を信頼しなければならず、それなのにもし諸君が彼を信じるならば、諸君は必ずや騙されてしまうことである。たとえそうであるとしても、全ての真実が相対的であるので信じられた時から全ての真実は虚偽である、と指摘することによって私はこのことを説明できるだけである。ある意味、水星は大敵である。水星は精神、我々が征服に乗り出した精神である。
     聖なる七惑星の最後は月である。金星が火星に行うようにして月は太陽に照応するため、月は我々全体の女性性の総合、更に金星のそれとは大きく異なる受動的原理を象徴する。彼女は金星よりも純粋に受動的であり、金星は極めて普遍的であるが、月もまた異なる意味合いで普遍的である。月は最高且つ最低である。月は願望であり、人と〈神〉の繋がりである。彼女は至高の純潔である。処女イシス、処女母神イシス【訳註11】。しかし、彼女はまさに基準の対極からやってきていて、単なる現象の登録手段であり、差別ができず、選択ができない感覚それ自身の象徴となる。彼女の影響力に照応するニヤーマは、第一に、決して全体ではない何物との結合も拒む積極的な純潔の願望の性質である。ギリシャ神話のアルテミス、月の女神は処女である。彼女はパンだけに身を任せた【訳註12】。ここに注目すべき教訓がある。つまり、ヨガ行者が上達するにつれて、魔力(シッディ【訳註13】、と指導者達は呼ぶ)が志願者に与えられる。もし彼がこれらの最小限――或いは最大限――を受け容れるならば、彼は滅びる。
     月のニヤーマの基準の反対側では、ヨガ行者を困惑させる感性のすばらしい成長がある。これらは全て支援と激励である。これらは全て我慢ならない障害である。これらは人間存在が直面する障害の最大のものであり、感覚のみを手段として彼の意識全体を受け止めるための何世紀にも亘る進化によって彼そのものが訓練される。そして、それらは我々の作業の技術に直接的に干渉するので、それらは我々を痛烈に打撃する。我々は、我々自身の意思に反して常に新たな力を獲得しており、そしてこれが発生するたびに我々はそれらの悪意を無効にする新たな方法を考えなければならない。しかし、これまでのように、治療法は疾患と同じ材料から成る。それは、我々にこれら全ての困難を克服できるようにする願望の揺るぎない純潔である。月は我々の作業の頼みの綱である。それは、いつであれいかなる方法であれ、その瞬間に必要であろう時に、我々に克服を可能とさせる〈聖守護天使の知識と会話〉である。
     他に二つの惑星があり、聖なる七惑星の中に数えられていない【訳註14】。私は、それらが古代人に知られ、わざと隠蔽されていたと言うつもりはないが、それにもかかわらず、彼らの著作はこれが多くの点で当て嵌まることを示唆する。私は惑星ハーシェル【訳註15】乃至天王星、そして海王星に言及する。古代人の知識であったかもしれないとしても、彼らが彼らの体系の中に、これらの二つの惑星と新たに発見された冥王星によってちょうど満たされた間隙を残したことは、少なくとも確かである。まさに過去五十年の間に発見された新化学元素がメンデレーエフの周期律表〔table of the Periodic Law〕【訳註16】の間隙を満たすように、それらはこれらの間隙を埋める。
     ハーシェルは〈真の意志〉の最高の形態を象徴し、これが聖なる七惑星と同列にされるべきでないことは、〈真の意志〉がそれらを超越する領域〔sphere〕【訳註17】である理由から、自然且つ正当と思われる。「すべての男女は星である」。ハーシェルは星、諸君の星の軌道を定義する。しかし、ハーシェルは動的である。ハーシェルは爆発的である。ハーシェルは、占星術的主張では、軌道上を移動しない。彼は彼自身の経路を持つ。だから、この惑星に照応するニヤーマは、徹頭徹尾、〈真の意志〉の探求である。この知識は秘密にして最も神聖である。諸君一人一人が、ハーシェルの入射光と性質を諸君自身に取り込まねばならない。彼がそれを達成するまでは、彼は彼が誰であり、彼がどこへ向かうのかを理解することができないので、それは最もヨガ行者の最重要任務である。
     一層遠隔且つ稀薄なものは海王星の影響力である。ここには無限の繊細さのニヤーマがあり、霊的直感は遠く、あらゆる人間性全体から遠く離れている。ここでは全てが幻想であり、この世界では無限の歓喜、無限の冒険がある。海王星の〈真のニヤーマ〉は想像力であり、無際限の光の性質の予兆である。
     彼は別の機能を持つ。海王星の影響力を理解し、海王星に調和するヨガ行者は、ヨガ行者にとって最大の防御手段であるユーモアセンスを持つであろう。海王星は、言わば、最前線にある。彼は困難と苦難に彼自身を適合させなければならない。そして、新兵が「何があなたを老いさせたのですか?」と訊ねた時、彼はにこりともせず「〈臆病者ども〉だ〔Mice〕」と言わなければならない。
     冥王星は全ての中でも最高の番人である。彼の話をするのは賢明ではない。……今、この予言、曖昧で不吉な発言をぶちまけると、非常な大胆によってそれは訊ねられるかもしれない。どうして冥王星の話をすることが賢明でないのか、と。答えは奥深い。彼については何も知られていないからである。
     いずれにしても、それは問題ではない。我々は一晩に亘るニヤーマに間違いなく食傷している!
     我々がヤーマとニヤーマについて学習したことを一通り要約することは適切である。それらは一面において、ヨガの技法に独特の道徳的、論理学的予備試験である。それらは、我々がそれらを――姿勢の新兵教練、呼吸の練習、そしてこの偉大な科学と芸術を構成すると浅薄な自信を持って推測する瞑想――と呼ぶことのできる五指練習よりも深刻な何かを彼が試みる前に志願者によって為されなければならない戦術的処理とは対照的に、戦略的である。
     我々は我々が何をすべきであるかの一定の規則を定めることが自信過剰で非実用的であることを見てきた。我々の関心を惹くものは、それらが事象の移り変わる映写機〔bioscope〕の中に生じる時に、我々に我々の目論見を成し遂げさせる超常的能力の発達を許可する上で必要或いは好都合になりうることを、我々が自由に行える物事の準備である。
     もし誰かが即席の実践的計画のために私の許に来たならば、私は言う。よろしい、もし君がイングランドに滞在しなければならず、発生しそうな緊急事態に対処するために既によく訓練された従者の奉仕を得ているのであれば、君は道路から遠く離れた僻地の小屋でほんの少しの運によってそれを成し遂げることができるかもしれない。優れた規律励行者は、必要とあらば、クラリッジス【訳註18】のスイートルームで非常に巧みに継続することができるかもしれない。
     しかし、これに反し、不可視の諸力を考慮しなければならないことを呼びかけるかもしれない。諸君が一度取りかかった時、最も手に負えないことが起こり始める。諸君が、気候が安定していて、大気が文明の悪臭で汚染されていない国にいるのでない限り、真剣なヨガを始めることは全く満足のいくことではない。その人が極めて裕福な人物でない限り、住人達がヨガ行者の生活様式を理解し、その実践に共感的であり、尊敬と共に志願者を遇し、妨げにならないように彼に支援と保護を行う国を見つけることは極めて重要、何よりも重要である。そのような状況においては、ヤーマとニヤーマの緊急性はそれほど深刻な圧力ではない。
     回避しようと最初に決心した、まさにそれらの神秘的前提を作ることなしには強調しがたいこれら全ての実践的内容を超えるものもある。私が言うことができる全ては私が大変残念に感じているということであるが、この注目すべき事実は諸君が極めて長く開始する前に諸君の顔を引っぱたくだろうし、なぜ我々がその事実の受容の根拠となる神秘的前提に心を煩わされなければならないのか、結局は同様に神秘的且つ不可解であるもののについても同じく、私はわからない。つまり感覚のいずれかの何らかの対象である。事実はこれである。所定の場所或いは所定の方法がその目的のために正しいか間違っているかという感覚――非常に不合理な感覚――を獲得する。暗示は未知の武器を拾う時の剣士と同じように確かめられる。それが手に優しく近づいてくるか、そうでないか。諸君はそれを説明することができないし、それを議論によって回避することもできない。
     それらの重要性がひどく過小評価され、且つそれらの本質が完全に誤解されていたため、私はヤーマとニヤーマを長い間論じてきた。それらは間違いなく魔術の実践であり、神秘的趣の色彩はほとんどない。ここでの我々にとっての利点は、ヨガの技法があらゆる実践的目的のために不可能であるこの国で、我々がこの方法によって非常に便利に我々自身を鍛錬して成長させられることである。ちなみに、その人がたまたま生まれた現実の国――それは条件である――は、ヤーマとニヤーマが実践されることのできる唯一のものである。諸君は諸君のカルマを避けることができない。諸君の〈真の意志〉の成就に必要な段階に至るための精進の手筈を整えることによって、諸君は諸君自身をふさわしいヨガに専念させる権利を得なければならない。ヒンドゥスタンでは現在、その人が彼自身の環境に対する彼の義務を果たすまで「托鉢僧」――隠者〔訳註19〕――になることが許されない――神のものを神に返す前にカエサルのものをカエサルに返さねばならないのである。
     生まれ合わせの利益を得ようと考える者の七ヶ月目の中絶、そして義務の呼びかけを嘲笑して中国で壁をこっそりと凝視することに災いあれ! それらは小中学生の教育課程の用語に翻訳できないため、ヤーマとニヤーマは、ヨガの一層危機的な段階である。小中学生の小細工は志願者を人間の義務から十分に正当化することもできない。汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。
     喜べ、真人達よ、このように!
     これは少なくとも、実戦のために志願者に適合するばかりでなく、その人の影響力がヨガの実践の最初の決定的成果を記念するそれ自身の完全な崩壊の凄まじい衝撃に彼の精神を備えさせる、これまでは予期されなかった現象の分類に彼に引き合わせる、というこのような方法によって得られる成果があると言われるかもしれない。
     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    原註
    1 否! 否!

    訳註
    1 原文には manhood とある。クロウリーの男尊女卑傾向を踏まえると、これに限らず man- は全て「男」と訳すべきかもしれない。しかし、同時にこれが建前上は男女両性に向けた講義でもあることも踏まえ、敢えて人間一般と解した。
    2 原文は Echo answers... であり、直訳すると「木霊が答える」となるが、状況的に聴衆が黙りこくって講演の残響だけがあったことを表現しているのではないかと解釈して意訳した。言語学上の Echo answer を意味するのかもしれないが知識不足のため判断不能。
    3 明言されていないが五感を指すと思われる。
    4 原文には external batteries bombarding you とある。battery が他に「砲兵隊」を意味し、bombarding も「砲撃」を意味することから、ちょっとした言葉遊びをしたものと判断し、註記する。
    5 Abacus は算盤の意であるが、これは特に日本の算盤のみを指す単語ではなく、世界各地で見られる計算補助器具をも指す。クロウリーがとりわけ日本の算盤を意識してこの一節を書いたとは思えないため、公約数的に「計算盤」とした。
    6 ここでは、と言うよりもクロウリーは原則的に Qabalah と綴る。カバラという単語の綴りの始まりがQであるかKであるかCであるかは、著者に専門知識がある場合、割合大事な事柄であるため、註記しておく。一般に、Qから始まるカバラは魔術的カバラに分類され、Kから始まるユダヤ教の伝統カバラ、Cから始まるクリスチャン・カバラと区別される。決して公式の表現ではないが、Qカバラ、Kカバラ、Cカバラと書くと日本語表記時に誤解を招きにくい。ただし、野暮ったくて文章の雰囲気を大いに損なう。
    7 ガニメデ Ganymede は木星の衛星だがヘーベー Hebe は小惑星。
    8 サー・ウォルター・スコット「The Lord Of The Isles」の引用と思われる。詳細不明。訳に自信がないので原文を残しておいた。
    9 順に、プラーナヤーマにおける吸気法(プーラカ Puraka)、止息法(クンバカ Kumbhaka)、呼気法(レーチャカ Rechaka)。
    10 引用部分はアレイスター・クロウリー『法の書』島弘之、植松靖夫訳、国書刊行会、一九八四年の訳文を用いた。
    11 Isis the Virgin Mother は慣例に倣って「聖母イシス」とすべきかとも思ったが、マリアとイシスでは属性が異なると感じ、処女母神と意訳した。
    12 極めて困惑させられる一文。ギリシャ神話でアルテミスがパンにのみ身を任せた或いは屈服した(she yielded only to Pan.)という話は記憶にない。ニュンペー達がパンにかどわかされた故事を言っているのでなければ、おそらく、『トートの書』などに見られるパンとサタン、及びアルテミスとヌイトの関連付けによるクロウリー独自の魔術的神話解釈であるか、それらを下敷きにアラディアの神話と関連付けた解釈であるか、さもなくば単なるクロウリーの記憶違いであると思われる。
    13 Siddhi はヒンドゥー教における神通力。成道によって得られるとされる他、ヨガの熟達によっても獲得されるという。
    14 この時点で既にクロウリーは三つの外惑星を生命の樹の至高者に配属していたが、その配属は未完成であった。一九〇九年の『七七七』では海王星と天王星をコクマー、ビナー、ダアトに関連付ける構想が見られる。ケテルの配属には手を付けていなかったようである。惑星とセフィラーの照応を限定していないことについて、クロウリーは、深淵を越えた先に位置する至高者においては下位の領域ほど物事が明確でないという説明を加えている。しかし、海王星をケテルに置き、天王星をコクマーに置く配属もあるため、確かに至高者の配属には明確性が欠けている。なお、この時点では冥王星は未発見だった。配属が一応の完成を見たのは一九四四年発表の『トートの書』でのことであり、一般に知られるクロウリーの最終的見解では、冥王星はケテルに、海王星はコクマーに、天王星はビナーの土星を追い出すことなくダアトにそれぞれ居を定めることとなった。
    15 以後、クロウリーは天王星を Herschel と表記している。天王星と訳すべきか迷ったが、天王星は Uranus のことであるため、意訳を避けることにし、今後もハーシェルと訳す。
    16 周期律表 table of the periodic law というものは存在しない。一般には、周期律 periodic law と周期表 table of the Periodic が混同されたものであるとされる。しかし、クロウリーが特別な意図を籠めて Law という語を挿入した可能性もあるため、単なる間違いと看做して修正することはためらわれる。
    17 phere はplanet との掛詞でもあると思われるので、叙述上の意味に原文を併記した。
    18 Claridge's はロンドンの高級ホテルを指すと思われる。
    19 Sannyasi は正しくはヒンドゥー教の托鉢僧や遊行僧、出家者等を指す。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第一部第二講 ヤーマ

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第一部 劣等人種達〔yahoos〕のためのヨガ
             第二講 ヤーマ


     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。

     星々、及び胎盤を持つ羊膜生物よ! そして汝ら一万世界の住人達よ!
     先週の我々の研究の結論は、〈欲望〉の根源である分裂の感覚を破壊する解放をもたらす窮極のヨガは、それの存在の全ての要素の集中によって作られ、そしてそれを本質的な興奮によって宇宙そのものと共に消滅させるということである。
     合間にここを書き留めてくれてもよいと私は思うが、これを行うことの困難の一つは、まさに彼が向上し、そしてその向上という理由によってあらゆる方法で向上するようなヨガ行者の全ての要素である。しかしながら、我々がそれらに思い至るまで我々の横断橋は役に立たず、普遍的体験に基づいて厳粛な科学的原理を制定することによって、彼らが旅路の全ての段階を通して我々に忠実に奉仕することに我々は気づくだろう。
     私が初めてヨガの研究を企てた時、私は幸運なことに、現代科学の基本原理に適った訓練が整っていた。もし我々があらゆる常識を取り組むべき課題に持ち込むならば(科学は常識を教えられているに過ぎない)、第一に行うべきことは神秘主義の異なる体系の比較研究であることに私は即座に気づいた。世界中の結果が同様であることがたちどころに明らかになった。それらは宗派的学説によって隠されていた。世界中の方式は同様であった。これは宗教的偏見と土着風習によって隠されていた。しかし、彼らの屁理屈では――一致している! この単純な原理は、それの表現を混乱させてきている途方もない複雑性がもたらす、その主題のもつれを解きほぐすのに満足なものであることをすっかり証明した。
     問題の単純な分析を準備する段階に来た時、疑問が発生した。即ち、我々はどのような用語を使うべきか、である。ヨーロッパの神秘主義は絶望的なまでに混乱している。理論は完全に方法を覆い隠している。中国の体系は多分、最も崇高且つ単純である。しかし、中国人に生まれない限り、その象徴群は本当に到達不可能なほどに難解である。仏教徒の体系はある意味では完璧であるが、それはやはり最も難解である。その言葉は長さにおいて法外であるし、記憶に留めることが難しい。そして一般的に言えば、人は些細なことに拘って全体を見逃す。しかし、インドの体系からは、それが各種の付属物によって過剰な負担をかけるにもかかわらず、不必要且つ不快な影響を受けていない手法を抽出することと、それの解釈を自明のこととしてヨーロッパ人の精神に受け容れさせることが比較的簡単である。この体系とそれについてのこの解釈、私が諸君に提出することを提案するものはそれである。
     サンスクリット文学の偉大な古典はパタンジャリ〔Patanjali〕の警句集【訳註1】である。彼は少なくともありがたいことに簡潔であり、彼が書いたものの九十或いは九十五パーセント以下を混乱した精神の戯言として斥けることができる。残留物は二十四金である。私は今それを与えることを始める。
     ヨガには八支則〔eight limbs〕があるとされる。なぜ肢〔limbs〕であるかは知らない。だが、私はこの分類を受け容れることが好都合であることを発見し、我々は、我々の言説をこれらの八つの見出しの下に分類することにより、とても満足のいく形でこの分野を取り扱うことができる。これらの見出しは次の通りである。

     一、ヤーマ〔Yama〕[禁戒]【訳註2】。
     二、ニヤーマ〔Niyama〕[勧戒]。
     三、アーサナ〔Asana〕[座法]。
     四、プラーナヤーマ〔Pranayama〕[調気法]。
     五、プラティヤーハラ〔Pratyahara〕[制感]。
     六、ダーラナー〔Dharana〕[総持]。
     七、ディヤーナ〔Dhyana〕[禅定]。
     八、サマディ〔Samadhi〕[三昧]。

     これらの言葉を翻訳しようとする試みは、誤解の絶望的な泥沼の中に我々を落ち込ませる。我々にできることは、順番にそれぞれを処理し、何が意味されているかのほとんど完璧な知識を獲得することを我々に可能にするいくらかの種類の定義または説明を最初に与えることである。私はそれに基づきヤーマの説明から始めなければならない。
     注目せよ! 熟考せよ! 超越せよ!
     ヤーマはヨガ八支則の中で定義することが最も簡単なものであり、我々の「制御」という言葉にかなり近い。ある者がそれを「道徳」と翻訳していることを私が諸君に伝える時、諸君は人間性の愚劣極まる腐敗した啓示にぎょっとして竦み上がったり呆れ返ったりするだろう。
     ここで「制御」という言葉は生物学者が用いるような「抑制」とさほど変わらない。アメーバのような単細胞は、ある意味において完全に自由であり、別の意味では完全に受動的である。それの全ての部分は同質である。その表面のいずれの部分でもそれの食物を摂取できる。もし諸君がそれを半分に切ったとすると、結果として、諸君は一体のアメーバと引き換えに二体の完全なアメーバを手にする。トランク殺人〔trunk murders〕から、進化論的階層の中のどの程度でこの前提は除去されるのか!
     その構成要素の構造に特化することで進化してきた生物は、一般的能力の制限によるように、新しい能力の獲得によってこれを達成することはさほどない。従って、ハーレイストリートの専門家は、普通の医者であるに過ぎず、彼は言う。「私は外に出かけて病人を診察するつもりはない。否。否。否」
     さて、細胞の真実は、既に潜在的に特化された全ての器官の真実である。筋力は、骨格の剛性と、指定された方向以外へのあらゆる運動を許容することに対する関節の拒否に基づく。支点が確かであるほど、梃子は能率的である。道徳上の問題にも同じ所見が当て嵌まる。これらの問題はそれら自体は全く単純である。しかし、それらは司祭達と法律家達の邪悪な活動によって完全に覆い隠されている。
     これらの問題のいずれかに関する何らかの抽象的な意味において、正解或いは錯誤であることに疑いの余地はない。塩素が熱狂的に水素と結合し、極めて冷淡な方法でしか酸素と結合しないことを「正しい」と言うのは不合理である。ヒドラが雌雄同体となること、或いはあらゆる方向に自由に動かない肘の部分に対して服従しないことは、道徳に適ったことではない。彼の仕事が何であるかを知る者は誰であれ、その仕事を果たすというただ一つの義務を負う。機能を具える誰もが、それの自由な成就の準備をする機能を果たすというただ一つの義務を負う。
     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。
     それゆえに、もし我々が、敬虔なヒンドゥー教徒の間違っていて悪質な創意工夫によって、全く単純な用語であるヤーマ(若しくは〈制御〉)があらゆる意味で人を悩ませることを発見したとしても、我々は驚かなくてよい。彼は「制御」という言葉がある種の固定的な禁令の遵守を意味すると解釈している。ヤーマの表題の下に分類されるかなり多くの禁令があり、それは〈師〉に期待される種類の人々にとっておそらく非常に必要なことであるが、それらは不合理な普遍的規則にまで昇格させられている。あらゆる人がユダヤ教徒やイスラム教徒による食料品としての豚肉の禁令をよく知っている。これはヤーマ若しくは概念的正義とは無関係である。東部諸国の豚肉が旋毛虫に感染していたという事実のために、それは不適切に調理された豚肉を食べた人々を死に至らしめた。蛮人達にその事実を伝えることは良いことではなかった。いずれにしても彼らは、食い意地が彼らに打ち勝った時に衛生的な命令を破っただけであった。助言は普遍的規則となり、宗教的認可の権威に支持されなければならなかった。彼らは旋毛虫を信じる頭脳を持っていなかった。しかし彼らは、イェホヴァとジャハンナム〔Jehannum〕【訳註3】を恐れていた。まさにその通りで、我々はヤーマの集成の下で見習いヨガ修行者が、誰かが諸君に煙草や飲み物や水を提供するならば、諸君はヴィクトリア式礼法に適った彼の油断のならない申し出を拒絶しなければならない、ということを意味する「贈与の固辞【訳註4】」に至らなければならないことを学ぶ。そのようなものはヨガの科学を侮辱の中に投げ込むような不条理である。しかし、もし諸君が禁令を布告された人々の階級を考えるならば、それは不条理ではない。と言うのも、後で我々が指摘するつもりでいるように、精神集中の準備は精神の制御であって精神の平穏を意味し、そしてヒンドゥー教徒の精神は、もし諸君が人に最もくだらないものを提供するならば、その出来事が彼の人生の転機となるように構成されているからである。それは何年にも亘って彼を完全に動揺させる。
     東方では、現地人に対する全く自動的且つ無分別な善行は、彼の人生が終わるまで、彼を諸君と肉体、そして霊魂に帰属させる虞がある。言い換えるなら、それは彼を動揺させるであろう。そして新米のヨガ修行者として、彼はそれを拒絶しなければならない。しかし、拒否さえも彼を非常に動揺させる。従って彼は拒否という中に「固定」されねばならない。即ち、彼は不断の拒絶を行う手段によって、彼が恐怖に震えたり、声を震わせたりすることなく、或いは期待の三十二分音符すらもなしに、本当に誘惑を斥けることのできる強力な心理的障壁を確立しなければならない。その成果を得るために絶対的規則が必要であることを諸君が理解すると私は確信する。彼が受け取ってよいものとそうでないものとの間に線引きをする試みは、彼にとって明らかに不可能である。彼は単にソクラテスのジレンマ【訳註5】に巻き込まれているだけである。他方、もし彼が逆方向に進み、全てを受け容れるならば、彼の精神は、彼が受け容れたことに対処する責任の負担によって同じように動揺する。しかしながら、これらの留意事項は平均的なヨーロッパ人の精神には適用されない。もし誰かが私に二十万ポンドをくれたとしても、私は習慣がもたらす惰性のせいでそれに注意を向け損ねる。それは人生の平常の状況である。私を試してみよ!
     他にも極めて多くの禁止命令があり、それらが一般的にヨガ、そして任意の学徒の特別な利益に当て嵌まるかどうか理解するために、それらの全ては自主的に検査される必要がある。我々は宇宙に関する空想的な理論、或いは民族や風土の偶発事象に基づく考慮事項の全てを特に除外する。
     たとえば、カシミールの後期マハラジャ時代、マフシール【訳註6】釣りは彼の領土のあらゆる場所で禁じられていた。なぜならば、子供の時、彼がスリナガルからジハラムに向かう橋の手摺から身を乗り出し、不注意にも口を開けていたため、マフシールは彼の魂を飲み込むことができたからである。〈領主〉〔Sahib〕――〈異教徒〉!【訳註7】――のためにマフシールが捕まえられることは決してなかった。この物語は通常、ヤーマの表題の下に列挙される戒律の実に九割の典型である。残りは大部分が地方や気候条件に基づき、それらは諸君自身の場合に適用されるかもしれないしされないかもしれない。そしてその一方で、ヨガの指導者が思いつかなかったあらゆる良い規則の種類がある。なぜならば、それらの指導者達は現在生活する多くの人々の状態を決して想像しなかったからである。仏陀、パタンジャリ、マンスール・アル=ハッラージュ【訳註8】が、彼らの弟子達に隣の部屋にラジオがあるフラットで実践をしないよう助言することを思いつくことは決してなかった。
     この全ての結果は、私が諸君に全てのルールを破棄して諸君自身のものを発見するよう伝える時、有能な諸君全員が間違いなく歓喜するであろうことである。サー・リチャード・バートンは言った。「自己規範を定めて守る者は気高く生きて気高く死ぬ」と。これはもちろん、全ての科学者があらゆる実験の中ですべきことである。他の人種は悪しき習慣しか持たない。諸君が新しい国を探検する時、諸君は事情がどのようなものになるか知らない。そして諸君は試行錯誤の方法によってそれらの事情に精通しなければならない。我々は成層圏を突破し始める。そして我々は全く予期されなかったあらゆる種類の方法で我々の乗機を修正しなければならない。私は正しいか誤りかの疑問が我々の問題に入り込まないようにもう一度大喝したい。しかし、成層圏では酸素供給をした状態で電気的に加熱された耐圧服に閉じ込められることが人間にとって「正しい」ことであるのに対し、もし彼がタネズルフト【訳註9】での夏季競技で三マイルを走っている時にそれを着るとしたら、それは彼にとって「誤り」である。
     これは全ての偉大な宗教指導者達がこれまでに陥ってきた落とし穴であり、諸君全員が同じようにして私を理解することを願い、私を熱心に見ていると、私は確信している。しかし、否! それが完全に厳格且つ完全に弾力的であるため、全ての行動に関する対立を通じて我々を支える一つの原理がある――「汝の意志を為せ、それが汝の法と成らん」
     つまり、それは、それに関して私に近づいて悩ませるために利用されることが少ない。通信教育による六回の簡単な指導でのバイオリンの完全習得! 私は諸君を否定する気持ちを持つべきか? しかし、ヤーマは違う。汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。それがヤーマである。
     諸君の目的はヨガを遂行することである。諸君の〈真の意志〉は、宇宙との結婚の成就であり、諸君の倫理規範は常に諸君の実験の条件にぴったりと適合されなければならない。諸君が諸君の規範を見出した時でさえ、諸君は諸君が上達するにつれてそれを修正する必要がある。それは「それを心の欲望に近づけて作り直す」――ウマル・ハイヤーム。ちょうど、ヒマラヤ遠征では、諸君が氷河に到着する時、シッキム【訳註10】やインダス川上流域の谷地での諸君の日常生活の規則を変更する必要がある。しかし、諸君にとって好ましくないと思われる物事の「区分」を(最大の注意と共に一般的な用語で)指し示すことができる。体を衰弱させ、心を疲弊させたり、混乱させたり、興奮させたりする何らかのものは価値が低下しうる。諸君は、諸君が上達するにつれて、特定の環境において全く排除することができない条件があることを強く確信する。その上、諸君は問題を最小限にできるようにこれらの取り扱い方法を理解しなければならない。そして、諸君は、ヤーマの障害を征服することができず、諸君の精神からそれを決定的に退けることもできないことを理解することになる。初心者にとって好都合な条件は達人にとって耐えがたい妨害となるかもしれず、同時に他方では、始まりにおいてはほとんど問題がないものが後になって最も深刻な問題となる。
     もう一つの要点は、訓練課程の中で非常に意外な問題が発生することである。潜在意識の問題全体は、標準的な人が彼の日常の仕事について取り組む時に、ほぼ冗談として斥けられることがある。諸君が、以前には予想外であった思考の類型によって諸君の精神の平静が掻き乱されており、その根源が想像不可能なものであることを理解した時、それは極めて現実的な問題となる。
     しかしその反面、作業用具の完全はない。いつも失敗と弱点が存在するのだが、成功する者は、欠陥のあるエンジンと一体になって作業の継続を成し遂げる者である。実際の仕事の負担が欠陥を発生させる。そして、変化する生活条件に対処することができるものは、極めて慎重に扱うべき判断事項である。その術式――「汝の意志を為せ、それが法の全てと成らん」が「あなたのしたいようにせよ」とは無関係であることがわかるであろう。
    〈セレマの法〉に従うことは、効力のない規制を奴隷的に最後まで追求することよりも難しい。重荷からの救済の意味での解放の唯一の瞬間は、まさに生と死の間にある変化でしかない。
     一連の規則に従うことは、もし彼が諸君を見ることができたならば諸君にひどく憤慨し、実際の状態とほとんど或いは全く無関係な一連の因習の助力によって諸君が研究の困難を回避できたと考えるような愚かさに対して諸君を歯に衣着せずに叱責するであろう時代遅れの菩薩【訳註11】に行動の全責任を移すことである。
     本当に恐ろしいのは、我々の足枷を破壊する単純な過程によって我々が作り出した障害物である。大気の克服の比喩は非常に見事に適用できる。歩行者を悩ませる事柄は我々を全く悩ませることがない。しかし、諸君のヤーマの新たな要素を制御することは、ハーバート・スペンサー【訳註12】によって地球上の進化について表明され、〈セレマの法〉によって存在する全ての様式を取り扱うために現在一般化された新たな条件への適応の生物学的原理、それらの条件への能力調整、そして結果として生じるそれらの条件での成功でなければならない。
     しかし、今、まず初めに私は憤りを爆発させたい。私の義務――〈セレマの法〉の制定――は、最もやる気の出ない仕事である。自由の主題に関する何らかの意見を持つ者を見つけることは稀なことである。なぜならば、〈セレマの法〉は自由の法であるため、あらゆる人の頭髪一本一本が最後には苛立つ山嵐の棘のように逆立つ【訳註13】。彼らは引き抜かれたマンドレイクのように泣き叫び、呪われた場所から恐怖に駆られて逃げる。その理由。即ち自由の行使とは諸君が諸君自身で考えなければならないことを意味し、人類の無気力が宗教と倫理が既製品であることを欲するからである。理論や実践がいかに馬鹿げているか恥ずべきものであろうとも、彼らはむしろそれを試験するよりも服従するだろう。それは時には鉤吊り【訳註14】やサティ【訳註15】である。時には実体共存説【訳註16】や堕罪以前説【訳註17】である。彼らはそれらがうまいこと育っている限り、育てられたもののことに注意を向けない。彼らはそれについて思い悩むことを望まない。〈母校のネクタイ〉が勝利する。彼らはネクタイの柄の意味を決して疑わない。即ち〈投げ矢の鏃紋〉【訳註18】。
     諸君は『二都物語』【訳註19】に出てくるアレクサンドル・マネット医師【訳註20】を思い出したまえ。彼はバスティーユ監獄に何年間も収監されていて、彼自身を発狂から救うために靴を作る許可を得ていた。彼が解放された時、彼はそれを嫌悪した。彼は最大限の警戒と共に取り組まなければならなかった。彼の扉が施錠されていなかったならば、彼は恐怖の苦悶に陥った。彼は時間内に終わらないのではないかという不安神経症の精神錯乱の中で靴を作った――その靴を求める者など誰もいなかった。チャールズ・ディケンズ【訳註21】はこの精神状態が異常な、もっと言えば惨めなものと思われるような時代と国家で生きていたが、現在、それはイングランド人の九十五パーセントの特徴である。ヴィクトリア女王の統治下で自由に議論された議題は、今は絶対的禁忌である。それらに触れることが彼らの内的腐敗に破滅的状況に惹き起こす危険を冒すことになると、どれほど育ちが良かろうと、誰もが無意識裡に知っているからである。
     ヨガ八支則の第一段階であるヤーマに取り組む度胸のある者でさえ本当にごく少数に留まるため、英国のヨガ修行者達が大勢になることはないだろう。
     私は何も国家を救おうとは考えていない。戦争と革命を通じて、生存を望む人々が彼ら自身のために切実な必要に従って、そして因習の腐敗した尺度によることなく思考し行動する場合を除いて。なぜ、職人の技能でさえも世代の中でほとんど朽ちてしまったのか! 四十年前、ジャックナイフを持った男とヘアピンを着けた女にできない仕事はほとんどなかった。今日では、諸君はあらゆるつまらない作業のために別個の器具を持たなければならない。
     もし諸君がヨガ行者になりたければ、諸君は行動を急がねばならない。
     選択せよ! 決断せよ! 沈黙せよ!〔Lege! Judica! Tace!〕【訳註20】

     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    訳註
    1 『ヨーガ・スートラ』のことであろう。『ヨーガ・スートラ』はラージャ・ヨガの教典。パタンジャリ Patanjali はその編纂者とされる四世紀から五世紀頃のインドの思想家。
    2 「禁戒」以下の日本語訳には日本で主流となっているものを当てたに過ぎず、これらは唯一の訳語ではない。たとえば、プラーナヤーマは「気息法」とも言い、ダーラナーは「凝念」とも言う。
    3 イスラム教の地獄。
    4 fixed in the non-receiving of gifts は、日本では「不貪」或いは「不蓄金銀宝」と訳されるアパリグラハ Aparigraha のことと思われる。
    5 エウテュプロンのジレンマのことと推測。道徳の根拠を巡る矛盾を扱う。それが善であるから為すべきなのか、それを為すべきだから善なのかという問いに要約される。クロウリーはヤーマの根拠に問題提起をしたものであろう。
    6 mahsir は鯉科の大型魚。詳細は不明。発音の正確性には自信がない。
    7 原文は Mlecha とあるが、ムレッチャ mleccha の異綴語であろう。ヒンドゥー教徒から見た異教徒、即ち非ヒンドゥー教徒を意味する。
    8 Mansur el-Hallaj はイスラム教神秘主義者ハッジ・マンスール・アル=ハッラージュ Hajji Mansur el-Hallaj のことと思われる。
    9 Tanezrouft はサハラ砂漠にあるタネズルフト盆地のことであろう。
    10 インドの北部地方。
    11 bodhisattva は菩薩と漢訳される。クロウリーの意図する菩薩は、今日日本で信仰対象として知られる菩薩よりも高位の修行者である本来の形が近いと思われ、誤解を予防するためにもボーディサットヴァとすべきかもしれないが、わかりやすさを優先して普及した漢訳を当てる。他の仏教用語についてもこの方針を基本とする。
    12 Herbert Spencer は主に十九世紀に活動したイギリスの哲学者、社会学者、倫理学者。社会進化論を説いた。
    13 「あらゆる人の頭髪」云々はシェークスピア『ハムレット』にかけたのかもしれない。
    14 hook-swinging はアメリカインディアンのマンダン Mandan 族の宗教的苦行。志願した生贄が背中の肉に鉤を突き刺して吊り下げられる。
    15 Sati はヒンドゥー社会の宗教的慣習を指すと思われる。寡婦が夫を火葬する火に飛び込んで殉死する風習。寡婦殉死。シヴァ神の妃であったサティ女神の逸話に由来する。
    16 パンと葡萄酒の実体とキリストの体と血の実体の共在を主張し、化体説を採るカトリックと対立する。
    17 予定説の一つ。神による人類救済は人類の創造と堕罪に先立って決定されているとする。堕罪以後説と対立する。
    18 英国政府が官給品に付ける印でもある。
    19 A Tale of Two Cities. チャールズ・ディケンズの小説。一八五九年初版刊行。
    20 Dr. Alexandre Manette. チャールズ・ディケンズの小説『二都物語』の登場人物。バスティーユ牢獄に囚われて発狂しかかっていた。
    21 Charles John Huffam Dickens は十八世紀のイギリスの小説家。『二都物語』の他、『クリスマス・キャロル』などの作品がある。
    22 このくだりの訳には自信がない。クロウリーがよく用いる決まり文句であり、調べたところ、この意味を Read! Judge! Keep silence! と説明する文章を発見した。しかし、Read には違和感があった。この語に絞って調査を進めていくと、choose や select の意味もあることがわかった。この点から「選択せよ」と訳した次第である。また、自画自賛となるが、少なくとも Read の意味で解するよりも内容に即しているように思う。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――第一講 第一原理

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
    第一部 劣等人種達〔yahoos〕のためのヨガ
             第一講 第一原理


     汝の意志を為せ、それが〈法〉の全てと成らん。

     この偉大な科学の普遍的重要性が完全に理解されるであろうように順序立てて、術語を使用したり奇抜な仮説を発表したりすることなく、明瞭な言葉でヨガの主題を説明すること、それが私の意図するところである。
     それが全ての偉大なるもののように単純明快であることが理由である。だが、全ての偉大なるもののように、混乱された考えで覆い隠される。非常にしばしば、ごまかしの陰謀によって笑い物にされる。
     ヨガに関して言われたり書かれたりしたことは、世界にある他の何よりも馬鹿げている。ペテン師達によって育まれたこの戯言の最たるものは、それに関する神秘的で東洋情緒的な何かがあるという考えに基づく。そのようなものはない。オベリスクやオダリスク、ラハト・ルクーム【訳註1】、ヒヨドリ〔bul-buls〕他、ヨガを売り物にする連中のあらゆる見掛け倒しの煌びやかなイメージを私に探してはいけない。私は巧みではあるが煌びやかではない。アジアやアフリカの大陸でほんの少しでも時間を知的に費やした誰もが知るように、そこに神秘的或いは東洋情緒的な何かは存在しない。全ての神々の中で最も遠く隔たって理解しがたいものを召喚し、その主題に明瞭な光――常識の光――を当てることを私は提案する。
     我々が知覚する全ての現象は我々自身の精神の中で起こり、従って我々が見るべきは精神である。それは人類全体に対して一般的に想定されるよりも多量の影響力を常に及ぼす。議論による協調が不可能である根本的な相違と思われるものは、組織的な宗派教育の世代によって生み出された慣習の頑迷さに起因すると通常見られる。
     我々はまず語句の意味を見ることを通じてヨガの学習を始めなければならない。それは〈結合〉【訳註3】を意味し、ギリシャ語の軛〔Zeugma〕、ラテン語の軛〔jugum〕、そして英語の軛〔yoke〕のように、同じ語源uを持つサンスクリット語に由来する(√Yeug――結合する)。
     舞巫女が寺院の奉仕に捧げられる時、そこには彼女の血縁を祝福するためのヨガがある。要するに、ヨガを「口論」と翻訳できるかもしれないことは、イングランドの全ヨガ研究者が Lyons' 1s. 2d. 【訳註2】で酒を飲みながら終わることのないお喋りばかりしている事実が疑いなく説明する。
     ヨガは〈結合〉を意味する。
     いかなる意味から我々はこれを考慮すべきなのか? ヨガという言葉はどのように宗教的修行体系や宗教的体験の描写を仄めかすのか?
     諸君は〈宗教〉という言葉が事実、ヨガと同一視可能であることに偶然にも気づくかもしれない。それは束縛をも意味する。
     ヨガは〈結合〉を意味する。
     この惑星における彼の人生の不快な特性から学習と実践を行う個人の解放を目標とするヒンドゥスタンで広く普及するその実践上の常識の中でこの言葉が使われる時、結合される或いは結合する要素とは何か?
     私はヒンドゥスタンと言うが、実際は地球上のあらゆる場所を意味する。研究のため、同様の結果を生じさせる同様の手法は全ての国で見られることが示されている。細部は異なるが、全体的な構造は同じである。なぜならば、全ての肉体、そして全ての精神は、同じ形態を持つからである。
     ヨガは〈結合〉を意味する。
     敬虔な人の心の中で、彼の信心深さを説明する劣等感の複合体は、彼が創造して〈神〉と呼んだガス状の背骨との合一として、この解放を受け取ることを彼に強要する。彼の恐怖の曇った気体の上に、彼の想像力が彼自身の巨大な歪んだ影を投げかけ、彼は本当に怯えてしまう。そして彼がその前でもっと竦み上がると、幻影は彼を踏み潰してしまうと思われる。これらの思考と共に在る人々が辿り着くのは成功ではなく〈精神病院〉と教会である。
     それは、ヨガの全体的な主題が曖昧になっている圧倒的な恐怖の瘴気のためである。全く単純な問題は倫理的で迷信的な最も救いがたい世迷言によって複雑化された。それにもかかわらず、真実はいつでもそれ自身の言葉の中で明らかになる。
     ヨガは〈結合〉を意味する。
     今、我々はヨガとは実際のところ何であるのかを考えるかもしれない。少しの間、我々は数学、生物学、化学のような科学に目を向けて意識の本質の中へ向かおう。
     数学において、数式a+b+cは取るに足らない。a+b+c=0と書けば、諸君は最も輝かしい真理を解き明かすであろう方程式を得る。
     生物学において、細胞は際限なく分裂するが、決して何一つ異なるものにはならない。しかし、もし我々が相反する性質や男女の細胞を結合させるとしたら、我々はその頂点が想像力の極致でも達成不可能な方法で据え付けられる構造の基盤を作る。
     同様の事実が化学においても起こる。原子は若干の一定した性質を持つが、それらに別段重要なものはない。しかし、元素がその渇望の対象と結合するとすぐに、我々は、光、熱、その他の忘我の生産だけでなく、その元素の性質をほとんど或いは全く持たないより複雑な構造を得て、その上更に、驚くべき雄大なものの複雑性に対して配合することができる。これらの全ての配合と結合がヨガである。
     ヨガは〈結合〉を意味する。
     我々はこの言葉を精神の事象にいかに応用すべきか?
     思考の内にある全てのものの第一の特徴は何か? そもそも、それはいかにして思考となったのか? それと世界のその他の部分の間の区別を作るだけである。
     第一の命題、全ての命題の形式は、SはPなりである。二つのもの――異なるもの――はその関係が知識を形成するものでなければならない。
     まずヨガは、意識の主体と客体の全ての結合である。即ち、見る者と見られるものの。
     今、この全てにおいてすばらしいことに何の不思議もない。ヨガの原理の研究は、結局、既知であると彼が思う世界の本質について彼に考えさせるだけであれば、平均的な人間にとって非常に便利である。
     我々は一欠片のチーズを考えよう。我々は、それが一定の性質、形状、構造、色、硬度、重量、味、臭い、濃度、その他を持つ。だが、研究はこれが錯覚であることを示している、と言う。これらの性質はどこにあるのか? チーズの中にあるのではないが、その理由は異なる観察者達がそれについて全く異なる説明をするからである。我々自身の中ではないが、その理由はチーズが存在しない中では我々はそれらを知覚しないからである。全ての「物質的存在」、全ての印象は幻像である。
     実際にはチーズは一つに連なった電荷に他ならない。全ての質量の最も基本的な性質さえ、存在することが認められていない。これらの認識に対する責任を一部負う我々の脳内の問題にも同じことが当て嵌まる。それでは、我々が確かであると思うこれらの性質はどういうものなのか? それらは我々の脳なくしては存在しなかった。それらはチーズなくしては存在しなかった。それらはヨガの、見る者と見られる者の、哲学的格言にあるような意識における主体と客体の、結合の結果である。それらは物質的存在を持たない。それらはヨガの特定の形態の法悦に満ちた結果に与えられた名前に過ぎない。
     私は彼の潜在意識の中に確証された前記の命題の獲得よりもヨガの学徒を助けられるものはないと考える。主題を理解する中での面倒のおよそ十分の九は、ヨガを神秘的で東洋情緒的なものにすることを目的とする大袈裟な宣伝である。ヨガの原理とヨガの霊的な成果は、全ての意識と無意識の内で起こることが実証されている。これは『法の書』に書かれていることであるが――愛は法なり、意志下の愛こそが――〈愛〉が一体化する本能と一体化の活動であることが理由である。しかし、これが見境なく行われることはできず、それは関係する特定の構成単位の性質に調和して「意志の下」で行われなければならない。〈水素〉は〈水素〉を愛していない。結合するためにそれと同じ性質を持つ仲間の分子を求めることは、〈水素〉の性質或いは「真の〈意志〉」ではない。〈水素〉を〈水素〉に加える。その性質に変化は起こらない。その量が変化するだけである。それはむしろ、〈酸素〉のような反対の性質の原子との結合によってその可能性の体験を広げることを求める。これと共に、それは(光、熱、音の爆発を伴って)水へと結合する。その結果は各々の構成元素とは全く異なり、(同様に光と熱の解放を伴って)ポタシウム[カリウム]と結合するような別の種類の「真の〈意志〉」を持つと同時に、全く新しい一連の性質を持つ「苛性ポタシュ[苛性カリ/水酸化カリウム]」に変化し、その上、未だにそれ自身の異なる「真の〈意志〉」を持つ。それは酸との爆発的な結合である。等々。
     諸君の内の何人かにはこれらの説明がむしろヨガの最低の面を非難するように思われるかもしれない。私がそれを一般的な物事の枠内に分類したということである。それが私の目的であった。ヨガを恐怖したり、ヨガに畏敬の念を持ったり、ヨガによって混乱や困惑に陥ったり、或いはヨガに熱中したりしても意味はない。もし私達がそれの研究の中で前進するとしたら、我々は明晰な頭脳と非人格的な科学的姿勢を必要とする。それは東洋情緒的術語のせいで我々自身を悩ませないためにとりわけ重要である。我々は少しばかりサンスクリット語の単語を使わなくてはならないかもしれない。だが、それは彼らが英語に相当するものを持たないからでしかない。それらを翻訳するあらゆる試みは我々が用いる既存の英単語の意味のせいで我々の負担となる。しかしながら、これらの言葉は非常に僅かである。そして、もし私が諸君に与えることを提案した定義が注意深く研究されているとすれば、それらは何の困難もないはずである。
     今、ヨガが何であれ全ての事象の精髄であることを理解しており、その過程とその結果が我々一人一人の全てによく知られるようになった時から、我々は提案された我々の研究の特定事項についての言葉の特別な意味を訊ねるかもしれない。全くよく知られているように、実のところ、我々はそれら全てに何の知識も持たない。それが事実である。
     我々が研究するつもりでいるものは何であり、なぜ我々はそれを研究すべきであるのか?
     その答えは極めて簡単である。
     我々が理解し、実践するこのヨガの全て、我々が現象と呼ぶこれらの法悦に満ちた成果を生み出したこのヨガは、それの霊的な流出物の中にかなりの不愉快な事柄を含める。我々が我々のヨガによって生み出されたこの宇宙を研究するほど、我々が我々の経験を収集して総合的に扱うほど、我々は仏陀が構成物の特徴であると宣言したもの――〈悲哀〉、〈変転〉、そして不変の原則の〈欠如〉[諸法無我]【訳註4】――の悟得の達成に近づく。我々は彼がそう呼んだような彼の最初の二つの「〈尊い真実〉[聖諦]【訳註5】」に絶えず取り組む。「〈一切〉は〈悲哀〉である[苦諦]」【訳註6】。「〈悲哀〉の原因は〈欲望〉である[集諦]」【訳註7】。「〈欲望〉【訳註8】」という言葉により、彼は、私が少し前に引用した『法の書』で「〈愛〉」によって意味されるものを正確に示した。「〈欲望〉」は、それの対立物との結合によってそれの経験を拡張するための、全ての構成単位の必要物である。
     第一の「〈高貴な真実〉」に導く一連の議論の全体を構築することはとても簡単である。
    〈愛〉の全ての作用は厳しい飢えの充足感であるが、食欲は満足によって激増するばかりである。我々が〈説教師〉と共に言えるように。即ち「知恵多ければ〈悲哀〉多し」。そのその全ての悲哀の根源は欠乏の感覚である。愛しい対象の中で自己滅却する結合の必要は、この事実の明白な証拠であるし、その過程はいつまでも拡大していくので、満足が一時的な救済を生むばかりであることもまた明らかである。渇きは飲むことで増す。考えられる唯一の完全な充足は宇宙全体の原子のヨガであろう。この事実は簡単に理解され、そしてそれは西洋の神秘哲学の中で絶えず表現されてきた。その唯一の目標は「〈神との合一〉【訳註9】」である。もちろん、我々は迷信の中で育ってきたので「〈神〉」という言葉だけを使用するし、東西の高等な哲学者達は〈万物〉或いは〈絶対的存在〉との合一について話すことを優先した。一層の迷信!
     よろしい、その結果、何も難しいことはない。我々の存在の中の、我々の肉体の中の全ての細胞の、我々の原子の全ての電子と陽子の全ての思考は、ヨガと、ヨガの成果であるに過ぎない。我々が、解放、満足、我々が望む全てを獲得するためにすべきことの全ては、〈絶対的存在〉そのものへの普遍的且つ必然的な操作だけである。私の聴衆の一層洗練された構成員の一部は、もしかすると、どこかでそれに陥穽があると考えているかもしれない。彼らは全く正しい。
     障害物はただのこれだけである。我々を形作る全ての要素は、それ自身の特定のヨガによるそれの特定の需要の満足のために、実際に絶えず占有されている。しかし、まさにその理由により、それはそれ自身の機能によって完全に心を奪われており、それは必然的にそれの存在の〈窮極の目的〉であると看做さなくてはならない。たとえば、もし諸君がガラス管を両端で開き、窓ガラスの上にいる蜜蜂の上に置くとすると、管から逃れる代わりに、それは疲弊と死の瞬間を目指して窓にぶつかり続ける。我々は我々の要素の内で必須な自動的機能を全ての星の本来の軌道である真の〈意志〉と混同してはならない。人間は無数の世代の訓練のための一構成単位としてしか活動しない。進化論的過程は、我々が一般的福祉と看做すものを特定の利害関係と看做すものを従属させるために我々が成し遂げてきている〈ヨガ的〉活動の、より高等な秩序を確立してきている。我々は共同体である。そして、我々の幸福な生活は、我々の〈議会〉の知恵と、彼らの決定が強制する規律に依存する。我々がより複雑になるほど、我々は進化の階層の中でより高まるほど、立法と秩序維持の仕事が一層複雑且つ困難になる。
     我々自身のような高度に文明化された共同体の中では、(派手な笑い声)個人はいつも対立する利害と必要性によって攻撃されている。彼の個性は常に他の人々の影響力による攻撃に曝されている。そして非常に多くの場合、彼はその精神的緊張に耐えることができない。「〈精神分裂症〉〔Schizophrenia〕【原註10】」、すばらしい言葉であり、諸君の辞書に見つかるかもしれないし見つからないかもしれないこれは、非常にありふれた症例である。それは精神が分裂することを意味する。極端な事例では、我々はジキルとハイドやそれ以上の多重人格現象に至る。最高の場合、男が「私」と言う時、彼は一時的な現象のことを言うのに過ぎない。彼の「私」は彼が言葉を発するにつれて変化する。しかし――哲学は別として――この修正された意味においてさえ、彼自身の精神と彼自身の意志を具える人を見つけることは何重にも珍しい。
     その結果として、私は諸君に、〈絶対的存在〉と合一する上での障害の性質を見ることを求める。一例を挙げると、我々がいつも実践するヨガは、一定不変の成果を持たない。そこに、注目、研究、反省への課題がある。それらは我々のヨガの科学にとって非常に重要であるから、このように惹き起こされた認識の変化を伴う将来の教育を扱うことを私は提案する。たとえば、夜に二人の男が鬱蒼とした木々の中に消えた古典的なケースである。片方がもう片方に言う。「あの犬の鳴き声はバッタではない。カートの軋む音だ」或いはまた、「彼は彼が銀行家の事務員がバスから降りるのを見たと思った。彼はもう一度見て、そしてそれが河馬であるのを理解した」
     何らかの科学的調査を行ったことのある誰もが、いかに全ての観察が何度も何度も修正されなければならないかを痛切に理解している。ヨガの必要性は極めて辛辣であり、それは我々の目を眩ませる。我々は我々が見聞きしたいものを見聞きするように絶えず誘惑されている。
     従って、もし我々が〈絶対的存在〉と共にヨガを普遍的且つ窮極的なものとし、我々の存在の全ての要素を征服し、全ての内憂外患からそれを防護し、全ての能力を最大限に増大させ、我々自身を最大限の知識と力へと導くことを願うのであれば、それは我々の上に義務として存在する。然るべき瞬間に、我々が我々自身を消滅の深淵から燃え上がる法悦の溶鉱炉に投げ込むのに完璧な状態になるかもしれない。

     愛こそ法なり、意志下の愛こそが。


    訳註
    1 rahat loucoum はターキッシュ・ディライトとも言う。トルコ語で lokum ロクムとも言う。砂糖に澱粉とナッツ類を加えて作る菓子。
    2 詳細不明につき訳出を断念。原文をそのまま記載。
    3 Union という語は多義的であるが、クロウリーは概ね「結合」の意味で用いたと解釈した。しかしながら、『ヨガ八講』全体の主旨に照らすと、「調和」としての意味合いも常に付き纏うように感じられる。この多義性を念頭に置いて読むことを推奨する。なお、Union は「結合」乃至「調和」と訳す方針だが、Union with God を「神との合一」と訳したように、慣用表現があればそちらに倣う。
    4 該当しそうな仏教用語を付記したが、「諸法無我」が適当かどうかは自信がない。原文 Absence of any permanent principle の principle が「法」を指すのではないかと推測したが、クロウリーが「諸行無常」を意図した可能性も否めない。
    5 Noble Truths とはおそらく四聖諦を指すと思われるが、Four Noble Truths でないことから、敢えて「聖諦」とした。現に『777』の柱欄 CXCI には The Four Noble Truths とあるので、クロウリーの中でも区別はあると見てよかろう。しかし、他の著作の邦訳では「高貴な真実」などと直訳されていることが多いようであるため、一応、その旨を註として書き添えておく。
    6 こちらも該当しそうな仏教用語を付記した。Everything is Sorrow とは「一切皆苦」の意ではないかとも思ったが、四聖諦に合わせて苦諦とした。しかし、クロウリーの著作の邦訳を見てみると、こちらも相当するであろう部分が素直に「一切は悲哀である」などと訳されている。全体的に仏教用語に拘りすぎたかもしれない。なお、特に仏教と関連付けていると思われるここ以外では、everything is sorrow はそのまま「一切は悲哀である」と訳す方針である。
    7 承前との対応から言えば苦諦でよいはずだが、原文のThe cause of Sorrow is Desire からすると苦集諦でもよかったかもしれない。
    8 ここまでの流れから「煩悩」と訳すべきかもしれないが、この後の文脈やクロウリーの他の著作を見るに Disire は仏教思想の枠を超えた意味で用いられているため、素直に「欲望」と訳すことにした。Disire という語は、クロウリー体系にとって仏教との接点乃至交差点に過ぎず、決して仏教思想の内側にあるものではないと思われる。
    9 Union with God については訳註3を参照。
    10 Schizophrenia は今では統合失調症を意味するが、これは症状の誤解を招く虞があるということで元々の訳語「精神分裂病」から改められた名称である。執筆当時の雰囲気やクロウリーの認識を反映するため、敢えて古い訳語を当てた。またむしろ、この方がクロウリーの趣味に合うだろう。クロウリーが現代に生きていれば、ポリティカルコレクトネスを踏み躙るためだけに詩の一つ二つでっち上げるに違いない。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――参考情報三 「星型海綿」の幻視

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
             参考情報三 「星型海綿」の幻視


     私の内的生活において基本的重要性を持ち、私の魔術日記において生み出されて絶えず参照される奇妙な性質の幻視がある。私が知る限り、この幻視の現存する記述はどこにもなく、私は自分の記録を見て、私がそれに私自身で明確な説明を与えていないことを理解し、驚いた。
     その幻視は徐々に明らかになった。私がそれがどの時期に完成と呼ばれることになるのかを言うことのできないくらいにそれは何度も繰り返された。
     私はニューハンプシャーのパスカニー湖を見下ろす別荘で隠遁【訳註1】していた。私は一切の意識を喪失したが、無数の輝く点を有する宇宙空間があり、私はこれをその本質的な構造と私が呼ぶことのできるものである宇宙の物理的表現として悟った【訳註2】。私は絶叫した。「輝く〈無〉だ!」【訳註3】私がこの幻視に集中したその結果、それの主な要素である虚空は重要性を減じることになった。空間は燃え立つように見えたが、それにもかかわらず輻射点は混乱されておらず、そして私は「しかし、何という〈輝き〉だ!」という絶叫と共に私の文章を完成させた。
     この幻視の次の段階は、観念、魂その他の、大空の星々と一緒になった燃え上がる点々の識別へと導いた。私はそれぞれの星がそれぞれ別の星と光線によって結ばれていたことも見抜いた。観念の世界において、それぞれの思考はそれぞれ別の思考との必要な関係を持った。そのような関係のそれぞれは、もちろん、それ自体における思考である。そのような光線のそれぞれはそれ自体が星である。最初の論理的困難それ自体が出現するのはここである。予見者は無限級数の直接的知覚力を持つ。従って論理的には、それは空間全部が均質な光の輝きで満たされなければならないかのように思われるだろう。しかしながら、これは当て嵌まらない。空間は完全に満杯であり、そしてそれにもかかわらずそれを満たす単子は完全に区別できる【訳註4】。普通の読者は当該の陳述が精神的混乱の徴候を示すということをよく叫んだかもしれない。

    訳註
    1 第二部第二講の文章では魔術的大隠遁 Great Magical Retirement となっている。
    2 原文は I realized this as a physical representation of the universe だが、第二部第二講の原文では as が was となっている。誤記なのか変更なのかはわからない。
    3 Nothingness with twinkles とあり、Nothingness の後にカンマが入っていないため、一続きの語句として処理した。第二部第二講訳註13を参照。
    4 原文は The space is completely full and yet the monads which fill it are perfectly distinct. だが、第二部第二講の原文では full, yet となり、表現が多少変わる。ただし、実質的な意味に変化はない。

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    アレイスター・クロウリー『ヨガ八講』グレッグ・ウォットン博士編、幸茸編著訳――参考情報二 ヨガ八支則へのクロウリーの言及――『アレイスター・クロウリーの告白』「第二巻 神秘的冒険 第二十八章」

    マハトマ・グル・シュリ・パラマハンサ・シヴァジ(Mahatma Guru Sri Paramahansa Shivaji)ことアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)『ヨガ八講(Eight Lectures on Yoga)』、グレッグ・ウォットン博士(Dr. Greg Wotton)編、幸茸編著訳
             参考情報二 ヨガ八支則へのクロウリーの言及――『アレイスター・クロウリーの告白』「第二巻 神秘的冒険 第二十八章」

     セイロンでのアラン【訳註1】の冒険は変化に富んでいた。彼の最初の思いつきは〈黄衣〉を取ることであった。即ち、仏教徒の僧伽〔Sangha〕の一員になることである。これらの人々は、我々が理解するその言葉通りの司祭や修道士ではない。ヨーロッパ人の精神にとって彼らの生活の状況を理解することは難しい。彼らは世界との関係を断ち、乞食として生きている。しかし、非常に複雑でしばしば不合理或いは無根拠と思われる彼らの〈僧団〉の戒律は大雑把に定められているかもしれないが、単一の観念の利益となるように考え出されている。それぞれの戒律は、おそらく何らかの非常事態に対応するだろう。だが、全ての場合において、目的は比丘〔bhikkhu〕が彼の霊的発達の修行課程を実行できるようにすることである。迷信の恐怖はなく、ご機嫌取りの訓練もない。その上、目的は、人間が彼自身を彼の行動を妨げる欲望の束縛から解放することを可能にし、(偶然にも)我々が現象と呼ぶ幻影を作り出すことである。仏教においては、宇宙は無智な渇望によって作られた幻影として考えられている。実際には、それはフロイトの仮説によって定義されたように夢である。
     アランは既にどのように見えようとも心の底は仏教徒であった。三蔵【訳註2】、「法の三つの籠〔the three baskets of the law〕」――以前、私はそれらを紙屑籠と呼んでいたものである――を学べば学ぶほど、彼は魅了されたが、彼はシンハラ人【訳註3】比丘達の堕落によってひどく失望した。稀な例外を除き【訳註4】、彼らは無知で、不真面目で、不道徳で不誠実であった。アヌラーダープラ【訳註5】、廃墟と化した聖都では、極めて恥ずべき行動が横行しており、格言が生まれるようになっている。即ち「比丘は作られるのであり、生まれつくのではない――アヌラーダープラを除いて」と。アランはコロンボ【訳註6】郊外の著名な男子修道院【訳註7】に会計係の役職を提示されていたが、彼らが彼ら自身の誰をも信頼できないという公然の理由からであった。比丘が金銭に触れることを許されていないことを考えると、これはむしろ制限であった。
     セイロンの司法長官P・ラマナタン閣下【訳註8】は、彼の年少の息子の家庭教師としてアランを雇用した。この紳士は魅力的な人格、幅広い教養、深い宗教的知識の持ち主であった。彼はヒンドゥー教シャイヴィテ派【訳註9】のヨガ行者として著名であり(彼は上位カーストのタミル人であった)、彼はマタイとヨハネの福音書に解説を書き、ヨガの指導としてキリストの言葉を解釈していた。「イエス」の姿を構成するために一つに纏め上げられた人物の一人がヨガ行者であったことは確かに事実である。家族の繋がりを捨て去り、将来のために備えをしないなどの彼の命令は特徴が一致する。
     この男から、アランはヨガの理論と実践の大部分を学んだ。彼が十八歳くらいの時、アランは偶然にもシヴァダルシャナ【訳註10】と呼ばれる忘我状態に出くわしてしまい、それにおいて、時間と空間から独立した単一の現象としてその全体が知覚された宇宙は消滅した。この体験が彼の人生の全行路を決定した。彼の一つの目標は、その状態に戻ることであった。シュリ・パラナンダは彼の目的を達成する見込みのある合理的な実践的手法を彼に示した。だがアランは、彼の偉大な霊的体験にもかかわらず、独断的教義の束縛を断ち切れずにおり、その実践がいくつかの点で彼の原則と一致しないように思われる彼の師匠に完全には共感してはいなかった。アランはほとんど新教徒のように厳格であった。彼はココナッツ農園の監督者の地位を提示されていたが、彼の任務が害虫駆除を目的とする命令を与えることを含むことを学んだことで、それを拒んだ。彼はあらゆる種類の生命が殺生を黙認し、それゆえに殺生に対する責任を暗示するということを理解するための視野の広さを持たなかった。米を食べることによって人は、生命を破壊する農業専門家の共犯者となる。
     彼の健康は大いに改善された。紅海で彼の喘息は完全に消え去り、彼は彼の投薬器具を全て船上から水中に投げ捨てた。しかし、気力を失わせるようなコロンボの気候が彼の活力を奪った。彼はカンディー【訳註11】に移り住み、我々自身をヨガに捧げるという私の提案を受け容れることにためらいはほんの少ししかなかった。
    「マールバラ」【訳註12】では、作業の条件が非常に良好であることを我々は理解した。最初の一歩は他の全ての先入観を取り除くことであった。私は『タンホイザー』【訳註13】を改訂し、導入を書き、それを全て印字して出版社に送った。私はオルフェウスを無視し、アリス【訳註14】のこともさて措き、不倫を結実させた。私はそれについてあまり考えなかった。そして私は時がそれを認めるまでそれを公開しなかった。
     この時期での私の妨害物の一つは、肉体的欲望の充足と明白な成功条件との間にある明らかな二律背反によるものであった。最後に私が全ての思考、言葉、そして行為が魂の役務に押し込まれるかもしれないことを理解した時、一九〇九年における〈神殿の首領〉の〈位階〉の到達まで、私はこれを完全には解決しなかった。即ち、更にそれ以上に、もし魂がいかなる時も自由であったならば、それはそうならねばならない。私は何年にも亘っていくらかの範囲で「諸次元を混同した」が、それにもかかわらず、他の神秘主義者が行うほどまずいものではなかった。
     この隠遁の間、彼の経験が彼に心を掻き乱す観念群の始まりを見抜くことを可能にするアラン・ベネットの常に油断のない監督の下にあった点で私は幸運であった。たとえば、『タンホイザー』の改訂と打ち込みは瞑想から私の気を散らすのに全く十分であったし、もっと言えば、プラーナヤーマ〔Pranayama〕[調気法]のような明らかに纏まりのないそのような事柄において私を動揺させるだろう。胃にもたれる重い食事がその人の呼吸作用を制御するその人の能力に干渉することを理解するのは容易である。しかし、格式ばらないざっくばらんな会話のような物事によって影響されることのできるヒンドゥー教の理論を人は笑ってしまう傾向にある。それにもかかわらず、彼らは正しい。その人の通常の反応とは別に、これらの訓練は人を過敏にする。私は私自身を何らかの厳格な食習慣に縛り付けたりはしなかった。また、私は一定の期間に食物の観念が全く不快なものになったことを憶えている。それは疑いなく神経過敏症の問題である。よく知られる通り、アルコール及び特定のその他の薬物における過度の放縦には、食欲を失わせる傾向がある。生理学と哲学を十分な基盤としていない未熟な実践者は、現象の重要性の誤解のために、(もちろん非難はされるが)おそらく正当化されるかもしれない。人は「今や私は聖人となっているのだから、私は食するという観念を嫌う。即ち、野生羊〔Argal〕、それを食べることは不浄である。また、もし私が食欲の悲鳴を断乎として抑圧すれば、それは依然として神聖であるために私を助ける」と言いたがる。そのようなことが、歴史の始まりから終わりまでの神秘的教義を混乱させてきているすばらしい道徳の大方の基礎であると私は信じる。私は率直な先験的判断が彼らの前提の明白な証明のない中で絶対的な確信をもたらしただろうとは思わない。
     この「諸次元の混乱」は私の見解では達成できなかった根本的な要因である。それはあらゆる結び付きの類において絶えず不意に発生する。志願者は〈魔術の剣〉で武装し、彼が作り出す全ての見解の核心の接合部をバラバラに分割しなければならない。単一の未解析の観念は、彼の強迫観念となって彼を迷わせがちである。即ち、「それは何年にも亘るかもしれず、またそれは永遠に続くかもしれない」と。彼は決してあらゆる現象に厳格な制約を指定することに倦んではいけない。ちなみに、歴史は主要な諸問題においてこの失敗例で満ちている。伝染病、不作、戦禍が〈神〉の憤怒に起因するものであるという考えが、科学、農業、戦争術の発展を妨げていたことのみを考える。昨春、一九二二年、シチリアで旱魃があった。司祭達はすばらしい供犠を行って雨乞いをした。雨が降ってきて、旱魃よりも酷い被害をもたらした。彼女の現代の下僕達が彼らに彼女を丸め込むことができるように装う不純な犠牲によって彼女が宥められることがなかったためか、それから、キュベレ或いは彼らが今日彼女と呼ぶ何者かの執り成しにもかかわらず、旱魃が定着して毎年の夏一杯持続した。
     神秘主義と〈魔術〉における私自身の成功と、私が私の後継者達のために保証することができた遙かに偉大な成功は、ほとんど全て私の科学的訓練に起因すると私は考える。それは実際の達成の生理学的、心理学的条件の決定を私に可能とした。
    私の指導者としての経験は、斬新な各事例が私の観察範囲に入るにつれてますます単純化することを私に可能とした。私はより迅速且つ確実に全ての満ちゆく月の染みをはっきりと指摘することができる。私は四十年をかけずに行える者などいそうにないことを十一年間で成し遂げたが、才能の欠片もない者はほとんど取らず、現時点では、先着者達に対しては私が十一年かかったことを彼らに七年か八年で教育し、彼らの後続者達に対しては五、六年で、その他諸々まで教育することが私にはできるし、純粋な願望の根源、八つの活動の精髄を持つ平均的能力を有するあらゆる男女に保証することができると私が感じているという理由から、それを個人の才能によって説明することはできない。もちろん、内容の決定は各志願者次第である。いくつかの隠秘科学の部門は、各人の範囲外に横たわる。それぞれが自分で彼の個人的学習計画を書き入れなければならない。しかし、至高の解放は、万人にとって本質的に同じであり、歴史において初めてこの混乱からの解放を提供することができ、そのため人々は彼らの訓練の最初期から一つのことに集中することができる。
     我々の生活は楽しくて気取らないものであった。アランは私にヨガの原則を教えた。基本的にはたった一つがあるだけである。課題はいかにして思考を静止させるかである。理論に関することは、精神が印象を象徴的に取り扱うための機構であるということである。その構造は現実に対してそれらの象徴を受け取ることを唆すようなものである。従って、意識的思考は基本的に偽りであり、現実を知覚することを妨げる。ヨガの数えきれないほど多い訓練は、思考の流れを減速させ、最終的には完全に停止させる要領を会得するための手助けをする本当に巧妙な方策である。この事実は、ヨガ行者達自身によって自覚されていない。宗教的教義や感情的或いは倫理的な留意事項は、真実を覆い隠してしまっている。問題の真の意味を理解した最初の男であるという栄誉を得る資格を私が与えられたことを私は信じる。
     私は主として比較神秘主義の研究を通じてこの発見に導かれた。たとえば、カトリックはアヴェ・マリアを迅速且つ執拗に復唱する。それらのリズムは知的過程を妨害する【訳註15】。その結果がマリアの熱狂的な幻視である。ヒンドゥー教徒はアウム・ハリ・アウム【訳註16】を同じように復唱し、ヴィシュヌの幻視を得る。しかし、双方の幻視の特徴が、記憶がそれらを記録した宗派の専門用語を除いて同一であることに私は気づいた。私は過程と結果が同一であることを主張した。それは生理学的現象であり、また明らかな相違は、慣れ親しんだ礼拝の言語体系の使用によらない限り、その出来事を表現することが精神にできないことに起因した。
     拡張された研究と反復された実験はこの確信を承認した。従って私は、独断的教義上の付着物を排除することにより、霊的発達の過程を単純化することができた。忘我状態に入ることは、酔っ払うのも同然の現象である。それは信仰に依存しない。美徳は成功に都合の良い場合に限って必要なだけである。彼ら自身の中で正しくも間違ってもいない特定の食習慣が、アスリートや糖尿病患者のために示されているのと同じように。以前は何年もの時を必要としたことを私の弟子達が数ヶ月で達成できるようにすることができたことを私は誇りに思う。同様に、成功を彼らの経験の知的想像が普遍的真実であるという破滅的な妄想から救ったことも。
     この失敗は過去における損害を他の何よりも一層助長している。彼の構想は「救済」に重きを置くというムハンマドの信念が彼を狂信者にした。宗教に関するほとんど全ての暴政は、知的狭量から湧き出る。高度な忘我状態から生成される霊的活力は予見者に恐るべき力をもたらす。そして、彼の解釈がただ彼自身の思考傾向の誇張に由来するものでしかないことに彼が気づかない限り、彼は他者にそれを押しつけようとし、同様に信奉者達を惑わして彼らの精神を過ちに導き、彼らの成長を妨げようとする。彼はたった一つの道でのみうまくやることができるが、それは彼が啓明に到達した方法を出版することによってである。言い換えれば、科学的知識の総決算に彼の経験を付け足すことによってである。私もこれを行うために精力的に励んでおり、私の諸成果が私自身にとってのみ価値があることと、私の方法でさえ、詩人が、ゴルファーが、そして法律家が、それぞれ彼の特異性に特有の様式を習得しなければならないのと同じように、全ての事例において修正を要するであろうことを明確にするよう常に努力している。
     従って、正確に理解されたヨガは、一定の心理状態に到達するための単一の科学的体系である。それの八つの部門を検討せよ! ヤーマ〔Yama〕[禁戒]とニヤーマ〔Niyama〕[勧戒]、「制御〔Control〕」と「超越制御〔Super-control〕」は、憤怒、恐怖、貪欲、色欲、嗜好のような道徳的感情と激情による混乱から精神を予防するための規則を与える。
     アーサナ〔Asana〕[座法]、「体位〔position〕」は、肉体が最早精神に神経伝達を行わないことを可能にするために、完全に身動きせずに座る技術である。プラーナヤーマ〔Pranayama〕[調気法]、「呼吸力の制御〔control of breath force〕」は、可能な限り緩やかで、深く、そして規則的な呼吸の習得から成る。極めて取るに足らない精神的刺激や興奮は、常に呼吸を急速且つ不規則にする。従って、この方式を観察することにより、平静の混乱を見つけ出すことができる。更に、呼吸を強制的に制御することにより、人はこのような思考を打ち払うことができる。また、人が呼吸しているという自覚を最小限に抑制する。
     ある人はこの点においてこのような用心は不合理に思われると述べるかもしれない。しかし、精神を迷走から守る試みを始めるまでは、人は思考の細密な修正を行う方法の理解を持たず、通常は刹那的な、或いは認識されない印象が錯乱の冒険行〔Odysseys〕の出発点を形成する。その人の知力が取り留めのない空想〔wool-gathering〕に向かったという事実にその人が気づくまでに数分間かかるかもしれない。
     プラティヤーハラ〔Pratyahara〕[制感]は内観である。一見単純な思考やそれの諸要素の印象を分析する力を手に入れる。たとえば、無数の印象と、それと結びつく当人の指を曲げる動きを別々に感じるように、その人自身に教えることができる。これはそれ自体の啓示である。従って、単純な筋肉の運動はとても愉快で心躍る素材から成る叙事詩を含有していることが理解される。その着想はもちろん、彼らがそうであるようにそのような快楽、繊細なもの、絶妙なものを堪能することではない。そうではなく、思考と印象の分析によって、それらの前駆症状を発見し、芽の内にそれらを摘み取る。また、詳細な調査によって、それらを理解し評価する。このことの一つの重要な成果は、現代化学がいくつかの化合物の聖性とそれ以外の邪悪についての中世の不条理を廃絶したのとほぼ同じように、全思考の非重要性と等価性を正しく評価することである。もう一つは、宇宙全体の要素の明瞭且つ包括的な見識を与えることである。
     ダーラナー、集中は、今や実践が容易である。どのような障害が待ち受け、それらをどうやって防ぐかは学んだ。従って、我々は精神を一つに固定することにより、思考の多様性に対して決定的な取り組みを行う。私の『第四の書』第一部において、私は、この期間の私の日記から、侵入する思考の分類の試みを書き写した。私はこの明らかに単純な観察を誇らしく思っており、私がもしそれを挿入すれば、それは読者がカンディーにおける私の著作を理解するのを助けるであろう。
     中断は次のように分類される。
     第一、肉体的な感覚。これらはアーサナによって克服されていたはずである。
     第二、瞑想の直前の出来事によると思われる中断。それらの活動は激しいものになる。この実践によってのみ、精神がそれを意識することなく、感覚によって実のところどれほど観察されるかを理解する。
     第三、幻想或いは「白昼夢」の性質を帯びる中断の種類がある。これらは非常に狡猾である――当人が全く迷子になっていることを理解することなく、それは長期間に亘って続くかもしれない。
     第四、我々は、それ自身の制御の逸脱の一種である極めて高度な中断の類を得る。諸君は「私はどのくらいそれをうまくやっているのか!」と考えるが、或いはおそらく、もし諸君が砂漠の島にいたとしたら、または防音の家の中にいたとしたら、若しくは滝の近くに坐っていたとしたら、それは良い発想となるであろう。しかし、これらは警戒心それ自体からくる些細な変化に過ぎない。
     中断の第五の種類は、精神の中に発見可能な根源を持ち合わせていないように思われる。それは具体的な幻覚、通常は聴覚の形を取ることさえあるかもしれない。もちろん、そのような幻覚は稀であり、ありのままに理解される。さもなければ、学徒は医者に行った方がよい。通常の種類は、学生自身の声ではなく、理解可能な人声乃至は彼が知る誰かの声でかなりはっきりと聞こえる、異様な文章或いは異様な文章の断片から成る。同様の現象は無線通信士によって観測され、彼らはそのような通信を「空電」と呼ぶ。更に別の中断があり、それは切望された結果そのものである。
     更に別の中断の種類があり、それは切望された結果そのものである。それは後で詳細に扱われなければならない。
     ディヤーナは最初の忘我状態の名前である。忘我状態では、意識の状態がもちろん通常のものと異なると私は真面目に言う。その特徴は、通常の意識において、二つのもの――知覚し、知覚された――が常に存在するのに対し、ディヤーナの中ではこれらの二つのものが一つになることである。第一に、この結合は通常、爆発的な暴力と共に行われる。他にも多くの特徴がある。特に、時間と空間が消滅させられている。しかしながら、これは、ある種の通常の抽象的思考においてほぼ同等の完全性を伴って発生する。
     この忘我状態の達成は、学徒の道徳的均衡全体を掻き乱す可能性がある。彼はしばしば、何が起こったかの彼の記憶を表現する不完全な着想の重要性を強調及び誇張する。彼の精神はそれを通常の思考に翻訳する装置を欠くため、彼はそのこと自体を記憶することができない。これらの着想は当然、彼のお気に入りの妄想である。それらは彼には最高の霊的認可で武装しているように思われるので、彼は狂信者或いは誇大妄想狂になってしまうかもしれない。私の体系では、彼がディヤーナに繋がる訓練に取りかかることを許される前に、弟子は全ての着想を分析し、哲学的懐疑主義によって、それらを破棄するように教えられる。
     サマディ、「〈神との合一〉」は最終的な忘我状態、或いはむしろ一連の忘我状態を表す一般的な用語である。それはディヤーナとこのように異なる。即ち、ディヤーナは部分的であり、サマディは普遍的である。最初のサマディでは、宇宙は結合体として認識される。第二においては、その結合体は殲滅される。しかしながら、他のサマディがあるかもしれず、いずれにせよ、忘我状態の性質は、それの中に入る宇宙の程度に依存する。本当に満足のいく成果を期待できるようになるには、計り知れない知識の調整を基盤として、有機的統一体としての宇宙の明確な知的概念を持つ実に深遠な哲学者にならなければならない。彼の秩序ある宇宙の概念の調整し損なった無知且つ浅薄な思想家のサマディは全く大した価値を持たない。


    訳註
    1 Allan Bennet は黄金の夜明け団でのクロウリーの先輩にして親友。傲慢なクロウリーが手放しで称賛するほど魔術師として優秀であったようだが病弱であり、クロウリーの提案でセイロンに転地療養に出た後、そのままセイロンに居着いて仏僧と化し、以後は英国仏教会の設立に関与するなど、英国への仏教伝道に生きた。英国の同名の作家は別人。
    2 Tripitika はサンスクリット語の単語であり、律蔵、経蔵、論蔵から成る三蔵のこと。Tripitaka と表記することが多い。
    3 Singalese は一般に Singhalese と表記し、この場合はスリランカの人口の過半を占めるシンハラ人を指す。
    4 原文は With rate exceptions だが、文脈に沿わないため、rate は rare の誤記として処理した。
    5 Anuradhapura はスリランカ北中部州にある古都。北中部州の州都でありアヌラーダプラ県の県都でもある。世界遺産にも登録されている。
    6 Colombo はスリランカ最大の都市で、かつては首都であった。
    7 monastery は一般にキリスト教の男子修道院を指すのでそのように訳したが、文脈上、仏教の僧院とした方がよかったかもしれない。
    8 Ponnambalam Ramanathan はスリランカのタミル人法律家にして政治家。クロウリーの親友アラン・ベネットを家庭教師として雇用し、ヨガの理論と実践を教授した。宗教家としてはシュリ・パラナンダ Shri Parananda として知られる。
    9 Shaivite は Saivite とも表記されるヒンドゥー教のシヴァ信仰。
    10 Shivadarshana はシヴァに纏わる幻視や真理といった意味合いを持つ神秘体験であり、『七七七』によればそれとの合一は無 Ain に相当する。
    11 Kandy はカンディー乃至キャンディーと発音する。セイロン島の中心に位置し、現在、スリランカ中部州の州都であり、かつてはシンハラ人のカンディー王国の王都であった。シンハラ語で「山」を意味する Kanda に由来するという。
    12 Marlborough はクロウリーがカンディーで滞在したバンガローの呼び名。
    13 Tannhauser はクロウリーがワーグナーの『タンホイザー』に魔術的要素を盛り込んで再構成した作品。第二部第二講の編註2を参照。
    14 Alice はクロウリーが船旅での不倫を楽しんだという人妻の仮名。詳細不明。
    15 原文は they rhythm inhibits the intelectual process. だが、they は their の間違いとして処理した。
    16 Aum Hari Aum はヴィシュヌの別名であるハリ Hari を聖音であるアウム Aum で挟んだ簡略化された唱句。なお、アウムは本来オーム Om を解析した表記なのだが、クロウリーを始めとする西洋魔術師達はこれをアウムと読んでいたらしいのでそのように訳した。

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